「いるならお返事して。パパもいるわ」
耳をこらすが返事はない。何とかしてこじあけることができないか、もう一度ノブをつかもうとした刹那だった。
かたんと音がした。キャビンの中から聞こえてきた。椅子か何かに蹴つまずいたような、あるかなきかの音だった。
「いるわ!」
ノブをつかんでドアを揺する。木の戸板ががたがたと音を立てるだけで、ロックは外れそうにない。神崎は叫んだ。
「由奈。内側から鍵をあけるんだ」
ドアの向こうは、息をひそめたように沈黙している。一向にロックは解かれない。由奈は手足を縛られ、体の自由を奪われているのだろうか。
いっそ窓から侵入したい。しかし防犯用の面格子が設置され、ガラスを破ったところで、室内に踏み入ることはできない。
神崎はドアに体当たりした。弾き返されながら、くりかえし体を打ちつける。このさい全身の骨が砕けても構わない。ここを突破しさえすれば、得体の知れない不気味な敵から、愛する娘を取り返すことができる。か弱くいじらしい、守るべき小さな命を、もう一度胸に抱きしめることができる。いつ果てるとも知れない不安な夜から抜け出したい一心で、ひたすら突進を続けた。
ふいに木材の裂ける音がした。ロックの金具がゆるんだ感触がある。いったん体を引いて、肩からドアに突っ込んだ。
気づくとキャビンの中にいた。古い木の匂いが鼻をつく。狂おしく娘の名を呼び、妻がばたばたと躍り込む。
明かりは弱い。しかし夜の暗さに慣れた目には十分だった。机や棚、うずたかく積まれた備品の段ボール箱が、セピア色の薄闇に浮かぶ。
神崎は目を離せなかった。正面に少女がいる。壁に背中を押しつけ、恐怖に目を見開いて、突然の闖入者を見返している。
十二歳前後の、痩せこけた少女だった。季節はずれの半袖を着ている。神崎は無意識に声を洩らした。
「きみは──誰?」
ポケットの中で携帯が震えた。画面を見ると、非通知の着信だった。通話ボタンを押す。
「二十四時となりました」
事務的な声が言う。最初に電話をかけてきたときと同様、笛吹は落ち着き払っている。
「お疲れ様でした。これにてゲーム終了です」
神崎は怒りに喘いだ。声を絞り出す。
「由奈はどこだ」
「はじめに申し上げました。三人の人質を取り戻すには、三人の参加者、全員の告白が必要であると」
「おれは告白したぞ」
「存じております」
「山室が告白しなかったからか。じゃあなぜ、もえを返した。あいつは告白する前に死んだのに」
「この期に及んで、まだルールを理解していらっしゃらないようですね。我々がもえを返したのは、神崎さん、あなたが告白したからです」
「──どういうことだ」
「三人をそれぞれ、A、B、Cとしましょう。Aが告白を行った場合、Bの娘の解放が決まります。そしてBの娘の居場所がCに伝えられる。Bが告白を行った場合はCの娘の解放が決まり、居場所がAに伝えられる。もうおわかりだと思いますが、Cが告白を行った場合はAの娘の解放が決まり、居場所がBに伝えられる」
勝手な論理についていけず、神崎は唸り声を洩らすしかなかった。
「三人の中で一番早く告白を行ったのは君島です。彼の投資話がいんちきであると気づいた人が声を上げはじめ、いま告白を拒んだところで、悪事は早晩露見すると考えたのでしょう。彼がフェイスブックに告白文を投稿したのは、我々が三通の“お知らせ”を送った直後です」
神崎が聞いているかどうか確かめるように、笛吹は少し間を置いてから続けた。
「君島が告白を行ったので、山室の娘の解放が決まりました。ルールに則り、山室の娘の居場所があなたに伝えられた。ショートメッセージで座標の情報が届く前に、あなたご自身も告白を行っていたので、神崎さんからすると自分が告白した結果として、山室の娘が解放されたように見えたかもしれませんね。でもそれは勘違いです。希望的観測に基づく、短絡的な思い込みと言うほかありません」
「由奈を返せ」
神崎は、嘲弄を帯びた長広舌を遮った。笛吹はまったく構いつけない。
「山室が告白に応じていれば、あなたの娘が解放されることとなり、居場所が君島に伝えられた。しかし山室は応じなかった。残念ながら彼が死んだ時点で、由奈ちゃんの運命は決まっていたのです。先方との調整が済み次第、サーカスに引き渡されます」
「ふざけるな。娘を返せ」
「山室が死んだので、彼が告白した場合に解放されるはずだった人質を返還することはできませんが、あなたが告白を行ったことは正当に評価されるべきです。あなたの告白により君島の娘の解放が決定し、居場所が山室に伝えられた。ただ山室はもう、自分で人質を迎えに行くことができないので、かわりに我々が彼のもとにもえを届けました」
少女は背中を壁に貼りつけたまま、まばたきもせず神崎を見つめている。眼窩は重病人のように落ちくぼみ、白目だけが冴え冴えと闇を撥ね返す。
「この子は誰だ」
笛吹は口調を変えずに言う。
「日野やよいちゃんです」
日野やよい──。脳裏に引っかかっている名前だった。ふいに思い出してはっとする。失踪事件の新聞記事で見た名前だ。夕方になっても戻らない弟を迎えに行き、そのまま帰らなかった少女──
「父親の日野氏は我々の要求に応じず、罪の告白を行わなかった。娘の身柄は予告どおり、サーカスに引き渡されました。そのとき我々はまだ、今回のような三人同時誘拐を行っていなかったので、日野氏自身の選択がそのまま、娘の解放の可不可に反映されました」
神崎の混乱をよそに、笛吹はとくとくと続ける。
「ところが最近になって、サーカス側が返品したいと言ってきたんです。買い手がつく前に心を病んでしまったらしく、ぼーっとしているばかりで商品にならないと言って。──賢い少女だったので、人から教えられなくても、父親に捨てられたことを察したのかもしれません」
「おまえ──」
「使い道のない人質をいまさら返されても困りますが、いろいろ便宜を図ってもらっている以上、我々も強くは言えない。やむなく返品交換に応じました」
怒りのあまり胸が苦しい。神崎は言葉を発することができなかった。
「しかし満足に会話もできない少女を、赤の他人である我々が養育する義務はない。父親の日野氏に引き取りを打診したところ、ぜひ返してほしいと言ってきた」
この男は何を言っているのだろう。理解が追いつかず、頭がくらくらする。
「一度は見捨てた娘ですが、少しは愛情が残っていたのでしょう。我が子を失った妻の憔悴ぶりを見て、良心の呵責に苛まれたのかもしれません。やよいの失踪がニュースになったあと、父親が殺したのではないか、娘の死体をひそかに遺棄したのではないかという噂が立ちのぼり、いまも囁かれつづけています。世間から浴びせられる誹謗中傷に嫌気が差し、もとの生活を取り戻したくなったのかもしれません」
笛吹は平然と続ける。それが最も神崎の苛立ちを掻き立てると知っているのだ。
「しかし、ただで娘を返すわけにはいきません。かといって罪の告白をする意志がないとわかっている日野氏に、前回と同じ要求を突きつけても意味がない。そこで我々は、新たな交換条件を提示することにしました。娘を返すかわりに、お買い得デーの水曜日、母親に連れられてスーパーを訪れる、五歳の少女を誘拐してほしいと」
「なに──」
「日野氏は見事に役割を果たしてくれました。本人の実行力もさることながら、運を味方につけられなければ、あれだけ人目の多いところで誘拐を成功させることはできません。娘を取り戻したいと願う父親の一念が、天に届いたと言っていいでしょう」
新聞では失踪時の少女の服装が、イラストつきで詳述されていた。オレンジと白のラグランTシャツにデニムのスカート、白いソックスにコンバースのスニーカー。目の前の少女は同じ服装をしている。ずっと着たきり雀でいたとも思われないので、わざわざ同じ服を着せて返したということか。
「今回のお三方の中で、娘を取り戻せない人がいたら、その人にやよいの居場所を教えようと考えていました。まさかそれが神崎さんだったとは皮肉ですね。自分の娘を誘拐した、許すまじき相手の娘を助けることになるわけですから。──やよいの居場所は、神崎さんから日野に伝えてください。頭のネジがゆるんでいても、自分の家の電話番号くらい言えるでしょう」
神崎は声を絞り出した。
「由奈を返せ」
「もうゲームは終わりました」
絶叫がほとばしる。
「由奈を返せ!」
「できればそうしたかったのですが──」
「いますぐ返せ! 返さなければ、おまえを殺す」
神崎の昂りが去るのを待つように、携帯はしばらく沈黙した。最前と変わらぬ平静な声が言う。
「神崎さんには、三つの選択肢が与えられています」
自分の満身の怒りが何の作用ももたらさないことを、神崎は痛切に思い知った。
「第一の選択肢は、警察に助けを求めることです。いますぐ一一〇番に電話して、娘の救出を依頼すること」
あえて通報に言及するのは、たとえ警察が乗り出してきても、自分たちに捜査の手が及ぶことはないという、絶対的な自信の表れか。
「これまでは警察の介入を嫌って、通報を極力阻止してきましたが、そろそろ社会正義回復会の存在を公にしてもいいころだと思っています。せっかく悪行の数々を白日のもとに晒しても、事件として警察沙汰にならない限り、それが我々の活動の成果だと世間に伝わりませんからね」
思い上がった口吻に嫌悪感が込み上げる。自分たちのやり方で社会を変革できると、心の底から信じているのか。神崎が反発を示す前に、笛吹は言った。
「第二の選択肢は、ゲームの第二ラウンドに参加すること」
「──第二ラウンド?」
「告白すべき罪を隠して、素知らぬ顔で暮らしている偽善者はたくさんいます。今回とは別のふたりに、あなたを加えた三人で、人質の奪還を賭けたゲームをもう一度行うのです」
三人の父親に告白を迫るため、新たにふたりの子供を誘拐するということか。笛吹の手に乗せられていると知りながら、神崎は反論せざるを得なかった。
「おれはもう告白したぞ」
「今回ゲームの計画を進めるに当たり、あなたの経歴だけでなく、奥さんの過去についても調査を行った。奥さんはご結婚前、公立小学校の教員をしておられましたね? 受け持っていたクラスの女児が、校舎の屋上から飛び降りて自殺するというショッキングな事件が起き、体調不良を理由に休職されたあと、現場に復帰することなく退職された」
神崎は振り向いた。妻の顔は引きつっている。笛吹の言葉が耳に届いたのだろう。
「クラス内で女児に対する陰湿ないじめが行われており、担任教師も把握していたのではないかという疑惑が持ち上がった。ことなかれ主義の教育委員会が調査を行ったものの、いじめの事実を裏づける証拠は発見されなかったとされ、結局、学校や教師の責任はうやむやになった」
妻からは女児の家庭環境に、彼女を死に追いやるような特殊な事情があったと聞かされている。確かめようとして見つめると、妻は視線を泳がせた。笛吹は続ける。
「奥さんには告白すべきことがあるのではないですか。校長からの圧力や自身の責任逃れのために、世間を欺いてはいませんか」
神崎ではなく、今度は妻の告白を人質返還の条件にするというのか。それで由奈を取り戻せるなら、どんな試練も乗り越えてみせると誓う一方、終わったはずの狂気じみたゲームに、もう一度一からつきあわされる苦痛を思うと、怒りを覚えるどころか、気が遠くなる。
「神崎さんはすでにルールを熟知していらっしゃるので、きっと次のラウンドでは、有利に駒を進められるでしょう」
神崎は歯噛みした。苦しげな呻きを洩らすことしかできない。
「そして、第三の選択肢」
笛吹の声はますます陶酔感を漂わせる。
「神崎さん、社会正義回復会の活動に参加なさいませんか?」
「なんだと──」
「山室や君島と会ってみて、彼らのクズっぷりを身をもって体験なさったでしょう。“今”というこの時代、世の中はあの手のろくでなしで溢れ返っています。おのれの卑劣さ、矮小さを思い知らせ、彼らにふさわしい汚名と恥辱を与えるための活動を、我々とともに行いませんか」
「おれに何をしろと」
「その少女の父親、日野は、不正な不動産売買を生業としていました。土地を持っている高齢者に巧みに取り入り、資産管理を任されるほど信頼を得たところで、勝手に売り払って莫大な利益を得るのです。犯罪を立証するには被害者である高齢者の証言が必要ですが、彼が狙うのは認知症を患っていたり、助言してくれる家族のいない独居老人ばかり。例外的に壮健だった老人は、弁護士に相談を持ちかけたあと、忽然と姿を消している。老人の行方に心当たりがないかどうかを含め、日野自身の口で真相を語らせる必要がありました」
おそらく行方不明の老人は、すでにこの世にいないのだろう。つまり日野は、土地の不正売買以上の重罪を犯しているということか。
「日野はしかし、自分の娘を犠牲にしてでも、罪を隠匿する道を選んだ。絶対に裏切ることのできない共犯者、もしくは黒幕が背後にいるのでしょう。その人物への背信が、死よりも恐ろしい報復を意味するような」
話がどこに着地しようとしているのか見えない。次の言葉を待つしかないのがもどかしい。
「そのため我々はターゲットを替えました。日野の下請けのような仕事をしていた山室です。しかしご存じのとおり、山室も罪を告白しないまま死んでしまった」
最後に対峙したとき、山室の目に宿っていた異様な光を思い出す。彼も日野と同じく、裏切者への報復の恐怖に駆り立てられていたのだろうか。
「山室と同様、日野の下働きをしていた男がいる。その人物が次のターゲットです。彼にも娘がいて、罪の告白を引き出すため、彼女を誘拐する必要がある。そこで神崎さんに提案です」
不吉な予感が、黒いしみのように身中に広がる。
「娘を誘拐してもらえませんか。社会正義の名のもとに、我々の同志となるイニシエーションとして」
神崎は言葉を失う。
「首尾よく娘を誘拐することができたら、そのあとターゲットが告白するかどうかを問わず、直ちに由奈ちゃんをお返しします」
日野に由奈を誘拐させたときのように、娘を餌にして神崎を操ろうというのか。
「ただ、その娘は高校生です。五歳の幼稚園児と違って、誘拐は容易ではないでしょう。でも幸い、神崎さんには奥さんという強い味方がいる。女性同士ならあまり警戒されることなく、対象に接近することが可能でしょう」
社会正義回復会の手口の一端が見えた。自分たちの手を汚さず、人質を取ることで支配下に置いた人物を使い、次のゲームに必要な人質を調達しているのだ。万一、手駒が誘拐に失敗しても、直接接点のない本体に警察の手が迫ることはない。
神崎はようやく言葉を取り戻した。
「なぜ誘拐にこだわる」
「いけませんか」
「家族を人質に取るのは最低のやり方だ。社会正義が聞いて呆れる」
笛吹は黙った。神崎の批判がはじめて図星をついたかと思ったが、いっそう悠揚迫らぬ口調で語りはじめる。
「いま、日本社会のモラルが雪崩を打って崩壊しようとしています。権力者は自らの権勢のために権力を使い、役人は組織防衛と保身のために法律を使い、市民は他人を出し抜いて小金を得るために悪知恵を使う。風紀や倫理を踏みにじって恥じ入ることのない野蛮人が、大きな顔をしてのうのうと暮らしている。もはや彼らに正当な裁きを与えるだけでは足りません。彼らに追随し、おのれの欲望を満たすことを正義と考える次世代への見せしめとして、血祭りに上げる必要があるのです」
神崎が理解しているかどうかは、すでに問題ではないようだった。笛吹は滔々と続ける。
「血祭りと言っても、実際の流血沙汰を望んでいるわけではありません。山室のように、社会的制裁を受ける前に死なれてしまっては、人々に正義への畏れを思い出させることなく、ありふれた殺人事件のひとつとして、日々の狂騒に紛れてしまう。我々のターゲットには是非とも生き永らえて、長く見せしめの役目を果たしてもらわなければなりません」
笛吹は、秘密を明かすような口ぶりで言った。
「我々が誘拐という手段を講じるのは、それが多くの人にとって他人事ではないからです。少子化が急速に進んでいるとはいえ、一定以上の収入がある層には、まだまだ子供や孫を持っている人が少なくない。悪党にも子供がいるし、これから悪党になるかもしれない一般市民にも、可愛い孫がいる。社会正義を犯したら自分も同じ憂き目に遭うと思えば、少しは抑止効果が働くでしょう」
図らずも洩れたように、笛吹の声に笑いが混じる。神崎は戦慄せざるを得なかった。
「なぜあんたはそこまで──」
「かつては悪党にも仁義があった。どんなに敵が憎くても、親兄弟や子供には手を出さないというのが彼らの矜持でした。ところが今の悪党はどうでしょう。家族を巻き込むことを厭わないどころか、それで相手を屈服させられるなら、積極的に危害を加えようとする。すでにルールは失われました。正義の側に立つ者が旧来の禁忌に囚われていては、増長する悪に対抗することはできません」
反発を覚えつつ、神崎は反論の言葉を見つけられなかった。日々のニュースを眺めていても、いまの社会が常軌を逸しているのは間違いない。もし自分が悪として断罪されているのでなければ、全面的に笛吹に同意したかもしれない。何が“正”で何が“反”か、その境界線を見失い、混乱の中で立ちすくむ神崎に、男は何食わぬ調子で言う。
「もう決まりましたか」
「え──」
「どの選択肢を選ぶか、もう決まりましたか」
「──あんたは自分のしていることが、本当に正義に適うと思うのか」
笛吹は問いに答えなかった。逃れられない運命を告げるように、静かに、しかし厳然と言う。
「決断を下すべきときです。警察に通報するか、ゲームの第二ラウンドに参加するか、社会正義回復会の同志として活動するか」
警察に助けを求めたところで、由奈を取り戻せる保証はない。おそらく笛吹は、自分に捜査の手が及ばないよう策を講じた上で通報を勧めている。笛吹を取っかかりにして、サーカスと呼ばれる人身売買組織に迫ろうと思っても、そのルートはあらかじめ封じられているだろう。
第二の選択肢、ゲームの第二ラウンドに参加することを選んだ場合も、結果が運に左右される点に変わりはない。たとえ里美が過去の罪を告白しても、残りのふたりが告白を拒めば、由奈が解放される望みは消える。いっそ里美以外のふたりを殺して、それでミッション達成となるなら話は簡単だが、社会正義回復会のルールでは、死によって告白を免れることはない。
三つの選択肢の中では最後のひとつ、社会正義回復会への服従が、由奈を取り戻すのに最も有効そうに見える。しかし人生において誘拐など一度も考えたことのない神崎が、自我を持った生身の人間の拉致に成功する見込みは、限りなく薄い。
神崎は混沌に呑み込まれつつあった。どの道を選んでも由奈の奪還は容易でない上、三つの選択肢のそれぞれに、笛吹の罠が仕込まれているような気がしてならない。
考えあぐねて、助けを求めるように妻を見た。その顔は色を失い、里美もまた、惑乱に陥っているのが明らかだった。娘を奪い去られつつある恐怖の中で、記憶の底にうずめたはずの、過去の罪の影に怯えている。
神崎が自らの罪を明かしたとき、里美は咎めるようなことを言わなかった。一瞬だけ非難の色を浮かべはしたものの、その表情はもっと大きな不安に押しやられるように消えた。自分も誘拐者から告白を迫られる可能性があることに、暗い秘密を抱えた者の直感で、はたと思い至ったのだろう。敵に操られるまま闇夜をさまよう神崎に、不平も言わずここまで付き従ってきたのは、おのれに告発の矛先が向く前に、夫にすべての罪業を引き受けてもらおうという、ひそかな計算があったからかもしれない。
静かな声が無慈悲に言う。
「そろそろお聞かせください。三つのうち、どの選択肢を選びますか」
神崎は答えられなかった。焦燥にじりじりと灼かれながら、もがくように出口を探す。何かほかに、いまの自分に残された打開策はないのか。
「お答えください。どの選択肢を選びますか」
いっそ壁と同化してしまいたいかのように、少女は暗がりで息を殺している。捕食者から目をそらすことができない哀れな小動物そのままに、痛いほど目を見開いて、おぼろな灯下に立ち尽くす神崎を見つめている。神崎は体の奥深く、むくむくと怒りが膨れ上がるのを感じた。この孤独な夜の果て、いま怯えていいのは自分の方だ。押し寄せる恐怖に身を任せ、子供のように打ち震えたいのは自分の方だ。少女の父親が由奈を誘拐したせいで、自分は最愛の娘を失う危機にさらされている。
回答を迫る声が頭に響く。
「どの選択肢を選びますか」
唇のわななきを抑えられない。
「どの選択肢を選びますか」
「──由奈を返せ」
言葉をやっと押し出す。熱量のない無感動な声が、機械的に繰り返される。
「どの選択肢を選びますか」
「由奈を返せ!」
怒号は沈黙に吸収され、何の反応も引き起こさないまま闇に消えた。
神崎は少女に目を向けた。きっと自分はいま、幽鬼と見紛う昏い目をしているに違いない。前に踏み出した足の下で、木の床が耳障りな軋みを上げる。恐怖にしか反応できない、壊れた機械人形のように、少女がびくっとおののいた。
復讐しても意味がないことはわかっている。あるいはそこに踏み込ませることこそが笛吹の狙いかもしれない。しかし、いずれの道を選んでも袋小路に至る三叉路に立たされた今、神のようにふるまう傲慢な敵に、せめて最後に一矢報いたいという気持ちを、どうしても抑えることができない。
奪ってやる──
娘を誘拐した、憎んでも余りある男から、何ものにも代えがたい、大切な我が子を奪ってやる。神崎は少女の首に手をかけた。恐怖に咽喉をふさがれて、半開きの口からは悲鳴も洩れない。
「何をするの。やめて!」
里美が背中に取りすがる。神崎は腕を振るって、妻を部屋のすみまで弾き飛ばした。
怒りがすべてを呑み込んでいく。娘へのいとおしみさえ、荒れ狂う憤怒を前に、神崎を引き止める力を失っていた。社会正義回復会への反発、笛吹への嫌悪、日野への憎しみ──神崎をこの窮地に追い込んだもの、そのひとつひとつに対する怒りが、怒濤のように次から次へと襲いかかる。一体自分がいつ、こんな理不尽な罰を科されるべき、許されざる大罪を犯したというのか。私生活をネタに脅迫まがいの圧力をかけはしたものの、同僚の女性を追いつめ、孤独な死に追いやることなど、一度たりとも望んでいない。本来なら糾弾する立場にいたはずの、卑劣な背信行為に手を染めたのは、会社の幹部に命じられ、従わなければ社会的地位を失う局面に立たされたからだ。直属の上司がパワハラを加え、訴訟を考えるところまで女性を追いつめたからだ。相手に妻子があると知りながら、自らも家族を裏切り、女性がふしだらな不貞行為を働いたからだ。支配欲や愛欲に身を任せ、狂った倫理観に神崎を巻き込んだ、無思慮で無分別な彼らの独善に対する怒りは、一体誰が晴らしてくれるのか。
小刻みに震える指に力を込める。
人間のあらゆる情動の中で、熾烈さで怒りに優るものはないと知った。
春のようにうららかな日差しの中を、思い思いの装いと歩調で人々が行き交う。アクアリウムを遊泳する、色とりどりのネオンテトラを思わせた。信号が変わると、停止線に堰き止められていた長い車列が、かすかなうなりとともに、ゆるゆると動き出す。
高架線の改札に直結するショッピングモールの二階、さざめきと豆の香りに満たされたコーヒーショップだ。神崎は天井高の全面ガラスを透かして、アスファルトの照り返しに白くかすむ、駅前のロータリーを眺めていた。
ひとくち口をつけたきりのドリップコーヒーが冷めつつある。そろそろ約束の時間だ。入口に新たな人影が差すたびに、ひやりとした緊張が走る。
神崎は三つめの選択肢を選んだ。由奈を取り戻すため、日野の下働きをしていた無法者の娘を誘拐するのだ。対象者の容姿や通学先の高校など、実行に必要な情報を提供してもらうため、この店で社会正義回復会と落ち合うことになっている。
誘拐を成功させるには、里美の協力が欠かせない。しかしあの夜、ログキャビンからマンションに引き上げたあと、妻とはほとんど言葉を交わしていない。自室に引きこもりがちになり、ときどき嗚咽や奇声を発している。決行の際には、もっとしゃんとしてもらわなくてはならないが、打ち合わせ中に冷静さを失っても困るので、今日は自宅に置いてきた。
神崎がそうであるように、里美もまた、連れ合いに強い不信感を抱いているだろう。娘を取り戻すという共通の目的でかろうじて繋がってはいるものの、一度芽生えた猜疑心が、この先消えることはない。娘の奪還に成功し、平和な日常が戻ってきても、再び“家族”に立ち返ることはないだろう。
いつのまにか、ひとりのもの思いに沈んでいた。ふと、かたわらに気配が立つ。神崎は顔を上げた。
身だしなみのいい、すらりとした男が立っていた。ダークグリーンのウールのスーツを着ている。年のころは自分と同じ。役者のように端正な顔に、柔和な笑みを浮かべている。
「お待たせしました。神崎さん」
その、どこか笑いを含んだような、いやらしいまでに落ち着いた声に聞き覚えがあった。
「笛吹です。実際にお目にかかるのは、これが初めてですね」
この男が笛吹──。神崎は言葉を失った。男は優雅な物腰で、向かいの席に腰を下ろす。水を運んできたウェイトレスに、キャラメルマキアート、と告げる。
もし顔を合わせる機会があったら、ありたっけの罵声を浴びせてやるつもりでいたが、怒ることと案ずることに疲れた心には、もう何の感情も湧いてこない。神崎は諦念に包まれながら言った。
「てっきり、下っぱを送り込んでくると思っていた。まさかあんたがじきじきにお出ましとは」
「組織に新しいメンバーをお迎えするのです。幹部がご挨拶に伺うのは当然でしょう」
「由奈は無事か」
「もちろんです。我々は人質に危害を加えるような野蛮人ではありません」
「今度こそ、本当に由奈を返すんだろうな? 誘拐犯の娘ではなく」
おしぼりで入念に手を拭いていた笛吹が、ふと神妙な顔をする。
「一時はどうなることかと思いました。ログキャビンを見張っていた部下から、あなたが日野の娘を殺そうとしていると聞いたときには」
「…………」
「よく踏みとどまりましたね。このまま一気に、堕ちるところまで堕ちるのかと思いました」
あのときの指の感触を思い出すとぞっとする。あとほんの少し力を加えていたら、自分は何の罪もない少女の命を奪っていた。
「最後の最後に、人として最低限の良心を取り戻したんですね」
そんなものを自分が持ち合わせているのかどうかわからない。あのとき神崎を引き止めたのは、少女のTシャツにあしらわれていた、ワンポイントの小さな刺繍だ。由奈が愛してやまない子ぐまのキャラクターを目にした瞬間、ふいに兆したひとひらの哀憫に灼かれるように、極限まで張りつめていた殺意が霧散した。
神崎は少女から手を放した。体の支えを失って、よろよろとあとずさる。怪物のおぞましい手から守ろうとするように、里美が駆け寄り、少女の痩せた体を抱きしめた。
里美の根気強い問いかけにも一切反応を示さなかったが、少女はポケットに携帯電話を持っていた。アドレス帳をひらくと父親の連絡先がある。ショートメッセージで、ログキャビンの座標を送った。
「──あのあと、やよいは?」
「日野氏が迎えに来ました。やよいの弟を含めた家族四人で、N県の別荘に引きこもっています。忽然と姿を消した少女が、予告もなく半年ぶりに帰還したとなれば、マスコミが大挙して押し寄せるのは目に見えている。世間の目の届かない静かな場所で、娘の回復を待つつもりでしょう」
先のことはわからないが、いまのところ日野に対する怒りは収まっている。父親という、ときに愚かな存在であるという点では、自分も日野となんら変わらない。何はともあれ娘を取り戻し、今このときも共に過ごしているであろうことを、同じ穴の狢として、ほのかにうらやましいと思うだけだ。
テーブルにカップが運ばれてきた。出来映えを吟味するように、笛吹は泡の上のキャラメルの格子を眺めた。悠々と取っ手に手をかける。
神崎は、かねてから気になっていたことを尋ねた。
「なぜおれだったんだ」
笛吹は目を上げて神崎を見る。
「社会正義に反する行いをしたやつなど、世の中にごまんといる。なぜおれがゲームの駒に選ばれた」
笛吹はカップを置いた。ナプキンで口をぬぐう。
「大手アパレルメーカーに勤める若い女性が、自ら運転する車でトレーラーに突っ込むという、非常に痛ましい事件が起きた。一年前のことです。職場で受けていた過酷なパワハラが原因でした」
「知ってる。メールで記事を送ってきたな」
「私はあの事件をきっかけに社会正義回復会に加入することになったのですが、女性は生前、パワハラ被害を社外の弁護士に相談していました。労働問題に積極的に取り組んでいる、その方面では名前を知られた人物です。おそらく神崎さんも、噂を耳にしたことがおありでしょう」
笛吹は神崎の質問をはぐらかそうとしているのだろうか。いぶかしみつつ、話の帰結を待つ。
「幸坂栞さん──亡くなる前、彼女も同じ弁護士に相談を持ちかけていました」
「え──」
上司からのパワハラに悩み、思いつめた表情でハラスメント対策室を訪れた、広報部の女性課長──
「アパレルメーカーの女性の件で弁護士を訪問した際、同じように告発者が自殺に追い込まれた例として、幸坂栞さんのことを聞きました。パワハラ被害者をさらに追いつめる、社会の理不尽な仕打ちを知って、発作的に怒りを爆発させてしまった私に、彼は教えてくれました。そうした世の中の不正義を糺す活動を行っている、社会正義回復会という組織があると」
「まさか、その弁護士は──」
「はい、社会正義回復会のメンバーです。彼の紹介がなければ、私も入会できませんでした」
信じかねる思いで問い返す。
「弁護士が守秘義務を破って、幸坂のプライバシーをあんたに話したと?」
「弱い立場にいる人の口を封じるため、スラップ訴訟の集中砲火を浴びせる弁護士がいる。法に触れてはいなくても、弱者救済を掲げる法の精神を踏みにじる、反社会的行為だと思います。彼らのような不良弁護士が幅をきかせる一方で、法の精神を守るためなら自らが法によって裁かれることを厭わない、気骨のある弁護士もいるのです」
社会正義回復会の身勝手な言説を聞かされても、神崎はもう驚かない。越えようのない断絶を前にしたときの、無力感と絶望に打ちひしがれるだけだ。話を戻す。
「アパレルメーカーの女性の自殺──あの件にも社会正義回復会が関わっているのか」
「いいえ、関わっておりません。完全に女性の自由意志です」
「あの事件がきっかけだったと言ったな。あんたは女性の関係者なのか」
「記事を読んで記憶を新たにされたことと思いますが、あれは大変な事故でした。きっと女性は、ニュースとして取り上げられるような壮絶な死に方をして、自身の苦しみを人々の面前に叩きつけたかったのでしょう。無辜の一般市民を道連れにしようと考えていたかどうかは不明ながら、結果的にほかの車や通行人を巻き込んで、多数の死傷者を出した」
笛吹の声色に不穏なものを感じて、神崎は言葉をはさめなかった。そもそも神崎の反応など望んでいないかのように、一定の抑揚で続ける。
「中でも悲劇的だったのは、たまたま交差点で信号待ちをしていた、当時二十八歳の女性です。追突を避けようとした後続車が歩道に乗り上げ、逃げようもなく立ち尽くしている彼女を撥ねた。──翌月に出産を控えた妊婦でした」
「その女性は……」
「即死でした。おなかの赤ん坊ともども」
神崎は息を呑んだ。理性的にコントロールされた口調を裏切るように、神崎を見つめる笛吹の目は、ほとばしる感情を抑えかねて、目縁の筋肉が細かく痙攣していた。拡大した瞳孔の奥に、底知れぬ奈落がのぞく。
「まさかその女性は、あんたの──」
「自殺した女性を恨む気持ちはありません。悪いのは彼女ではなく、彼女をそこまで追いつめた、現代日本社会のありようです。理想を笑い、恥を知らず、我欲の追求を是とする今日の風潮こそ、徹底的に糾弾され、厳しく断罪されなければなりません。私を動かしているのは崇高な使命感であって、もはや私怨ではないのです」
昂りをやりすごそうとするように、笛吹は口を閉ざした。いつになく長い沈黙のあと、再び驕慢に語り出したときには、もとの泰然自若ぶりを取り戻している。
「つまらないおしゃべりはやめて、そろそろ本題に入りましょう」
神崎は動揺から抜け出せずにいた。笛吹が一瞬だけのぞかせた、暗い激情の余韻が消えない。それは怒りだった。神崎も身に覚えのある、本能から突き上げるような激しい怒りだ。しかし本当にそれだけだっただろうか。そこにはより動物的な、魂の陶酔が入り込んでいなかったか。
だが、ここでそれを確かめても意味がない。いま何より重要なのは、この手に由奈を取り戻すことだ。本題に入ろうという笛吹の提案にうなずく。
「神崎さんは第三の選択肢を選ばれた。我々社会正義回復会の一員となり、誘拐の実行役を務めるということでよろしいですね?」
「ああ」
「後戻りできませんよ。後悔しませんか」
「もう覚悟を決めた」
笛吹は椅子の背にもたれた。勝利者の余裕を漂わせながら、なにげない調子で告げる。
「実を言うと私はいま、別の結末があってもいいのではないかと考えています」
「別の?」
「神崎さんには三つの選択肢があるとお話しした。そのいずれかひとつを選ぶ以外に、最終的な望みを叶えるすべはないと──。しかしあなたご自身の思いがけない行動により、我々の想定を覆す、新たな可能性がひらかれた。三つの選択肢とは別の、もっと美しい結末が示されたのです」
「──どういうことだ」
「由奈ちゃんをお返しします」
「え──」
「日野やよいの命を救った、祝福されるべきあなたの慈悲深さに免じて、由奈ちゃんをお返しします」
笛吹は窓の外に目を向けた。視線を追って、神崎も全面ガラスを透かし見る。
ロータリーの歩道のひなたに、親子連れとおぼしき人影が佇んでいた。言葉を交わすでもなく、コーヒーショップのある方向に体を向けている。灰色のスーツを着た男に手を引かれているのは、幼稚園のフェルト帽とケープコートを身につけた、どこか不安げな少女だった。
神崎の息が止まる。
「──由…奈……」
椅子を蹴って立ち上がった。笛吹をその場に残し、テーブルとテーブルの間を突っ切る。ウェイトレスやレジ待ちの客を突き飛ばし、店の外にまろび出た。
ショッピングモールの賑わいを抜け、改札前の自由通路に出る。広い階段を駆け下り、ビル街にぽっかりとひらけた、真冬の高い空の下に立つ。
間違いなかった。そのいたいけな姿は、いまの神崎のすべてと言っていい、かけがえのない存在だった。
「由奈!」
少女が顔を上げた。父親の姿を認めた瞬間、押し込められていた子供らしい生気がみなぎる。悲しいほどに懐かしい、あどけない声がほとばしった。
「パパ!」
信じかねる思いで、神崎はのろのろと歩み出す。繋がれていた手を振り払い、少女は弾けるように駆け出した。ひざまずいて腕を広げ、小さな命の塊を抱きとめる。
「由奈──。会いたかったよ……」
神崎は、たったひとつ残された心の拠りどころにしがみついた。そのたどたどしい鼓動を、このまま永遠に肌身に感じていたい。どんな過酷な運命に見舞われようと、もう二度と離すまいと誓う。
気づくと、灰色のスーツの男がかたわらに立っていた。
「神崎保さんですね?」
あらためて顔を見る。人畜無害そうな、悪く言えば風采の上がらない男だった。四十路前後だ。
立ち上がろうとしたが、神崎の服をつかんだ由奈が放そうとしない。膝をついたまま問い返す。
「あなたは?」
「申し遅れました。幸坂真一と申します。幸坂栞の夫です」
幸坂栞──神崎がいま、最も意識から遠ざけたい名前だったかもしれない。
「遺書を残さなかったので、妻がなぜ死を選んだのか、その理由がずっとわからずにいました。でもフェイスブックのあなたの投稿を見て、二年ごしに、ようやく得心が行きました。妻は世の中に絶望したのですね。藁にもすがる思いで助けを求めたあなたに、手ひどい裏切りを受けたのをきっかけに」
神崎は言い返せなかった。責めを負うべきなのは自分ひとりではないと訴えたいが、いまさら些細な違いを言い立てても意味がない。
「妻に男がいることは、当時からうすうす感づいていました。しかし私は忙しさにかまけて、直接本人に確かめることをしなかった。真実を知るのが怖かった、というより、夫婦関係に対して投げやりな気持ちになっていたのです。すべてを知った今となっても、自分が何を、どう感じているのかわかりません。不貞行為を働いた妻に腹を立てているのか、きちんと向かい合おうとしなかった、不甲斐ない自分を謝りたいのか」
幸坂の自分語りの意図がつかめず、神崎はただ、生きることに疲れたような顔を見つめた。
「でも、ひとつだけ確かなことがあります。あなたは私たち夫婦の一人娘から、彼女が愛する、唯一無二の母親を奪った」
幸坂はスーツのボタンを外した。ズボンのウエストに挟まれていたものを引き抜く。鈍色の光を放つそれは、回転式の拳銃だった。
「これは、笛吹さんからお借りしたものです」
幸坂の顔からけだるさが消え、ゆっくりと憎悪が浮かび上がる。銃口が神崎に向けられた。異変に気づいて、駅前を行き交う人々が足をとめる。状況を把握できずにその場で呆ける者、悲鳴を上げる者、身の危険を感じて、脱兎のごとく走り出す者──個々人の性格と判断力に応じて、それぞれの挙動を見せた。
幸坂が撃鉄を起こす。その声は老人のようにしわがれて、悲痛に響いた。
「死ね、クズ。一生消えない心の傷を、娘に与えたことをあの世で悔め」
神崎はとっさに由奈を突き飛ばした。眼前で空気が炸裂する。痛みと認識できないほど強い衝撃が、ハンマーのように胸を打つ。
青い空が覆いかぶさる。神崎はうしろざまに倒れつつあった。奔流と化して雪崩れ落ちる風景の中、コーヒーショップの窓が視界をかすめる。すらりと背の高い男が窓辺に佇み、ガラスごしに地上を見下ろしていた。日差しの反射で、その表情は見えない。
背中を地面に叩きつけられる。遠いラジオノイズのように、由奈が自分を呼ぶ声を聞いた。窓辺の男は静かに踵を返すと、急速に濃くなりまさる、網膜の奥の闇に消えた。