「犯人からなの?」

 過去の罪を告白せよと迫る笛吹に、何のことかわからないと答えた。しかしそれは虚勢であり、内心の動揺を悟られまいとする、とっさの自己防衛に過ぎなかった。神崎には心当たりがある。

 笛吹はどこまで把握しているのだろう。実は真相を知らぬまま、神崎に鎌をかけているだけかもしれない。それに動じて罪の告白を行えば、まんまと笛吹の術中に嵌まることになる。

 罪悪感には、とうに蓋をしたはずだった。日々の忙しさに追われるうちに、神崎のもとを訪れる相談者たちの苦悩にいちいち心を痛める繊弱さも消え、業務として淡々と処理する、企業人の知恵を身につけていた。笛吹の出現によって不意に呼び覚まされなければ、再び青臭い感傷に捉われることはなかっただろう。

 妻は何も知らない。息をつめて夫の次の言葉を待っている。追いつめられ、狂おしく出口を求める瞳を、神崎は見返すことができなかった。ありのままの事実を打ち明けたとき、妻がどんな反応を呈するかわからない。夫の行為を非人間的となじるのか、それとも立場上やむを得ない判断だったと、大人の理解を示すのか。

 結婚前、妻は小学校の教員をしていた。学校といえども特定の目的のために作られた、社会組織の一種であることに変わりはない。組織人たるもの、個人の意志や感情はどうあれ、ときに組織の論理で動かなくてはならないことを、経験的に知っているはずだ。

 重い口をひらこうとしたとき、着信があった。三通目となる「社会正義回復会からのお知らせ」だ。神崎の心を掻き乱す材料が、この上まだ残っているというのか。

 今回も新聞記事の切り抜きだった。一年前の出来事にもかかわらず、見出しを見ただけで鮮明に思い出すのは、そのとき受けた衝撃の大きさゆえか。

 大手アパレルメーカーに勤める二十代の女性が、自分の車で会社を出たあと、赤信号で交差点に突っ込み、大型トレーラーと衝突した。車は大破し、女性は即死。玉突き事故を誘発して多くの後続車を巻き込んだ上、追突を避けようとして歩道に乗り上げた車に、たまたま信号待ちをしていた通行人が撥ねられるという、凄惨な事態を招いた。当初は不慮の事故と思われたが、女性の車から遺書が発見され、覚悟の自殺であることが判明した。夕方のラッシュ時に幹線道路で発生したため交通に大混乱をきたし、テレビのニュースでも大きく取り上げられた。

 遺書によると、職場の男性上司によるパワハラに悩まされていたらしい。嫌がらせとも思える重いノルマを課され、長時間の残業や休日出勤を強いられていた。社内のコンプライアンス窓口に相談したが、一向に改善が見られないばかりか、上司からの圧力、不当な低評価は日に日に過剰さを増し、たまりかねて労基に相談したところ、それを知ったほかの役員や同僚からも白い目で見られるようになった。学生時代からそこで働くことを夢見ていた会社であり、仕事そのものにはやりがいを感じていただけに、社会人としての前途を閉ざされて絶望したという。

 一通目、二通目の事件と違い、おそらくこの自殺の件に社会正義回復会は関わっていない。結果的にアパレルメーカーの古い企業体質が暴かれることになりはしたものの、パワハラ上司本人の告白によって明るみに出たわけでも、誘拐による告白の強要が行われたわけでもない。だが身に覚えのある神崎には、自分にこのメールが送られてきた理由が、痛いほどよくわかった。

 神崎は名の知れた不動産デベロッパーで働いている。社労士の資格保有者であることと、人事部での豊富な勤務経験を買われ、現在はハラスメント対策室の室長を務めている。日々持ち込まれる案件のうち、被害の深刻度が低いものは部下に対応を委ねているが、とりわけ慎重なプライバシー管理を求められる場合など、室長自ら相談者や行為者との面談に臨む機会も少なくない。今日のように、自宅でパソコン仕事をすることは稀だ。

 それは二年前になる。広報部で課長を務める三十代の女性が、思いつめた表情で対策室を訪れた。直属の上司である広報部長の男性から、日常的に侮辱的な扱いを受けているという。女性が自分にへつらわないことが気に入らないのか、人格や実績を否定するような発言を繰り返し、部下の前でもあからさまに見下した態度をとる。抗議してもはなから聞き入れようとせず、女性はストレス性の体調不良により、出社が困難になりつつあると訴えた。

 広報部長のことはよく知っている。かつて人事部に在籍しており、神崎も新人のころ直接指導を受けた。歯に衣着せぬ、豪放磊落らい らくな親分肌の人物で、そのため女性による告発は、意外でもあり、意外でなくもあった。大学が同窓だったこともあって神崎には目をかけてくれていたが、重要な仕事を男性にしか回さないなど、当時から女性蔑視的な傾向は見られた。

 ほかの部員からの聞き取りを手始めに、粛々と社内調査を進めていると、あるとき重役のひとりに呼び出された。ほかならぬ広報部長の件だった。事業の拡大に大きく寄与した人物であり、業界内で顔のきく、経営上欠くべからざる人材なので、彼のキャリアに疵がつくことは望ましくないという。相談者の女性が訴訟の準備を進めているとの情報をつかんだらしく、トラブルが表沙汰になることで、会社のブランドイメージが毀損される事態を恐れていた。神崎にも、自分の立場をわきまえた行動をとれと迫る。つまり、告発を揉み消せというのだ。

 一般社員から情報を集める中で、神崎はある噂を耳にしていた。家庭を持つ身でありながら、女性が妻子ある男性と不倫関係にあるというのだ。確認のため尾行をつけたところ、どうやら事実であるらしい。神崎は女性との二者面談の際、あまり恫喝的に聞こえないよう注意しながら警告した。会社と事を構えると、女性自身のプライベートも公になるのではないか。家族につらい思いをさせるだけでなく、相手の男性を困った立場に追い込む結果になるのではないか。

 女性の訃報が届いたのは数日後だった。睡眠薬を大量に服んでから、水を張った浴槽に浸かって手首を切った。発作的な自殺だったらしく、遺書が残されていなかったと聞いて、神崎はひそかに胸を撫で下ろした。自分の忠告が彼女を絶望に突き落としたのだとしても、このさき真相が明るみに出ることはない。トレーラーに車ごと突っ込むような、人目を引く死に方ではなかったため、彼女の死がニュースとして大々的に報じられることもなかった。

 社会正義回復会は、神崎が何をしたか知っている。それを伝えるために、同じくパワハラを苦に自殺した、アパレルメーカー社員の記事を送ってきたのだ。相談者の女性が神崎の警告のあとに自殺したことを、どういう経路で突き止めたのかわからないが、彼女を死に追いやった神崎に、自らの罪を認めよと、無言のうちに迫っている。

 ほかのふたりの父親にも、同様に三通のメールが送付されているに違いない。一通目と二通目は三人共通、最後の一通は三人それぞれに、各々の罪を突きつける内容だと思われる。

 これ以上、妻に伏せておくことはできない。その目は痛々しいほど見開かれ、不安が極限に達しているのが見て取れる。神崎は笛吹との会話の内容と、三通の「お知らせ」の意味を話した。

 女性の自殺のくだりに衝撃を受けたようだ。妻は声を震わせる。

「自殺したのは、あなたのせいなの?」

 夫婦関係はとうの昔に破綻し、不倫相手ともうまく行っていなかったと聞く。神崎の言葉が女性の選択に影響を与えたのだとしても、必ずしもそれだけが原因ではなかったはずだ。しかし人一倍仕事熱心だった彼女が、神崎との面談を最後に出社しなくなった事実がある以上、もともといつ自殺してもおかしくない状態だったと主張しても、苦しい言い訳にしか聞こえないだろう。

 妻はたまりかねたように口をひらく。思いを吐き出そうとして、寸前で言葉を呑み込んだ。いま優先すべきなのは、夫の責任を追及することではないと考えたのだろう。

「告白すれば、由奈は帰ってくるのね?」

「笛吹の言葉を信じるなら、な」

「告白して」

「警察に知らせるという方法もあるぞ」

「告白しさえすれば、由奈を返すと言ってるんでしょ? だったら迷うことないわ」

 神崎の心はすでに決まっている。娘を取り戻すより重要なことなど何もない。由奈の命と引きかえに別の誰かを殺せと命じられれば、何のためらいもなく応じるだろう。だが娘の、儚くいじらしい、甘やかな匂いのする体をもう一度抱きしめるかわりに、代償として失うものも少なくない。

 自分に念を押すつもりで尋ねる。

「本当にいいのか。告白すれば、おれはすべてを失うことになる。いまの会社に籍を置きつづけることはできないし、友人も離れていくだろう。おれの妻だという理由で、おまえも同じ目に遭うかもしれない」

 妻に迷いはなかった。神崎の目をまっすぐに見つめ返す。

「私は、由奈さえいればそれでいい」

 神崎はPCに向き直った。フェイスブックの入力欄をひらく。どこまで詳細に書くか悩むが、人質を取り戻したと思われるcyclist_kは、関係者の具体名も含めて、かなり赤裸々に明かしていた。いったん公表すると決めたからには、情報として不十分なものでは意味がない。ここはcyclist_kに倣って、潔く全面自供することにする。つい自己弁護の言葉をはさみたくなるのを堪えつつ、対策室に相談が持ち込まれたところから女性が自死に至るまで、事実を淡々と綴った。

 あとは投稿のボタンを押すだけだ。文章を読み返しながら、もう一度自問する。本当にこれを公表していいのか。神崎がすべてを失う覚悟で告白しても、社会正義回復会が約束を守るとは限らない。

 だが現在、娘が敵の手中にあるのは事実だった。自ら罠に嵌まる結果となっても、少しでも娘を取り戻せる可能性が高い方に賭けるしかない。いま神崎に許されているのは、この選択の先に唯一の正解が待っていると信じて、あえて火中に身を投じることだけだ。娘の奪還に成功しさえすれば、SNS上の告白など、第三者にアカウントを乗っ取られたと言えば、あとから全部なかったことにできる。

 神崎は「投稿」の文字をクリックした。

 要求には応じた。次は社会正義回復会が駒を進める番だ。神崎はフェイスブックを閉じる。告白文を読んだフォロワーから一斉にコメントが寄せられるかもしれないが、いまは戸惑いの声や良識的な批判に心を煩わされたくない。とにかく由奈を取り戻すことが先決だ。

 息づまるような時間が過ぎる。妻は一点を見つめたまま何も言わない。重く立ち込めた沈黙を、デフォルトのデスクトップ画面が青白く照らす。抜け目のない彼らのことだ。社会正義回復会は、すでに神崎の投稿を確認しているだろう。所期の目的を果たしたあと、どういう手順で由奈を返すつもりか。

 ショートメッセージの通知があった。再び携帯をのぞく。知らない番号からの着信だった。

 メッセージをひらく。文章はなかった。書かれているのは、長い数字の羅列だった。

 35.**529, 139.**026

「なんだこれは──」

「貸して」

 里美が神崎の手から携帯を奪い取った。PCでグーグルマップをひらき、数字を入力する。

「これは座標よ。緯度と経度」

 捨て番号だろうと思いつつ、神崎は発信者に電話した。果たして応答する声はなく、呼出音だけが空しく繰り返される。メッセージに返信しても反応がない。

 画面に地図が表示された。里美は、赤いピンが立っている箇所を拡大する。

「どこだ」

「A市よ。線路のそばだけど、駅からは離れてるみたい」

「そこに何がある」

 里美はストリートビューに切り替えた。見覚えのない、曇り空の風景が現れる。何か手がかりがないかと、ペグマンの視線を動かす。

 町なかではなかった。農閑期の田畑が連なる平坦な土地に、ぽつぽつと民家が散らばっている。味気ない、寞々ばく ばくとした田野を縦断するように、枯れ草に覆われた土手が立ち上がり、その上を鉄道の架線が走っていた。線路の反対側に出るための隧道ずい どうが、法面のり めんに四角い口をあけているが、試しに通り抜けてみても、単調な風景に変化はない。

「座標はここよ」

 里美は画面の一点をズームした。隧道の入口の脇に、ぽつんと電話ボックスが佇んでいる。

「ここに由奈がいるの?」

「行こう」

 神崎は上着をつかんで部屋を出た。一階に降り、マンションの専用駐車場に向かう。急ぎ足の里美があとに続く。

 車を出した。助手席の里美がナビを操作し、先程の座標を入力する。ルートが表示された。所要時間は三十分。

 窓の外をライトが流れる。十一月の寒風の町は、すでに濃紺の宵闇に没していた。道が混んでいるせいばかりでなく、先を急ぐ神崎には、ほかの車がやけにのろのろ走っているように思えてならない。

「……怖い思いをしてないかしら」

「そうだといいが」

 ひとりが告白を行えば、人質がひとり戻る。ただし解放される人質は、必ずしも告白者本人の娘とは限らない。それが神崎に突きつけられた、不合理なゲームのルールだ。座標が人質の居場所を示すものだったとしても、おそらく電話ボックスにいるのは由奈ではない。ほかのふたりの少女──あかりか、もえのどちらかだろう。それでもいま神崎が使命として果たさなくてはならないことは、残りの父親たちが従順に告白を行ったと信じて、いたいけな幼子が助けを待ちわびる場所へ、ひたすら車を飛ばすことだ。

 メッセージの着信音が鳴った。神崎の携帯は妻の手の中にある。

「誰からだ。社会正義回復会か」

「いえ。あなたの会社の人みたい」

 神崎の告白文を読んだに違いない。不祥事の揉み消しを指示した重役からの叱責か、それとも何も事情を知らない、同僚や部下からの問い合わせか。告白の内容は人から人に伝わり、やがて神崎の関係者すべてに知れ渡るだろう。遠からぬうちに、相談者の女性の遺族の目にも触れるかもしれない。自殺との関連を調べるため、警察が再捜査に乗り出すといった、シビアな展開もありうるのだろうか。神崎は、足もとの砂が少しずつ崩れ落ちていくような、いずれ確実に訪れる破滅の予感におののいた。

 里美が携帯を伏せる。神崎を厳しく非難する文言に耐えかねたのだろう。結果的に娘を危険にさらすことになった夫に対して、里美もまた、強い憤りを感じているに違いない。神崎は「すまない」とつぶやいたが、妻は何も言わず、フロントガラスを滑る光の筋を見つめていた。

 目的地に近づいたことをナビが告げる。車はいつしか市街地を離れ、郊外の田園地帯を走っていた。見過ごしてしまいそうな交差点で横道に折れ、垂れ込めた黒土色の冥闇を、ヘッドライトで押し広げながら進む。

「あれだわ!」

 隧道の暗い入口が見えた。かたわらの電話ボックスに、水銀灯が冷たいスポットライトを落としている。用心のため、少し手前で車を停める。

 里美が助手席から飛び出した。神崎が制止するいとまもなく、電話ボックスに駆け寄る。

「由奈ちゃん!」

 社会正義回復会が待ち伏せしているのではないかと危惧したが、目と耳をこらしても、あたりに人の気配はない。使う者がいるとは思えない電話ボックスだけが、撤去することさえ忘れられたかのように、ぽつねんと夜暗に浮かんでいる。隧道を出る車も入る車もなく、人知れず人質を置いていくには、うってつけの場所かもしれない。

 光と振動で闇を貫き、高架上を列車が走る。いっときの喧噪が遠ざかると、余韻はたちまち静寂に呑まれた。自分の靴音に急かされながら座標点に向かう。

 からっぽのショーケースのように、侘しく光るガラスの箱の中に、小さな影がうずくまっている。里美は扉を押しやり、少女を抱き起こした。神崎も腰を屈めて顔をのぞく。

 由奈ではなかった。ピンクのダウンジャケットに身を包んだ、くま耳ヘアの女の子が、張りつめた表情で見返している。

 娘でなかったことに落胆したに違いない。だが里美は顔に出さず、少女の頭を両手で胸に抱き寄せた。

「大丈夫よ、怖がらないで。私たち、あなたを迎えに来たの」

 がっかりしたのは神崎も同じだった。しかし別の少女だったにせよ、人質が解放されたことは朗報と言える。こちらが要求を呑みさえすれば、社会正義回復会はきちんと約束を果たすのだ。

 神崎は、できるだけ優しい声で尋ねた。

「知らないおじさんにさらわれたんだね? ここでじっとしてろって言われたの?」

 少女はこくりとうなずく。

「きみはあかりちゃん? それとも、もえちゃん?」

「やまむろあかり……」

「あかりちゃん、もう心配いらないよ。どっか痛いとこない?」

 少女はかぶりを振る。こちらの問いかけに反応を示しているところを見ると、身に起こること全てに恐怖を感じるほど、心底おびえきっているわけではないらしい。誰にさらわれ、どんな場所に連れていかれたか、由奈がひどい扱いを受けていなかったか訊きたいが、学齢前の幼児に答えを求めるのは酷だろう。

 おなかがすいていないか尋ねようとしたとき、少女はふいに顔を上げた。宙を見つめ、うわごとのようにつぶやく。

「あかりのパパはこくはくしていない」

「え?」

 少女は機械的に繰り返す。

「あかりのパパは告白していない」

 神崎は妻と顔を見合わせた。つい強い口調になって尋ねる。

「誰かが迎えに来たら、そう言えって言われたの?」

 無表情のまま、少女はうなずく。

 あかりのパパは告白していない──。父親の山室氏は、笛吹からの要求に応じていないということか。これまで漠然と感じながら、強いて心の片隅に押しやっていた懸念が、みるみる形を取りはじめる。

 三人すべてが要求に応じなければ、娘たちを全員取り返すことはできない。あかりの父親が要求を拒んでも、もうひとりの人質、もえの父親が告白に応じれば、由奈が解放される可能性はある。しかし確実に娘を取り戻すためには、山室にも告白を行ってもらわなければならない。

 里美が不安そうな顔を夫に向ける。

「由奈は帰ってこないの?」

 そんなことになってたまるものか。もし山室が告白をためらっているなら、尻を叩いて、いますぐ心を決めさせる必要がある。そもそも娘を取り返す意志がなく、このまま笛吹の要求を無視するつもりなら、暴力に訴えてでも、強制的に改心させるしかない。

 神崎はあかりに目を向けた。

「パパの電話番号、わかる?」

 あかりはダウンジャケットの襟に手を入れた。首にかけたストラップを引っぱり、カードケースを手繰り出す。お気に入りのキャラクターなのだろう。魔法少女のシールが貼られている。

 里美がのぞきこむ。

「迷子札?」

 収納されていた二つ折りのカードをひらくと、丁寧な手書きの文字が並んでいた。住所や血液型に加え、父親と母親、それぞれの名前と連絡先が書かれている。住所は隣県のY市だ。

 神崎は携帯を取り出す。父親の番号を押そうとして指をとめた。携帯から発信すると、のちのち警察が介入する事態になったとき、発信者を特定される恐れがある。

 公衆電話の受話器を手に取った。交渉が長引く可能性を考えて、百円玉を多めに投入する。数字のボタンを押した。

 呼出音が耳の底に響く。ふと視線を上げると、何か邪悪なものに取り憑かれたかと思わせる、幽鬼じみた男の顔が、夜のガラスに浮かんでいた。神崎は思わず目をそらす。

 不機嫌そうな低い声が出た。

「──もしもし」

 神崎は受話器を持ち直す。

「山室さんか」

「誰だ、あんた」

「社会正義回復会の件で電話した」

 一瞬、沈黙があった。平静を装っているのか、男はことさら面倒そうに言う。

「笛吹ではないな。由奈か、もえの父親か」

「なぜ告白しない」

「あんたはしたようだな。誘拐犯の言いなりになって平気か」

「娘を取り戻したくないのか」

「取り戻したいに決まってる。だがそのために告白したら、おれを信用してくれた人たちの顔に泥を塗ることになる」

 それは神崎も同じだった。神崎が事実を公表したことにより、隠蔽を指示した幹部は地位を失い、会社自体も有形無形のさまざまな損失を被るだろう。しかし本当に失いたくないものが何か気づいたとき、神崎は迷いを振り切り、しがらみを捨てた。たとえ何百何千の恨みを買おうと、この世にたったひとりの、かけがえのない存在を救うと決めた。

「娘を取り戻すことより、自分の保身が大事か」

 山室は答えなかった。話をそらすように言う。

「おれに電話してきたってことは、あかりの迷子札を見たんだな。あかりはそこにいるのか」

 手のうちを明かしてしまっていいものかどうか迷ったが、この期に及んで勿体ぶっても仕方ない。神崎は腹をくくった。

「いる」

「娘をどうするつもりだ」

「すぐに告白しろ。要求に応じるまで娘を返さない」

「あんたはどっちの父親だ。由奈か、もえか」

「由奈だ」

「人質を取っておれを脅すわけか。あんたも誘拐犯と同じことをするんだな」

「ああ、そうだ。娘を取り戻すためなら、おれは何だってやる」

「おれが告白しても由奈が戻るとは限らない。社会正義回復会が解放するのは、もえの方かもしれない」

「おそらくそうだろう。あんたが告白して、あんたに由奈の居場所が伝えられたら、あんたとおれの、ふたりの間で人質の交換が成立してしまう。わざわざ三人の娘を誘拐した意味がない」

「それでもおれに告白しろと?」

「もえが戻ってくれば、もえの父親の連絡先がわかる。もえの父親が告白しないと言うなら、もえを人質にして、告白するまで脅す」

 山室は黙り込んだ。神崎の覚悟に気圧されているのかもしれない。やがて、観念したように言う。

「わかった。告白しよう」

 神崎は歓喜したが、声には出さない。

「フェイスブックか」

 山室は短く、ああ、と答える。

「フルネームは山室努だな? 投稿を確認したら、あかりをあんたの家に連れていく」

「いや。投稿するのは、あかりの顔を見てからだ」

「なんだと──」

 神崎は歯噛みした。この男は、この上まだごねるつもりか。「腹を決めたんじゃないのか」

「あんたが本物かどうかわからない。社会正義回復会のメンバーが、由奈の父親のふりをして告白を迫ってるのかもしれない」

「おれは本人だ。妻もここにいる」

「場所はおれが指定する。あかりをそこに連れてこい。それがフェイスブックで告白する条件だ」

「あんたは条件を提示できる立場じゃない。おれの考え次第で、あかりの運命が決まることを忘れるな」

「あんたも忘れない方がいい。おれが告白しなければ、由奈はブラックマーケットに売り飛ばされる。二度とあんたのもとに帰らない」

 神崎は言い返せなかった。妥協するしかないことを思い知る。

「場所を言え。どこだ」

 山室は少し考えてから、自分が住まうY市にある、中堅の倉庫会社の名前を言った。人員削減のため夜間警備員を置いておらず、この時間は無人になっているという。

 山室は付け足した。

「あんたも今や誘拐犯だ。人質の受け渡し現場を、人に見られたくないだろう」

 ふと、疑惑が頭をもたげる。

「そこに警察を待機させて、おれを逮捕させるつもりじゃないだろうな」

「それはない。おれは告白すると決めた。警察を使ってあかりを取り戻しても、社会正義回復会の要求を呑まないかぎり、いつまた誘拐されるかわからない」

 神崎は受話器を置いた。妻に状況を伝え、足早に車に戻る。里美は後部座席にあかりと並んで座り、不安そうな少女の肩を抱き寄せた。

 倉庫会社の住所を調べ、ナビに入力する。うつろな隧道と電話ボックスをあとにして、もと来た道を引き返す。

 家を出るとき十八時近かったので、すでに十九時を回っている。目的地に着くのは二十時過ぎになるだろう。移動時間がもどかしいが、今日中の到着が危ぶまれるほどの遠距離ではない。社会正義回復会は、あえて接触可能な三人をゲームの駒に選んだのか。すでに告白した者とまだ告白していない者がいがみあい、直接対決で決着を図る展開を期待していたとすると、神崎はまんまと彼らの手に乗せられたことになる。

 高速を飛ばしてY市に向かう。ルームミラーの中の里美は身じろぎしない。あかりの手を握りしめ、食い入るように夜道の先を見つめている。

 市街地の光の群れをいくつか過ぎた。無機質なナビの声に促されてランプを下る。町の中心部に向かう車の流れには乗らず、インターチェンジ近くの工業団地に折れた。

 昼の人口と夜の人口が大きく異なる地域なのだろう。無人の街路で、信号だけが色を変える。ゴーストタウンに迷い込んだような気分に陥りながら、そろそろと車を進める。

 門柱の銘板に、山室が告げた社名を見つけた。幅十メートルほどのトラックヤードをはさんで、シャッターの下りたスレート倉庫が、向かい合わせに並んでいる。すべての音を吸い取ってしまう濃墨色こ ずみ いろの夜空の下、防犯灯に白々と照されたアスファルトに人影はない。

 山室はまだ来ていないのか。市内からなら時間はかからないはずだが、一刻も早く娘に会いたいという親心はないのだろうか。それとも神崎がどんな人物か見定めるため、灯火とう かの明るみの外側から、じっと観察の視線を注いでいるのか。

 入口に門扉はない。すぐ内側にある守衛所はからっぽだった。神崎は車を乗り入れる。こちらを向いた防犯カメラが静かに威嚇していても、ここで引き返すわけにはいかない。

 ヘッドライトが突き当たりの壁を照らすところまで進んだ。がらんとした構内に、依然として動くものはない。山室の言葉どおり、警察が神崎を待ち受けていることはなかったものの、何か別の罠に嵌められたのではないかという不安がよぎる。

 もう一度山室に電話するため、携帯を取り出そうとしたときだった。

「あなた!」

 里美の叫びと同時に、運転席のガラスが砕け散った。神崎のこめかみを、首が折れるかと思うほどの衝撃が打つ。

 窓から差し込まれた手が、ドアロックのスイッチパネルに伸びる。力ずくであかりを取り戻すつもりか。神崎は痛みとめまいを振り払って、スイッチを探る指を殴りつけた。

 弾き飛ばしてやろうと、内側からドアに体をぶつける。襲撃者は飛びすさって身をかわした。車外に出た神崎と対峙する。

 がっしりとした体格の男だった。黒いニットの上に黒革のジャンパーを着込んでいる。扱いなれた得物のように、右手に大ぶりのバールをぶらさげていた。後部座席ではなく、運転席のガラスを破ったのは、破片があかりを傷つけることを嫌ったためか。

 神崎より前にここに来ていたらしい。倉庫と倉庫の間の暗がりに潜んで、襲撃のチャンスを狙っていたのだ。

 こめかみがずきずきと痛む。強化ガラスが衝撃を和らげてくれなければ、いまの一撃で致命傷を負っていたかもしれない。神崎は睨み据える。

「山室か」

 男は息を乱していない。底ごもりした、野太い声で言う。

「あかりを渡してもらおう」

「罪を告白したのか」

 男は答えなかった。答える意志さえないようだった。

「告白しろ。おまえが告白しないかぎり、絶対に娘は渡さない」

 男は思わせぶりに、ゆっくりとバールを持ち上げる。

「ならば、これで返してもらうしかないな」

 バールが空を切った。神崎の鼻先をかすめる。尻もちをつきかけ、かろうじて持ちこたえたところへ、逆方向から鉤爪が襲いかかる。神崎は武器になるものを用意してこなかった、おのれの迂闊さを呪った。

 山室は神崎をなぶっているのか。決定的な一撃を与えないまま、こけつまろびつ逃げまどう神崎を追い回す。思い切って懐に飛び込もうとすると、そのときだけバールの速度が上がる。

 いつのまにか車から引き離されている。もしやそれが山室の狙いか。悟ると同時に、神崎が焦りを覚えた矢先だった。

 倉庫のかげから人影が走り出た。視界のはしを横切り、開け放たれた運転席に飛び込む。神崎は血の気が引いた。車にキーを挿したままだ。

「あなた!」

 里美の叫びを掻き消してエンジン音が上がる。急発進した車は大きく旋回し、近づこうとする神崎を追い払った。遮るもののない出口に向かう。

「里美!」

 車ごとあかりを連れ去るつもりだ。里美を乗せたままでも、非力な女ひとりなら、あとでどうとでもなると考えたのだろう。悔しさが突き上げる。

 無駄と知りつつ車を追おうとする神崎めがけ、再びバールが襲いかかった。山室はもはや手加減せず、鉄の凶器を力まかせに振り回す。神崎に痛撃を加え、その隙に逃げるつもりだ。近くに自分の車を隠しているのだろう。

 そのとき、急ブレーキが響いた。奪われた車が蛇行し、あやうく守衛所に突っ込みかけて停まる。車内から罵声が聞こえた。

 里美が、後部座席から運転を妨害したのだ。ドライバーの隙をついて運転席の反対側のドアをあけ、あかりを抱え込むようにして転げ出る。呆気にとられている山室をその場に残し、神崎はふたりに駆け寄った。

 運転席の人影が外に出た。赤いマウンテンパーカーを着ている。女だった。事故を起こしかけたショックから脱し切れていないのか、ふらつきながら山室に近づく。セミロングの髪が乱れているのは、うしろから里美につかみかかられたためだろう。

「ママ!」

 あかりが女に走り寄ろうとする。神崎は肩をつかんで押しとどめた。数メートルの距離を置いて、山室と向かい合う。

「汚いぞ。告白するんじゃなかったのか」

「あかりを渡せ」

「告白しろ」

「おまえが告白した秘密が、おまえにとってどれほど重いものだったか知らない。だがおれの住む世界には、何があろうと絶対に破ってはならないルールがある。仲間うちの秘密を軽々しく口にすることは、おれの男としてのプライドが許さない」

 神崎はあかりの手首をつかんだ。片足が地面から浮くほど引っぱり上げる。苦痛に歪んだ唇から、驚きと恐怖の混ざった悲鳴が洩れる。

「あなた……」

 妻が制止しようとするが、神崎は力をゆるめない。山室をねめつけた。

「告白しろ。この子が痛い目を見るぞ」

 たまりかねて、あかりの母親が前に踏み出す。神崎はさらに腕を吊り上げた。あかりの悲鳴が絶叫に変わると、母親は打たれたように足をとめた。

 夫に目を向ける。

「もうあきらめましょう。あたしたちの計画は失敗したのよ。あんたが告白するしかないわ」

 山室は無視した。感情を読まれることを拒むように、冷酷さの仮面にすべてを隠して、無表情に神崎を見返す。

 先に痺れを切らしたのは神崎の方だった。ポケットからライターを取り出し、火をつける。

「いますぐ告白するんだ。言うとおりにしなければ、この子の顔を焼く」

 ふたりの女がそれぞれ息をつめて見守る中、どのくらい睨み合っていただろう。山室がふいにバールを捨てた。ほかに人のいないトラックヤードに、鈍い金属音が響く。

 ようやく告白する気になったのか。神崎は半信半疑で相手の出方をうかがう。山室はジャンパーの懐に手を入れた。

 フェイスブックをひらくつもりか。しかし山室が取り出したのは携帯電話ではなかった。神崎は我が目を疑う。一見おもちゃのように見えるそれは、黒灰色の拳銃だった。

 女が悲鳴のような声を上げる。

「馬鹿なの? そんなもので何をする気?」

 山室はスライドを引くと、銃口を神崎に向けた。おもむろに唇を動かす。

「娘を返せ」

 神崎は驚きから覚められずにいた。

「おまえ、正気か──」

「狂ってるのは社会正義回復会だ。そしてその狂った連中に、嬉々として踊らされてるおまえだ」

 山室の目と銃口は、神崎の上に固定されたまま動かない。神崎はあかりを抱き上げた。体のうしろに里美をかばう。

「撃ってみろ。あかりに当たるぞ」

 山室は動じていなかった。むしろ冷静さを増したように見える。女が「やめて」と叫ぶが、耳に届いているかどうかわからない。

「もう一度だけ言う。娘を返せ」

 射すくめられた小動物のように、神崎は身動きできなかった。危機を脱するすべを探すが、山室の目の中にその糸口は見つからない。

 これまでの行動を見るに、山室が娘を救いたいと思っているのは事実だろう。その気持ちの強さは、おそらく神崎のそれと変わらない。だがいま無人の夜闇や あんを背に、無言で立ちはだかる男の心身を支配しているのは、娘への愛情とは別の、もっと凶暴で刹那的な情動だ。およそ計り知るすべのない、暗く、禍々まが まがしいその正体は、神崎に屈服を突きつけられたことへの苛立ちか、あるいは過去の悪行を暴かれつつある者の自暴自棄か。愛する娘を奪われるくらいなら、いっそ自分の手で壊したいという、傲慢な独占欲──独りよがりの感傷か。いずれにせよ、山室という男がいま、破滅的な破壊衝動に身を任せようとしているのは疑いない。

 この男は撃つ──。戦慄とともに、神崎が悟った瞬間だった。

 女が両手でバールを振り回した。山室の後頭部に叩きつける。

 拳銃がアスファルトに落ちた。大柄な体が前後に揺らぐ。一瞬、踏みとどまるかと思わせたあと、うしろに傾き、どさりと倒れた。

「どうかしてる。娘に銃を向けるなんて」

 女は憐れむように付け加えた。

 

(つづく)