非通知の電話には出ないことにしている。どうしても連絡を取りたいなら、番号通知で架け直してくればいい。再び震えはじめた携帯を見て、神崎かん ざきは舌打ちした。また非通知だった。

 じきに妻子が帰ってくる。自宅マンションでのリモートワークとはいえ、時間が無限にあるわけではない。無視を決め込むつもりでいたが、緊急の要件かもしれないという懸念がよぎる。キーボードを叩く手をとめ、しぶしぶ携帯を取り上げた。

 こちらから呼びかけることはせず、相手が名乗るのを待つ。聞こえてきたのは中年の男とおぼしき、低く落ち着いた声だった。

「神崎たもつさんの携帯でよろしいでしょうか」

 何かの勧誘だろうか。反応がないことに動じたようすもなく、男は続ける。

「社会正義回復会の笛吹う すいと申します」

 聞いたことのない名前だった。組織の名称には胡散臭さしか感じない。切ってしまいたい衝動を抑えて、短く応じる。

「ご用件は?」

 男は意味ありげに間を置いた。沈黙が嘲弄を帯びたように感じたのは気のせいか。

「いま、由奈ゆ なちゃんと一緒にいます」

 虚をつかれてぽかんとする。どこの誰とも知れない男の口から、なぜ一人娘の名前が出たのかわからない。

「──どういうことだ」

「声をお聞かせします」

 男が立ち上がる気配があった。かすかなきぬずれが移動する。外部の音が届かない、隔絶された一室らしい。わざとらしいまでに優しい口調で、親密に語りかける。

「由奈ちゃん、パパだよ。お話しして」

 湧き起こる不安に心臓をつかまれ、息をつめる神崎の耳に、かぼそい震え声が聞こえてきた。

「パパ……」

「由奈? 由奈なのか?」

「パパ、おうちに帰りたい」

 思わず腰を浮かせる。

「どこにいる」

「わかんない。どこかのお部屋……」

「ママはどうした。一緒にいないのか。そこにいるのは誰だ」

 口を衝いて出る疑問に答えたのは、突き放すような男の声だった。

「あまり興奮なさらないでください。由奈ちゃんが怯えています」

「おまえは誰だ。由奈に何をした」

「何もしていません。ただ、誘拐しただけです」

 誘拐──。言葉の響きにめまいを覚える。幼い子供を持つ親にとって、常に心の片隅にわだかまる、拭っても拭い去れない懸念であるとはいえ、まさか現実の脅威として頭上に降りかかってこようとは、無防備にも今の今まで思わずにいた。

「由奈ちゃんを幼稚園に迎えに行ったあと、奥さんはその足で駅前のスーパーに行きました。お買い得デーの水曜日に、食品のまとめ買いをすることが多いようですね。精肉売り場で商品を吟味している隙に、配下の者が由奈ちゃんを連れ去りました。買い物客で賑わっていましたが、それが幸いして、すんなり人込みに紛れることができたようです」

 まだ我が身に起きた出来事とは信じられない。焦燥と怒りが、じわじわと胸腔に広がる不快感だけがあった。

「奥さんを責めないであげてください。人間どんなに注意していても、うっかり目を離してしまう瞬間はある」

 妻はどうしているのだろう。問いただす前に、男が先回りして答えた。

「娘がいないことに奥さんはすぐ気づきました。パニックに陥りかけていましたが、騒ぎになる前に私から電話してあります。これからご主人に連絡するので、独断で警察に通報するような、早まった真似をしないように、と」

「何が望みだ。金か」

「金ではありません。今後の活動資金を調達したいのは山々ですが、神崎さんにご提供いただこうとは考えておりません」

「望みを言え」

 抑えきれず声を張り上げた神崎に、男は宣告を下すように言った。

「社会正義の回復です」

「どういうことだ」

「いまの世の中、納得の行かないことばかりだと思いませんか。特権意識を隠そうともせず、不正を告発されても権力の座に居座りつづける国会議員。私腹を肥やすことに汲々とし、労働者を搾取の対象としか考えていない経済人。権力に取り込まれ、ジャーナリスト魂を放擲ほう てきしたばかりか、権力側のプロパガンダを垂れ流す新聞記者。巨悪に立ち向かうポーズを取ってみせるものの、自らの出世や保身のために、為政者の悪行に目をつぶる検察官」

「それと由奈に何の関係がある」

 男は神崎の問いを無視して演説を続けた。

「我々が望んでいるのは、罰を受けるべき人間が正しく処罰される世の中です。叶うことなら国の中枢に巣くう不逞のやからを一掃したいところですが、しがない一般市民の我々には、どこをどう攻めたらいいのかわからない。あまり功を焦らず、まずは自分たちの手の届く範囲から始めることにしました」

「おれに何をしろと」

「神崎さん。あなたはかつて、人として許されざる罪を犯した。それを公表してください。世の人々の厳しい批判に身をさらすのです。あなたの社会的生命と引きかえに、由奈ちゃんをお返しします」

「おれが何をしたと」

「私に尋ねるまでもないでしょう。あなたご自身が一番よくわかっているはずです」

 人生において、一片の罪悪感も抱いたことのない者がいるだろうか。心当たりを押しのける。

「何を言ってるのかわからない」

「難しいお願いではありません。神崎さんはフェイスブックのアカウントをお持ちですね? あなたが過去に犯した罪を、タイムラインで告白してください。懺悔の必要はありません。あなたが本当はどんな人間なのか、あなたのご家族やご友人、お仕事の関係者に伝われば十分です」

「おまえは何者だ。おれに恨みでもあるのか」

「我々は、明るみに出ないまま闇に葬られようとしている悪事の情報を収集しています。メンバーのひとりである法曹関係者の情報網に引っかかり、神崎さんの過去の行いを知るに至りました。できることなら我々の手で世の中に知らしめたいところですが、残念ながら、決定的な証拠を得られなかった。あなたの罪を立証するには、あなたご自身による秘密の暴露が必要なのです」

「おれには秘密なんかない」

「無駄な議論はやめましょう。あまり時間もないことですし」

「どういう意味だ」

「勝手ながら、告白のタイムリミットを設けさせていただきます。今日の深夜、二十四時」

 神崎は思わず時計を見た。残された時間は、八時間あまり──

「それまでに要求が聞き届けられなかった場合、あなたは娘さんと再会する機会を永遠に失います」

「由奈をどうするつもりだ」

「さすがに命を奪いたくはありません。かといって我々が一生面倒を見るいわれもないので、サーカスに売り飛ばそうと考えています」

「サーカス?」

「我々がそう呼んでいるだけで、本物のサーカスではありません。行き場のない子供たちを集めて、正規の方法では養子を持てない人々に、有償で斡旋している団体です」

 人身売買を生業とする、違法な地下組織ということか。

「ご心配には及びません。子供を使い捨ての労働力や性奴隷としか考えていないような、非倫理的な相手とは取引しない方針だと聞いています」

 怒りの塊が咽喉のどをふさぐ。神崎は呻き声を発することしかできなかった。

「警察に通報なさいますか。神崎さんがそうしたいとおっしゃるなら、あえて留め立てしませんが、タイムリミットまでの貴重な時間を、公務員のお役所仕事に奪われる。まだるっこしい事情聴取につきあわされる上、捜査の主導権を握られます。我々が何を要求しているかわかれば、警察もあなたの過去に興味を持つでしょうし、どのみち秘密を打ち明けざるを得なくなる」

「由奈を返せ」

「それは神崎さん次第です。きっと由奈ちゃんも、パパやママともう一度会いたいでしょう」

「ふざけるな」

「先程申し上げたとおり、手荒な真似はしていません。その点はご安心いただいて結構です。大丈夫、由奈ちゃんはひとりぼっちじゃない」

 意味がわからず戸惑っていると、携帯が別の誰かの手に渡る気配があった。かたわらで男の声が促す。

「さあ、おじさんとお話しして」

「もしもし……」

 蚊の鳴くような、おどおどした声だった。由奈とは別の幼い女の子だ。

 男の声が尋ねる。

「お名前は?」

「やまむろ、あかり……」

「どうもありがとう。じゃあ次は、もえちゃん」

 携帯が別の誰かに手渡される。

「もえちゃんはいくつかな?」

「五歳……」

「由奈ちゃんと同い年だね。どうもありがとう」

 何が行われつつあるのか見当がつかない。神崎は詰問した。

「どういうことだ」

 再び携帯を手にした男の声は、あいかわらず落ち着き払っている。

「由奈ちゃんを含め、三人の女の子を同時に誘拐しました」

 理解が追いつかず、言葉を失う。

「三組の実行役が、それぞれの現場でひとりずつ誘拐しました。成功してほっとしています。入念に対象者の行動調査を行った結果ですね」

「何をしようとしている」

「あかりちゃんのパパともえちゃんのパパにも、神崎さんにお伝えしたのと同じ要求を伝えてあります。過去の罪の告白です」

「その人たちは何者だ」

「神崎さんと直接的な接点はありません。我々がこつこつと作り上げた、未懲罰の罪人リストにお名前が挙がっていた方々です」

「なぜ三人同時に誘拐を」

「疑問に思われるのももっともです。ではここで、今回の取引のルールを説明しましょう」

 男はルールと言った。誘拐という重大な犯罪も、男にとっては単なるゲームに過ぎないということか。

「我々は三人のパパに罪の告白をお願いしました。要求が聞き入れられれば、タイムリミットを待たず、速やかに娘さんをお返しします」

 一方的な条件で到底納得できないが、沈黙で不同意を示して先を促す。

「神崎さん、あかりパパ、もえパパ──三人全員が告白を行えば、娘さんたち三人を全員お返しします。ただし告白に応じたのがふたりだった場合、お返しする人質はふたり。ひとりだった場合は、ひとり」

 思わず異議を唱えようとした神崎を遮り、男は続ける。

「神崎さんが告白を行えば人質がひとり解放されることになりますが、それは必ずしも神崎さんご本人の娘とは限らない。あかりちゃんかもしれないし、もえちゃんかもしれない」

 顔も知らぬ男のうすら笑いが目に浮かぶ。煮えるような憎悪を掻き立てられる一方、悪意そのものと対峙しているような、戦慄に似た寒気を覚える。

「神崎さん以外にもうひとり──あかりパパ、もしくはもえパパが告白を行えば、それによって由奈ちゃんが解放される可能性もありますが、確実に由奈ちゃんを取り戻すためには、三人全員が告白を行う必要がある」

「なぜそんな──」

「ややこしいことをするのか、そうおっしゃりたいのでしょう? 私もそう思います」

「だったら、なぜ」

「父親なら、娘を人質に取られれば一も二もなく要求に応じる。我々もそう考えて誘拐の計画を立てたのですが、いざ実行してみると、その前提を覆されることがある。要求が無視されるのです。一部の父親は娘の身の安全より過去の悪事の隠蔽──つまり、自分自身の保身を優先するらしい」

 話がどこに向かっているのか見えない。男の目的は、神崎をひたすら翻弄することなのか。

「そこで我々は、罪の告白に応じなければ、第三者の娘が犠牲になるルールを考えました。自分の娘を切り捨てることができる人物なら、他人の娘など何のためらいもなく見捨てるでしょう。ただ、そのことが公になった場合、世間から受ける風当たりの強さは、自分の娘を犠牲にしたときの比ではない。おのれの保身を第一に考える人物にとって、社会的評価の下落は、大きなダメージになるだろうと考えました」

 男の悠然とした口調からは、罪の意識も良心の呵責も感じられない。自分の行動の正当性に、一分いち ぶの疑いも抱いていないようだった。

「三人同時誘拐には、もうひとつメリットがあります。もし誰かが告白を拒否したために由奈ちゃんが帰ってこないようなことになったら、神崎さんはその誰かをそのままにしておかないでしょう。ご自身の手で制裁を加えようとするのではないですか。我々がじかに手を下すまでもなく」

 嫌悪と反発、焦慮で混乱する神崎に、ほがらかでさえある調子で言う。

「神崎さんは要求を聞き入れてくださいますね? 自分の娘を平気で見殺しにするような、見下げ果てた人非人ではないと信じています」

「社会正義の回復が望みだと言ったな。子供を人質に取って、恐怖で人を従わせるのが正義なのか」

「すべての子供は人質です」

 男は自明のことのように言った。意味がわからず、苛立ちを禁じ得ない。

「何を言ってる」

「神崎さんが労働や納税など、社会から課せられた厳しい義務を果たしていらっしゃるのは、ひとえにお子さんを守るためではないですか。もちろんご自身の生活を維持するためでもあるでしょうが、ときに過重とも言える社会の要求に応じているのは、お子さんに人並みの暮らしをさせたいとか、明るい未来を生きてほしいという、切実な願いからではないですか」

 反論できずに口をつぐむ。反論すべきこととも思われなかった。

「この社会はもともと、子供を人質とした、不公平な取引によって成り立っているのです」

 玄関で気配がした。鍵がもどかしげにかちゃかちゃ鳴る。転がり込んだ足音は、おたおたと神崎の部屋に近づく。

 ドアがひらいた。息を切らした里美さと みの顔は、かつて見たこともないほど青ざめている。

「あなた、由奈が──」

 男の声は冷静さを崩さない。

「奥さんがお戻りになったようですね。ご相談なさりたいこともおありでしょうし、私はこれで失礼します」

「待て。由奈に替われ」

「それはできません」

「替われ」

「あなたが私に要求することはできません。あなたに許された権利は、私の要求に応じることだけです」

「由奈!」

 神崎は叫んだ。せめて自分の声を娘に届けたかったのだ。しかし別の場所に連れ去られたあとなのか、返事はおろか、すすり泣きさえ聞こえない。

 男は、何事もなかったかのように言う。

「では失礼します。次にお電話を差し上げるのは、深夜二十四時、タイムリミットを迎えたときとなるでしょう」

「待て!」

 電話が切れた。神崎はただ立ち尽くし、沈黙した携帯を見つめることしかできなかった。

 固唾かた ずを呑んで会話を見守っていた里美が袖にすがる。

「由奈は、由奈は無事なの?」

「ああ。声を聞いた」

「どこにいるの。電話の相手は誰?」

「わからない──」

「どうしてこんなことに」

 神崎は妻を睨み据えた。

「なぜ目を離した」

 色を失った里美の顔が凍りつく。

「いつ、どこに変質者が潜んでるかわからないから、絶対に由奈から目を離すなと言っただろ」

「ごめんなさい、私……」

 続けて怒りをぶつけようとして、神崎はかぶりを振った。ただでさえ狼狽している妻を、さらに追いつめても何の解決にもならない。

 努めて冷静に説明する。

「犯人は社会正義回復会の笛吹と名乗った。女の子を三人、同時に誘拐したらしい」

 理解が及ばないのだろう。妻はきょとんとした顔をする。笛吹から告げられたとき、神崎も同じ表情を浮かべていたに違いない。

「頭がおかしい。誇大妄想に取り憑かれてるとしか思えない」

 我に返った妻が、勢い込んで言う。

「警察に連絡しましょう」

 やはり、それが一番賢明かもしれない。笛吹が異常な論理に基づいて行動しているなら、素直に要求に応じたところで、由奈が帰ってくる保証はない。

 そのとき、手の中の携帯が小さく震えた。メール着信の通知だった。

 社会正義回復会からのお知らせ、というタイトルがつけられている。驚きとともに急いでひらくが、本文はない。画像ファイルが添付されているだけだった。

 一瞬ひやりとしたのは、由奈が置かれている状況を写真で知らせてきたのかと思ったからだ。ファイルをひらいて困惑する。無名の一般ユーザーによる、インスタグラム投稿のスクリーンショットだった。

 写真はなく、文章のみの投稿だ。cyclist_kというアカウント名を見て思い出す。神崎はその内容を知っている。三ヶ月ほど前、マスコミを巻き込んで大炎上した投稿だ。

 ロードバイクに乗ることを趣味としている人物らしく、アイコンは愛車の画像、投稿はツーリング先で撮った景勝地や路傍の草花、ご当地グルメの写真が中心だった。ところがその無害なはずのアカウントがある日突然、「ご報告」と題して重大な告白を行った。自身が代表を務める設計事務所が市の公共工事に応札する際、事前に予定価格の情報を入手するため、職員に顔のきく市議会議員に金品を贈ったというのだ。当初はごく限られた数のフォロワーに動揺をもたらしただけだったが、投稿内で議員の実名や受け渡し時のやりとりなど、具体的事実が詳細に明かされていたことにより、暴露は加速度的に拡散した。前々から囁かれていたという汚職の噂に目をつぶっていた警察も、過熱する世論に尻を叩かれ、地元の名士である議会の長老の逮捕に踏み切った。贈賄の容疑者として、複数の部下を道連れにcyclist_kも逮捕され、神崎はテレビのニュースで、彼の本名が津村啓太郎つ むら けい た ろうであると知る。前で合わせた両手を布で隠し、悄然と警察車両に乗り込む炎上インスタグラマーは、自分と同じ年恰好の、切れ者ビジネスマン風の男だった。身柄を検察に送られた老議員は頑として容疑を認めず、いまも司法との泥仕合を続けているが、津村はすでに腹をくくっていたのか、逮捕直後から従順に供述を行い、勾留を延長されることなく保釈されている。

 社会正義回復会は、なぜこの投稿を送りつけてきたのだろう。神崎にも津村と同じように、自らの罪を潔く告白せよと迫っているのか。投稿を行った当初こそ、権力に取り入り、税金を食い物にしようとしたとして、津村は痛烈な批判を浴びせられたが、口をつぐんでさえいれば露見しなかったはずの秘密をあえて公表したことが評価され、人々の見方は次第に好意的なものへと変化した。いまならまだ、完全に社会的生命を絶たれずに済む道が、神崎にも残されていると伝えているのか。

 しかしなぜ、津村は突然告白を行ったのだろう。世間で信じられているように、おのれの良心に突き動かされたがゆえの行動だったのか。何者かに弱みを握られ、その命令に従わざるを得ない状況に置かれていたのではないか。

 cyclist_kのアカウントはおそらく本人によって削除され、もはや過去の投稿を確認するすべはない。だが炎上時に興味本位でのぞきに行った神崎は、プロフィール欄の一文を覚えていた。短い自己紹介の最後に、「一児の父。」と添えられていた。

 神崎は娘の無事と引きかえに、過去の秘密を公表することを求められている。津村も同じ要求を突きつけられたのではないか。娘──もしくは息子──を人質に取られ、SNS上での罪の告白を余儀なくされたのではないか。

 社会正義回復会が津村の投稿を送ってきたのは、自分たちの要望が叶えられた実例を、神崎に見せつけるためではないだろうか。くだんの贈収賄事件に関わった者たちはことごとく逮捕され、まだ量刑を言い渡されてはいないものの、議員や会社代表という社会的地位を失った。罰を受けるべき者が正しく処罰される世の中──社会正義回復会の理想が、ひとつ果たされたことになる。

 津村の子供が行方不明になっているというニュースは聞かない。津村が要求に応じたので、社会正義回復会は子供を親のもとに返したのだろう。自分たちは約束を守る集団であると示すことも、このメールの目的なのかもしれない。

 ふと疑問が浮かぶ。子供を取り戻すことができたのなら、津村にはもう、誘拐犯を恐れる理由はないはずだ。社会正義回復会から受けた脅迫行為を、なぜ警察に訴え出ようとしないのか。すでに水面下で捜査が進められている可能性もなくはないが、津村の突然の告白の背後に、謎の犯罪集団による誘拐事件があったことは、一般市民に知られていないどころか、まったく報道されていない。子供をさらわれ、永遠に失うかもしれない恐怖にさらされた、同情すべき父親であったとなれば、炎上時の世論の風圧もいくぶん和らいだはずなのに、津村は口を閉ざしたままでいる。

 もしや、津村の告白と社会正義回復会は無関係なのではないか。誘拐による自白の強要という、自分たちの活動が成果を出しているように見せかけるため、巷で話題になった贈収賄事件に便乗しただけではないか。

 そもそも社会正義回復会などと自称する、異様な団体が存在することからして信じられない。現に娘を誘拐され、同時に誘拐されたらしいふたりの少女の肉声を聞かされたのでなければ、すべては笛吹と名乗る、ひとりの異常者の妄想に過ぎないと考えていただろう。

 メール着信の通知が届く。画面を見ると、またしても「社会正義回復会からのお知らせ」だった。

 今回も本文はない。添付されている画像ファイルをひらく。

 新聞記事の切り抜きだった。一通目の汚職事件に関連したものかと思いきや、まったく別の事件を扱った記事らしい。文面を目でたどるうちに、神崎はそのニュースを思い出した。

 半年ほど前のことだ。発生したのは郊外線の沿線に広がる、田園都市の住宅街。地域の小学校に通う十二歳の女児が、忽然と姿を消した。

 夕方、母親は家にいた女児に、近所の公園まで弟を迎えに行くよう頼んだ。友達とカードゲームに興じていて、たびたび帰りが遅くなる。女児は快く引き受けたが、あたりが暗くなりはじめても一向に戻らず、胸騒ぎを覚えた母親がようすを見に行こうとしたところ、弟がひとりで帰ってきた。どこで行き違ったのか、姉とは会っていないという。

 母親は思いつく先をすべて捜したが、どこにも娘の姿はない。事件に巻き込まれたのではないかという不安が募る。警察に通報し、捜索を依頼した。もともと不審者情報の多い地域であったことから、直ちに相当数の人員が投入されたものの、目撃者はなく、女児の行方はようとして知れない。車に連れ込まれたのか、警察犬も足取りを追えなかった。

 身代金目的の誘拐なら、犯人側から接触があるはずだ。しかし日付が変わっても動きがなく、警察は公開捜査に踏み切った。社会正義回復会からのメールに添付されていた翌日の新聞記事には、女児の名前と顔写真、失踪時の服装のイラストが掲載されている。

 その後、女児が保護されたというニュースは耳にしていない。依然行方不明のままなのだろう。神崎は報道番組の映像を思い出した。女児の両親が駅頭に立ち、行き交う人々に情報提供を呼びかけるビラを配っていた。マイクを向けられた母親が、嗚咽を堪えながら必死に協力を求める姿を見て、同じ親として居たたまれない気持ちになったのを覚えている。

 社会正義回復会は、どういう意図でこの記事を送ってきたのだろう。件の女児の誘拐も、自分たちのしわざだと言いたいのか。女児の父親に対しても、交換条件として罪の告白を要求したのか。

 しかし、父親が悪事に携わっていたという情報は伝えられていない。子供の失踪事件が起きたときの常として、家族に疑惑の目をむける向きもないではなかったが、マスコミは基本的に、突然災難に見舞われた不運な一般市民として、同情的に扱っていた。犯罪行為を告白した津村のように、世間から激しいバッシングを浴びせられることもなかったはずだ。

 笛吹の言葉を思い出す。かつて要求を突きつけた父親の中には、娘の身の安全を差し置いて、自分自身の保身を優先する者がいたという。この行方不明女児の父親こそ、その冷血な、親としての情愛を欠いた人物なのか。

 神崎はニュースの映像を思い返した。いまとなっては父親の顔も身なりも思い出せない。とりたてて特徴のない、中肉中背の中年男ではなかったか。妻とともに街頭でビラを配る姿は、間違いなく視聴者の哀れを誘うものだったが、あのときの悲痛なまでの懸命さは、世間の目をくらますための芝居だったのか。娘を人身売買組織に売り飛ばすと脅されながら、誘拐犯の要求を突っぱね、ひたすら自らの過去の秘密を守ることだけを念頭に、警察はおろか妻さえも欺いて、一心に娘の無事を願う、悲劇の父親を演じていたのか。

 社会正義回復会による二通のメールの意味がわかった。一方は要求に従い、無事に人質を取り戻したケース。もう一方は人質を見捨て、そのかわり自身の社会的地位を守ったケース。どちらのルートを進むのか、神崎に選択を迫っているのだ。

 携帯を手にしたまま黙り込んだ神崎を、妻が不安げにのぞきこむ。

「そのメールは何なの」

 神崎は言葉につまった。どこから説明したらいいのかわからない。神崎自身、まだ気持ちの整理がついていなかった。

 

(つづく)