「クズだってことは知ってたけど、ここまで救いようのないクズだったとは」

 神崎の腕の中であかりがもがいた。抱えている意味を見失って地面に下ろすと、母親のもとへ一目散に走っていく。

「ママ!」

 女はひざまずいて受け止めた。自分の中に取り込んでしまいたいかのように、幼い体を抱きしめる。

「怖かったね。ごめんね」

 神崎は山室に近づいた。ひらいたままのひとみは宙に据えられ、まばたきしない。脈を見るまでもなく、こときれている。

 山室は死んでしまった。たとえ本人が心を入れ替えても、もう罪を告白することはできない。異様としか言いようのない、この想定外の事態は、一体何を意味するのだろう。由奈を取り戻す手立てが、永遠に失われたということか。

 神崎の戸惑いを察したのか、胸に娘を抱いたまま女がつぶやく。

「社会正義回復会とかいう連中は、この人の社会的生命と人質を引きかえにしようとしたんでしょ? この人は死んだ。社会的生命どころか、生命そのものを失った。人質を返す条件は満たされたはずよ」

 そうであってほしいと思いつつ、神崎には女の言葉を信じることができなかった。社会正義回復会の思考は、おそらく彼らと狂気を共有する者にしか理解できない。

「あなた、あれ──」

 声に振り向く。妻の視線の先を見た。

 暗い道路を背にして、門柱と門柱の間に小さな影が立っていた。幼稚園の制服のブレザーを着ている。その心もとなさに引き寄せられるように、里美がふらふらと近づいた。神崎もあとを追う。

 短いボブが愛らしい、目のくりくりした少女だった。ここまでひとりで歩いてきたとは思えない。車で運ばれ、神崎が山室の死に気を取られている隙に、門前に放置されたのだ。

 里美が膝を折って、いたわるように少女の背中に手を置いた。神崎は目線を低くして尋ねる。

「きみは、もえちゃん?」

 おずおずと少女がうなずく。

「見せてもらっていい?」

 もえは、あかりと同じように首からカードケースを下げていた。迷子札なら連絡先がわかる。神崎が中身を取り出そうとしたときだった。まるでセリフを暗唱するように、少女が明瞭な発音で言う。

「もえのパパは告白した」

 思わず妻と顔を見合わせる。神崎が告白してあかりが帰ってきた。告白はしていないものの、山室が命を差し出してもえが帰ってきた。もえの父親が告白したのなら、由奈が帰ってくるはずだ。

 山室の死体のかたわらで、女が言う。

「その子は、もえちゃん?」

「ええ」

「父親と連絡が取れれば、由奈ちゃんの居場所がわかるのね?」

「おそらく」

「行って。ここのことはいいから」

「でも──」

「大丈夫、警察を呼ぶわ。後始末は自分でする」

「──ご主人のことは残念でした」

 女はすがるように娘を抱きしめ、お団子に結った髪に頬をすりよせた。

「私は、この子さえ無事ならいい……」

 神崎は車に戻った。割れ残ったガラスをドアから払い落し、妻と少女が後部座席に収まるのを待って発進する。もえの父親とすぐにも連絡を取りたいが、警察が大挙して乗り込んでくるなら、その前にここを離れなくてはならない。

 来た道を戻る。全開の窓から十一月の夜気や きが吹き込んで、乱闘の汗を吸った衣服をみるみる冷やす。暖かい場所にいるところを拉致されたのか、もえは園服の上に何も着ていない。里美はツイードのハーフコートを脱ぐと、少女の首から下を覆った。優しく語りかけて不安を取り除こうとするものの、こわばった表情でうなずくばかりで、はかばかしい反応は得られない。

 神崎は自分のしたことを思い出した。山室に告白を迫るためとはいえ、あかりが悲鳴を上げるまで腕を吊り上げ、あまつさえ顔を火で焼こうとした。もし自分の娘が同じことをされたら、その相手を生かしてはおかないだろうと思うほどの、非道く、浅ましい所業だった。

 cyclist_kこと津村啓太郎の投稿を読んだとき、頭にひとつの疑問が浮かんだ。社会正義回復会から人質を取り戻すことができたのなら、なぜ警察にすべてを話して、誘拐犯を逮捕してもらおうとしないのか。あかりに酷い仕打ちをした自分に、おのれの本性を見せつけられたばかりの、いまの神崎にはよくわかる。おそらく津村も、ほかの父親に告白を迫る際、幼い子供に無慈悲な暴力を加えたのだろう。自分自身も誘拐犯と同じ卑劣な行為に及んだなら、何の罪悪感も羞恥もなく、被害者面で他人を告発できるはずがなかった。

 工業団地を抜けた。脇道に入って、人目につかない場所に車を停める。最前まで走っていた道を、パトカーのサイレンが逆方向に駆け抜ける。

 もえから預かったカードケースの中の迷子札を取り出した。連絡先が書かれている。父親の名前は、君島治。

 里美が言う。

「この人が告白したなら、由奈は帰ってくるわね?」

 神崎が告白したときと同じように、人質の居場所の座標を知らされているはずだ。

「由奈にも迷子札を持たせてある。この人が由奈を保護してくれたなら、私たちの連絡先がわかるはずよね? なぜ電話してこないの」

 場所を知らされてはいても、まだ現地には行っていないということか。社会正義回復会から三通のメールを受け取ったあと、神崎は一時間と経たぬうちに告白を行ったが、君島氏がなかなか罪の公表に踏み切れなかったとすると、そのぶん座標を受け取るのも遅くなる。これから由奈の保護に向かうところか、もしくは向かっている途中かもしれない。

 考えていても時間の無駄だ。本人に聞いてみるしかない。神崎は、迷子札に書かれた携帯番号に電話した。

 見知らぬ番号からの着信を警戒したのだろうか。呼出音が十回ほど繰り返されたあと、ようやく男の声が出た。

「君島治さんですね?」

「──そちらは?」

「神崎といいます。由奈の父親です」

「由奈ちゃんの……」電話ごしに、君島が息を呑むのがわかった。「じゃあ、もえは──」

「保護しました。ここにいます」

 替わってください。君島は叫ぶように言う。神崎は携帯をもえに渡し、パパだよ、と告げる。

「もえ! もえ!」

 娘に呼びかける声が洩れ聞こえた。もえは小さく「うん」とだけ答える。

「ケガしてないか? いやなことされなかったか?」

「無事なのね? よかった──」

 君島の背後で、女が声をつまらせる。もえの母親だろう。

 神崎はもえの手から携帯を引き取った。

「由奈の居場所がわかりますか」

「フェイスブックに告白文を投稿したあと、ショートメッセージで座標が送られてきました」

「教えてください。迎えに行きます」

 君島は無言になった。何やら思考を巡らせているらしい沈黙のあと、反応をうかがうように言う。

「神崎さんにお願いしたいことがあります」

 不穏なものを感じつつ、次の言葉を待つ。

「あなたの車で、もえをうちに連れてきてもらえませんか」

 神崎は即答できなかった。

「こちらから迎えに行きたいのは山々ですが、私はいま、マンションの外に出られない状況なのです」

 監禁でもされているのかと問うと、そのようなものです、と答える。

「もえを連れてきてくださったら、そのとき座標をお教えしましょう」

 山室に交換条件を提示され、それを呑んだために予期せぬ暴力沙汰に巻き込まれた。今度もその二の舞ではないかという懸念がよぎる。しかし山室と違い、君島はすでに告白を済ませている。神崎を騙す理由があるとは思えない。

「わかりました。迷子札の住所でいいですね?」

 君島は、はい、と答えたあと、神妙に言う。

「よろしくお願いします」

 神崎は携帯をしまい、車を出した。再び広い道に出る。町はずれのインターチェンジに急ぐ。

 時刻は二十一時を回ったところだった。ラッシュのピークを過ぎて、Z市に向かう高速はスムーズに流れている。ナビに従ってはいるものの、果たして自分はいま、目的地への正しいルートに乗っているのだろうか。状況に踊らされるまま、あてどなく異郷の夜をさまよっているような気がしてならない。窓に浮かぶ、無数の光点を追い越した先に、誰より恋しい由奈との再会が、本当に待っているのか。

「なぜ、私たちが倉庫会社にいるとわかったのかしら」

 後部座席で里美がつぶやく。

「山室が教えたとは思えない。社会正義回復会は、どうしてあの場所にこの子を連れてくることができたの?」

 言われてみればその通りだった。もしや自宅のマンションを出たときから、もえを乗せた車に尾行されていたのだろうか。ふと思い至る。

「その子のポケットに何か入ってないか」

 里美は「ごめんね」と断ってから、もえの園服のポケットを探った。小さく驚きの声を上げる。出てきたものを、神崎の手のひらに置く。

「これは──」

 コイン型のGPSトラッカーだった。ひとりで出歩く年齢になったら、由奈にも持たせようと思っていたものだ。解放後も追跡を続けるため、社会正義回復会がポケットに忍ばせたのだろう。

「あかりもこれを持たされてたんだ」

 敵のぬかりなさに腹が立つ。神崎はGPSを窓から投げ捨てた。

 ネオンの星団をいくつ通り過ぎただろう。見知らぬ出口で高速を降りる。信号をひとつ抜けるたびに沿道の明かりが多くなり、やがて整然と区画整理された、駅前の再開発地域に入った。星のない、黒塗りの夜空に食い込むように、ガラス張りのオフィスビルや集合住宅が立ち並ぶ。

 目的の建物に着いた。ひときわ目を引く、新築の高層マンションだ。君島は四十九階に入居している。敷地の外周を進んで、広い前庭の前に車を停めた。植栽の若木がライトアップされ、石のモニュメントを水が伝い落ちている。奥にモダンなメインエントランスが見えた。

 携帯に電話する。

「着きました」

「遠隔でゲートをひらきます。地下駐車場に進んで、来客用のスペースに停めてください。本来は駐車許可証が必要ですが、短時間なら問題ないでしょう。地下通用口から住居棟に入ってください」

「あなたの部屋まで来いと?」

「通用口のインターホンを押してください。オートロックを解除します」

 君島は付け足した。

「なるべく人目につかないようにしてください。特にもえの姿を、誰にも見られないように」

 地下に続くスロープを下って、指示された場所に車を停めた。コンクリートの広大な空間を見渡すと、国産・外国産を問わず、上位クラスの車両が目につく。視界のはしを人影がかすめて、柱のかげに滑り込んだように見えたのは気のせいか。足早に通用口に向かう。

 エレベーターで49階に上がった。番号をたどり、目当ての部屋を見つける。チャイムを鳴らすまでもなく、内側から扉がひらいた。今か今かと、ドアスコープをのぞいていたのだろう。

「もえちゃん!」

 ママ! と叫んで、少女が玄関に駆け込んだ。両手を広げた女性の胸に飛び込む。

「怖い思いをさせてごめんね。お迎えを人に頼んだママがいけないの」

 神崎と里美は、広い三和土たたきに足を踏み入れた。小卓に品よく飾られた白い生花が、余裕のある暮らしぶりをうかがわせる。

 涙にくれる母子を抱擁していた男が立ち上がる。神崎に右手を差し出した。

「君島です。何とお礼を申し上げていいかわかりません。娘を救っていただいて」

 神崎は儀礼的に握手を返す。挨拶を省いて本題に入った。

「由奈の居場所を」

「ショートメッセージで座標が届いています」

 そう言いながら、君島は携帯を取り出そうとしない。

「厚かましいのは重々承知ですが、神崎さんにお願いしたいことがあります」

 神崎はじれったさを抑えて先を促した。

「我々を車で○○駅まで送ってください。空港に行きたいのです」

 見ると大きめのキャリーケースが二台、かたわらに並んでいる。

「言われたとおり、娘さんをここまで連れてきた。この上、まだおれを働かせようと?」

「社会正義回復会に脅され、タイムラインで過去の行いを告白した。騒ぎになるだろうとは思っていましたが、まさかここまで拡散のスピードが速いとは──。私に説明を求める関係者が、一階の入口に詰めかけています」

 君島の言葉は嘘ではない。マンションの前に車を停めたとき、エントランスの前室にたむろする、苛立たしげな人影を見た。君島が話す間にも、インターフォンの呼出音がくりかえし響く。

「自分の車で脱出できればいいんですが、私がどんな車に乗っているか知っている者もいる。不法侵入で通報されたくないでしょうから、駐車場の中で張り込んでいることはないと思いますが、公道に出たところで行く手を阻まれるでしょう」

 君島が過去に何をしたか知らない。しかしその行為がどれほど苛烈な怒りを招くものか、本人はよくわかっているのだろう。これまでの生活を捨てる覚悟を決め、海外に高跳びしようとしているのかもしれない。

「座席で身を伏せています。なんならトランクの中でもいい。我々をあなたの車で連れ出してください」

 神崎にとっても他人事ひ と ごとではなかった。投稿を見た知人から電話やメールが殺到しているであろうことを思うと、着信履歴を確認することさえ恐ろしい。だがこの状況下、自分の社会的信用や今後の人間関係の心配に、一体どれほどの意味があるというのか。それよりはるかに切実な懸念がある。

「そちらの事情につきあってはいられない。早く、由奈の居場所を」

 君島は正面から神崎を見返した。

「それはできません」

「──なんだと?」

「わかってください。私も必死なのです。駅まで送り届けていただけたら、すぐに座標をお教えします」

「ふざけるな」

 神崎は君島の胸ぐらをつかんだ。壁に押しつける。

「いますぐ教えろ」

 君島は抵抗しなかった。首を締め上げられながら、冷ややかに神崎を見下ろす。

「こんなことをしている間に、私の言うとおりにした方が賢明ですよ。一刻も早く、由奈ちゃんを取り戻したいのでしょう?」

 怒りが収まらず、神崎は君島を睨み据えた。殴りつけてやろうとして、いさめるような妻の視線に気づく。ポロシャツの襟から手を放した。

「わかった。駅に送るだけでいいんだな?」

「ご厚意に感謝します」

 玄関を出て、そそくさと廊下を進む。君島の妻がもえの手を引き、君島が二台のキャリーケースを引いた。エレベーターで地下に降りる。

 君島の指示で、まずは神崎ひとりが駐車場に出た。通用口を見張っている者がいないか確かめる。この時間帯の車の出入りは少ないらしく、無機質な灰色の柱廊にひとけはない。自分の靴音だけが反響する。

 キャリーケースをトランクに入れた。車体に身を隠すようにして、君島が運転席側の後部座席に乗り込む。連れ出してくれるならトランクの中でもいいと言ったはずだが、自分を荷物扱いするつもりはないらしい。母親に促されて反対側のドアからもえが乗り、続いて母親本人が乗る。助手席の里美がドアを閉めるのを待って、神崎は車を出した。

 順路を進み、ゆるいスロープをのぼる。出口を抜ける寸前だった。神崎はブレーキを踏む。横合いから人が出てきたのだ。

 ひとりではなかった。わらわらと現れた男たちが行く手をふさぐ。慌ててバックしようとしたが、すでに何人かがうしろに回り込んでいる。

 髪をツーブロックにカットした、四十代の男が近づいてくる。腰を曲げて運転席をのぞく。

「すいません。ちょっと、いいですか」

「何のつもりだ。道をあけろ」

 男は神崎を無視した。里美を一瞥したあと、後部座席に目を向ける。

 君島は上体を前に倒して、頭からジャケットを被っていた。車を制止されることがなければ、その隠れ方で十分やりすごせたはずだ。男は君島の妻に目を移す。うつむいて息を殺し、髪で顔を隠した姿を凝視する。

 体を起こすと、男は別の男に言った。

「君島の女房だ」

 男たちが色めき立つ。最初の男が声を張った。

「ぶざまに隠れてねえで、出てこいよ君島さん。もう逃げられねえぞ」

 君島はジャケットを被ったまま動かない。神崎は逃走のチャンスをうかがうが、目つきの鋭い男が前に立ちはだかっていて、車を発進させることができない。

 男が重ねて言う。

「おれたちに説明してくれよ、君島さん。あんたにはその義務があるだろ」

 男は運転席に手を入れた。窓ガラスがないので防ぎようがない。スイッチを探り当て、勝手にドアのロックを解除する。

 うしろのドアが引き開けられた。男が君島につかみかかる。君島は体をよじって抵抗するが、複数の男たちの腕力を前になすすべがない。怯えるもえを、母親が我が身でかばうように抱きしめた。

 君島が引きずり出される。神崎が止めに入るいとまもなく、背中を車に押しつけられた。顔を覆っていたジャケットが剥ぎ取られる。

 ツーブロックの男が息を呑んだ。呆然と声を洩らす。

「君島じゃない──」

 男たちが立ち尽くすさなかだった。沈黙を引き裂き、大音量のクラクションが鳴り響いた。黒いランドクルーザーがタイヤを軋らせ、猛然とスロープを上がってくる。

 行く手を阻む隙を男たちに与えなかった。制止するどころか、よけずにいたら撥ね飛ばされかねない。神崎の車の横をすりぬけ、さらに加速しながら出口を飛び出す。

 何が起きたのかわからないまま見送っていると、うしろの席で君島の妻がつぶやいた。

「いまの車に乗っていたのが主人です」

 神崎は、今の今まで君島だと信じていた男を見た。ほかの男たち同様、ぽかんとした顔で車の消えた先を見つめている。

「じゃあ、この男は──」

「君島の手下て したです。自分が脱出するときに車で拾うと言われたんでしょうけど、妻と娘を置き去りにする男が、手下を助けるはずがないですよね」

「我々は囮にされたんですか」

「ええ。この人たちが待ち伏せしてるのはわかってたから」

 驚きから覚めると、恐怖に似た不安が頭をもたげた。自分は君島に騙されたのか。

「じゃあ、娘の居場所を教えるというのは──」

「社会正義回復会からのメッセージを転送してもらいました。座標をお教えします」

 女性は携帯を取り出した。里美が自分の携帯でマップをひらき、画面の数字を入力する。

「すぐに行ってあげてください。そこがどんな場所かわからないけど、きっと怖い思いをしてる」

 君島の手下は男たちに取り囲まれ、容赦ない吊し上げを食らっている。本人を呼び戻すよう、口々に責め立てられているのだろう。罵声を撒き散らして応戦しているが、いきり立った男たちが、いつ暴力に訴えてもおかしくない。

 女性に尋ねる。

「囮として使うために、もえちゃんを取り戻したんですか」

「もえをどうとも思っていないなら、そもそも罪を告白する必要はなかったわけだし、あの人もあの人なりに愛情を感じてはいるんでしょう。ただ実の娘より、自分の身の方が可愛かったというだけで」

「あなたはこのあとどうするんですか」

「逃亡先で主人と落ち合うことになってます。落ち着いたら連絡すると言われてるけど、主人自身がこのまま逃げ切れるのかどうか──」

 車道に出たランドクルーザーのあとを追うように、路肩に停まっていたセダンが急発進した。君島が男たちを振り切って脱出した場合に備えて、公道への出口付近で待機していたのだろう。空港に向かうランドクルーザーと、いまごろ派手なカーチェイスを繰り広げているのだろうか。

「もえを連れてきてくれてありがとう」

 女性はドアに手をかけた。車から出ていこうとする。

「大丈夫ですか」

「家に戻って主人からの連絡を待ちます。まさかこの人たちも、女子供に手荒な真似はしないでしょう」

 トランクのロックを解除すると、女性が自分で二台のキャリーケースを下ろした。引き手に手をかけ、もう一方の手で娘の手を握る。夫のキャリーケースはその場に残していくらしい。

 神崎は車を出した。ミラーの中の女性がスロープを下る。娘に話しかけられたらしく、いとおしそうに微笑み返す。

 男たちが女性に気づいた。ずかずかと近づき、行く手をふさぐ。君島の手下を締め上げただけでは飽き足らず、もっといたぶりがいのあるいけにえを欲したのだろう。よるべない母娘の姿は、亡者じみた灰色の群れに呑まれて、またたく間に見えなくなった。

 敷地内から車道に出る。ナビを操作している妻に尋ねた。

「由奈はどこにいる」

「**公園よ」

「**公園? うちの近くじゃないか」

 そこは、神崎が住む地域の広域避難場所に指定されている、緑豊かな市民公園だ。夜間照明のあるグラウンドや、手入れの行き届いた芝生広場を備えている。休日に由奈を連れて散歩に行くことも少なくない。

「公園のどこだ」

「敷地内だからストリートビューは使えないけど、空撮で見ると小さな建物がある」

「管理事務所か」

 公園の敷地のはずれに、こぢんまりとしたログキャビンがある。事務所と言うより、物置小屋と言った方がいいかもしれない。かたわらに自販機が設置されており、飲み物を買いに行った際に職員の男性と言葉を交わしたこともあるが、おそらく今の時間は無人だろう。

「ここに由奈がいるのね?」

 社会正義回復会は、罪の告白を迫るために子供を誘拐するという、悪辣あく らつな行為に及んでいる。しかし約束は果たしていた。神崎が告白を行ったときにはあかりを返し、告白こそ行わなかったものの、山室が代償を支払ったときにはもえを返した。君島が告白を行ったのなら、間違いなく由奈を返すはずだ。

 ゲームは終わった。安堵の気持ちに呑み込まれそうになるが、まだ気を抜くわけにはいかない。すでに解放されているにせよ、由奈はいま、あかりが電話ボックスに放置されていたときのように、ひとけのない管理事務所で、寒さと心細さに震えている。

 交差点に差しかかったときだった。前方に赤色灯のまたたきが見えた。コート姿の警官が路上に立ち、光る誘導棒を振っている。緊急車両が詰めかけているようだ。

「事故か?」

 大型のダンプが、交差点に半分進入したところで停まっていた。投光器の白い光の中、徐行で通り過ぎようとすると、里美が驚きの声を上げる。

「あなた、あの車──」

 赤信号を突っ切ろうとしたのだろう。黒いランドクルーザーがダンプの前で横転していた。フロントガラスが砕け散り、ボンネットが紙のようにひしゃげている。

 運転席は空だった。ドライバーは自力で脱出したのか、それともレスキュー隊によって救助されたのか。あたりを見回してみても、ランドクルーザーを追っていたはずのもう一台の車は見当たらない。追跡相手が事故を起こしたのを見て、パトカーが駆けつけるより早く、現場から走り去ったのだろう。

 車の損傷具合を見るに、おそらくドライバーは無傷ではない。もしかしたら生死に関わる、重大な事態に陥っているかもしれない。しかし現実の非情さを教える残酷な結末も、もはや神崎の関知するところではなかった。娘のいる場所へひたすら急ぐ。

 倉庫会社のあるY市を経由する必要がないので、復路は距離が短い。無心に高速を飛ばし、地元のインターチェンジで降りた。もうナビの出る幕はない。見慣れた町並みを、最短のルートで公園に向かう。

 入口に着いた。広い駐車場に車を入れる。照明塔が全灯しているときは夜空がかすむほど明るいが、今日はグラウンドを使う者がいないのか、まばらな外灯がアスファルトの白線を照らしているだけだった。全力で走り出した神崎のあとを、妻の足音が追いすがる。

 芝生広場を抜け、遊歩道を横切った。立ち木に取り囲まれた、ひときわ森閑とした一角に出る。自販機のLEDがいたずらに目を引くばかりで、あたりに人の気配はない。重々しい常緑樹の茂みを背に、古びたログキャビンが佇んでいる。

 建物に近づく。階段を鳴らしてウッドデッキに上がった。窓のカーテンごしに、常夜灯の黄色味がかった光が洩れている。

 正面のドアのノブをつかんだ。鍵がかかっていてひらかない。淡い期待を撥ねつけるように、ノックの音が空しく響く。

「由奈ちゃん、ママよ」

 里美が声を張った。

 

(つづく)