舞台は孤立した別荘・私雨邸。集まったのは、ミステリー好きの大学生にチャラ男、自殺未遂の青年などワケありの11人。別荘の持ち主である老紳士が密室で殺され、颯爽と名探偵が現れるはずが……いない。
「誰が事件を解決するの?」と不安は募るばかりだが、暴かれるのは全員の意外な正体とドロドロの人間関係だった。
宮部みゆきさんが絶賛した、クローズド・サークル・ミステリーが待望の文庫化! 書評家・杉江松恋さんの解説より、本書の読みどころご紹介します。
■『私雨邸の殺人に関する各人の視点』渡辺優 /杉江松恋 [評]
クローズド・サークル・ミステリーにこんな技巧が可能であったとは。
渡辺優『私雨邸の殺人に関する各人の視点』を初めて読んだ際、そんなことを思って興奮に打ち震えた。ここで言う技巧とは、ものすごい機械トリックが使われているとか、叙述にアンフェアすれすれの仕掛けがあるとか、そういうことではない。ミステリーの小説としては基本に忠実で、職人肌と言っても差し支えないような作りなのである。登場人物のちょっとした言動に伏線を忍ばせておくやり方など、細部に感心させられることが多い。
『私雨邸の殺人に関する各人の視点』は「小説推理」2021年12月号から2022年6月号に連載され、加筆訂正ののちに単行本として刊行された。奥付には2023年4月22日第一刷発行とある。今回が初の文庫化である。題名が示すとおり、「私雨邸」で起きる「殺人」を「各人の視点」から描いた長編だ。この「視点」に小説としての斬新さがある。
物語は(6月22日 昼)と掲げられた0章から始まる。ここでは登場人物たちの行動が俯瞰的に描かれていく。私雨というのは以前の住人の名で、今は鋼機会社の名誉会長の座にある雨目石昭吉という男性が「私雨邸」という名の別荘を所有している。そこに孫のサクラと、その兄の梗介が昭吉とともに訪れる場面がまず描かれる。さらに時間軸に沿って、私雨邸の来客たちが次々に描写されていく。T大学ミステリ同好会会員の二ノ宮は、後でわかるのだがネットのやり取りを通じて昭吉と親しくなり、先輩で同好会会長の一条と共に招待を受けた。私雨邸に雇われた料理人の恋田は、彼らと同じ列車に乗っていた。最寄りの無人駅に降り立った三人を昭吉のもう一人の孫である雨目石杏花が迎えにやってくる。
これ以外にも邸には来訪者があるが、彼らはばらばらに到着する。6月22日の晩餐が始まるくらいまでの時間帯が0章で語られる範囲で、ここでの叙述は登場人物の誰とも一致しない視点で行われる。午後6時16分に「私雨邸からほど近い森の中、田中は首吊り自殺に失敗する」という記述でこの章は終わる。首吊り自殺をするなら周囲に誰もいないことを確認したはずで、他に誰も知り得ない情報が綴られるのであれば、それは神の視点だろう。
本作の叙述は、語り手が代わるごとにアルファベットで誰の視点であるかが明記されている。【A】は二ノ宮、【B】は邸を取材にやってきた地元出版社の編集者である牧、【C】は雨目石梗介というように。後に視点人物は【D】【E】まで増える。
0章の視点は【X】である。前述したように神の視点なので、作中のその時点では登場人物の誰も察知できないことを先回りして告げる。たとえば「彼(雨目石昭吉)は28時間後、6月23日午後7時40分に、私雨邸本館3階の自室で遺体となって発見される」というように。神の視点といっても完全な天上のものではなく、視点の位置は登場人物の目の高さとほぼ同じである。だから読者にとって【X】は神というよりもう一人の見えない登場人物のようであり、もっと的確な形容をすれば作者の気配のように感じられる。作者が読者の前に登場してあれこれと話し出す、19世紀のイギリス小説めいた雰囲気を私は連想した。
こうした状態で物語は進行していくのである。自然災害が起きて私雨邸は山中で孤立した状態になり、前述したように殺人事件が起きる。その顛末が描かれるのだ。
孤立した場所に複数人を閉じ込め、その中で起きた殺人事件が終結するまでを描いたミステリーをクローズドサークルものと通称する。地理的条件から孤島もの、雪の山荘ものなどという別称もあるが、指しているのは同じだ。源流と見なされるのは、アガサ・クリスティー1939年の作品『そして誰もいなくなった』(クリスティー文庫)である。日本においては、1987年に綾辻行人が『十角館の殺人』(講談社文庫)を発表したことで注目度が上がり、ミステリーのサブジャンルとして定着するに至った。
『そして誰もいなくなった』が視点の小説であることを指摘したのは、英文学者の若島正だ。展開の要請があり、この物語は多視点叙述形式を取っている。登場人物が一人ひとり殺されていくという内容なので、誰か一人を特別扱いにできないためである。誰かは絶対に犯人ではない、もしくは探偵だから死なないという留保がつけば、謎解きへの興味を損なうし、もっと大事な生き延びることができるかどうかというスリルも減じてしまうからだ。クリスティーは『そして誰もいなくなった』で離れ業をやってのけている。登場人物の意識の流れを書いているのである。当然その中には犯人も含まれているはずであり、それと書けば読者にわかってしまう。回避のために曖昧な書き方がされている、ゆえにアンフェアである、という批判をこの作品は受けていたのだが、若島がそれを否定した。きちんと読めば意識の流れから犯人を示す手がかりは得られるというのである。詳述する余裕はないので、『乱視読者の帰還』(みすず書房)収載の「明るい館の秘密」をぜひお読みいただきたい。
クローズドサークルものにおいていかに視点の問題が重要であるか、ということについて念を押そうとして、つい脱線が長くなってしまった。作品名を出した綾辻行人〈館〉シリーズにもまた視点の問題で触れたいことはあるのだが、それは別の機会ということで。気になる方はこちらも実際に小説を読んでいただければ幸いである。
本作は二重の構造を用いて視点の固定によるミステリー作法上の弊害を排除し、かつ小説としての新たな効果を生み出すことに成功している。
二重のうち上部構造に当たるのが先ほどから触れている【X】の存在だ。この神の視点は未来を見渡す(フラッシュフォワード)ことができ、それを根拠として世界が不確定なものであることを、あるいはミステリーとして必要な情報がすべて出そろったことをその場に応じて宣言する。たとえば後半のあるところで【X】は「ここまでの視点で犯人は特定可能である」と告げる。古典的探偵小説でいえば「読者への挑戦」に当たる叙述だ。登場人物の誰も自分の運命をわかっておらず、謎が解かれるまでは等しく全員が容疑者の地位にいるということを【X】は読者に意識させる。
下部構造として【X】を支えるのが、【A】から最終的には【E】に至る各人の構造だ。実はクローズドサークルものとしては、『私雨邸の殺人に関する各人の視点』は、見逃すことのできない人間関係の偏りがある。邸内に閉じ込められた11人のうち、雨目石一族の4人と雨目石鋼機会社の社員である石塚は身内であるが、それ以外の6人はすべて部外者だからだ。特にトレッキング中に足を怪我して救助を求めてきた水野と、どうやら自殺に失敗したらしい田中は、予定外の闖入者である。殺人計画にあらかじめ彼らの来訪を織り込んでいたことは不可能なはずで、つまり容疑の度合いが低い。この物語において、まず疑われるのは雨目石側の人間なのだ。こうした制限をあえて行った点に本作の特徴がある。
【A】から【E】の視点には、雨目石昭吉を頂点とする一族の緊密なつながりとは無関係な人間が選ばれている。【C】の雨目石梗介は昭吉の孫だが、一族の後継者としてふさわしくないという烙印を祖父によって押され、そこから脱落しかけているのである。そうした不安定な境遇にありながら真剣に事態と向き合うことができず、彼は心ここにあらずという心境で生きているように見える。その現実を拒絶するような態度は視点にゆるみを生じさせ、多義的な解釈を呼び込むことになるだろう。だから視点人物に採用されたのだ。
【A】の二ノ宮は、ミステリーマニアとして描かれる。『十角館の殺人』以来、日本では大学ミステリー研究会の会員がクローズドサークルの状況で事件に巻き込まれるという話運びが定型の一つになった。そのセルフパロディともいえるような登場人物で、クローズドサークル的状況で事件が起き、しかも警察の関与なく自分たちが謎解きをすることができることに二ノ宮は歓喜するのである。事件が終結しそうになると彼は落胆し、事態が悪化してまだまだ解決が遠いということになると「クローズドサークルはまだ続く」と安堵する。
いくらなんでもカリカチュアが過ぎる、と腹を立てるミステリー読者もいると思うが、彼の先輩の一条は人の死を悼むことのできる常識人なのでご安心を。ミステリーマニアに対して一面的なレッテルを貼るような小説ではない。この一条は人格者で、有栖川有栖『月光ゲーム Yの悲劇’88』(1989年。創元推理文庫)などに登場する江神二郎を私は連想した。二ノ宮は自分が私雨邸殺人事件を解決したくてたまらなくて、他の登場人物が彼のそうした態度を鼻もちならないと感じているので、当然ながら衝突が起きる。どこでかといえばもちろん、最終的な謎解きの場面だ。ということは本作は解決場面が、という情報は、ミステリーファンならだいたい察していただけると思うので、ここは触れずにおこう。
それぞれの視点は、起きている事態をどういう位置から見ればどのように映るか、ということを表すために、あえて雨目石一族から離れた位置に置かれている。【B】の牧は、雨目石一族とは無縁を装っているが、実はその中の一人と過去に知己を得ていたことが序盤に明かされる。雨目石梗介は中にいる者、二ノ宮は完全に外側で、なんなら雨目石昭吉の死をエンターテインメントとして楽しむことができるくらいに無責任な第三者、牧はその中間にあって、一族の者の心情を斟酌できるほど近いわけである。しかし、彼女もまた部外者であることに違いはない。
雨目石一族の邸内で起きた事件にもかかわらず、部外者の目でそれが観察され、評価されるという物語なのである。ミステリー読者は、この構造からたちどころにジャンルが持つ特質を見出すであろう。殺人という重大事件を娯楽の種として受け止めることの是非については、今もなお議論が絶えない。同じミス研会員でも二ノ宮と対照的に一条が昭吉の死を重く受け止めるのは、そうした背景がこのジャンルにあることを作者が熟知しているためだ。
だが、作者の意図は単なるミステリージャンル批判になどなく、もう少し深いところ、普遍的なことにある。誰もが自分以外の心を正しく知ることはできないはずなのに、それに正当性があるかのように他者の内面を分析し、判断してしまおうとする。ミステリーの推理という限定的な場だけではなく、そうした類推は現代の至る場所に溢れている。そうした構造、他者でしかない視点から当事者を眺めたときに何が起きるかを描いたのが本作なのだ。
この作品がミステリーとして描かれたことには意味がある。ミステリーのキャラクターは、どんな場合でも初めは平面的な人間として読者の前に登場する。物語が進行し、その人物に犯人である可能性がありうるか否かを判断するための情報が増大することで、彼もしくは彼女は立体化するのだ。本作の中でも、中心的な位置にいる某登場人物は、最初に見せていたのとは別の顔を覗かせていく。他者の目に映るものはあくまでも平面的な人物像に過ぎないということを、ミステリーは作法として必然的に示すのだ。
渡辺優の第28回小説すばる新人賞を受賞したデビュー作『ラメルノエリキサ』(2016年。集英社文庫)は高校生による犯人捜しというミステリー的な要素を持ちつつも、それだけに収まらない魅力を持つ長篇だった。以降の作品もジャンルに限定されないものが続いたため、ミステリーとはあまり縁がないのだろうと思っていたのである。ところが2023年になって突然、純粋なミステリーである本作が書き下ろしで発表されたので驚かされた。こんなこともできるのか、と。
渡辺は2025年にアセクシャルの女性が性行為について感じている違和感を綴った『女王様の電話番』を発表し、同作は第174回直木賞の候補作にもなった。同作などはまさしく、どの位置から物事を見ればどう映るかという視点の小説であり、思いの本当のところは当人にしかわからないという物語だ。そうかつながっているのか、と『女王様の電話番』を読んだ後に本作を再読し、少しだけ作者に近づけた気がしたのである。どのような作品を書いても、その根底にはおそらく同じ関心がある。人は人をどう見ているのか。自分をどう感じているのか。根源的であるからこそ、渡辺の作品は心を捉えて離さない。