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「それで、ぼくに手伝ってほしいって?」

 いきなり呼び出されたトモちゃんは、困ったような声であたしに言った。

「幽霊が見えるって言ってたじゃない。それとも、あれは嘘なわけ?」

「嘘じゃないけど……」彼は肩をすくめた。「でも、お祓いなんて出来ないよ」

「誰もそんなこと言ってないでしょ。本当にあのアパートに幽霊が憑いてるのかどうか、確かめてほしいだけ」

〈みさと荘〉は学校から歩いて十五分ほどのところにあった。あたしたちは学校の裏門で待ち合わせ、午後三時の慌ただしい町を二人で歩いた。一応並んで歩いてはいたけれど、先日の一件以来あたしたちの距離はちょっとだけ広がっていた。

「別に信じてるわけじゃないんだけど」とあたしは前置きして訊いた。「幽霊ってずっと同じ場所にいるの? 昼も夜も? つまり、あたしたちがこれからアパートに行っても留守ってことはありえる?」

「人に──幽霊によるかな。ずっと同じところにいるやつもいるし、ある程度自由に動き回るやつもいる。話しかけてくるやつもいるし、そうじゃないやつも。まあ、個性だよ。でも、自分が死んだ場所からは、あんまり離れたがらないかな。一旦はいなくなっても、結局戻ってきたりとか。あと、自分の死に方を人に見せたがるやつも多いよ。飛び降りて死んだやつは何度も飛び降りるし、首吊りで死んだやつは毎晩首でブランコしてる」

 トモちゃんは珍しく早口でそう言った。まあ、毎日毎日誰かが死ぬところを見せつけられるのは、確かに気持ちのいいことじゃないだろう。別に幽霊を信じているわけじゃないけれど、その点には同情してあげる。

 ギャワッとカラスの声がした。二人同時に足を止める。ボロボロの木造アパートが、普通の家に挟まれるようにして建っていた。東側の家は三階建ての一軒家で、アパートとほとんどくっつくくらいの距離で建っている。西側の方は通りから少し奥まった場所に建った前庭のある二階建てで、こちらからはアパートの様子がよく見えた。

 アパートの西側には玄関のドアが並び、東側には各部屋の窓がちょっとだけ見える。二階の廊下に上がる階段は完全に崩れていた。少なくとも、上の階に人がいないってことは間違いなさそう。屋根は色の剥げた瓦屋根、壁はくすんだ黄土色だった。変な形の汚れが見えるけど、あれが誰かの手形だって可能性はひとまず考えないでおこう。

「どう?」あたしはトモちゃんの顔を見上げた。「幽霊、いる?」

「今はいないみたい。でも、残穢はある」

「ざん……何?」

「姿は見えないけど気配はするってこと。嫌な場所だよ。君は何も感じない?」

「別に何も。汚いから早く取り壊せばいいのにって思うけど、それだけ」

 完全に壊れてしまっている二階と違って、一階はまだ多少人の気配がした。錆びだらけの自転車が一台、部屋のドアの前に置いてある。通りに面した郵便受けは、一室以外は全部ガムテープで塞がれていた。どうやら、一部屋だけはまだ人が住んでいるらしい。

 善は急げ。あたしは部屋のドアホンを鳴らした。返事はない。留守なのか、無視しているのか。トモちゃんが慌ててあたしの腕を掴んで、道路に引き戻した。

「人が出てきたらどうするつもりだったのさ」

 トモちゃんが呆れたように言った。そんなの普通に逃げればいいだけじゃんと思うけど、こういうところは流石に大人っぽい。

 何とかして二階に上がれないかと頑張ったけれど、無理だった。階段は壊れているし、他に登れそうな場所もない。おまけに二階の廊下もボロボロで、骨組みがむき出しになっている状態だった。

 仕方なく、建物の東側に移動する。松井くんが幽霊を見たという場所だ。隣の家がすぐ近くまで迫っているせいで、隙間はかなり狭い。背伸びをすると、崩れたブロック塀の向こう側が少しだけ見えた。

「トモちゃん」とあたしは言った。「ちょっとしゃがんで」

「こう?」

 両膝を曲げた彼の肩に足をかけて跨る。トモちゃんは驚いたような声を上げて抗議したが、あたしは無視した。

「立って。足、離さないでよ」

「無茶だよ。倒れたら危ないって」

「肩車くらいできなくてどうするの。男でしょ」

 ぶつぶつ文句を言いながら、ふらふらトモちゃんが立ち上がる。ようやく、塀の向こうの様子をはっきり見ることができた。汚い。雑草がボーボーに生えて、そこら中に空き缶やペットボトルなんかのゴミが捨ててある。雨に濡れてぱりぱりになった雑誌の束、ブルーシートにくるまれた何か、その上を這いまわる名前のわからないたくさんの虫。

「おえっ」

 本当にここに幽霊がいるのだとしたら、よっぽどおかしな趣味をしているに違いない。あたしだったら、幽霊になった瞬間に一刻も早くこんな場所からは逃げ出したいけど。

「もう下ろしていい?」

「待って。まだアパートの方を見てないから」

 顔を上げ、問題の二階部分を見上げる。黄土色の壁に、三つの窓が並んでいた。どれも汚れたガラスに覆われて、中が見えない。松井くんの言う通り、ベランダはないようだった。手すりらしきものも見当たらない。灰色のパイプが壁に沿って延びていたけど、これは窓の下側だから洗濯物をかけるのは難しいだろう。一階に住んでいる人だったら手を伸ばせば届くかもしれないけど、その場合、洗濯物の位置はかなり低くなるから、たぶんブロック塀に隠れてしまう。塀の向こうにいた松井くんから見えたってことは、洗濯物はそれなりの高さにあったってことだ。

 視線を上げ、屋根の方を観察する。肩車をされたことでようやく、瓦屋根のてっぺんから銀色のものが突き出しているのが見えた。たぶん、テレビのアンテナの残骸だろう。途中でぽっきり折れているせいで、長さはかなり短くなっている。あれじゃテレビは見られないだろうな、とあたしは思った。

「由佳ちゃん? 何してんの?」

 突然、聞き覚えのある声がした。慌ててトモちゃんの肩から下りる。二組の学級委員、杉森美枝すぎもりみえが怪しむような目つきでこちらを見ていた。

「この人、だれ?」

 美枝は重たい前髪の向こうから、トモちゃんを睨んだ。かわいそうなトモちゃんはすっかり怯えて黙りこくってしまっている。

「トモちゃん」とだけあたしは答えた。「あたしの友達だよ。ほら、松井が幽霊を見たって言ってたでしょ。それを調べてたの。トモちゃん、幽霊のこととか詳しいんだって」

 霊感があるってことは言わなかった。それくらいの気遣いはあたしにも出来る。

「それは知らないけど……」

 美枝は警戒心を隠さずに言った。

「でもさ、あの噂ってウソらしいよ」

「ウソ?」

「うん。ほら、昔ここのアパートでジサツした人がいたって。松井くんの話に出てきたでしょ」

 確かに、そんなことを言っていたような気がする。アパートに住んでいる人から聞いたんだっけ?

「なんでウソってわかるのよ。本当かもしれないじゃん」

「だって、不動産屋だから。わたしのパパ」

「ふどう……何?」

「不動産屋」とトモちゃんが口を挟んだ。「家とか土地を売ったり買ったりする仕事のことだよ」

「そうそう」美枝は頷いた。「わたしもさ、松井くんの話を聞いて気になっちゃって。パパに訊いてみたんだ。そしたら、ウソだって言われた。あのね、事故とか事件とかで人が死んじゃった場合は、告知義務っていうのがあるんだって。ジサツでもね。つまり、この家で誰かがジサツしましたって記録が残ってて、その家を次に買う人に教えなきゃいけないの。でも、あのアパートにはそういう話はないんだって。変な話を広めるものじゃないって、怒られちゃった」

 だから、由佳ちゃんもやめた方がいいよ。そう言って、美枝は手を振りながら去って行った。あたしはじっとりとした目でトモちゃんを見上げた。

「だってさ。嘘つき」

「嘘じゃない」トモちゃんはムキになって言った。「本当に感じたんだ。第一、幽霊がいないとしたら、松井くんの話はどう説明するのさ」

 確かに、それはその通りだ。見た限り、二階には洗濯物をかけられそうな場所が一切なかった。それに、そもそも階段がないのだから二階に人が住んでいるわけもない。人が住んでいないのに、洗濯物だけ干されているというのもおかしな話だ。

「木とか草にひっかけてたってことはない?」

 あたしは雑草が伸びきった塀の向こうを指差した。

「それは難しいだろうね」とトモちゃん。「背の高い木は一本もないし、雑草程度じゃ洗濯物の重みに耐えられないよ」

「カラスがくわえてたとか」

「飛んでるところ、見たことある? カラスは一か所に滞空するような飛び方はしないよ。だいたい、そこの畑は鳥よけだらけだし、あんまり寄り付かないんじゃないかな」

 さっきカラスの声が聞こえた気がしたけど、それはまあいいか。

「じゃあ何? 松井くんが嘘吐いてるって言いたいわけ?」

 あたしはむっとして言った。不機嫌なあたしの様子を見て、トモちゃんがにっこりする。

「もちろん、違うさ。言ってるだろ。幽霊がいるんだって」

「信じない」

「頑固だなあ。ていうか、信じないなら何でぼくを呼んだのさ」

 トモちゃんが寂しそうにつぶやく。道路を歩くカラスが二羽、干からびたミミズを取り合いながら飛び立った。

 

 その日の夜、ママの帰りは遅かった。

 あたしは灯りを消した真っ暗な部屋で一人布団に入り、夢を見た。夢の中で、あたしはパパと釣り堀にいた。二人で並んで地面に座って、池に釣り糸を垂らしている。パパは帽子を深くかぶっていて、顔は全然見えなかった。ウキが沈む。竿が大きくしなって、パパが立ち上がった。帽子がはらりと落ちる。

「見てよ、由佳」

 そう言ってこっちを見たパパは、いつの間にかトモちゃんの顔に変わっていた。

 夢が変わる。今度は〈みさと荘〉の夢だった。真夜中で、月は出ていない。あたしはアパートの前に一人で立ち、カタカタという奇妙な音を聞いていた。音はアパートの中から聞こえてくるようだった。あたりは真っ暗だったけど、一階の窓からわずかに明かりが漏れていた。あたしは一〇二号室のドアベルを押した。反応はなく、カタカタという音が大きくなった。ドアノブを掴んで回す。鍵はかかっていなかった。かび臭い部屋の空気があふれ出し、吐きそうな音で咳をする。

 部屋の中は空っぽだった。家具は一つもなくて、ただ鼠色のカーテンだけが窓の前で揺れている。その部屋の真ん中にママがいた。体育座りをして、大きなユニコーンのバルーンを必死に膨らませている。

「ごめんね。由佳。ごめんね」

 ああ、これは夢だと思った。ママは誰かに謝ったりしない。絶対に、何があっても。だからあたしは、夢の中でぎゅっと目を閉じた。夢の中にいると気づいたときは、いつだってそうするのだ。ぎゅっと目を閉じて開くと、夢から覚めることができる。失敗したことは一度もない。

 あたしは冷たい布団の上で目を覚まし、身体を起こした。寝室の外、居間の方からママの声が漏れ聞こえていた。耳をそばだてたあたしは、まだ夢の中にいるのかもしれないと思った。

 ママは誰かに謝っていた。ごめんなさい、ごめんなさいと。ママがそんな風に謝るところを、あたしはこれまでに一度も見たことがなかった。居間の電気は消えたままで、ママは真っ暗な部屋の中で誰かと電話をしているようだった。

「そんなお金、あるわけない」ママは苦しそうな声で囁いた。「わかってるでしょ」

 お金? 何の話だろう。

「無理。せめてもう少し──」

 それ以上は聞きたくなかった。あたしはそっと寝室の奥に引っ込むと、布団を頭から被って寝たふりをした。太陽が昇って、新聞配達のバイクの音が聞こえるまで、あたしはずっとそうしていた。

 

 

 アパートに行った次の日。由佳は寝不足の顔で再びぼくを呼び出した。

「元気がないね。幽霊でも見た?」

「眠れなかっただけ」

 ぶっきらぼうに彼女は答えた。どうして眠れなかったのかは教えてくれなかった。たぶん、廃アパートの幽霊にどうやったら合理的な説明をつけられるのかを、一所懸命に考えていたに違いない。

 傾いた太陽が、彼女の顔に影を作る。下校途中の小学生が、畳んだ傘を振り回しながら坂を駆け下りる。朝に降った雨のせいで、道路はまだ濡れていた。

「昨日、あの後もう一度アパートに行ってみたよ」とぼくは言った。「夜中にね」

「トモちゃん、あの近くに住んでるの?」

「近くといえば近くだけど……。でも、〈みさと荘〉のことは知らなかったな。最近、越してきたばっかりなんだ。とにかく、幽霊はいたよ。松井くんの言った通りに」

「でも、自殺した人はいないんでしょ? 昨日美枝がそう言ってたじゃない」

「あの子が嘘をついてるのかも」

「ありえないね」由佳は鼻を鳴らした。「だって、学級委員だよ?」

 もう一度アパートに行きたいと彼女は言った。あまり気は進まなかったけど、断る理由も見つからない。雨に濡れた〈みさと荘〉は、昨日にも増して不気味に見えた。色の濃くなった石塀に指先で触れながら、由佳は何かを考えているようだった。

 松井くんが見たという「洗濯物の幽霊」を洗濯物として考えた場合、主に三つの謎がある。

 一つ目は、それが誰の洗濯物だったのかということ。二つ目は、どうやったら何もない場所に洗濯物をかけられるのかということ。そして三つ目は、松井くんが目を離したわずかな時間で洗濯物が消えてしまったのは何故かということ。

 もちろん、幽霊だという解釈に立てば、この三つの謎は解決する。というか、謎自体が意味をなさなくなる。逆に幽霊が存在しないという前提に立ち、合理的な説明をつけるなら、三つの謎全てに解を示さなければならない。

「ねえ、今気づいたんだけど」

 由佳がぼくの服の裾を引っ張った。アパートに背を向け、道の反対側に広がる畑を見つめている。

「あのキラキラしてるやつって何? CD?」

 彼女の指差す方向を見る。畑に何枚ものCDが吊り下げられ、風に吹かれてくるくる回って、西日を四方に拡散していた。

「CDだね。鳥よけじゃないかな」

案山子かかしとか、目玉風船みたいなやつと同じってこと?」

「たぶんね」

 そっか、と由佳は頷いた。それから急に駆け出したかと思うと、〈みさと荘〉の敷地内にずかずかと入って一〇二号室の呼び鈴を連打した。ぼくは慌てて彼女の後を追おうとしたが、追いつく前に部屋の扉が開く音がした。

「……何」

 半開きになった扉の隙間から聞こえてきたのは嗄れた老人の声だった。

「また屋根の修理か?」

「ちがいます。あたし──」

 限界だった。彼女の腕をつかんで引き戻し、すみませんっと老人に謝罪する。老人はぼくの顔を見て、しわくちゃの瞼をぴくりと動かした。

「あんた──」

 失礼します! と。やっとのことでそれだけ言って、ぼくらはアパートから逃げ出した。

 追い打ちをかけるように、再び雨が降り出した。土の匂いのする雨だった。

 

「なんで逃げたの」

 毛足の短いカーペットに裸の両足を投げ出して、不満げに由佳が言った。窓の方から、雨の音が聞こえている。ぼくは濡れた頭をハンカチで拭きながら、うす暗い部屋を見回した。由佳の家に入るのは初めてだった。

 アパートから逃げ出したぼくらを待っていたのは大雨だった。日もだいぶ傾いていたし、とにかく由佳を家に送ろうとしたところで、彼女の方から家に上がるよう言われたのだ。話したいことがあるから、というのがその理由だった。

「そりゃ逃げるだろ」とぼくは言った。「いきなり他所の家の呼び鈴を鳴らして……。誰が出てくるかわかったもんじゃない」

「弱そうな爺さんだったじゃん。さすがにあれなら、トモちゃんでも勝てるでしょ」

「言っとくけど、弱いからね。ぼくは。それで、どうしていきなりあんなことしたのさ」

「え?」由佳はぽかんとした。「だって、あいつが犯人だから」

「犯人?」

「洗濯物の幽霊だよ。あの爺さんが、全部の犯人。わからない?」

「ちょっと待って」

 ぼくは片手で彼女を制した。目の粗いクッションカバーの上で足を組みなおす。

「本気で言ってる? 何の根拠があるのさ」

「風船」

 由佳は得意げにそう言った。まったく脈絡がない。

「教えてあげたでしょ。松井くんの話。どこまで覚えてる?」

「直接聞いたわけじゃないから……」

 まったくもう、と彼女がため息を吐く。

「話の最初の方で、松井くんはこう言ってた。あのアパートがある道はもともと気味が悪くて好きじゃない、畑に目玉も揺れているし、って」

「ああ」

 そうだったかもしれない。畑の目玉、というのは鳥よけバルーンのことだろう。夏から秋にかけて、カラスやムクドリ、スズメなんかを追い払うためにあちこちで見るようになる。

「でも、今日あそこに行ったとき、畑にあったのは目玉の風船じゃなくてCDだったでしょ。ううん、今日だけじゃない。昨日も確かそうだった。どうしてだと思う?」

「さあ……」ぼくは答えに窮した。「風船がどこかに行っちゃったから、とか?」

「そう。風船がなくなったから、代わりにCDを吊るしたんだよ。それで、その風船を盗んだのがあの爺さんなの」

 話が見えない。鳥よけの風船なんか盗んで、いったい何になるんだろうか?

「洗濯物だよ。決まってるでしょ」

 鈍いな、と由佳は舌打ちをした。

「風船の上に濡れた洗濯物を載せて、干すんだよ。わかる? 風船はそのままだと飛んでいこうとするでしょ。そこに、水で濡れた洗濯物を載せる。そうすると、重さがちょうど釣り合ってその場に浮かぶわけ。飛んでいったりはしないし、地面に落ちたりもしない。大きめのワンピースを載せたんなら、幽霊に見えてもおかしくない」

「ちょっと目を離した隙に消えちゃったのは?」

「洗濯物が乾いたからだよ」

 彼女は目を輝かせて言った。

「濡れた洗濯物が乾くと、その分重さが軽くなるでしょ。そしたらどうなる? 飛んでいこうとする風船を押さえられなくなって、バランスが崩れる。どこかのタイミングで洗濯物が地面に落ちて、風船は空に飛んでいく。これで、幽霊が消えたみたいに見えるってわけ。で、そんなことが出来るのはアパートの一階に住んでる人だけ。だから、あの爺さんが犯人なの。まったくさ、トモちゃんが止めなきゃ、あの場であいつを追い詰められたのに……」

「一応訊くけど……、追い詰めるって、どうするつもりだったの」

「とっちめるに決まってるじゃん。で、二度と悪いことができないように警察に突き出す」

 なるほど、とぼくは思った。子どもの想像力は逞しいと大人たちは言うけれど、どうやら本当のことらしい。子どもというのは、とびきり想像力が豊かで、思い込みが激しく、往々にして残酷だ。それはたぶん、嬉しい組み合わせではない。

 だいたい、風船で洗濯物を乾かすのは、何かの罪になるのだろうか?

「いくつか指摘していいかな」とぼくは言った。

「何?」由佳はきょとんとした。

「うん。まず、目玉の風船なんだけど、単に効果が薄れてきたから交換しただけって可能性もあるよね。どんな鳥よけでもそうなんだけど、ずっと置いておくと、そのうち鳥たちの方も慣れちゃって効果がなくなるんだよ」

「でも、そうだって証拠もないでしょ?」

「それから」とぼくは続けた。「風船に洗濯物を載せるっていったって、そんなに上手くいくかな。風が吹いたらすぐ落ちちゃうだろうし」

「それは……」

「あとさ、そもそも風船で洗濯物を干す意味って何? 一階の部屋なら物干し竿くらいかけられるでしょ。だいたい、君の話だと洗濯物は最終的に地面に落ちちゃうんだろ。また洗い直しじゃないか」

「わかんないけど!」由佳はむっとした顔で叫んだ。「だから、あの爺さんに直接訊こうとしたんじゃん」

 ぼくはため息を吐き、最後の根拠を口にした。

「もっと根本的な問題がある。ああいう目玉の風船はね、浮かないんだよ」

「え?」

「あれ、中に空気が入ってるだろ。それじゃ風船は浮かないの。ヘリウムみたいな、軽いガスじゃないと。でも、そんなことをしたら、風ですぐ飛んでいっちゃうでしょ。だから、浮かべるんじゃなくて、紐で吊り下げて使うんだよ。見たことない?」

「……ない」

 あーあ、と由佳はつまらなさそうに言って、ごろりと仰向けに寝転がった。ぼくは苦笑いして、彼女が出してくれた冷たい麦茶に口をつける。お母さんのものらしい、質素なデザインのグラスだった。

「じゃあ、やっぱり幽霊の仕業だって言うわけ」

「うん」

「でもさ」と彼女は半身を起こしてぼくを見つめた。「事件の記録は残ってないって。それも説明できるの」

「できるよ」

 ぼくは頷いた。あまり気は進まないが、ここまで来たら話すしかないだろう。

「さて──」

 

 

 話し始めたトモちゃんは、なんだかちょっと得意げだった。普段は幽霊の見える自分が嫌いみたいな顔をしてるくせに、本当は誰かに秘密を話したくて仕方ないのだ。

 かわいい。

「まず、日本には『幽霊の正体見たり枯れ尾花』という言葉がある。知ってる?」

「え、ごめん。ぜんぜん知らない」

 あたしがそう言うと、トモちゃんはちょっと哀しそうな顔をした。

「幽霊を見たと思ったら、ただの枯れたススキだった。要するに、怖いと思っていたものも、正体を知ったら何でもなかったってことさ」

「じゃ、幽霊なんていないんじゃない」

 あたしは頬を膨らませた。幽霊がいると言ったりいないと言ったり、どうも話がコロコロしてついていけない。

 そうじゃないよ、とトモちゃんは言った。

「この話には逆のパターンもあり得る。正常性バイアスって言うんだけどね、人間は本当のお化けに出くわしても、まさかそんなわけがない、ただの枯れたススキに違いないって、自分で思い込もうとしちゃうんだ。松井くんの話も、要するにこれだと思うんだよね。彼は本当に幽霊を見たのに、それを洗濯物だと思い込もうとした。ところが、よく考えると洗濯物が干してあるのも、それはそれでおかしい状況だったから、余計に話がこじれて幽霊の洗濯物ってことになっちゃったんだ」

「でも、それって誰の幽霊なのよ」

「ちらっと見ただけではあるんだけど……」

 トモちゃんは言いにくそうに言葉を濁した。

「何?」

「いや。あんまり気持ちのいい話じゃないから。君に話しても大丈夫かなって」

「舐めないでよね。あたし、『リング』だって見たことあるんだから」

 正確には、最初の十分だけだけど。

「なら言うけど」ため息。「やっぱり、首吊り自殺だよ」

 首吊りって言葉の意味くらいはあたしだって知っている。ロープの先に輪っかを作って、それで首を絞めるのだ。たしかに、首吊り死体が窓からぶら下がっていたら、洗濯物に見えるかもしれない。うんと目を細めて見れば。

「幽霊は自分の死に様を再現するのが好きだからね。松井くんが見たのは、首吊り死体の幽霊だったのさ」

「待って待って」あたしは思い出した。「それはありえないでしょ。美枝が言ってたじゃん。ジサツした人がいたら……」

「告知義務ね。知ってるよ」

 彼は落ち着き払って、麦茶を一口飲んだ。

「一番ありえる可能性は、彼女の父親が嘘をついたってことだ。娘が学校で余計なことを触れ回ったら困るからね。少なくとも、ぼくが父親ならそうするだろうな」

「そんなの……」

「それに」と彼は言った。「告知義務には例外がある。部屋の中で自殺者が出た場合は、もちろん告知が必要だ。階段とかエレベーターとか、日常的に使う場所でもね。でも、たとえば屋上とか屋根の上みたいに、日常的に人が立ち入らない場所で自殺が行われた場合は、告知義務は発生しない。あの幽霊はね、二階の窓から首を吊ったんじゃないのさ」

 あたしはハッとした。そうだ。二階の窓から首を吊ったら、死体は一階の高さにぶら下がる。でも、松井くんが幽霊を見たと言ったのは、ちょうど二階の高さだった。

「彼女はアパートの屋根に上って、そこから首を吊ったんだ。屋根から伸びてたアンテナ、折れてたでしょ? たぶん、あれにロープを結び付けたのさ。死体が二階の高さにあったのが、その証拠」

 だからね、とトモちゃんは言った。

「幽霊はいるんだよ、由佳」

 あたしは何も言えなかった。

 

 トモちゃんが帰った後も、あたしは床に寝転がって、ただ天井を見つめていた。ドーナツ型の蛍光灯が巨大な目玉みたいにあたしのことを見下ろしている。ミニーマウスの指人形が結びつけられた電気の紐が、頭上でぷらぷらと揺れていた。右、左、右、左。首吊り死体って、こんな感じなんだろうか。

「やっぱりいるのかな、幽霊」

 小さく呟いたはずの声は、一人ぼっちの部屋の中で、思っていたよりもずっと大きく響いて聞こえた。

 幽霊なんているはずないって思うけど、でも少しずつ自信を持てなくなっている自分がいる。少なくとも、あたしの推理は大外れだったし、トモちゃんの説明は筋が通っているように思えた。それに、ハムカツサンドのこともある。

 たとえ、〈みさと荘〉の謎が解けたとしても、ハムカツサンドの真相がわからない限り、あたしはトモちゃんとの勝負に勝てない。どうして、トモちゃんはパパの誕生日を、好物を、好きなスポーツを知っていたのだろう。娘のあたしでさえ何も知らないのに、いったいどこでパパの話を聞いたのだろう。

 わからなかった。考えれば考えるほど、幽霊はいるのかもって気分になって、それが嫌だった。だって、トモちゃんが正しいとしたら、あのアパートで首を吊って死んだ人が本当にいたってことになる。そんなのって気持ち悪い。

 死にたいって思う人間の気持ちが、あたしには全然わからなかった。学校でもたまにいる。テストの点が悪かったとか、両親にこっぴどく叱られたとか、そういうくだらない理由ですぐに「死にてー」とか言っちゃうやつ。一度、うんざりして本気で首を絞めてやったら、びっくりした顔で逃げていったっけ。

 死にたいって言うやつはバカだ。生きてる限りは生きたいって思うべきだし、死にたいって思っても生きるべきだし、生きるからにはやっぱり自分の幸せを一番に考えるべきだ。どうしたら楽しく生きていけるかを考えるべきだ。考えるだけじゃなくてそれを行動に移すべきだ。要するに何でもやってみるべきだ。動いて動いて動き回るのだ。立ち止まるのは、それこそ幽霊になってからでいい。

 だから、あたしはママの恋を応援してる。相手がどんな人なのかは知らないし、その人があたしのことを気に入るかもわからないけど、とにかくママは恋している時が一番幸せそうだから。その人と結婚できればママは幸せだし、あたしもきっと幸せになれる。顔も思い出せないパパのことなんて、気にする必要はまったくない。

 六時を回った頃に、玄関のドアが開いた。ママだ。「ただいま」とつぶやく声はどことなく疲れているようだった。仕事が忙しかったのかもしれない。おかえり、と言って起き上がろうとした時だった。

「由佳」

 張りつめた声で、ママがあたしの名前を呼んだ。ハンドバッグを床に落とし、テーブルに並んだ二つのコップを見つめている。

「誰か来たの?」

「え?」

 まずい、と思った。トモちゃんのことを、ママには何も話していない。それに、ママがいない時は家に誰も上げてはいけないというのが──ときどき破ってはいたけれど──有賀家のルールだった。

「えっとね、ママ」

「誰が来たの?」

 ママはすごい形相であたしを睨んだ。両手があたしの肩を掴んで、力任せに揺さぶる。香水の匂いが鼻をつく。ママのあまりの勢いに、あたしは何も言えなくなった。

「あいつが来たの? そうなのね?」

「ママ、それって誰のこと──」

「言いなさい!」

 ママが平手であたしを打った。もんどりうって倒れ、頭をテーブルの脚に打ち付ける。倒れたコップが床に落ちた。

「誰が来たの、由佳!」

 ママの絶叫が夜に響いた。

 

 

 少しずつ、夜が近づいていた。足早に通り過ぎるトラックのヘッドライトがぼくの身体を貫き、隣を歩く彼の横顔を照らす。

「それで、話は終わり?」神林くんはぼくを見上げた。「結局、洗濯物の正体は首吊りの幽霊だったの?」

「どんな話にも続きはある」

 ぼくは曖昧に答えた。終わりは常に恣意的で、何事にも続きがある。幽霊アパートのエピソードも、もちろん例外ではない。ただ、ぼくと彼女のその後について、彼に話す気にはなれなかった。

 夕暮れの空を送電塔の影が貫いていた。あと一時間もすれば日没だ。

「そろそろ帰った方がいいよ」とぼくは言った。「暗くなってきたし、君に何かあっても困る」

「ううん。最後までついていく。何かあったらおじさんが守ってくれるでしょ」

「ぼくは何もできないよ」

 口の端を歪め、そう答える。嘘ではない。

 いつのまにか、足元が柔らかい土に変わっていた。神林くんのスニーカーが、ぺたぺたと音を立てながら土をえぐる。〈水なし沼〉はもうすぐそこだった。

「彼女に会ったら、どうするの」

 神林くんにそう訊かれ、ぼくはしばし考えた。

「さあ……、どうしようかな」

「考えてないんだ」

「考えてはいたさ。でも、いざとなると何も思いつかないものだね」

 神林くんはよくわからないという顔をした。

「現場にいたんだ」とぼくは言った。「彼女が殺された現場にね。死体が埋められるところも見た。葬式にも立ち会った」

「……期待した? 幽霊になったら、また話せるかもって」

「少しだけね。でも、ダメだった。彼女は幽霊にならなかったよ。事件の後、ぼくは町を離れてね。ここにはもう戻らないつもりだった」

「でも、帰ってきた」

「うん……、何でだろうな。理由は自分でも説明できない。ただ、戻らないといけないって気がしたんだ。そうしたら、幽霊の噂を聞いた。こうして君にも会えた。勘には従っておくものだね」

 でも、心の準備はできていない。彼女に──由佳に向き合う準備が。その時が来て、いったいどんな気持ちになるのか、彼女にどんな感情を抱くのか、自分でも予想ができなかった。

「君は──」とぼくは訊ねた。「誰か会いたい人はいる? 幽霊で」

祖父じいちゃん。死んじゃったんだ。五年くらい前に」

「会えた?」

「ううん」彼は首を振った。「ママが言ってた。好き勝手に生きて死んだんだから、未練なんてあるわけがないって。でも、祖父ちゃんが死んでからしばらく、捜さずにはいられなくてさ。幽霊が見えるってみんなにバラしちゃったのも、それがきっかけ。バカだよね」

「まさか。ちゃんとした理由だ。ぼくよりずっと」

 風が砂混じりのものに変わる。遠くに物置小屋の影が見えた。

 

10

 

 その日は雨が降っていた。

 台風が近づいているらしい。テレビのキャスターが言っていた。午後にかけて風が強くなっていき、明日の明け方近くには一時間に二十ミリの大雨が降るかもって。今はまだ外を歩けないほどじゃないけど、大事をとって学校は朝から休みになっていた。こんな大事な日に台風が来なくてもいいのにって、ママは朝からずっと文句を言っていた。

「どうしたのさ、急に」

 傘の中に吹き込んで来る雨粒に顔をしかめながら、トモちゃんがわたしに言った。足元でちゃぷちゃぷと水が鳴る。いきなりメールで呼びつけられたせいか、トモちゃんはちょっと不機嫌だった。傘の下でウィンドブレーカーのフードをかぶる。あたしに顔を見られたくなかったのかもしれない。

「少し、話したいことがあって」

「今日じゃなきゃダメなの?」彼は呆れ声だった。「わざわざ、こんな天気の日に……」

「ママがさ」

 あたしは彼の文句を無視した。

「脅されてるみたいなんだよね。誰かに。お金のことで」

「……借金?」

「わかんない。電話をちょっと聞いちゃっただけだから。ママ、結構参ってるみたいで、あたしにも色々言ってくるの。なるべく家から出るな、人と会うな、絶対誰も家に入れるなって」

「……なるほど」

「だからさ」とあたしは言った。「あたしたち、もう会わない方がいいかも。この間、トモちゃんウチに来たでしょ。あれ、ママにバレて怒られたの。だから、会うのはこれきりにした方がいいかも。どう思う?」

「どうって……」トモちゃんは困ったように答えた。「ぼくは、嫌かな」

「そう?」

 あたしは爪先で水たまりを蹴った。

「じゃあ、約束してくれる?」

「約束?」

「この間の勝負、覚えてるよね。幽霊がいるって証明できたら、トモちゃんの勝ち。いないって証明できたら、あたしの勝ち。まだ決着ついてなかったでしょ。今からあたしがトモちゃんの嘘を証明するから、あたしが勝ったら、ママを助けて」

「助ける?」

「うん。助けて」

「ぼくに出来ることならいいけど……。でもさ、恐喝とか、そういう荒事だったら役には立てないよ」

「大丈夫。トモちゃんにしかできないこと、あるから」

 ぼくにしかできないこと、ねえ。トモちゃんは怪訝そうに呟いて眉をひそめた。

「それより、ぼくの嘘って何さ。この間の幽霊アパートの話?」

「うん。あれ、もうわかった。今から、説明してあげる。そのためにここに来たの」

 足を止める。雑草に覆われた釣り堀の跡地が、目の前に広がっていた。

「ここ? どうしてまた」

「いいからついてきて」

 文句を言うトモちゃんを引っ張って、奥の池の方に連れて行く。魚が跳ねたような気がしたけど、単に雨が水面を叩いただけなのかもしれなかった。蛙の声が、そこかしこから聞こえている。

 あたしは空っぽの飼育小屋の前で足を止めた。半開きになった扉に手をかけ、強度を確かめる。留め金には、鍵の外れた南京錠がぶら下がったままだった。

「ちょっと、この中に入ってみて?」

「ええ……」トモちゃんは露骨に嫌そうな顔をした。「どうして」

「実験。最後に確かめたいことがあるの」

 文句を言いながらも、トモちゃんはしぶしぶ小屋に入った。窮屈そうに身体をかがめて扉をくぐり、粗末な木の壁に手をつく。

「これでいい?」

「うん」あたしは頷いた。「ありがとう」

 扉を勢いよく閉め、南京錠をガチャリとかける。放り出された傘が、くるくると回りながら地面を転がった。

「え?」

 金網の向こうから、トモちゃんの怯えた目があたしを捉えた。ふわり、とフードが顔から外れる。

「由佳……?」

「ありがとね、トモちゃん」

 あたしは言った。

「あのさ。トモちゃんでしょ。ママを脅してたの」

 

 人生の目的は幸せになることだ。

 毎日楽しく生きること。

 それを邪魔するような人間は許されない。幽霊の居場所なんて、この世界にはない。

「ぼくが?」トモちゃんは目を白黒させた。「君のお母さんを脅してる?」

「最初から順番に話そっか」

 あたしは地面に落ちた傘を拾い直した。小屋には屋根があるとはいえ、金網の隙間からは風も雨も吹き込んで来る。トモちゃんはさぞ寒いだろう。

「あのさ。一度訊こうと思ってたんだけど、トモちゃんって何歳なの?」

 トモちゃんはぽかんを口をあけた。少しショックを受けたようでもあった。

「二十五歳」とトモちゃんは答えた。

「え、そんなもんなんだ。もう少し上かと思ってた」

「悪かったね、老け顔で」

 あたしは金網の向こうのトモちゃんをまじまじと見た。背はあんまり高くなくて、痩せているけど肩のあたりはごつごつしていて、男らしい。教室の男子たちとはぜんぜん違う、大人の男。

「最初におかしいなって思ったのは、あの部屋から爺さんが出てきたからなの」とあたしは言った。

「松井くんの話にさ、若い男の人が出てきたでしょ。一階に住んでる人だと思ってたけど、実際は違ったじゃない。部屋に住んでたのは、どう見ても若くない爺さん一人だった。じゃあさ、松井くんが会った若い男って誰なのかな。なんであそこにいて、松井くんにわざわざ話しかけてきたんだろ」

「さあ。ただの変質者だったのかも」

「そうなの?」あたしはくすっとした。「トモちゃんなんでしょ、あそこにいたの」

 彼は何も言わなかった。

「理由がさっぱりわからないって、あたしに言ったじゃん。ほら、風船で洗濯物を干すって話をしたときに。そりゃそうだなって、あたしも思ったわけ。何か仕掛けを使ってさ、松井くんを脅かしたとして。それで何の得があるのって話になるもん。でも、そこまで考えたら、わかったんだよね」

 事件の二日前、あたしはトモちゃんと喧嘩した。まさに今、あたしたちがいるこの場所で。あの時のあたしはもう二度と、トモちゃんに会わないつもりだったのだ。

「トモちゃんさ、あたしにもう一度会うために松井くんを使ったんでしょ。幽霊の噂が学校で広まれば──しかも、その話の大元があたしの好きな男子だったら、きっとまた自分に連絡してくるって、そう思ったんだ。違う?」

 ていうか、どうしてバレてるんだろう。あたしが松井くんを好きってこと。

「見てればわかるよ」トモちゃんは呆れ顔になった。

 そうだっけ。

「まあいいよ。百歩譲ってぼくが犯人だったとしてさ。それで、どうやって幽霊をでっちあげるわけ」

「幽霊じゃなくて、洗濯物」

「同じだよ。二階には洗濯物をかける場所なんてないんだから」

「自分で言ってたじゃん。屋根のアンテナとかにロープを引っかけて──」

「それは自殺の方法だよ!」

「だからさ、それと同じやり方をしたんでしょ」

 あたしは指摘した。トモちゃんの表情が固まる。

「屋根に上ってさ。アンテナかどこかにロープを引っかけて……。いや、違うな。屋根の上を通して、反対側までロープを引っ張ってきたのか。それなら、建物の西側から簡単に操作できるもんね」

「待って待って。だいたい、どうやって屋根に上るのさ。勝手に上ったら通報されちゃうだろ」

「はしごだよ」

 あたしは一階の爺さんの話を思い出した。

「また屋根の点検かと思ったって、あの爺さんが言ってた。あれ、トモちゃんのことだったんじゃない? 爺さんを騙して、屋根に上ったんだ」

 ママの話を思い出す。武藤さんが騙された詐欺師のこと。それに、トモちゃんはアパートの屋根に折れたアンテナがあることを知っていた。あたしが肩車してもらって、ようやく見える位置にあったものなのに、背の高くないトモちゃんに見えていたとは思えない。それを知っていたのは、あのアパートの屋根に上ったことがあるからだ。

「ワンピースで作った偽物の幽霊をロープの先にくくりつけて、アパートの東側に垂らしたんでしょ。爺さんの部屋からは見えない、二階の高さにね。ロープの反対側は、屋根を通して西側のどこかに──たとえば配管のパイプとかに結び付けておく。あとは松井くんが帰ってきたら呼び止めて、〈みさと荘〉の二階を見るようにそれとなく誘導するだけ。松井くんが逃げたら、結んでおいたロープを引っ張れば、幽霊は簡単に回収できる」

「松井くんがあの道を通らなかったら? その前に誰かに見つかっちゃったら?」

「それでも、別に良かったんでしょ。一番の目的は、幽霊の噂を作って、あたしがまた連絡を取ってくるように仕向けること。松井くんは当たり枠の一人だけど、他の人でも別にいい。第一、あんな狭い場所、誰かに呼び止められでもしない限り、普通の人は見ようとしないし」

「随分、手間のかかる話だと思わない?」

「うれしいな」あたしは言った。「そこまでして、あたしに会いたかったってことだもんね」

「いい性格してるよ、まったく」

 トモちゃんはうんざりしたように言った。そろそろ、雨の冷たさが応えてきたのかもしれない。

「それに、君は一番大事なことを忘れてる。たとえ〈みさと荘〉の幽霊が嘘だったとしても、お父さんの話はどうなるのさ。お父さんの好物がハムカツだって話は本当だったんだろ? 幽霊が嘘だったら、ぼくはどうやってその話を知ったわけ?」

「ああ、それ」

 あたしは自分の声が急激に冷たくなっていくのを感じた。雨の音が一オクターブ下がったような気がする。鼓膜の奥で、小さな耳鳴りがした。

「確かにね。ハムカツ話は本当だった。だから、幽霊はいるのかもって、あたしも信じかけちゃった」

「だったら──」

「簡単な話じゃん」あたしは言った。「トモちゃんがあたしのパパなんでしょ?」

 ざあっと。

 雨の代わりに沈黙が降った。あたしたち二人の間に。

 十年という年月を洗い流すみたいに。

「それしか考えられないよ。どうして、トモちゃんは突然あたしの前に現れたのかな。十五も年が離れてるのに、どうしてあたしと仲良くしてくれてるのかな。どうして、ママはパパのことを何も教えてくれないのかな。どうして、ママは誰かに怯えてるのかな。誰がママを脅してるのかな。あたしたち親子の生活を、誰が壊そうとしてるのかな」

 あたしはトモちゃんの顔をまっすぐに睨んだ。

「ねえ、パパ。どう思う?」

「違う」トモちゃんはそれだけ言った。たくさん口を動かしているのに、それしか言葉が出てこないみたいだった。

「違う。脅してなんかない」

「違わない」

 あたしは静かに言った。でも、雨の音もあたしの声をかき消すことは出来なかった。

「あたしが生まれたのは十年前。トモちゃんはそのとき高校生? それとも中学生かな。ママが隠したがるわけだよ。それで、パパの前から姿を消して、一人であたしを産んだんだ。パパはたぶん、あたしが生まれたってことさえ知らなかったんじゃない?」

「だったら──」

「テレビでしょ」あたしは続けた。「この間、あたしとママがテレビに出た。全国放送だったもんね。それで、あたしの存在を知ったんだ。あたしに会って、確かめて、ママを脅そうって考えた。かわいそうなママ。そんな風に脅されたら、どうしようもないもんね」

 雨がどんどん強くなる。トモちゃんが必死に何かを叫んでいたけど、あたしにはもう聞こえなかった。あたしはただ、やるべきことをやるだけだ。

「あのさ。今夜、新しいパパと約束をしてるの。三人で顔合わせなんだって。とっても大事な日だって、ママが言ってた。だから悪いんだけど、しばらくここにいてくれる? 邪魔されたくないんだ」

 コツン、と金網を叩く。雨粒が伝って落ちる。涙みたいに。

 あたしは泣いたりしないけど。

「由佳」

「ばいばい、パパ」

 あたしは飼育小屋に背を向けた。傘の中に顔を隠して家に帰る。

 結局、その夜は予報以上の大雨で、顔合わせの約束はなしになった。

 大雨による土砂崩れが釣り堀を飲み込んだことを知ったのは、次の日の朝のことだった。

 

11

 

「ついたよ」

 神林くんがそう言って、ぼくらは足を止めた。太陽は大きく傾き、彼の足元に長い影が伸びている。もう何年もの間、ぼくは自分の影を持っていなかった。

 自分が死んだ瞬間のことは覚えていない。覚えているのはただ、全身が雨に濡れてひどく寒かったこと。明け方に地響きのような不吉な音を聞いたことだけだ。気が付いた時には、すでに生きた身体を失い、魂だけの存在になっていた。死んですぐの出来事だったような気がしたけれど、そうでないことはすぐにわかった。釣り堀の跡地がすっかり埋め立てられ、〈水なし沼〉になっていたからだ。由佳は中学校に上がり、バドミントン部に入っていた。

 彼女が殺されたとき、ぼくはそのすぐ傍にいた。中学生らしい言い争いの末に、運悪く彼女が生命を落とす現場を見た。葬儀にも立ち会い、クラスメイトがさめざめと泣く様を見た。喪主を務めていたのは彼女の母親だったが、その隣に知らない男が立っていた。優しい風貌の男だった。きっと、あれが由佳の新しい父親だったのだろう。ぼくは男を睨んだが、男はまるで気が付かないようだった。

 由佳の死はショックだったけれど、一方で期待もあった。彼女がぼくと同じように、幽霊になってくれるかもしれないという期待だ。由佳には霊感と呼べるものがまるでなかったが、死んで幽霊となった後なら、同じ幽霊であるぼくと言葉を交わすこともできるはずだった。そうなったら、彼女の気持ちを聞いてみたいと思った。

 人殺しになるって、どんな気持ち?

 そう訊ねたら、彼女は答えてくれただろうか。土砂崩れのニュースを知ったとき、彼女の心に生まれた感情は、どんな色をしていたのだろう。飼育小屋の残骸とともに身元不明の死体が見つかったとき、いったい何を考えたのだろう。怖かっただろうか。不安になっただろうか。少しでも、罪の意識を感じたりしたのだろうか。

「まさか、ね」

 由佳は、きっと幸せになったのだろう。ぼくという存在を排除して。新しい家族を手に入れて。中学生になった彼女は、毎日を楽しそうに過ごしていた。ぼくの死は必要な犠牲だったと、そんな風に自分を納得させていたのに違いない。これでよかったのだ。正しいことをしたのだと、心の底からそう信じていたのだろう。

 それが、有賀由佳という少女の本質で、彼女のそんなところがやはり、ぼくは嫌いになれなかった。

 後悔はない。恨みも。誰かを呪う気持ちさえ。そういうのは全部、生きている連中の感情だ。ただ、服装についてだけは、少しだけ悔やんでいる。地味な色味のウィンドブレーカー。こんなことになるなら、もう少し洒落た格好をしておくべきだった。

 幽霊は着替えない。この先もずっと、ぼくらは同じ服を着続ける。

 永遠に。

「ついてくるかい?」

 振り返ってそう訊くと、神林くんは首を横に振った。気を遣ったのかもしれない。夕闇に向かって、ぼくはゆっくりと一歩を踏み出した。

 足跡はつかなかった。柔らかい地面は、ぼくに踏まれたことさえ気づかない。生きていた頃からそうだった。誰もぼくに気づかない。気にしない。

 だからだろうか。

 だから、ぼくは──。

 物置小屋の前に、人影が見えた。学校指定の地味なジャージが、冷たい血に塗れている。死んだ後もずっとこんな格好でいなきゃいけないなんて、彼女にとってはきっと何よりの罰だろう。

 風が吹き、ぼくらを隔てる夕闇を拭い去る。

 彼女がこちらを振り向いた。

「ほらね、由佳」

 ぼくはずっと言いたかった言葉を口にした。

「幽霊はちゃんといただろう?」

 

 

(了)