この町で、ぼくは幽霊だ。誰もぼくに気づかない。仮に気づいても、それとなく顔を逸らして見なかったふりをする。気づかれなければ、存在しないのと同じこと。

 秋風が街路樹の木の葉を舞い上げていた。見覚えのある通りを、名前も知らない人々が歩いていく。人間は毎日服を着替え、少しずつ細胞を入れ替えて、四年も経てば別人になる。町も同じだ。十年も経てば、景色は大きく様変わりする。いくら彷徨さまよい続けても、あの頃の町並みにたどり着くことは決してない。それでも戻ってきたのは何故だろう。自分に問いかけてみても、答えは出なかった。

 赤信号をこっそりと渡り、不動産屋の建物の前を通って公園の方に向かう。おきまりの遊具が置かれたその公園は、はしゃぐ子供たちの声でいっぱいだった。時代が変わっても、子供の笑い声だけは変わらない。ノスタルジーに誘われて、ぼくは公園の入口で足を止めた。柵に囲われた砂場、小さな花壇、滑り台、ブランコ、イルカとアシカのシーソー。最後の一つは記憶になかった。つい最近、設置されたばかりなのだろう。

 小学生らしい子供たちがベンチの周りに固まっていた。男の子ばかりで、女の子は一人もいない。野球帽を被った一際背の高い少年が、どうやらリーダー格であるらしかった。

「なあ。幽霊の話、聞いたか?」

 野球帽の少年は得意げにそう話を振った。おそらく、他の子供たちも知ってはいたのだろう。しかし、誰一人として首を縦に振る者はいなかった。女子の幽霊なんだ、と彼は皆に説明した。血まみれのジャージを着た、中学生くらいの女の子。

 ぼくはぴたりと足を止めた。

神林かんばやしが見たんだと」

「また?」他の少年が呆れ顔で言った。「五年にもなってユーレイかよ。あいつ、いつも同じようなこと言ってんじゃん」

「あれなんだろ。れーばい体質」

「違くね? 単に見えるだけだって言ってたぜ」

「何でもいいよ。どうせ嘘だし」

「でもさ」野球帽の少年が言った。「今度はマジかもしれないぜ」

 ぼくは子供たちから少し離れた場所に立ったまま、彼らの会話に懸命に耳を傾けた。少年の一人がアシカのシーソーに登り、見せつけるようなポーズで飛び降りる。

「知ってるか? 十年くらい前に殺人事件があったって」

「サツジンジケン?」

「バカだろお前。殺されたってこと」

「その話、ガセじゃね? 母ちゃんに訊いたけど嘘だって言われたぞ」

「正気かよ」野球帽の少年が呆れたように言った。「そんなの、正直に教えてくれるわけないだろ。殺されたんだよ、中学生が一人。同級生にさ」

 その通りだ。彼女は死んだ。

 ぼくはそれを知っている。

「じゃ、神林はそいつの幽霊を見たってわけ? 誰か名前知ってる?」

 サチコ!

 ハナ!

 カエデ!

 少年たちはすぐさま、あてずっぽうの名前を口にし始めた。あっという間に、その場の空気がクイズ大会のそれに変わる。正解は誰も知らないらしい。

 ぼくだけが、知っている。

 有賀由佳ありがゆか

 それが彼女の名前だった。

 

 

 人生は楽しんだもの勝ちだ。あたしはママからそれを学んだ。もちろん、直接教えてもらったわけじゃない。ママは物を教えるのが苦手なタイプだし、あたしも人から教わるのって大嫌いだったから、その意味でとにかくあたしたち母子は噛み合っていた。ママは自由に生きることを一番に考えていて、それはあたしも同じだった。パパがどんな人かは知らないんだけど、少なくともあたしはママにそっくり。鼻の高さとか指の長さとか。それも、手じゃなくて足の指。えっと、何の話だっけ? そう、人生だ。

 あたしは人生十一年目の十歳で、見た目は結構かわいい方。二か月前にはテレビにも出た。といっても、芸能界デビューしたわけじゃない。あたしたちの住んでる団地が建築マニアの間で有名らしく、テレビに取り上げられたときに、住民としてちょっとだけインタビューされたのだ。出番はほんの十秒くらいだったけど、あたしもママもテレビに出られて大喜びだった。とにかくそんな感じで、毎日楽しく自由に生きている。由佳の由は自由の由だ。ちなみに「有賀」と「佳」はまだ書けない。でも、有賀って名字は「ありがとう」みたいで何となく好き。

 ママは「ありがとう」が好きだ。「ごめんなさい」は嫌い。何か悪いことをしたときも、誰かに迷惑をかけたときも、「ごめんなさい」じゃなくて「ありがとう」って言う。「ごめんなさい」は言われても嬉しくないけど、「ありがとう」だったらみんな嬉しくなるから。でも、本当は「ごめんなさい」って言いたくないだけなのかも。今年で三十三歳になるのに、まだまだ子供っぽいところがあるのだ。ともあれ、ママの話はこれくらいにしよう。あたしがしたいのは、トモちゃんの話だ。

 トモちゃんと初めて会ったのは、十歳になる誕生日の午後だった。その日、あたしは団地の中の公園でベンチに座って、一人で風船を膨らませていた。風船って言っても、映画の中でピエロが配ってるようなやつじゃなくて、ユニコーンの形をした大きなバルーン。ここでまたママの話に戻るんだけど、ママは楽しいことは全力でやる性格だから、あたしの誕生日のために大きなバルーンをたくさん買ってくれていた。本当は、朝から二人でパーティの準備をするはずだったのだ。バルーンを膨らませて家に飾って、デパートにケーキとプレゼントを買いに行って。

 でも、太陽が高くなる時間になっても、ママはまだ起きてこなかった。昨日の夜、ママは男の人とデートしていて、その後一人でうんとお酒を飲み、朝の五時過ぎになってようやく帰ってきたのだった。ママの彼氏にはまだ会ったことがないけど、とっても素敵な人で、ちょっとだけパパに似ていて、もしかしたら近いうちにプロポーズされるかもしれないらしい。そう話す時のママはとっても楽しそうなので、本当にそうなったらいいなと思う。

 ともかくそんなわけで、あたしは公園のベンチに座り、巨大な銀色のバルーンと一人で格闘していた。こう言うと、あたしが友達のいない寂しい女みたいに誤解されそうだけど、別にそういうわけじゃない。でも、休日の午後って学校の友達はみんな家族と過ごしているし、その時期は仲のいい友達がちょうど入院していたこともあって、自然と一人で過ごす時間が増えていただけ。

 バルーンをようやく半分くらい膨らませたところで、風が吹いた。3号棟と4号棟に挟まれたこの公園は、時々強い風が吹き抜ける。あっと思ったときにはもう遅くて、風があたしの手からユニコーンを攫っていった。ペラペラの尻尾を掴もうとした右手がむなしく空を切る。最悪だ。あのユニコーンが一番楽しみにしていたやつだったのに。

 がっくりして俯いたあたしの肩を、誰かが叩いた。顔を上げると、びっくりするくらい澄んだ両目がそこにあった。

「これ、君の?」

 彼は空気が抜けてペラペラになったユニコーンをあたしに差し出した。くたっとした長い角が、風にはためいている。銀色のバルーンが午後の日差しを跳ね返し、彼の頬に不思議な模様を浮かべていた。

 それが、あたしとトモちゃんの出会いだった。

「君さ、テレビに出てたでしょ。見たよ」

 トモちゃんはあたしの隣に座りながらそう言った。

「へえ、いたんだ。見てくれた人」

 あたしはちょっと嬉しくなった。なんだか、芸能人になった気分だ。

「一緒にいたのはお母さん?」

「そうだよ。美人でしょ」

 トモちゃんは照れたような顔で笑った。それから、せっせとあたしを手伝ってくれた。おかげでバルーンはあっという間に膨らんで、あたしたちはギラギラ光る動物たちに囲まれることになった。もう一度風が吹いて、バルーンを蹴散らす。追いかけようと腰を上げたトモちゃんを、あたしは止めた。

「いいよ、別に。膨らませたかっただけだし」

「でも……」

「誕生日だったの」とあたしは言った。「本当はね、ママといっしょに飾り付けをするはずだったんだ。いいでしょ。色紙で輪っかを作ってる子とかもいるけどさ、ああいうのダサいもん」

「お母さんは?」

「うーん」思わず、苦笑いになる。「ママはちょっと、疲れているから。夕方まで起きないよ、きっと」

 そして起きたら、あたしに「ありがとう」って言うのだ。寝かせてくれてありがとうね、とか何とか。

「……お父さんは」

「いない」あたしはなるべくカラッとした口調で答えた。「知らないんだ。あたしが生まれる前に死んじゃったから」

 トモちゃんは小さく「そっか」と頷いた。少し哀しそうな顔だった。

「じゃ、買いに行く? ケーキとか」

「あたし、お金持ってない」

「ぼくは持ってる」とトモちゃんは言った。「ぼくが買って、ぼくが食べる。でも、半分くらいなら、分けてあげてもいいよ」

「決まり」

 パァン、と。あたしたちは互いの手を叩き合わせた。あたしたちは団地から歩いて五分のところにあるお菓子屋さんでモンブランを買って二人で食べた。そして友達になったのだった。

 

 トモちゃんはオトナだった。それまで友達になったどんな子とも違っていた。自慢じゃないけど、あたしは友だちが多い方で、毎年冬休みには年賀状の書きすぎで手が痛くなる。でも、教室の友達はみんなやっぱりそれなりに子供で、特に男子なんてバカばっかり。

 トモちゃんはそういう子たちと全然違って、物知りだし、頭も良かった。それにたぶん、ちょっとだけ変わり者。じゃなきゃ、団地の真ん中で風船を膨らませてる女の子に話しかけたりはしないもの。

 それから、トモちゃんは携帯電話を持っていて、これもあたしにとっては良いニュースだった。あたし自身、ママに携帯を持たされていたのだけど、教室の子たちは他に誰も持っていなかったから、家族以外に連絡できる相手がいなかったのだ。メールをやり取りできる相手が見つかってあたしは有頂天になり、毎日のようになんでもないことを書いて送った。教室の出来事とか、ママとの喧嘩とか、入院しちゃった友達の容態とか、それから……恋の悩みとか。

 団地の中だと誰かに噂されそうだったから、会う時は必ず家から離れた場所にした。あたしは別にどうでもいいんだけど、トモちゃんはそういうところ気にしぃなのだ。それに、ママが知ったらあまり良い顔をしないだろうという予感があった。

「トモちゃんってさ、友達いないでしょ」

 ある日のこと。二人で夕方の川べりを歩きながら、あたしは訊いた。川の上を滑るように大きな白鷺が飛んでいる。夕闇が少しずつ、石だらけの河原に忍び寄り始めていた。

 どうしてそんなところを歩いていたのかと言えば、ちょっと前に自転車に乗った松井くんたちを見つけて、慌てて逃げてきたから。松井くんのことは好きなんだけど──というか、好きだからこそ、トモちゃんと一緒にいるところを見られて、余計な勘違いをされることは避けたかったのだ。

「いないってことはないけどなあ」

 怒るかなと思ったけど、トモちゃんは表情ひとつ変えずにあたしに言った。こういうところが、やっぱり大人だ。

「本当にぃ? でもさ、ぜったい誰にも心を開いてないでしょ。うわべだけの友達。略してうわ友」

「誰でもそういうものじゃない?」

「そりゃ、少しはね。でもトモちゃんはそうじゃない。何か隠してるでしょ。誰にも言ってないヒミツ」

「そうかな」トモちゃんは顎を掻いた。「君も似たようなものじゃない?」

「あたし? 別にヒミツなんてないけど」

「でも、周りに壁を作ってる。誕生日の風船だって一人で膨らませてた」

「いや、あれは違うから」あたしはムキになった。「日曜日だから、友達呼ぶのも違うかなって思っただけ。みんな家族と過ごしてるもん」

「遠慮とかするんだ」

「そりゃ、するよ。遠慮しなくていいやつもいるんだけどさ、この間入院しちゃって。退院は来月なんだって。ま、いいけどね。もうすぐあたしにもパパが出来るし。再婚するんだって、ママ」

「再婚?」

「あ、違うか。そもそも、パパとは結婚してなかったのかな。うーん、よくわかんないけど、とにかくあたしに二人目のパパができるってこと。楽しみだな。あたし、パパってよくわからないから。男の子には厳しいけど、女の子には甘いんでしょ? 奴隷みたいに言うこと聞いてくれるらしいじゃん」

「そんなことはない気がするけど」

 トモちゃんは苦笑いした。

「じゃあ、前のお父さんのことは?」

「そもそも覚えてないし」あたしは笑った。「何にも知らないもん。完全に知らない人だよね。興味がないってわけじゃないけど、ママは絶対教えてくれないから、まあいいかって」

「寂しいね」

「別に」あたしは鼻を鳴らした。「大切なのは、今でしょ。寂しくないよ、あたしはね。寂しそうな顔してるのは、トモちゃんじゃん」

「そうかな」

「そうだよ。じゃなかったら、どうしてあたしに話しかけたの。なんで今もこうやって、あたしといっしょにいるの?」

「それは……」トモちゃんは照れくさそうに言った。「何となく、放っとけないから。っていうのじゃダメかな」

「キモいよ、それ」

 あたしは笑った。トモちゃんも笑った。教室のみんなとはぜんぜん違うその笑顔が、あたしはたぶん好きだった。

 

 

 出会ったばかりの頃、彼女はぼくのことをトモちゃんと呼んだ。驚かなかったと言えば嘘になる。そんな風に誰かから呼ばれたことはそれまでの人生で一度もなかったし、何よりちょっと馴れ馴れしい。でも、それが彼女の良いところでもあった。

 ぼくに限ったことではなく、彼女はどんな相手でも──それが年上の大人や先生であっても──フランクな態度を取っているらしかった。実際には、彼女はまだ十歳だったのだから、フランクというよりは舐めた態度、というべきかもしれない。とはいえ、そこに嫌味はなく、彼女自身の快活さのおかげもあって、みんな最後には心を許してしまうのだ。もちろん、ぼくもその一人だった。

「ねえ」

 小学校の校門から、数人の女子生徒が出てくる。その中の一人がこちらを見ているような気がして、ぼくは思わず声をかけた。「神林くんっていう子は、まだ学校にいるかな。五年生だと思うんだけど」

 女子生徒はぼくを無視した。こちらを見ることさえしなかった。まあ、当然の反応ではある。こうなることは予想の範疇だ。ぼくは肩を落とし、こっそり忍び込むことに決めた。くたびれたウィンドブレーカー姿の二十代男性。どう考えても通報ものだが、見られなければ問題はない。

 小学校の敷地内は、どこも砂にまみれていた。校庭の遊具、チャボの飼育小屋、校舎裏の花壇、昇降口と渡り廊下。通っていた頃は気づかなかったけれど、こんなにも薄暗く、砂っぽい空間というのは他にない。

 校舎に入ろうか躊躇ためらっていると、囃し立てるような声が聞こえた。公園にいた少年たちのものと異なり、はっきりと悪意が滲んでいる。自然と足がそちらに向かった。

 サッカーゴール近くの洗い場に少年がいた。痩せていて、背も低い。針金のような髪の毛が、周囲の空気を刺している。彼は諦めたような顔でずぶ濡れになったスニーカーを洗い場から取り出し、去っていく少年たちを見送っていた。裸足だった。靴下は少し離れた土の上に捨てられていた。

「誰?」

 少年がぼくに気づく。両目の輪郭は滲んでいたが、声はしっかりとしていた。

「何で雨合羽なんか着てるの?」

「これはウィンドブレーカー」とぼくは答えた。「雨合羽じゃない。人を捜してるんだ。神林っていう男の子」

 言いながら、すでにぼくは悟っていた。捜し物は、どうやら見つかったらしい。

「ふうん」と彼は答えた。「じゃ、見つかったね」

 そうみたいだ、とぼくは答えた。

 

 神林幸平こうへいは、五年生だった。名前と違って、あまり幸の多い学校生活を送ってはいないらしい。

「一応訊くけど」とぼくは言った。「幽霊が見えるって本当?」

 彼は黙ってうなずいた。

「それってさ、どうしてわかるの。幽霊だって、見てすぐわかるもの?」

「死に方によるかな」と彼は答えた。「事故で死んだやつはわかりやすいよ。血だらけだったり、身体に穴があったりするから。そうじゃないやつはパッと見じゃわかんないこともあるけど、何回か見ればやっぱりわかる。服でさ」

「服?」

「うん。幽霊は着替えない。いつも同じ服を着てる」

 なるほど。思わず、小さな笑いが口の端からこぼれた。

「あっちに行こうか」

 二人とも目立ちたくはなかったから、ぼくらは校庭の隅に移動した。大きなイチョウの木の陰に身を隠す。神林くんの靴はずぶ濡れで、当分乾くことはなさそうだった。気の毒に思ったけれど、ぼくに出来ることは何もない。何より、こういう時へたに心配するのはプライドを傷つける行いだということを、ぼくはよく知っていた。

「実は、幽霊を捜しているんだ」とぼくは言った。「中学生の女の子でね。君がよく似た子を見たって、風の噂に聞いた」

「どんな声だった?」

「何が?」

「声だよ。風の声」

「ああ」ぼくは笑った。「嫌なやつだったな。乱暴そうで。威張り散らして」

 ぼくの答えを聞いて、ようやく彼の表情がやわらいだ。足元に積み重なった黄色い葉をつま先でいじる。

「見たよ」と彼は言った。「おじさん、知り合い?」

 おじさん、という呼び名に少したじろぐ。確かに、小学生からしたら、二十五歳のぼくなんておじさんといって差し支えないのだろうけど。

「知り合い……、友達かな」ぼくは答えた。「どこで見たのか、話を聞いていい?」

「あそこだよ。昔、釣り堀があったっていう……」

「〈水なし沼〉?」

「そう。そこ」彼は頷いた。

 予想していた答えではあった。たぶん、そうではないかと思っていたのだ。〈水なし沼〉は彼女が死んだ場所だったから。

「どんな様子だったか覚えてる? つまり、幽霊がって意味だけど」

「えっとね……。ジャージを着てた。学校指定っぽい、緑色のやつ。それで中学生かなって思ったんだ。生きた人間じゃないってことは、すぐわかったよ。頭の半分が血まみれでさ」

「話したかい?」

「ううん。そういう雰囲気じゃなかったし。幽霊って、大抵みんなお喋りなんだけどね。なんだかぼーっとして、自分が幽霊になってることにも気づいてないみたいだった」

「ひょっとしたら、最近幽霊になったばかりなのかも」

 ぼくが言うと、彼は不思議そうな顔をした。

「でも、事件があったのは大昔のことなんでしょ」

「知っているのかい? 事件のこと」

「ちょっとだけ。詳しくは知らない。大昔に、中学生が殺されたって」

「十年前だよ」ぼくは言った。「大昔じゃない。それに、死んだらすぐ幽霊になるってわけでもないからね。残されたものが少しずつ集まって、何年も後に幽霊として形を成すこともある」

「詳しいね、おじさん」

「ぼくも君と同じだからね」

「同じ?」

「幽霊が見えるんだ」

 ぼくは答えた。冷たい秋風が、黄色い木の葉を運んでいった。

 

 

「幽霊が見えるんだ」

 トモちゃんがそんなことを言い出したのは、出会って二週間ほど経った頃だった。あたしたちは自転車に乗って、家から少し離れた釣り堀の跡地にやって来ていた。歩いて行けない距離じゃないけど、その日はとにかく暑かったのだ。わざわざこんな町はずれまでやってきたのは、トモちゃんが「ヒミツの話をしたい」と言い出したことがきっかけだった。まさか、幽霊の話になるとは思ってもみなかったけど。

「幽霊って……お化けのこと?」

 澱んだ池の水を横目に見ながら、あたしは訊き返した。一年くらい前に潰れた釣り堀は、今や何の手入れもされず、そこら中で草が伸び放題になっている。

「何、いきなり。ヒミツの話ってまさかそれ?」

「うん。前に言ってただろ。ぼくが隠し事をして、誰にも心を開いてないって。これが、その秘密」

 あたしは大きく息を吐いて、トモちゃんの肩を優しく叩いた。

「あのね、トモちゃん」ゆっくりと語りかける。「幽霊なんていないんだよ。天国も地獄もない。魂もない。人間は死んだらおしまいなの」

「どうしてわかるの? 見たこともないのに」

「見たことないからだよ。いい? 幽霊なんていないし、地球は丸くて太陽の周りを回ってる。トモちゃんには難しい話かもしれないけど……」

「地球が丸いって証拠は?」

「写真があるもん。教科書に載ってる」

「幽霊だって写真があるよ」

「教科書には載ってないじゃん」

 トモちゃんは雑草を踏みつけながら、釣り堀の奥を目指してずんずんと進んでいった。一つ目の池を通り過ぎ、奥の池に向かう。ふくらはぎを雑草にちくちく刺され、あたしはうんざりした顔で天を仰いだ。

「こんな場所、よく見つけたね」

 トモちゃんがあたしの方を振り向きながら言った。

「学校じゃ有名だよ」あたしは答えた。「知らない? でっかいエビが捕れるって男子たちが話してる。危ないから入るなって言われてるんだけどね」

 釣り堀の奥にあるのは、ひょうたん型の小さな池だった。水は濁りきっていて、おまけに藻が水面を覆っているせいで池の中は何も見えない。魚はほとんど死んでいて、虫とエビの楽園になっているらしい。山の斜面に面した池の奥側に、粗末な飼育小屋が一つ、ぽつんと寂しく残されていた。まだ釣り堀に人がいた頃は、ここで鶏を飼っていたのだと、クラスの男子に教えてもらったことがあった。

「やっぱり、信じられない? 幽霊のこと」

 拗ねたように、トモちゃんが飼育小屋の扉を小突いた。留め具にぶら下がった南京錠が危なっかしく揺れる。

「信じない」とあたしは言った。「人間は死んだら終わりだもん」

 だって……、そうじゃなかったら、嫌すぎる。死んでからも、ずっとずっと同じあたしが続いていくなんて。退屈で死んじゃいそう。

「じゃあ、勝負しようか」トモちゃんは微笑んだ。「幽霊がいるって証明できたら、ぼくの勝ち。そうじゃないって証明できたら由佳の勝ち」

「いいよ」

 あたしは笑った。トモちゃんはバカだ。幽霊がいるなんて証明、できるわけがない。

「ていうかさ、幽霊ってどうやって見分けるの?」

「簡単だよ。幽霊は着替えない。いつも同じ服を着てるんだ」

「え? じゃあもしかしてトモちゃんも……」

「ぼくは着替えてるよ」

 トモちゃんはむっとしたようにグレーのTシャツの裾をつまんだ。

「似たような服が多いだけ」

「冗談だって」あたしは笑って、汗だくの髪をかき上げた。「で、どうするの。幽霊がいるって証明してくれるんでしょ?」

「うん、そうだよ」

 トモちゃんは言って、ためらうように視線を落とした。虫の声がじいじい煩い。こんなに生命にまみれた場所で幽霊の話をしているのが、ひどく馬鹿らしく感じられた。

「由佳はさ、お母さんと二人暮らしなんだよね。お父さんのことって、本当に何も知らない?」

「パパ?」

 あたしは面食った。なんで、いきなりパパの話になるんだろう。

「知らない」とあたしは答えた。「写真もないし、ハンサムだったってママは言ってたけど、それ以外のことは何も。誕生日とか、血液型とか、好きな食べ物とか、苦手なこととか。何にも知らないや」

 言いながら、何だかプロフ帳みたいだなと思う。パパがいなくて寂しいと思ったことはないけど、プロフ帳を交換できたら、ちょっと面白かったかもしれない。「すきなひと:由佳」なんて書いてくれたりしてさ。

「今日だよ。六月二十九日」とトモちゃんが言った。

「何が?」

「誕生日」トモちゃんはまったく表情を変えなかった。「君のお父さんの」

「は? どういう意味? 何でトモちゃんが知ってるの?」

「血液型はAB型。好きな食べ物はハムカツサンド。好きなスポーツはサッカー。ただし見るだけ。泳ぐのは得意だけど、ボールを使うスポーツ全般が苦手なんだって」

「何言って……」

 あたしは言いかけて口をつぐんだ。ようやく、彼の言いたいことに気づいたのだ。トモちゃんは幽霊が見える。見えるなら、話すことも出来るのかもしれない。

「会ったの? パパの幽霊に?」

 申し訳なさそうに、トモちゃんは頷いた。信じてほしいという気持ちと、どうせ信じてもらえないという諦めが、半分ずつ混ざり合った顔。

「あたしは見たことないのに」

「だろうね。でも、ぼくには見えるんだ。一昨日、いきなり話しかけられてさ。君といっしょにいるところを見られたんだろうな。参ったよ」

 あたしは雑草に覆われた地面を呆然と見つめた。パパがいる? この町に? 幽霊ってことは、パパは成仏できてないの? どうして?

「パパは……何て言ってた?」

「君に会えなくて寂しいって。それから……」

 トモちゃんは何かに迷っているようだった。あたしはイライラして、早く続きを言うように促した。優柔不断な男って、嫌い。

「わかったよ」トモちゃんは神妙な顔で言った。「自分のことを忘れないでほしい、ってさ」

 パン、という音がした。頭の中で。

 それから、わけのわからない怒りがあたしの中にわき上がってきた。こんなの、ひどい。何がひどいのかわからないけど、とにかくひどい。

「嘘つき」

 あたしは吐き捨てるように言った。トモちゃんの顔が歪む。

「信じてもらえないかもしれないけど……」

「嘘つき!」あたしは叫んだ「嘘つき嘘つき嘘つき。最低の嘘つき。二度とパパの話なんてしないで!」

 肩を怒らせて自転車に戻る。スタンドを力任せに蹴りつけると、湿った土がどさっと散った。後を追ってくるトモちゃんを無視して、あたしは自転車に飛び乗った。

「トモちゃんのバカ!」

 怒りを込めてペダルを踏む。どれだけ早く進んでも、泣き出しそうな空の雲があたしをずっと追いかけてきた。

 

 その夜、いつもより早く帰ってきたママはご機嫌だった。お蕎麦にかき揚げを載せて食べながら、発泡酒の缶を見る見るうちに空けていく。食卓にはスーパーで買ってきた揚げ物がたくさん並んでいた。かき揚げ、えび天、から揚げ、メンチカツ……。でも、ハムカツはなかった。

 御馳走だねとあたしが言うと、ママは嬉しそうに「わかる?」と笑った。

「今日、いいことあってさあ。ほら、武藤むとうさんって知ってるでしょ。ママの嫌いな人」

「お仕事の人でしょ? ママがいっつも叱られてる」

「あの人が細かすぎるの」ママは鼻の穴をふくらませた。「できるわけないことを押し付けてさ。毎回毎回。こんなことも出来ないのかって。あー、最悪」

「で、武藤さんがどうしたの?」

「それがさー、笑っちゃうのよ。詐欺にあったんだって」

「詐欺?」あたしは思わず大声を出した。壺とか布団を売りつけられたんだろうか。

「なんかね、先週の土曜日に屋根の修理工の人が家に来たんだって。無料で屋根の点検をやってますって。それで武藤さん、じゃあお願いしますって頼んだらしいの。そしたら案の定、屋根の西側が壊れてましたよって写真を見せられて。十万円くらい? で修理をお願いしたのね」

「ふうん。よかったじゃん」

「違うんだなーそれが」ママはにやにやした。「詐欺なのよ、それ。無料の点検ですって言って屋根に上って、自分で屋根を壊しちゃうの。それを写真に撮って持ち主に見せて、修理代をぼったくるってわけ。最近多いのよ、そういうの。顔を覚えられないように町から町に渡ってね、同じ手口でお金を稼いでるんだって。引っかかる方も馬鹿よねえ。由佳も気を付けなさい? 知らない人は絶対家に上げないこと」

「はーい」

 あたしは答えたけど、心の中ではママに突っ込みを入れていた。あたしたちが住んでいるのは団地の三階。屋根の修理なんて来るわけがない。

 レンジで温めなおしたメンチカツをお箸の先でほぐす。たっぷりソースをかけたそれをせっせと口に運んでいると、ふとトモちゃんの話を思い出した。

「ハムカツって、どこで買えるんだろ」

 ぽつりと漏らしたあたしの言葉に、ママがぴたりと箸を止めた。

「食べたいの?」

「うん。ハムカツサンド」

「どうして?」

「どうしてって──」

 まずい。ママの目が少しずつ細くなっていくのを見ながら、あたしは悟った。糸目になるのは良くない傾向。おまけに声も裏返る寸前だ。

「えっと」あたしは困り切って、正直に話すことにした。「パパが好きだったんでしょ。だから、どんな味なのか気になって」

 何の話? と笑われるかと思った。そんな話、聞いたことがないとか、ハムカツサンドなんて子供が食べるものでしょとか、ママがそう言ってくれることをあたしは期待していた。

 でも、ママの反応はそのどちらでもなかった。

「どこで聞いたの」

 ママは箸を置き、手を膝の上でそろえてあたしを見た。

「誰に訊いたの、それ。ママはそんな話、したことないもんね。お祖母ちゃん? そうなの?」

「えっと、その──」あたしは口ごもった。「わ、わかんない」

「わかんないってことはないでしょ。それとも思い出せないくらい昔に訊いたの? 違うでしょ。これまで一度だってハムカツの話なんかしなかったもんね」

「わかんないよ!」

 あたしは手に持った箸を食卓に叩きつけた。幽霊に教えてもらったなんて、とても言えない。トモちゃんのことを話そうかとも思ったけど、それも嫌だった。

「夢で見たの!」あたしは破れかぶれになって言った。「パパが夢に出てきて美味しそうに何か食べてたから訊いたの。そしたらハムカツサンドだって教えてくれたの! それだけ!」

 ママは反射的に手を上げ、それをまたゆっくりと下ろした。ぎゅっと唇を噛み、肩を何度も上下に動かす。

「あのね」とママは目を見開いて言った。「今はとっても大事な時期なの。ママにとっても、由佳にとっても。わかる?」

 あたしは小さく頷いた。それからかき揚げとから揚げと海老の尻尾を全部まとめて口の中に詰め込んだ。

 

 その夜、あたしはトモちゃんにメールを打った。

「幽霊なんて信じない。もう会いたくない」

 ところが、そうはいかなかった。

 幽霊アパートの噂が教室に広まり始めたのは、それから三日後のことだった。

 

 

 ぼくと由佳が出会ったばかりの頃、〈水なし沼〉にはまだ水があった。すでに釣り堀としては閉鎖されていたけれど、二つある池にはまだどちらも水が溜まっていて、虫やらエビやらが繁殖していた。〈水なし沼〉になったのはそれからしばらく経ってのことで、台風の夜に奥側の池が土砂崩れで埋まってしまい、残ったもう片方も危険だということで水を抜かれ、埋め立てられることになったのだった。何かに転用するつもりだったのだろうが、結局計画は頓挫し、今日に至るまでずっと、ただの空き地として放棄されている。

 小学校から〈水なし沼〉までは、少し距離があった。自転車なら十分ほどだが、歩くと三十分はかかるだろう。小学生のペースに合わせる以上、所要時間はさらに増えそうだった。道案内はいらないと言ったのだが、神林くんはどうしてもついていくと言って聞かなかったのだ。ぼくみたいなやつに会ったのが初めてで、嬉しかったのかもしれない。

「ねえ、前からなの?」彼は嬉しそうな口調で訊いた。「幽霊が見えたのって」

「最初は五歳くらいだったかな」

 ぼくは答えた。無邪気な子供と話していると、言いようのない罪悪感がこみあげてくる。

「はっきり自覚したのは小学校に入ってから。それまでは、自分以外にも同じような子がいるだろうって思ってたんだ。でも、教室に入ったら、それが間違いだってすぐにわかった。君は?」

「ぼくもだいたい同じ。おじさんは──」

 ぼくは思わず自分の名前を教えようとしたが、結局やめた。名無しのおじさんでも、別に構わないではないか。

「誰かに話した? つまり、幽霊が見えるってこと」

「一人だけね」

「その一人って、もしかしてこれから会いに行く幽霊の子?」

「勘がいい」とぼくは褒めた。「彼女──由佳にだけは、話したんだ。あの子は幽霊なんか信じないって言ってね。ぼくは勝負を持ちかけた。幽霊がいるって証明してみせるってね」

「なんで?」

「理由があったんだ。色々ね」

「気を引きたかったとか?」

 ぼくは答えなかった。

「あのさ」神林くんは心配そうに言った。「その子──由佳ちゃんって、幽霊に殺されたわけじゃないんだよね?」

「うん」ぼくは頷いた。「それは違う。同級生の女の子に殺されたんだ。その子にどこまで殺意があったのかはわからないけど、半分は事故みたいなものだった。それで、ビニールシートでぐるぐる巻きにされて……、何も知らない男の子が一人、埋めるのを手伝わされた」

 思わず、ため息がこぼれる。自分がその現場にいたことは言わなかった。

「由佳はね、いわゆるいじめっ子だったんだ。昔からそういうところはあったんだけど、きっと中学校に入ってからひどくなったんだろうな。その子はずいぶん酷い目に遭わされていたらしくてね。喧嘩になって、そのまま」

「……どんな気持ちだったのかな」

 神林くんは俯いたまま呟いた。

「いじめられてた子はさ。相手を殺して、すっきりしたと思う?」

「さあ……、どうかな。でも、誰も幸せにはならなかったと思うよ」

 ぼくはゆっくりと、噛み締めるように言った。神林くんは何も言わなかった。彼は賢い。ぼくの言いたいことを、彼なら理解できるだろう。

「……幽霊もずいぶん減ったよ」

 少しずつ殺風景になっていく町並みを見つめながら、ぼくは言った。

「昔は、幽霊屋敷の噂があちこちにあった。今は違う。たぶん、これからもどんどん減っていくんだろうな。だからまあ、大丈夫だよ。そのうち、君も普通の子供と変わらなくなる。幽霊が絶滅したらね」

「どうして減ったんだろ。みんなが幸せに死ねるようになったから?」

 ぼくは笑った。子どもらしい、素敵な意見だ。

「そうならいいけど。たぶん、町から人がいなくなったからだろうな。それに、古い家もずいぶん取り壊されたし、建て替えられた。あの幽霊アパートだって──」

「幽霊アパート?」

「そういう噂があったんだ」

 そうして、ぼくは話し始めた。幽霊アパートで起こった事件。

 洗濯物の幽霊の話を。

 

 これは由佳から聞いた話だ。

 幽霊を見たと言ったのは、由佳の隣のクラス──四年二組の松井という男子だったそうだ。彼のことは、ぼくもよく知っている。由佳と歩いているときに見かけたことがあったし、何より彼女はしょっちゅう「松井くん」の話題を出した。わざわざ隣のクラスまで彼女が押しかけていたのも、つまりはそういうことだろう。

「ただの幽霊じゃないんだ」と彼は教室の友人たちに説明した。「洗濯物なんだ。洗濯物の幽霊なんだよ」

 当然のことながら、友人たちから返ってきたのは小馬鹿にしたような反応だった。

「なんだそりゃ」

「お化けかと思ったら洗濯物だったってオチ?」

「どこが怖いんだよ、そんなの」

 しかし、松井くんはそれなりに整った顔立ちと、小学四年生にしてはかなり恵まれた体格を有していた(おまけに足も速かった)から、取り巻きたちも本気で彼を馬鹿にするようなことは言わなかった。そして、松井くんは余裕綽々の表情で自分の体験を語り始めた。それは次のような話だった。

 二日前のこと。太陽がほとんど沈んだ薄暗い道を、松井太一たいちは家に向かって急いでいた。道の右手には住宅が立ち並び、左手には畑が広がっている。送電塔のシルエットが、夕焼け空を貫くように真っすぐ立っていた。

 毎日通る道だったが、彼はその場所が嫌いだった。畑には目玉の風船がいくつも揺れていて不気味だったし、街灯が少ないせいで全体的に薄暗い。おまけに、蔦に覆われた古い建物がいくつもあった。

〈みさと荘〉はそうした古い家屋のなかでも、とびきりボロボロの建物だった。二階建ての木造アパートで、今にも崩れそうな見た目をしている。両隣はそれなりに小綺麗な民家だったから、余計に〈みさと荘〉の異様さは目立った。二階に上がる外階段は錆びて崩れ落ち、外廊下も崩落している。壁は蔦に覆われ、隣の民家との隙間には、壊れた自転車やら空桶やらといった、無数のがらくたが詰め込まれていた。

 そんな状態でも、どうやら完全な廃墟というわけではないらしい。二階にこそ人の気配はなかったものの、一〇二号室にだけは、まだ誰かが住んでいるという話だった。オーナーの親戚なのか、他に行くあてのない貧しい老人なのか。ともかく、夜になると薄っすらと明かりが点き、時々生活音も聞こえるので、無人でないことだけは間違いがなかった。

 彼は〈みさと荘〉の方をなるべく見ないようにして、足早に通り過ぎようとした。ところが、出来なかった。アパートの前に人影があり、彼の方をじっと見つめていたのである。

 おそらく、アパートの住人なのだろう、と彼は推測した。地味な服を着た若い男だった。せいぜい三十歳かそれくらい。男はみすぼらしい格好をしているわけでもなく、廃墟のようなアパートで暮らしているにしてはあまりにも普通の見た目で、それがかえって不気味だった。

「それが幽霊だったの?」

「まさか」松井くんは友人を窘めた。「ここからさ」

 その若い男は唐突に彼に話しかけてきた。あまりに自然に声をかけてくるので、彼自身知り合いと錯覚しそうになったほどだった。

「もうすぐ暗くなるよ」と男は言った。「急ぎなさい」

 いったい何の話だろうと松井くんは困惑した。おまけに、急ぎなさいと言ったくせに、男はなおも話し続けてくる。知ってるかい?君。 昔ね、このあたりで首吊り自殺があったんだ。二階のあたりでこう、首を括ってね。だから急いだほうがいいよ。

 松井くんが何も言葉を返せないうちに、男は立ち去ってしまったという。松井くんは茫然とその場に立ち尽くし、夕闇に塗りつぶされた畑の土を見つめていた。首吊り死体だなんて嫌なことを聞いた、と彼は思った。意識すまいと思うほどに、男の言葉が頭から離れなくなる。絶対にアパートの方を見ないようにしながら、無理やり前に進む。その時だった。

 ぱたぱた、という音が聞こえた。

 嫌な予感がした。絶対に音のした方向を見たくないと彼は思った。だが、気づいたときには身体が〈みさと荘〉の方を向いていた。

 何かがいた。廃アパートと民家の間の細い隙間、ちょうど二階の高さに。ワンピースを着た人影のようなものが浮かんでいた。暗くてよく見えなかったが、赤い花柄のようだった。スカートの裾がヨットの帆のようにはためき、ふらふらと揺れている。

 ──首吊り自殺があったんだ。

 男の声が蘇り、彼は一目散に駆けだした。

「逃げたの?」

「まあね」

 由佳の問いかけに、松井くんは照れくさそうに答えた。

「でも、途中で我に返ってさ」

 見間違いかもしれない、という考えが急に浮かんだ。冷静になって考えれば、幽霊なんかいるわけがないのだ。ベランダに干された洗濯物を見間違えただけではないのか? よくよく思い返してみれば、その可能性はかなり高そうだった。ハンガーにかけられた洗濯物なら、ちょうどあんな風に見えるのではないか?

 松井くんは足を止め、元来た道を引き返した。漠然とした恐怖よりも、あれが「幽霊ではない」ことを確かめたいという気持ちが勝っていた。

 幽霊はいなかった。数分しか経っていないはずだったが、はためいていた人影は忽然と姿を消していた。

「でも、それだけじゃないんだ」

 幽霊を探して目を凝らしていた彼は、あることに気づいた。〈みさと荘〉の二階には、ベランダなどなかったのだ。かつては金属製の柵が窓まわりに取り付けられていたのだろうが、それも劣化して崩れ、わずかな残骸が残るにとどまっている。当然、物干し竿をかけられる場所もない。仮に二階の住人がいたとして、窓の外に洗濯物を干すことは、物理的に不可能だった。

「だとしたらさ」と彼は話をしめくくった。「あの夜、俺が見たのは何だったんだろうって。考えれば考えるほど嫌な気持ちになるんだ。幽霊なら幽霊ってことでいいよ。幽霊なのかそうじゃないのか、はっきりしないのが何か一番不気味でさ……」

 話を聞いていた友人たちはこわごわと互いに見つめ合った。たしかに気味の悪い、掴みどころのない話だった。

 そんな中、自分が幽霊の正体を確かめてみせると宣言した生徒がいた。

 由佳だった。

 

(つづく)