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 びんぼう暮らしの極みから、にじり寄るように社会にもどってきた。気がつくと、いろんなことがすこしだけマシになっている。

 

 まず、このところぼくは、ペットボトルばかり買っている。ほんの半年前までは、出先で喉がかわいてしまうことがこわくて、でも水筒を持ち歩いたり、作り置きをしたりするほどの気力がなかった。けれどいまは、スーパーなら百円しないで買えるようなお茶を、わざわざ自販機やコンビニで買ったりできる。半分まで減ったら、水で薄めて飲む、なんてことをせずにいられる。

 

 その喜びに酔いしれるように、今日もペットボトルのお茶を二本買った。うち一本はヘルシア。

 

 そういえば、ねむる前に家賃、家賃、と考えつづけたり、これまでにいくら払ったかを計算したり、すぐそばにある大家さんの家を、カーテンの隙間から亡霊のごとく睨みつけたりもしていない。

 

 ゲオでは、たまに準新作を借りている。

 

 

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 昼ごろから、まゆちんと中華をたべにいった。まゆちんは高校時代の友だちで、今年のはじめに10年ぶりの再会を果たして以来、毎日だらだらとラインをしたり、しょっちゅうご飯をたべたりしている。

 

 2週間ほど会っていないあいだに、まゆちんはブルーノマーズのライブに行ったらしい。そういえばケータイの待ち受けもずっとブルーノマーズだ。でも理由は「ほかにいいのがないから」で、ライブの感想も「まあよかったよ」だけだった。まゆちんは雑だ。そして今日は、なぜかいけてるマンション住まいのお母さんみたいな出で立ちで、パーマもそんな感じに仕上がっている。

 

 中華のランチは、2千円もしたのにぱっとしない味だった。冷え切っているうえ、ぱっとしない味のものたちが、豪華な器に乗せられて恐縮しきった様子で運ばれてくるのを、ぼくたちは労わるみたいにながめては、淡々と咀嚼していくしかなかった。人のいいまゆちんははじめのうち演技をしていて、ぬるい小籠包を頬張りながら、親指を立てて「グッドグッド」みたいに揺らしていた。まゆちんは雑で、時々寒々しいくらいだけれど、見知らぬ店員さんや、ぬるい小籠包にもやさしさを配る。そして、なんでもたのしもうとする。ブルーノマーズもそのひとつだ。待ち受けは変えたらいいのにと思うけど。

 

 お腹いっぱいになったあとは、チクチクする山下公園の芝生にねころんでアイスをたべた。高いくせに凍りすぎていて、ほぼ味のしないアイスだった。まゆちんといて、おいしいものに出会えた試しがない。ぼくは「まじいな」と文句を言うまゆちんの横で、何度も「グッドグッド」の真似をした。風がぬるくて気持ち悪い。

 

 それから腹ごなしに桜木町まで歩き、ワールドポーターズをさまよった。サンキューマートで長居するのなんて、高校のとき以来だった。かわいいハートの電卓が欲しかったけど、ランチに2千円も使ってしまったのでがまんする。そのとき、ランチに二千円払ってから、ずっと身体の奥のほうが緊張しているのに気がついて、思わずため息をついた。ヘルシアのお茶は買えても、ぼくのふだんの食事は、依然白米と投げ売りの惣菜のパックなのだ。

 

 帰り際、ずいぶん歩いたせいで、だんだん尻が痛くなってきた。脂肪が多いせいか、

 

歩きすぎるといつも左右の尻の肉が擦れて痛くなる。

 

「まゆちん、お尻が痛いよう」

 

 桜木町駅の手前で、とうとう我慢ができなくなって訴えると、まゆちんはくだらないとでも言いたげにぼくを見やって「しらねーよ、てめえでどうにかしろ」と吐き捨てた。

 

「痛いよう、痛いよう。まゆちん、ハンドクリーム貸してよう」

 

「はあ? てめえの尻に塗るんだろ?」

 

「うん」

 

「やだよ」

 

 まゆちんはわかっていない。あと一歩でも歩いたら、尻から発火しそうだったのだ。

 

「もう歩けないよう」

 

 恥を忍んで泣きつくと、まゆちんは「しかたねえなあ……」と言って、おしゃれなハンドクリームをバッグから取り出した。

 

「ほら、はやくしろよな」

 

 まゆちんはやさしい。

 

「いまここで塗るから、ちょっと見張ってて」

 

 切羽詰まっていたぼくはそう言うと、「えっ!」と困惑するまゆちんの視界を横切って、サッと植木のあいだに隠れた。そしてズボンに手をつっこみ、チューブからひねり出したいい香りのするクリームをすばやく尻に塗りたぐった。やわらかいクリームですら触れるとヒリヒリして、「ううっ」と声が出てしまう。

 

 そのあいだ、まゆちんはぼくを沿道の視線から守るようにして立っていた。こんなことでも、一応は真剣にやり遂げる背中を見ていたら、しぬほど尻が痛いのに、おかしくてたまらなかった。

 

「なに笑ってんだよ、早くしろよ」

 

 そういうまゆちんも、タコの吸盤みたく噛み心地の良さそうな顔を、くしゃっとさせて笑っている。

 

 まゆちんは最高だ。そしてかけがえのない、ぼくの親友のひとりだ。

 

 しかし、こんなに最高なまゆちんと、どうして10年も連絡をとっていなかったかというと、それはぼくがゲイだからだ。

 

 

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 高校のとき、そう好きでもない男の子とうっかりエッチみたいなことをしてしまい、それから長いあいだ、執拗に殴られたり蹴られたりしていた。いまでも、骨ばった脚から繰り出される蹴りが、バッチリ腰に入ったときの痛みを思い出せるくらい、それは強烈な痛みだった。

 

 仲の良い女の子たちとは、基本的にどんな話もしていた。とくにまゆちんには、隠し事なんてしたことなかった。けれど彼についてはとうとう最後まで打ち明けることはできなかった。また彼にたいして、痛いからやめて、と言うこともできなかった。

 

 いずれも、ぼくがゲイだからだ。口を閉ざすしかない、殴られても仕方がない、と思い込んでいる、ゲイの少年だったからだ。

 

 あるいは彼も、うっかりエッチみたいなことをしてしまった男を拒絶しなければならない、その手段として、暴力を用いなければと思い込んでいる、ただの少年だったのかもしれない。ぼくとまったくおなじ現実を生きていたのかもしれない。

 

 しらんけど。

 

 

 

 友人たちと10年ぶりに再会したとき、ぼくは真っ先に彼についてのあれこれを打ち明けた。やんわりとだけど、自分がゲイだということもだ。

 

 SNSのアカウントもメールも電話もぜんぶブロックし、徹底的にみんなを、というよりあのころの自分を忘れようとしていたぼくを、みんなはほんの2日ぶり、みたいな調子で迎え入れてくれた。そして真剣に話を聞いてくれた。その感じに動揺してしまい、「あいつに殴られてたとか、うけるよね」とおどけたぼくに、「全然うけないよ」と叱ってくれさえした。

 

 13年まえだって、みんなはきっと、こうやって話しを聞いてくれたはずだ。ばかにしたり、笑ったりなんて、ぜったいしなかったはずだ。そういうみんなのことを、ぼくはこころの底から信じていたし、大好きだった。なのにどうしても、助けてとは言えなかった。ゲイですとも言えなかった。

 

 なんかこわかったんだもん。

 

 ぼくは修学旅行先の大阪で、飯代をケチってひたすら「ハンバーガーと水」を頼んでいたあの男の所業や、数年前久々に連絡がきたと思ったら、「メディアでいっさい俺の話をするな」という脅しだったあの男の情けなさをいちいち槍玉にあげながら、13年ものあいだ、あるいはもっと長いあいだ胸を占めていたくるしさが、するする溶けていくのを感じていた。あとには爽快さだけが残った。

 

 ひとしきりDV男についての話題が盛り上がったあと、先日行われたというみずみの結婚式の話になった。みずみは一見冷静でものしずかだけれど、じつは熱烈なアイドルオタクという側面を持つ、けっしてただものではない人物だ。

 

「余興でさ、みんなでピンク・レディーを踊ってくれたんだよ」

 

 そう言って、みずみは結婚式の動画を送ってきてくれた。速度制限をくらっていたぼくは、転がるようにマクドナルドに駆けて行って、わざわざ店員さんにワイファイのつなぎ方を教えてもらうと、夢中になってその動画を見た。

 

 動画には、おそろいの衣装を着て、渚のシンドバッドとピンク・タイフーンを踊るみんなの姿がおさめられていた。にこやかだけど、一糸乱れぬ動きだ。渚のシンドバッドはともかく、ピンク・タイフーンなんてあんまり知ってる人いないのに。

 

「いいなあ、どうしてうちも呼んでくれなかったの」

 

 ふざけ半分で言うと、まゆちんがすかさず答えた。

 

「そりゃあ、断られるの前提で電話したよ。でも繋がらないし、ツイッターもなにもかもぜんぶブロックされてたから、もう私らとは関わりたくないんだって思ったの」

 

 まゆちんは一呼吸置いてつづけた。

 

「すごくさみしかったよ」

 

 ぼくは自分ひとりのさみしさや、くるしさでしか、この10年を測っていなかった。捨て去った時間、捨て去った風景のなかにいる人たちのさみしさや、怒りを想像してみたことがなかった。

 

 ごめんねという気持ちと、ありがとうという気持ちと、うれしさのせめぎあいだった。同時に、身体の奥のほうからなにか熱いものが込み上げてきて、全身がウズウズしてしかたがなかった。

 

 

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 ピンク・レディーを好きになったのは、中学三年の冬だった。クリスマスイブに、金スマで特集を組んでいたのをたまたま観たのがきっかけだ。

 

 番組では、ふたりの生い立ちから、オーディションでの合格シーン、そしてスターダムを一気に駆け上がり、つぎつぎとヒットを連発していく姿を華々しく描く一方で、組織からも社会からも消費され、身体も精神もボロボロになっていく様子を、当時の映像をまじえながらドラマ化していた。

 

 もともと、懐メロ番組なんかでピンク・レディーを観るたび、ごくりとつばを飲むような不穏さを感じていた。ミーちゃんは不自然な笑顔でフラフラ踊っているし、ケイちゃんはいまにも消えてしまいそうで、なのにふたりとも、格好だけはやたらと派手。まるで弱った金魚みたい。

 

 けれど、そうなって当然だったのだ。二十歳そこそこの、ふたりの女の子の命が、尊厳が、かき消されそうになっていたんだから。

 

 

 

 番組の最後は、ライブコーナーで締めくくられていた。タイトな銀のドレスに、スワロフスキーをちりばめた豪華な衣装と、13センチヒールの厚底ブーツ。それらを纏い、全力でパフォーマンスする40代後半のピンク・レディーは、見違えるほどかっこよかった。歌い終わると、息を切らしながら、「もうダメ……」なんて言っている。

 

 そんなこと、70年代当時にはぜったい言えなかったはずだ。疲れています、なんて態度を、とることすら許されなかったはずだ。

 

 2004年のピンク・レディーは、ものすごく人間だった。しにかけの、弱った金魚なんかではぜんぜんなかった。

 

 ぼくはそんなミーちゃんとケイちゃんの姿に、猛烈に惹きつけられていた。

 

 

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 年が明けるとすぐにお年玉で振り付けマスターを購入し、1週間ほどですべての振り付けを覚えた。しかし形だけ覚えても、なかなかうまくは踊れない。どうしたら、ミーちゃんのようにダイナミックに、ケイちゃんのようにキュートに踊れるのだろう。

 

 ぼくの猛烈なピンク・レディー研究がはじまった。唐突に踊りだすため犬はおびえるし、部屋じゃうるさすぎるから、と閉じ込められた寝室の畳はボロボロになるし、いちいち大音量のせいで近隣からクレームが殺到していた。しかしぼくは、「たのむからやめてくれ」と懇願する家族の声をシャットアウトし、毎日吐き気を催すまで踊りつづけていた。

 

 必然的に、受験勉強をする時間がなくなった。もともと、ぼくは高校なんて行きたくなかった。進学もいやだし、働くのもこわいし、このまま家にいつづけるのもいやだった。どんな未来もこわかった。

 

 だけど、コンポから音が出ているいまこの瞬間は、ピンク・レディーのことだけ考えていられる。母は嘆きかなしみ、父は呆れ、妹はとうとう口を聞いてくれなくなった。やばいかも、と思いながら、それでもぼくは踊りつづけていた。

 

 そんな矢先、テストなしでも入れる、個性重視のあたらしい高校ができるという噂を、母が近所の小俣さんから聞きつけた。ちなみに小俣さんは、何者かに連れ去られたうちの犬を発見してくれたこともある。

 

 ぼくは興奮しきった母の勢いに圧倒されながら、あれよあれよという間に面接を受けることになった。

 

 面接では、「なにか特技はありますか」と訊かれ、即座にペッパー警部を踊った。そしてAメロ部分の振り付けの考察を披露し、作者である土居甫先生のアイデアが、いかにすばらしいかを熱弁した。

 

 面接官のじっとした目、あれは冷やかな目だったんだとわかったのは、終わって教室を出てからだった。

 

 「もうおわったね」と親にも担任にも言われたし、自分でもそう思っていた。なのに、気がつくと合格していた。真面目に受験勉強をしていた人たちからは恨みごとを言われたけれど、「じゃあピンク・レディーを踊ればいいのに」と思うばかりだった。本気でCDを焼いてやろうとすら思った。

 

 入学してからも、ぼくのピンク・レディーに対する情熱は薄れることなく、ちょうどよく開催されていたファイナルツアーにも参加したり、なにか放送があればしつこく布教したりしていた。

 

 それだけでは飽き足らず、とうとうそこらへんにいた女の子たちを巻き込んで「ピンク・レディー同好会」を結成したのが、5月のはじめのことだった。

 

 

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 ピンク・レディー同好会の活動は、かなり本格的だったと思う。あらためて文化祭での発表会の映像を観たら、ぜんぜん高校生らしい微笑ましさがなくて、みんなあまりにも全力だった。セットリストも前のめりで、あれだけ知られているUFOをあえてやらず、代わりに後期の隠れた名曲や、アメリカでリリースしたアルバムの曲を入れるという愚行を犯していた。それでも、ピンク・レディー同好会の公演は、広い視聴覚室を埋め尽くすほどの盛況だった。

 

 みんなほとんど勢いで入部したのに、食堂や廊下、とにかくどこでもピンク・レディーを流し、歌い、踊らなくては気が済まなくなっていた。放課後は、おおきな窓を鏡代わりにして踊ったり、学校の裏にあった安いカラオケ屋さんに飛び込んで、好きなだけ歌って踊る。

 

 中学までいじめられていたぼくは、好きなものを友人たちと分かち合えるという状況が新鮮だった。まさかこんな青春がやってくるなんて、と毎日信じられなかった。

 

 練習場として使っていた廊下のくぼみからは、夕日が綺麗に見えた。新設校だったので、校庭や体育館がまだできておらず、土がでこぼこしていたり、工事のための道具がいろいろ転がっていたけれど、ぼくはそういう殺伐とした景色が、たっぷりしたオレンジ色のひかりで満たされていくのが、なにか神聖な感じがして好きだった。みんなも、ぼくも、おなじオレンジ色に染まり、ふとコンポから流れるピンク・レディーを止めてみたくなる。止めてもオレンジか、止めてもみんながいるか、確かめたくなる。

 

 

 

 しかしピンク・レディー同好会の活動は、一年目の文化祭以降あっけなく途絶えてしまった。ぼくにまとめる力がなかったせいもあるけれど、例の男からの暴力にくわえ、友人たちのいない場所、ちいさな輪の外に渦巻いている、男でピンク・レディーが好きで、おまけに女たちとばかりいるおまえはなんなのだという問いから、一刻もはやく逃げたかったのだと思う。

 

 ピンク・レディー同好会がおわったとたんに、いきいきしていた高校生活は色を失い、ただ殴られにいくだけの場所に変わった。みんなといても、それぞれのボーイフレンドにやっかまれたりするから、仕方なくトイレでお弁当をたべたりするしかない。

 

 うじうじしながら卒業までをやり過ごし、大学に入ると同時に、ぼくはみんなと連絡を断った。そのころにはピンク・レディー熱も落ち着いて、ひとりでひっそり踊っていれば、それで充分という程度になっていた。

 

 大学3年になったころ、休止していたピンク・レディーがふたたび活動を再開し、何回かコンサートにも行ったけれど、もう以前のようにはたのしめなかった。ますますかっこよくなっていくミーちゃんとケイちゃんの姿に、うしろめたさすら感じていた。

 

 

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 すると昨年末、レコード大賞にとつぜんピンク・レディーが現れた。ふたりで歌うのは、ぼくが大学生だったころのツアー以来、6年ぶりとのことだった。

 

 作曲家の都倉俊一先生が指揮をとる豪華なオーケストラをバッグに、還暦を過ぎたミーちゃんとケイちゃんは、その日3曲をメドレーにして歌った。ペッパー警部からの、ウォンテッド、そしてUFOだった。

 

 ピンク・レディーの曲は基本的にキーが低いし、テンポもゆっくりめだから、踊りながら歌うとくるしくて、心臓がはち切れそうになる。だけど、曲と詞と振り付けの三位一体に身体がするっと乗っかる瞬間の気持ち良さは、ちょっとほかでは得られない。

 

 

 

 ぼくは旅先のラオスのホテルで、たよりないワイファイにすがりつきながら番組の動画を観て、久しぶりにその感覚を思い出していた。そして湧き上がる興奮を、だれとも共有できず悶えていた。

 

 同行していた妹と母は、ぼくとピンク・レディーという組み合わせにアレルギーを起こし、ふーんと言ったきり目をそらしていた。ホテルの部屋を出たところで、ラオスのいったいどこ、興奮を分かち合える人物がいるだろう。

 

 帰国してからも、ぼくはだれともピンク・レディー熱を共有できないでいた。ツイッターにも、ラインにも、ピンク・レディーの話をめちゃくちゃ共感しながら聞いてくれる、めちゃくちゃ気の合うピンク・レディー仲間なんていなかった。わりとなんでも共感しあえるみちるさんさえ、「私はセイントフォーのほうがすごいと思う」とか言うし、ほかの友人たちもみんなおなじくふーんって感じだ。

 

「いや、べつにふつうに好きだけどさ。そんなにめちゃくちゃ好きかって言われたら、そうでもないんだよなあ。みんなそうなんじゃない」

 

 声優好きなののちゃんが、動画を観ながら言った。なんだか、ぼくの好きなものってみんなそうだ。みんな知ってるけど、だれも知らないみたいなものばっかりだ。セーラームーンもムーミンも、パワーパフガールズもそう。

 

 おのずと、高校のみんなの顔が浮かんできた。きっとまちがいなく、ピンク・レディーの話を聞いてくれる人たち。

 

 だけどできない。自分から関係を絶っておいて、そんなことできない。

 

 でも、もしまた会うことができたら。一緒に踊ることができたら。

 

 春が近づくにつれ、ぼくはだんだんと、そんなことを思うようになっていた。

 

 

(第2回につづく)