一
赤色灯が不穏な光を放っていた。神無駅前のロータリー。タクシーの代わりにパトカーが列をなしている。
これ以上は進めない。タクシーを降り、歩道を走る。気持ちに体がついていかない。脚がもつれる。何とか転ばずに黄色い規制テープまでたどり着いた。現場警備の制服警察官に警察手帳をかざすと、敬礼の後で規制テープを持ち上げてくれた。
それをくぐると、坊主頭の男が駆け寄ってきた。
「白峯さん、どうしてここに」
県警捜査一課強行犯第一係の申橋だ。昨年まで、私は捜査一課の管理官だった。申橋とは、何度も事件を共にしている。
「息子が中にいる」
私の視線の先には、駅ビル一階に併設された神無駅交番がある。制服、私服入り交じった警察官が二十人ほど交番の前に群れを成していた。彼らの背中にさえぎられ、交番の中の様子をうかがうことはできない。
「中って……」
「今日が交番勤務初日だった」
申橋が息をのんだ。
今、交番の中には二人の男がいる。立てこもり犯と、人質。
四日前に警察学校を卒業した息子の武則は、神無中央署での研修を終え、今日から神無駅交番での勤務をスタートさせたばかりだ。
「手出しも口出しもしない。だからこの場に居させてくれ。頼む」
申橋が困惑した表情でため息をついた。
「私の一存では判断できませんよ。ちょっと待っていてください。管理官の許可を取ってきます」
申橋が警察官の群れに駆け戻っていく。私は、はやる気持ちを抑え、数歩、前に出た。少しでも交番の近くに、出来れば中の様子が見える場所を確保したかった。
申橋が管理官の木崎に声をかけた。二人がこちらを振り向いたので深く頭を下げる。前任者が現場に顔を出す。快く受け入れてくれるとは思わない。顔を上げると木崎が億劫そうにうなずくのが見えた。そちらに構っている暇はない。苛立った表情が物語っている。
申橋が小走りで戻ってきた。制服警官と一緒だ。
制服警官は神無駅交番長の滝沢だった。顔を合わせるのは二年ぶりで、電話では十日ほど前に話をしている。私にとっては警察学校の同期であり、武則にとっては初めての上司にあたる。
「白峯、すまん。息子さんを預かっておきながら、こんなことになってしまった」
息を弾ませながら頭を下げようとする滝沢の肩を押さえた。
「よせ。息子も警察官だ」
肩を押さえる右手に力を込めると滝沢が首を振った。
「それだけじゃない」
滝沢が声をひそめ、私の耳元に顔を寄せてきた。
「立てこもり犯はうちの署員だ。関下という。休職中だったが」
どういうことだ。問いかけようとしたが申橋にさえぎられた。
「滝沢さんは戻って被疑者の説得を続けてください。事件の概要は私から白峯さんに説明します」
申橋の言葉に、滝沢は何かを言いかけ、口元を引き結ぶと背を向け駆け出した。
「事件発生は本日午前十時五分ごろ。神無駅交番に刃渡り二十センチほどの包丁を持った男が侵入。事件発生時、交番内には署員三名、道を尋ねに来た旅行者二名がいました。交番長の滝沢警部補が奥の席に座り、白峯巡査と指導役の巡査部長がカウンターで旅行者の応対をしていました」
白峯巡査、と口にした時、申橋は気遣うようにこちらを見た。
「被疑者は、交番に侵入した時点で包丁を手にしていました。それに気づいた白峯巡査が旅行者と被疑者の間に割って入ったとのことです」
私は目を閉じた。民間人を守る行動。武則を誉めてやりたかった。その後に人質にさえならなければ、だが。
「すまん、続けてくれ」
「はい。白峯巡査は旅行者を逃がそうとして、一瞬被疑者に背を向け、その隙に首筋に包丁を突き付けられました。その状態で滝沢警部補たちは交番から出るよう命じられました」
首筋に冷気を感じた。刃物の感触。血液の温度が急速に下がった気がする。無事なのか。怪我は。
よほど、私の顔色が変わったのだろう。申橋が慌てたように、息子さんは無事です、と付け加えた。
「なお、被疑者は先ほど滝沢警部補が言った通り神無駅交番署員、関下巡査です」
私は視線を申橋から逸らした。視界に滝沢の背中が入る。
十日ほど前。滝沢から電話があった。部下から署に休職届が送られ、一方的に休職を告げられた。そこには心療内科の診断書が添付され、地域課長からはパワハラが理由だと言われたが、心当たりはない。近々、滝沢と会う約束をしていたが、そのままになっていた。
滝沢と会うことにいくらか躊躇していた。息子の上司になる男と、どう接すればよいのか。考えあぐねているうちに日にちを重ねた。
早々に彼の相談にのっていれば今日の事態は起きなかったのか。それは分からない。だが、武則にもしものことがあれば、私はこの先、自分を許すことができない。
滝沢が被疑者に呼びかける声がわずかに聞こえるが、内容までは聞き取れない。
「関下は何か要求を出しているのか」
「父親を呼べと。関下の父親も警察官で、五年前に定年退職しています。父親と連絡は取れましたが、現場に来ることは拒否されました。今も交渉を続けています」
拒否、という言葉に疑念がわく。仮にも元警察官。息子が事件を起こしたと聞けば、何をおいても現場に駆けつけるのではないか。
不意に刑事たちの輪が乱れた。交番内に動きがあったのか。
駆け出そうとして、右手首が強い力で握られた。申橋だ。
離せ。
振り払おうとした時、武則の声を聞いた。
「確保、確保!」
力が抜けた。それは申橋も同じで、手首を握る力が緩んだが、私は動けなかった。
刑事たちが交番に殺到する。交番のガラス戸が開いた。
それを見て、全身に力が蘇った。
駆け出す。今度は止められなかった。申橋も駆け出していた。
交番内で刑事たちが数人がかりで男を取り押さえていた。この男が関下か。刑事たちが両腕の関節を後ろに極めたまま、襟首をつかみ、強引に立ち上がらせる。顔が見えた。二十代後半だろう。血の気のない痩せた頬に引きつるような笑みを浮かべている。
床に刃渡り二十センチほどの包丁が転がっていた。刃先に血が付着している。
息子の名を呼ぼうとしたが、うまく声を出すことができない。
武則は滝沢の手を借り立ち上がろうとしていた。ワイシャツの襟が赤く染まっていて、左手からも血が流れている。
武則。今度は呼ぶことができた。
「父さん?」
武則と目が合った。落ち着いている。立ち上がった足元もふらついてはいない。
「怪我は?」
「大した傷では、ありません」
周囲の目を気にしたのか、改まった口調で武則が答えた。
彼の方が冷静だった。私がうなずくと、武則を支えていた刑事が言った。
「まずは手当てを。救急車を待機させています」
どうしますか、と目で問われた。この場にいる刑事たちのほとんどはかつての部下だ。
「同行させてもらえるとありがたい」
「承知しました。付き添い、お願いします」
武則が片目を細め、私から視線を逸らせた。照れている時に見せる仕草だ。
「何でそっちは親が出てくるんだよ。あんたは呼んでないんだよ」
甲高い声に振り向いた。関下が血走った眼で私をにらんでいる。
息子の身を案じて何が悪い。非難される謂われはない。
関下に近づこうとして、強い力で腕をつかまれた。振り返ると武則が静かな眼差しで私を見ていた。身長は武則が高校生の時に抜かれている。自然と見上げる格好になった。
「連行しろ」
木崎が鋭い声で指示を出した。
武則の手が私から離れる。想像以上に、彼の力は強くなっていた。
二
武則が椅子に座り、凶器に見立てた警棒を顔に突き付けられている。警棒を握っているのは捜査一課の刑事だ。この状態から、関下をどのように制圧したのか、再現しようとしている。
武則は首筋と左手に切創を負っていた。救急車の中で手当てを受けたが縫うほどの深さではなく、消毒し、ガーゼを当てた上から包帯を巻くと手当ては終わり、交番内で事情聴取が始まった。
事件現場は神無中央署管内だが、本部捜査一課が捜査を主導している。被疑者も被害者も現職の中央署員。その判断は理解できる。
捜査指揮を執っているのは、現場に残った管理官の木崎だ。木崎は私の存在など眼中にないかのように振舞っている。あえて無視しているというより、私への対応に頭を悩ませることが無駄だと判断したのだろう。無論、私も現場を荒らすつもりは毛頭なく、交番の隅で傍観者に徹している。
武則と滝沢の証言で、事件当時の様子が明らかになった。
凶器は、刃渡り二十センチの包丁。関下が交番まで背負ってきたリュックと、包丁のケースは交番前の道路に放置されていた。
包丁を手に、交番に侵入した関下は、初めから武則を狙っていたようだ。関下は、交番内にいた旅行者を逃がそうとした武則の首筋に包丁を突き付け、「新人以外、全員交番の外に出てください」と滝沢たちに命じた。武則の首筋の傷はこの時に負ったものだ。
二人きりになると、関下は武則を椅子に座らせ、包丁を顔に突き付けた。
「君は期待の新人らしいな」
「あなたは誰ですか。何が目的ですか」
「先輩だよ、君の。柔道大会では活躍したらしいが、この状況では何もできないだろう。警察学校も首席で卒業したそうだね。文武両道、すごいね」
初対面の二人の間で交わされた言葉。その言葉に引っかかるものがあった。休職中の関下はどうやって武則の情報を得たのか。
交番の外に出た滝沢はすぐに警察無線で立てこもり事件発生の緊急発報を行った。被疑者が現職の警察官であり、同じ交番署員の関下であることは、この時告げている。
「父親を呼んでください」
関下の要求は父親を現場に呼ぶことだった。関下の父親が五年前に定年退職した元警察官であることは滝沢が知っていた。二十代のころ、同じ交番で勤務していたのだ。
最初に到着したのは、駅の反対側にある東口交番の署員たちで、すぐに交番周辺に規制テープが張られた。続いて中央署刑事課強行犯係と機動捜査隊。そして木崎が率いる本部捜査一課。木崎の指揮で関下への説得と、彼の父親への連絡。二つが同時に進められた。
「事件を起こすような人間を育てた覚えはない」
関下の父親、義正は木崎の協力要請にそう答えると電話を切り、その後何度電話をかけても出ることはなかった。民間人を事件現場に呼ぶ。異例の事ではあるが、義正は元警察官である。協力を得られると踏んでいた捜査陣の思惑は外れ事態は膠着状態に陥った。
義正はなぜ協力を拒否したのか。彼は現在県北の大塚市に住んでいる。車で一時間半ほどの距離だ。すぐに現場に来れなくても、電話口で息子を説得することができたはずだ。
義正の言葉を関下にそのまま伝えることなどできず、決め手を欠いた説得が続いた。おそらくは、県警本部でも刻一刻と伝えられる現場の状況を元に、対策が協議されていたはずで、強硬手段も選択肢に含まれていただろう。その判断材料に、人質もまた現職の警察官であることは考慮されていたのだろうか。
結果的に事件は強硬手段をとられることなく、人質になっていた武則が自らの手で関下を制圧することで幕を下ろした。
目の前で、その時の様子が再現されようとしている。
関下は、当初嫌みな言葉を武則に投げかけながらも余裕の態度をとっていた。「無理に余裕を見せていたように思える」とは武則の証言で、私個人の見解ですが、と落ち着いた口調で付け加えた。
義正が要求に対し、どう答えたか分からぬまま、時間だけが過ぎ、関下は苛立ち始めた。特に反応を示したのが、「お父さんを悲しませるな」「迷惑をかけるな」という言葉で、そのたび武則から視線が外れ、説得に対して荒い言葉で言い返すようになった。
自分の手で制圧できるのではないか。そのチャンスをうかがっていました、と言った武則の表情は淡々としたもので得意気になる様子は微塵もない。武則の態度と、事実関下を制圧した結果から、武則の判断を責める者はいなかった。
関下役の刑事の視線が交番の外に向く。その瞬間、武則は立ち上がりながら、警棒を持つ右腕を両手でつかんだ。左手に傷を負ったのはこの時だ。つかんだ右腕を強く引いて相手の体勢を崩し、足払いをかける。倒れた相手に覆いかぶさり袈裟固めをきめた。
「確保、確保」
武則の言葉で事件の再現は終わった。
木崎が二人に近づき、立ち上がるよう促す。
木崎と刑事たちが輪になり、事件再現の検証を始めた。輪の中心は武則だ。民間企業で言えば支店の新入社員を本社の管理職クラスが取り囲み、話を聞いているようなものだ。そんな状況でも臆するそぶりも見せず、落ち着いて受け答えをしている。
私はその光景を壁際で見ていた。輪に加わることはできない。
「堂々としているな。いい警官になりそうだ」
同じく輪から外れた滝沢が、隣に来てつぶやいた。
武則が自分の部下だったら同じ思いを抱いただろう。だが、今は素直にうなずくことができない。
「滝沢も大変だったな」
武則のことには触れなかった。
答えが返ってこなかったので滝沢の顔を覗き込んだ。唇を強く引き結び、床の一点を見つめている。
「今日は当番勤務だ。何時になってもいい。後で交番に寄ってくれないか。少し、話がしたい」
絞り出すように滝沢が言った。
理由は聞かなかった。いや、聞けなかった。一言、「分かった」と答えた。
滝沢は厳しい立場に立たされている。部下が事件を起こしただけでも上司の責任は問われる。その部下がパワハラを理由に休職を申し出たあげく、自分の職場を事件の舞台に選んだ。事実がどうであれ、警察内外からの追及は免れない。
そして、私は彼を追及する立場に立たなければならない。
申橋がこちらを振り向いた。
「白峯君には中央署に場所を移して供述調書の作成に協力してもらいます。いいですね」
「構いません。白峯、今日は終わったら寮で待機だ。さっき課長とも話したが、明日から当分内勤になる」
顔を上げ、滝沢が答えた。怪我が癒えるまでの処置だろう。
武則が一瞬不服そうな顔をした。すぐに背筋を伸ばし「承知しました」と答えた。勤務に戻りたい、そんな気持ちが透けて見える。
申橋が申し訳なさそうな表情で近づいてきた。
「私は本部に戻りますが、白峯さんも戻られますよね」
表情とは裏腹に有無を言わせぬ口調だった。
言われるまでもない。これ以上、武則に付き添うほど過保護ではない。
車を準備します、と申橋が交番を出て行った。他の刑事たちと共に武則も出ていく。その背中を私も追った。一度くらいこちらを向くかと思ったが、武則は振り向かなかった。
お互い今は仕事中だ。公私を分ける武則の姿勢は正しい。その姿に寂しさを感じるのは親の身勝手だろう。
成長した。四日前の警察学校卒業式では確かにそう思った。
警察官として成長していく。
警察という組織に染まっていく。
この二つは同じ意味なのだろうか。
交番の外に出て、スマホを取り出した。武則が手当てを受けている間、妻にメッセージを送ってある。
「親子そろって大事な日に怪我をする。そんなところまで似なくていいのに」
妻からの返信に思わず目を閉じた。二十二年前の記憶。右太ももに痛みの記憶が蘇った。
「どうかしましたか。車の準備できましたけど」
申橋の声に我に返った。記憶の深みにはまらずに済んだ。
「まもなく本部長が事件について会見を開くそうです」
本部に戻る車中で申橋が言った。現職の警察官が起こした交番立てこもり事件。県警本部長が会見を開くのは必然で、おそらく監察官室室長の佐伯も同席するはずだ。
本部に着くと別れ際に申橋が言った。
「今回の件、あくまでうちが主導で優先権があることをお忘れなく」
「刑事事件だから当然だな。こちらも調査に動くと思うが、必要な情報はそちらにも提供する」
「情報を共有しろとは言わないんですね」
「お互い立場がある。そんなことを言えば君が困るだけだろう」
相変わらずですね。申橋が苦笑いを浮かべた。