「今日から皆さんに勉強を教えます、鈴木といいます! よろしくお願いします!」

 目の前の小学生六人に向けた挨拶が、ふすまに響く。民家ゆえに天井は高くなく、カーペット敷きの十畳間は狭く見えた。「声でかい」と一人の女子が笑い、つられたようにほかの生徒たちもはしゃぐ様子を見せる。

「鈴木先生は私の親戚で、最近この辺に引っ越してきたの」

 清井さんが俺を生徒たちに紹介する。「別の塾に長く勤めてたベテランの先生だから、どんどん教わるんだよ」

 ハゲ坊主だ、と囁くのが聞こえた。コンビニの前で消しゴムを落とした男子だ。横に座る友人とひそひそ笑い、笑いのさざ波が教室に広がる。失礼なことを言っちゃ駄目でしょと注意する清井さんの横で、俺はむっとした顔になっていたかもしれない。「誰がハゲ坊主やねん」などと自分の頭を叩いてみせればひょうきんな講師として受けもよくなるのだろうが、俺にはできない。生徒たちは清井さんに促されて自己紹介を始め、俺は事前に読んだ個人データと照らし合わせながら、「よろしく」を繰り返した。

「――基本的に、夕方は小学生、夜は中学生という形で分けています」

 喫茶店での面接を終えてから、俺はきよい塾の建物に入って説明を受けた。思ったとおり、塾は彼女の住む家を活用したもので、一階には風呂やトイレや台所のほか、事務用の六畳間が一つ、十畳の教室が廊下を隔てる形で二つ作られていた。五年前に塾を開いた折に改装したらしく、教室の壁には大きなホワイトボードが備わっていた。

「集団授業と個別指導を組み合わせてやってるんですけど、やっぱりどうしても限界があって。この二ヶ月近くはほんと、どうしようかなって毎日悩んでて」

 生徒が来る前のがらんとした教室で事務的に語る彼女の口調が、少し湿っぽくなる。廊下の壁には、生徒たちが描いたという似顔絵が貼られていた。亡くなった旦那の絵だ。黒縁の眼鏡を掛けた男性の絵は、どれも優しげな笑顔だった。俺は彼に歓迎されているだろうかと、複雑な気分を抱えながらいくつもの絵を眺めた。

「大変ですよね、女性一人でやっていくのは」

 何気ない一言のつもりだったが、彼女の目がすっとこちらに向いた。

「男性なら大変じゃないですか?」

「いや、そういう意味じゃないんです」

「どういう意味なんだろう?」

 口元に差す笑みとは裏腹に、声には鋭さがあって、俺ははっとする。女の経営者で大丈夫なのか、という失礼な考えがなかったといえば嘘になる。男ならば難なく乗り切れる、なんてわけではまったくない。俺は今までこんな風にして、接した人に不快な思いをさせてきたのかもなと、悔悟の念が顔を出した――。

「鈴木先生は、カンちゃんのこと知ってる?」

 清井さんが部屋を去ったあと、小学生たちは課題そっちのけで俺を質問攻めにした。歳はいくつかとか野球は好きかとかどんなアニメが好きかなどと問われるのを適当に受け答えているうちに「カンちゃん」の質問が飛んできて、俺は内心ぎくっとした。カンちゃんとは、この塾を背負っていた故人の愛称らしい。

「知ってるけど、ここ数年はぜんぜん会えてなくってね」

 本当は一度も会ったことがない、などと明かすのははばかられた。なにしろ俺は「清井さんの親戚である鈴木先生」なのだから。

「――太原さんのお名前は隠しておいたほうがいいと思います」

 騙す形になるから心苦しいですけど、と清井さんは目を伏せて言った。

「俺もそのほうが気楽です」

 きよい塾には現在、小学三年生から中学三年生まで合わせて十八人の生徒が在籍している。彼らや保護者の誰かが「太原 塾講師」などとわざわざ検索バーに入力するとも思わないが、その可能性を気に病みながら送る日々は楽しいものじゃない。

「俺の名前のせいで辞められたら、清井さんにも旦那さんにも申し訳が立たないし。実際、育都でもそういうことがあったんで」

 カンちゃんが亡くなって、きよい塾は生徒の減少に悩んでいる。経営者の死を契機に子供を塾から離すのはドライな判断に思えるが、切り盛りする二人のうちの一人がいなくなったとなれば、保護者として無理もない考えだろう。近頃は電話やLINEの通知があるたび、退塾の申し出ではないかと怯えてばかりと清井さんは力なく笑った。

「雇ってもらう以上は、増やすつもりで頑張りますよ」

 家の中を見回りながら事情を聞くうち、自然と責任感が湧き起こった。適当な腰掛けの気分でいてはいけないのだ。いざ生徒を前にすると気持ちが高まり、腑抜けの体にようやく背骨が入ったような思いになるのだった。

「はいはい、そろそろお喋りタイムは終わりだぞ。集中集中!」

 手を叩いて部屋の空気を引き締め、教室の前方にある机の椅子に腰を下ろす。生徒たちはテキストとノートを開き、課題に取り組み始める。目の前にいるのは小五と小六の生徒だ。清井さんは隣の部屋で、小三と小四の相手をしている。

 きよい塾の学習形式は、課題を与えて添削指導を行うというスタイルだった。

 正誤の指摘のみならず、算数では問題を解く過程の立式やノート作り、国語の文章題では解答の根拠となる部分に逐一傍線を引かせるなど、勉強の仕方に力を入れた指導方法らしい。個人塾ならではのきめ細やかさだと感嘆させられたのは、教材だ。個々の習熟度に合わせてカンちゃんが自作したテキストがあり、育都の教材よりも優れものに思えた。読解問題を一から作るために、カンちゃんは文章の使用許可を一つ一つ出版社に申請していたらしい。市販のテキストで済ませるのは手抜きだ、というのが口癖だったそうで、相当真面目な人だったのだろう。

「できたあ」

 課題を終えた五年生の女の子が様子を窺うように俺を見た。テキストとノートを持ってこさせてみると、算数の平面図形の問題が解き終えてあり、俺は手元の解答集で確かめながら丸を付けていった。面積を求めるための立式は、中学受験を目指さない小学生のものとは思えぬほど秩序立てて書かれていた。ノートを上手に使えているね、と褒めると安心したように唇を広げてお下げ髪を揺らし、「ポイントください」と小さな厚紙を差し出す。スタンプをためるとお菓子やちょっとしたおもちゃがもらえるシステムだ。ポイント制の細かいしくみについて尋ねたら、教室中の子供たちが手を止めた。自分が教えたいとばかりに声を上げた。

「いかがでしたか?」

 二時間の学習タイムを終え、事務室のソファに座る俺の前に、清井さんはカップを置いてくれた。礼を言って喉に流し込む。苦みの利いたコーヒーが心地いい。

「良いやり方だと思います。教材の質も高いですし。下手な個別指導よりも力がつくと思いますよ」

 ありがとうございます、と会釈する清井さんの目が明るさを帯びた。

「ただ、時間の後半になるとお喋りが増えちゃうので、なんとかすべきでしょうね」

 勉強に対する集中力は、成績向上のカギだ。運動に体力作りが欠かせないように、集中力を鍛える必要がある。課題に取り組ませる時間の多いきよい塾はその意味で要点を押さえていると言えるが、生徒の実情は俺の目から見て及第点ではない。時計が進むと俺への質問攻めが再開してしまったり、落書きに興じる者が現れたりなど、改善すべきところも見受けられる。

「タイマーを使ったほうがいいですね。制限時間内に解く意識をつけるために」

「テストのときは毎回使うようにしています」

「普段から使うべきですよ。育都では当たり前だった」

 俺の意見に対し、清井さんは少し戸惑ったように微笑を浮かべた。

「うちの子たちの場合は、東京と違って中学受験をするわけでもないですし、ガンガン勉強させる感じでもないんです。放課後の居場所作りって役目も担ってるつもりなので、ある程度は和気わき藹々あいあいやらせるのも大事かなと」

「成績を上げたら親御さんも喜ぶでしょう。しっかり勉強させる塾だなって、評判にもなるだろうし」

「いろいろ考えながらやっていかないとですね」

 清井さんは議論をいとうように目線を外した。事務室の本棚には小中学生用の問題集や参考書のほか、塾講師の心得を説くような本もたくさん並んでいた。ああいう本はよく読むんですかと指を差すと、啓発本みたいな感じでと彼女は一冊を手に取り、ぱらぱらとページをめくった。

「太原さんは、あ、違う違う」

 苦笑してかぶりを振る。「鈴木先生で統一しないと。鈴木先生は今まで、こういうのは読んできたんですか」

「読んだことないですねえ」俺は即答した。「現場で経験を積んで学んでいくもんだと思うんで。振り回されるのも嫌だし、お」

 事務所の引き戸が開き、中学生らしき女子が顔を見せた。髪を一つに結んだ彼女は水色のジャージ姿で、俺を見るなり緊張したような表情を浮かべた。づきちゃんこんばんは、と声を掛けた清井さんに駆け寄って、ひそひそと耳打ちをする。

「そうだよ、新しい先生。そんなこそこそしなくていいでしょ」

 清井さんは俺を示しながら言う。「こちら、鈴木先生ね。よろしくお願いします」

「どうしよう。知らない人だと喋れない」

 女子生徒は俺に目もくれず、それでいて俺に届く声量で言いながら部屋を出ていった。女子の中学生は往々にしてこういうところがある。すみませんねと清井さんが恐縮していたが、別段気に留めることもない。

 中学生は一年生が二人で、二年生が三人、三年生が四人だった。

 個別の課題に取り組ませるきよい塾にあって、中学三年生だけは集団授業を採用していた。高校入試に向けた実践的なトレーニングを早めに行えるよう、受験に必要な知識を学校に先駆けて習得させるのが塾業界の定石だ。育都アカデミーでは、五教科の新規事項を九月までにすべて扱いきる。きよい塾においてもその点は意識していたらしく、十一月を迎えた今、一から教えるべき内容は残されていなかった。英語の関係代名詞や数学の三平方といった重要項目や、社会の公民のような大きな分野についても、カンちゃんが一通りの解説を終えてあるらしい。

「ここにいる子たちはすごく頑張ってますよ。カンちゃんのためにも絶対合格しなくちゃって言ってくれて」

 教室のホワイトボードの前で、清井さんは三年生の生徒たちを俺に紹介した。三人の女子は全員が同じ水色のジャージだった。学校指定のもののようだ。東京の中学生はだいたいが私服で通ってくるが、田舎はその辺のこだわりが弱いのだなと微笑ましい。

「よし、じゃあやっていこうか。英語の長文対策だな、百二十ページ」

 テキストを開かせてタイマーをセットし、問題を解かせる。清井さんのしつけが行き届いているのか、真面目に取り組める子供たちのようで助かる。中学校の定期試験や全県模試の成績、一学期の通知表などを見る限り、三人とも応用的な力を備えているらしく、志望校も固まっていた。心配なのは、先ほど事務室に顔を見せたやなぎ結月だ。ほかの二人よりも一段上の高校を志望しており、数字的には足りていない。模試判定はCで微妙な位置だ。高いレベルの学校を狙う生徒にはそれなりの負荷を掛けていかねばなるまい。今後の課題について考えながら板書の準備を進めていたら、ふすまの開く音がした。

「あれ? 誰この人?」

 紺色のキャップを被った長髪の女子は、三人の同級生に問いかけるようにして言った。「あー、新しい先生とか言ってた人? どうすんのめっちゃ気まずいんだけど、遅刻してるし」

 ずけずけと喋りだしたかと思えばそのままふすまを閉めて姿を隠し、「志穂ちゃーん」と大声を上げる。この先生はどう対応するのかな、と試すような三人の視線がこそばゆい。俺はすぐさま廊下に出て、女子生徒を呼び止めた。

 

「……おうおう、カーブ曲がるときはもうちょい大きく曲がったらええど」

 カローラの助手席に乗る親父は、久々に運転する息子の横で楽しげに言った。教習所の指導教官よろしく、こまごまと口を挟んでくるのが鬱陶しい。

「どうだ、慣れてきたか。バイクよりも楽だっぺ」

 DVDを借りにとなり町のレンタルビデオ店に行ってくる、と言った親父に代わって、俺はハンドルを握っている。お目当てのドラマは配信で観られるよ、とスマホの情報をもとに教えてやったのだが、お決まりのように返ってくるフレーズは「年寄りだからネットはわからない」。あいにく家にあるのは古い型のテレビで、配信サイトを観るには専用の機器をつなぐ必要があった。買ってきてやろうと提案したところで、親父はいきなり怒り出した。DVDになじんでいるからそれでよいと頑なに言うのだ。雨の中を一人で運転させるのも不安だし、ついでに接続機器も買えばいいやと、俺が運転役を担った次第である。先ほどまでの不機嫌ぶりを忘れたかのように、親父は得意げな調子であれこれと指示を出すのだった。

「新しい職場はどうだ? そっちも慣れたか?」

 ぼちぼちな、と簡単に応じて済ませる。詳しく話すのも億劫だ。

 きよい塾で働き始めてから二週間ほどが過ぎて、問題点も鮮明に見え始めた。

 勉強への真剣さが足りない、というのが生徒全体に通ずる課題で、その代表格が中三生のくりばやしあい。堂々たる遅刻ぶりを見せた初日には「途中で来たから授業の中身がわからない。やっぱり帰る」と甘え腐ったことを言い、遅れたわけを訊かれれば「うちで寝てた」と悪びれもせず抜かした。この手の生徒は叱るだけ無駄だ。とりあえず教室に通して座らせてみるも案の定、ほかの三人よりレベルが低く、個別の対応を取らねばならなかった。学力のなさは仕方なくとも、やる気がないのがいかんともしがたい。

 もっとも、学力もやる気もない生徒に対してはこだわりもない。

 俺を苛立たせるのは、上位校を目指すと言いながら中身の伴わないタイプだ。

 柳結月にはそのきらいがある。知らない人とは話せない、などと言っていた少女はいざ個別に接してみればぺらぺらとよく喋った。学力は市内の進学校である府賀北高校の水準に届いている。ところが、別の学校に行きたいと柳結月は言う。

「お姉ちゃんがいるから嫌なんですよねー、別に嫌いとかじゃないけど、自分は学年上位だって威張ってるから、もう一個上狙いたいっていうかー」

 姉や兄の存在を刺激の材料にする子供は少なくない。彼女が目指すのは隣の市にある鶴香高校の普通科で、偏差値的には上乗せが必要だ。

「でもまー、倍率一・二倍くらいなんで、ワンチャンいけるかなって」

 東京の入試に慣れていると、地方の高校受験の緩さに驚く。中学受験の上位校では三倍、四倍の倍率も当たり前だし、高校入試でも二倍近くに届くケースはざらだ。一方、この県と来たら鶴香の一・二倍でも高いくらいで、受験者がほぼ全入できるような倍率の学校が多い。鶴香の理数科は例外的に二倍以上の倍率に達するが、柳結月は文系タイプなので想定の外だ。

「それでも、落ちるやつは落ちるぜ。確実に受かりたいだろ?」

 俺の言葉に、弛緩していた柳結月の頬がきゅっと引き締まった。そうですね、と目を伏せる彼女に、俺は小テストの実施を伝え、課題を与えた。模試の成績を見るに、英数国でのリードを理社で殺してしまっている。単純に知識が足りていないのもあるし、グラフや図の読み取り問題の鍛錬が不十分なのも明らかだ。頑張ります、と威勢よく応じてみせた柳結月だったが、その一週間後に実施した小テストはまるで駄目だった。結果が芳しくないからといって単純に怒ったりはしない。しかし、課題を未消化のまま残している場合は別だ。

「学校の宿題が結構たまってて、それで忙しくなって」

 しおらしく言い訳をする彼女に、俺は言った。

「リビングでだらだらしてるってお母さんが言ってたぜ。ずっとスマホいじってるから、取り上げたくなるってさ。時間はあったと思うけどな」

 保護者面談の約束を取り付ける折に、家での様子を電話で聞いたのだ。柳結月は俯いたまま、返事を寄越さなかった。

「なんとかなるとか思ってちゃ駄目だよ。君が時間を無駄にしてるあいだにも、鶴香を目指す奴はどんどん上に行っちゃう。ライバルはみんな優秀なんだから、努力する姿勢の時点で負けるようじゃ戦えないよこの先」

 育都での件の反省から、つとめて穏やかな口調で諭した。甘い言葉を掛けてやるのは容易いが、油断していい状況ではないと自覚を促す必要がある。きよい塾の生徒たちが放つ雰囲気は育都に比べて弛緩したもので、それは受験に関する環境や塾としての毛色や、あるいは東京と田舎の風土など何もかもが違うせいかもしれない。だが、勉強する場所という点で本質的な違いはないはずで、緩さが歯がゆくてならない。

 俺は清井さんと相談しつつ、少しずつ改革を進めていくことにした。

「今日からタイマー使っていくぞ」

 小学五・六年生の教室で言うと、彼らは一様にきょとんとした顔を見せた。

「時間内にやるって気持ちでやったほうが、解くスピードも上がるからね。余計なお喋りをしてる暇はなくなるぞ」

 時間の意識を持たせればペース配分を考えるようになり、効率よく解くことの大事さも自然と覚えていく。緊張感や集中力も高まり、より有意義な学習時間を過ごせる。タイマーの導入で空気を引き締めていくことができたものの、俺が部屋を離れた隙にお喋りを始めていたりするから、もっと自発的に取り組ませる工夫も要るかもしれない――。

 

「少しやんできたかな」

 レンタルビデオ店に到着した頃、雨脚は弱まっていた。車を停めて店に入ると、親父は迷いもせずに棚のあいだを抜けていった。田舎だけあって店内は広く、そのわりに客はほとんどいない。テレビドラマゾーンで立ち止まった親父は、ずらりと並ぶDVDの背表紙をしげしげと見つめた。「往年の名作ドラマ特集!」と銘打たれた棚には、俺が十代や二十代の時分に観ていたようなドラマも多く、懐かしく思いつつも借りる気にはならない。そういえばテレビをネットにつなぐ機器を買っておかねば、この店に置いてあるだろうかと入り口のほうにきびすを返したそのとき。

「何だ、三巻がないぞ三巻が」

 咎めるような声に呼び止められた。振り向くと、親父はパッケージの一つを手前に傾けていた。八十年代に流行った刑事ドラマだ。取り出されたケースの中には、あらまほしきディスクがなかった。

「一週間前もなかったんだ。何だよ、せっかく来たのに」

 返却済みのDVDを棚に収めている店員がいた。オレンジ色のエプロンをした金髪の若い男性だった。いつ返されるか訊いてみようと促すと、親父は彼のほうを向いて、「おい」とぶっきらぼうな声を発した。

「この前もなかったぞこれ、どうなってんだ」

 開口一番にぞんざいな物言いをする老人を、店員はぼうっとした目で見てからパッケージの表紙に視線を移し、ちょっとお待ちくださいとレジのほうに消えていった。

「親父さ」俺は心の引っかかりを口にした。「ちゃんと敬語で訊いたほうがいいよ」

「別にかまわねえっぺ」

「感じ悪いって思われるよ」

「どう思われてもいいや」

 戻ってきた店員は、「すいません。それ、ないんです」とあっさり言った。

「なんか結構前にひび割れちゃったみたいで、そっから仕入れてなくて」

「ないってどういうことだ!」

 親父はいきなり怒鳴り声を上げた。「わざわざ車飛ばしてきたんだぞ!」

 運転したのは俺だけどな、と思いつつもまずはなだめるのが先だ。下手をするとケースをぶつけかねないので、速やかに手元から奪う。

「怒鳴られてもないものはないんで。じゃあ注文しますんで」

「おらの家に届けろ」

「宅配のサービスはうちではやってないですけど、サイトからレンタルできますよ」

「何だおめえの態度は! おかしいだろ! 三巻がねえんだぞ!」

 親父は飢えた獣のような目でしばらくわめいたが、店長を呼んで長々と説教を始める、という行為に及ばなかったのはせめてもの救いだ。二度と来ない、と捨て台詞を吐いて入り口へ向かう親父の背中を俺は追った。

 帰り道の車内では切なさが募るばかりだった。ネットで借りられると話してみても、もう観なくていいと親父はへそを曲げた。店員の態度や品揃えの不備はそれとして、そもそもの話がネットを活用すれば家で観られるのにいちいち店まで出向き、そのうえお目当ての商品にありつけず悶着を起こし、不機嫌を抱えて帰る親父は世界一哀しい存在なのではないか。などと考える俺は接続機器を買い忘れた。戻ろうかと提案してみたところで、拒否されるのは目に見えていた。

 

 思い通りにならないこと。

 期待と現実が食い違ってしまうこと。

 そうした事態に翻弄されているという点では、俺も親父を哀れんでいられる立場ではなかった。ミーティングをしたい、という清井さんの要請に従い、俺は普段より少し早めにきよい塾へと出向いた。

「鈴木先生に来てもらってから三週間くらいですけど」

 事務室のソファで向かい合う清井さんの笑顔が、硬く見えた。「すごく助かってます。塾のこともよく考えてくれてますし、教え方を見ててもやっぱりお上手だなって、勉強になる部分も多くって」

 清井さんはブラックのコーヒーを口に運んだ。ただですね、とおもむろにカップを置き、続きを迷うように目を泳がせた。遠慮なく言ってくださいよと笑って促す以外に、俺にはやりようがなかった。

「小学生の子が、鈴木先生をちょっぴり怖がってるかなっていうのがありまして」

 意外な知らせに驚いた、というほど、俺も鈍感ではない。それとなく肌に感じるものだし、そのような印象を持たれやすいタイプだとは自覚している。育都にいた頃から、生徒の人気を集めるという種類の講師ではなかった。それでいいと思っていた。学習塾の講師の存在意義は生徒の成績を上げることだし、好感度が高いだけで指導力のない講師には軽蔑さえ覚えたほどだ。

「多少怖がられているくらいのほうが、緊張感を持って取り組ませられますよ」

「育都アカデミーさんみたいに大きな塾だとそうかもしれませんけど、うちは違うんです。タイマーを使って時間の管理をさせるのなんかはすごくいいと思うんです。教え方も私よりずっと的確だと思うんですけど、コミュニケーションの部分ですね、授業の前後とか。もしくは合間の部分でも」

「一緒になってふざけたりってのは、できないんですよ俺は」

「そういう感じじゃなくてもいいんです。けど、接し方の点についてはトーンを変えてもらいたい部分はあって。中三の結月ちゃんについてもそうなんですけど」

 勉強の状況について柳結月と話した日のことを、清井さんは指摘した。

「もっと励ます感じでお話ししてもらうのが、あの子にはいいかなって思うんです」

「危機感を持たせなきゃいけないでしょう。中三のこの時期にあれじゃまずいんで」

「ああ見えて結構落ち込みやすいっていうか、不安症っぽい部分もあるんです。危機感がうまく作用すればいいけど、テスト前に焦って泣いちゃうことも一年の頃には多くて」

「もう受験生なんだから、そこは心を強く持ってもらわないと」

「持ってもらわないと。って突き放すよりは、励ますほうがいいと思いませんか?」

 異なる考えの相手には自然と反発心を覚えてしまう。一方で、育都にいた頃はこんな風に意見を言われる機会もなかったなと思う。ここは清井さんの塾であり、俺が我を通すべき場ではない。承知しつつも、染みついた考えややり方を変えていくのは難しいものだ。垂れ込める沈黙を突き破るように電話が鳴った。応対した清井さんは張り詰めた表情で話し込み、受話器を置いてからため息をついた。

 退塾したい、という申し出だった。

 

(つづく)