江戸時代の“出合茶屋”とは男女が人目を忍んで密会するためのお宿。つまり現代でいう“ラブホテル”です。そんなお宿を切り盛りするのは、それぞれ人には言えない「痛み」を抱える女三人。三人はよそにはない、“女のための”出合茶屋を作り大評判となりますが……。泥の中から華を咲かせる蓮華のように、逞しく人生を切り拓いていく女性たちの姿を描く『れんげ出合茶屋』を書評家・青木千恵さんの解説でご紹介します。
『れんげ出合茶屋』泉ゆたか /青木千恵 [評]
東京・上野恩賜公園の不忍池では、夏になると蓮の花が咲く。7~8月に見頃を迎える蓮の花は、泥の中から茎を伸ばして清らかな一輪の花を咲かせるため、仏教で悟りの象徴と考えられている。不忍池は江戸時代から蓮の名所として知られ、当時の池の畔 には、蓮の葉を使った蓮飯を売る茶屋が立ち並んでいた。中には、「裏」の顔を持つ茶屋もあった。男と女が人目を忍んで逢瀬を楽しむ「出合茶屋」も、所狭しと並んでいた。
江戸時代を描く本書は、上野・不忍池の畔に新しくできた出合茶屋、『蓮華屋』を舞台にした長編時代小説である。ちなみに、蓮の花や睡蓮を総称して「蓮華」という。『ちょっとやそっとのことでは動じない、酸いも甘いも嚙み分けた女を寄越してくれ』。口入屋(職業斡旋業)の老女将の家に間借りして、あちこちの屋敷に通いで手伝いに行く、気ままな毎日を送っていた咲は、老女将に追い立てられるようにして斡旋され、住み込みの女中として働くことになった。“掃除や炊事の腕がとびきり良い女中が欲しい”ならわかるが、“酸いも甘いも嚙み分けた女”が条件なのはなぜなのか? 不忍池の畔にあるという働き先に行くと、そこは2階建てのあばら屋だった。奥から現れた雇い主は、かつて母が咲を伴って住み込みで奉公していた、呉服を商う『紅葉屋』のひとり娘、志摩だった。咲が7つだった20年前、ある出来事を機に『紅葉屋』は商売が傾いて、咲の母ら、奉公人は暇を出された。『紅葉屋』の女将さんとお嬢さんの消息は、それから知れなかった。蝶よ花よと育てられた3つ上の志摩お嬢さんは、かつての美貌を残すものの、蓮っ葉な物言いの姐さんにすっかり変貌し、長く人が住んでいなかったあばら家を改装して出合茶屋を開くという。もう一人、志摩が声をかけた香という女もやってきて、咲はよく知らない二人の女と暮らすことになる。さらに、あばら家の裏で咲が偶然出会った左之助が、大工仕事と用心棒代わりのために雇われて、女3人、男1人による開業準備が始まった──。
物語は五章で構成されており、第一章は4人が出会い、開業へと動き出すまで。第二章からは、開業した『蓮華屋』で起こる、数々の出来事が描かれる。1625(寛永2)年、東叡山寛永寺が上野に建立されたのをきっかけに、不忍池は名所になり、春は桜、夏は蓮見、秋は月見、冬は雪見と、江戸じゅうから人々が訪れた。志摩の目的は出合茶屋だったが、“老若男女で賑わう蓮見の時季は、人目を避けたい客の足が遠のく”という助言を受けて、しばらくは蓮飯でも売って凌ぐことにする。すると、咲の作った美味しい蓮飯が大好評を博して、大勢の客がやってくる。そんななりゆきで『蓮華屋』は、〈一階は至って健全な蓮飯屋でありながら二階は男女の逢引の場〉という、「表」も「裏」もある不思議な店になる。第二~五章は、章ごとに事件があっては収まりがついていく作りで、連作短編の風味も楽しめる。数々の出来事があるうちに、『蓮華屋』に集う人々「裏」の顔が、花がほころぶようにして、咲の前に現れる。
本書について魅力を挙げると、まずは舞台が出合茶屋である点だ。出合茶屋は、今でいう「ラブホテル」のルーツである。大っぴらに逢うことが叶わない男女の密会に、部屋を有料で貸していた。本書の『蓮華屋』は二階の部屋を、「表」向きは“お休み処”として提供している。〈けど、裏では誰もおとなしくお休みなんかしやしないことはみんなが知っている。あの部屋は、表と裏が一緒になっているのさ〉と、志摩は咲にいう。男と出会って傷ついた過去がある咲は、長らく人と深く関わらずにいた。自分についても、他者についても現実から目を逸らし、昔から大勢に好まれる芝居や草双紙によるイメージで、世の中をとらえていた。ところが、淫らな「裏側」と思っていた出合茶屋で、それまで出会ったことのない男女の様子を目の当たりにして、思い込みを崩されていく。舞台が出合茶屋だからこそ起こる、このプロセスが興味深い。
次に、志摩、咲、香という、まったく異なる個性を持つ3人の女性を主要人物にしているのも、本書の妙だと思う。元・大店のお嬢さんで、アイデアが閃いては商売に生かしていく志摩、料理が上手く、真面目にコツコツ仕事をこなす咲、手練手管に長けた客あしらいが得意な香。それぞれが持ち味を発揮して、季節は蓮見、月見、また蓮の盛りへと移り変わる。個性の違う3人(+左之助)がひとつ屋根の下に暮らしていると、絶え間なく出来事が起こる。3人に共通項があるとすれば「独身」だ。将軍家を筆頭にした幕藩体制を採った江戸時代は、「家」の意識が強化され、「家」に嫁いで内側を守るのが女性の役目だったから、この時代に年の頃30くらいで独身でいる志摩、咲、香は、はぐれ者といわれても仕方ない。しかし、本書は、一人ひとりに個性と人生があることを、実に魅力的に描いている。江戸の光景もあざやかに描写して、彼女たちの物語に読者をいざなう。
そして本書は、恋愛小説でもある。「残念ながら、浮いた話はありません。当分、男はこりごりです」と、志摩にきっぱり言った咲だったが、左之助との距離が少しずつ近づいていくのを感じる。一方、気が向けば男を引っかけ放題だった香にも、愛しい人が現れる。傷ついても、また誰かに惹かれていくのはなぜなのだろうか?
著者の泉ゆたかさんは、「その人」に寄り添って、内側にある気持ちや、周りに広がる光景を描いて伝えることが、とても上手い小説家だと思う。たとえば本書で「表情」に注目してみると、物語の初めの頃の咲はあんまり笑わない。だから、繁盛している出合茶屋『蓮春亭』に左之助と偵察に出かけて、まるで娘の頃のように、高い声を上げて笑う姿がことのほか印象に残る。〈噓のように気楽になった目で見てみると、屏風の絵は剽軽で微笑ましいものにも思えてきた。おっかなびっくりの心から離れれば、この部屋はずいぶんと滑稽だ〉。このように、咲をはじめとする人々が物語を通して変化していく様子は、本書の読みどころだ。主人公で視点の主は咲だが、志摩、香、左之助にも人生があって、それは「裏側」の物語。本書はあくまで咲の目に見えた、彼らの「表側」を描きとっているわけだ。人には、表と裏がある。「表側」は良いこと、「裏側」は悪いことというイメージがあるが、本当にそうなのだろうか? はっきりと「表側」には示されない、口を濁す感じで「裏側」に置いている物事は、すべて悪いもの、なのだろうか?
そもそものところ、逢瀬の場を提供する出合茶屋だって、世の中の「裏側」なのかな? と思う。江戸時代に流行した、性愛を描いた風俗画は、「枕絵」「笑い絵」などと呼ばれていた。枕絵の絵師としては喜多川歌麿が知られるが、多くの絵師が工夫を凝らし、あの葛飾北斎も手がけている。「笑い絵」が転じて「ワ印」といわれたほど、江戸時代の枕絵は、明るく、たくましく、どこかユーモラスだ。左之助は絵師として身を立てようと描き続けて、彼も『蓮華屋』で暮らすうちに変わっていく。江戸時代も今も、世の中には描きつくせないほど知らない光景が広がっている。『蓮華屋』に住み込んでいろんな光景を見るうちに、泥濘にはまって途方に暮れていた咲の心が晴れていく。
〈人には表と裏があってさ、そのどっちもほんとうなんだよ。大人になるってのは、そのどっちのほんとうも、嫌になるくらいじっくり目にするってことなのさ〉
蓮は、泥の中から咲く花である。
花は早朝に開いて、昼頃にかけて閉じていく。泥に染まることなく清らかに咲く花の美しさが、人々を慰め、安心させるのだ。
江戸の人間模様に引き込まれ、ゆったりと楽しめる物語である。