インパール作戦で敗軍収容任務についた北原は、戦後まもなく英軍から戦犯容疑をかけられる──捕虜の処刑と民間人に対する虐待。息詰まる心理戦のような尋問を通して北原は、戦時中には分からなかった敵の事情を知り、友軍将兵の秘めたる心を知り、やがて英人大尉がただの語学将校でないことを知る。

 

 戦場×組織×ミステリーが融合した古処文学の真骨頂! 戦場の「真実」を炙り出してゆく緊迫感溢れるミステリー長編『敵前の森で』を作家・石田夏穂さんの解説でご紹介します。

 

 

■『敵前の森で』古処誠二 /石田夏穂[評]

 

説明なきストイック

 

 私はいままで氏の作品を解説してきた方々の中で、最も門外漢かもしれません。戦史に通じているわけではなく、歴史に対する関心も高いとは言えない。それでも氏の作品に日本で最も熱中しているのは、自分ではないかと思います。

 氏は戦争小説の書き手として知られています。デビュー作の『UNKNOWN』(文庫化にあたり『アンノウン』に改題)をはじめ、戦地を舞台としていない作品もありますが、氏と言えば戦争小説です。しかし、模範的な読者ではないかもしれませんが、私はそれ以上に「お仕事小説」だと思っています。

 本作『敵前の森で』は、敗戦が日に日に濃厚になるビルマを舞台としています。語り手の北原「見習士官」は輜重し ちよう兵ですが、戦況の悪化を受け、前線に赴くことになります。お節介ながら「輜重兵」とは、物資の輸送など後方支援に従事する部隊です(ちなみに輜重兵は氏の作品全般を語る上で欠かせない役どころとなります)。この北原の置かれた状況は、あえて置き換えると、会社の総務にいたバックオフィスの人が、営業のフロントオフィスに回される形です。フロントオフィスの人(歴戦の歩兵たち)は「俺たちが苦労している間もたらふく食ってたのか」や「後方でぬくぬくしてたんだろ」など、階級で言えば上であるはずの北原をチクチク侮蔑します。

 このくだりを読む一定数の人は、「お仕事」をイメージするのではないでしょうか。軍隊にも(さらには同じ陸軍の中にも)、こうした内部の者だけの知る力関係があるということ。無論、凄惨な戦場の物語を「お仕事小説」と呼ぶことには抵抗を覚えますが、氏の凄みは戦場の過酷さ、悲惨さ、無情さを描くこと以上に、こうした組織人の姿を活写することにあります。いかに有事とは言え、どこまでも人間の集まりという点で、やっていることは「お仕事」であり、むしろ軍隊という他のどの集団より厳格かつ緊密な指揮系統に支配される人びとの集まりは、組織下における個人の究極を見せます。

 北原は「五の川」に臨む戦線を先任の歩兵軍曹から引き継ぎます。「五の川」とは、現地の川に日本兵たちのつけた名前です。余裕のない組織あるあるでしょうが、急な引き継ぎとなり、北原率いる輜重チームは早々に戦闘も経験します。一方で、前述の通り、歩兵軍曹にはややきつい対応をされますが、引き継ぎに必要な内容はしっかり教えられます(この歩兵軍曹、名前すら与えられていないのですが、いい味を出しています。敵と英語で応酬したあと「これでも乙幹おつ かんなんだよ」と、ジワりとシビれる一言を放ったかと思えば「戦はたまのやりとりだけではない」「敵を殺さぬ戦いを心がけろ」と、いかにも現場を知悉ち しつした助言を寄越します。ちなみに「乙幹」とは、中学を出ているという意味だそうです。氏の作品には「二等兵」や「下士官」など、階級のみの極めてドライな呼称ながら、妙に惹きつけられるこのような人物が頻出します)。

 本作で重要なのは、北原の「身分」です。見習士官の北原は言うなれば、教育実習の先生のようなものです。教育実習の先生は、ともすると生徒をハラハラさせたり、教え方がイマイチだなーと舐められたり、それでも先生として振る舞う葛藤があったり、これ誰もが通る道とは言え、とても微妙な立場です(ちなみに見習士官も氏の作品全般を語る上で欠かせないポジションです)。事実、北原は敵の動向もさることながら、身内の動向にも(あるいは敵のそれ以上に)四苦八苦します。この組織人、もとい中間管理職のままならなさを読ませる点に、氏の作品の魅力のひとつが詰まっています。

 氏の作品の最大の魅力は何といっても、登場人物たちのストイックさでしょう。氏の作品の読者ならご承知の通り、彼らは異様に真面目です。北原も例に洩れず、未経験など何のその、「見習士官であろうとここでは俺が指揮官なのだ」と、与えられた任務をまっとうすることに全力を挙げます。そんな新米リーダーを補佐する佐々塚兵長も、島野上等兵も、自分たちの役割の完遂に疑問を挟みません。例えば(現代の一部会社員に見られるような)サボる、手を抜く、できないことはしない、静かな退職、プライベート優先、自分らしさ大事、など、そういった態度はあり得ないのです。そりゃ戦場ならそうでしょう、命がかかっているのだから、と、私も思いますが、このただならぬストイックさは、小説の舞台や時代の必然である以上に、氏の美学とも言える小説世界に対するスタンスによって生まれているのだと思います。

 私が小説を書いていて思うのは、ストイックな人間を書くのは難しいということです。なぜかというと、ストイックでない人間に比べて、共感を得づらいからです。私も禁欲的な人間が好きで、よく書いてしまいますが、必ずフィードバックされるのが「もっと遊びが欲しい」です。ものすごくわかります。主人公が真面目すぎると、何を考えているのかわからないロボットのようです。けっこう小説というのは共感至上主義と言いますか、「読者に感情移入させてナンボ」な世界なので、職務に忠実すぎる人や、仕事ばかりしている人や、ハードな規範意識を持っている人は敬遠されがちです。

 で、どうするのかというと、そのストイックさを説明します。その「説明」を物語(ストーリー)と呼ぶこともできるのでしょうが、例えば、敵に身近な人を殺されて復讐心に燃えている(からストイックなのだ)とか、世界平和のために一日でも早く戦いを終わらせたい(からストイックなのだ)とか、です。私も主人公に「遊び」、ときに「かわいげ」とか「人間味」とも呼ばれますが、それをつけ加えるためにあれこれ考えます。例えば、こんなに仕事熱心なのはヘンだから社内恋愛させよう、とか、女性なのに筋トレするのはヘンだから虐められていたことにしよう、とか、あとは何でしょう、仕事の場面だけだとアレなので、休日のシーンを入れよう、とか、通勤のシーンを入れよう、とか、けっこう「お仕事小説」って、お仕事以外の要素が(強く)求められます。しかし、そんな共感ゾンビみたいな作業は、あるいは「人物の深掘り」などと呼ばれるのかもしれませんが、いつも思うのは、人間のストイックさはいちいち説明されなければならないのか、ということ。素で仕事熱心なのは駄目なのか、素で真面目なのは駄目なのか、素で体育会系なのは駄目なのか、ということ。そもそも人間の気質にフローチャートのような「わかりやすい」因果があるとは思いません。説明を求められるとは、すなわち言語化を求められるということですが、このときほど言語化という作業に虫唾むし ずが走ることはありません。

 そんなときに氏の作品に手が伸びます。なぜなら、そこにはある種の約束のように、素でストイックな人たちがいるからです。彼らは別段理由もなく職務に忠実で、あまりに潔い。私はその本能のような当然さに救われます。もちろん作品ごとの背景や葛藤はありますが、任務だから、と、その一言で彼らは動きます。命をかけます。「命令は絶対である。ためらいも見せてはならなかった」と、これは『死んでも負けない』からの引用ですが、私はここに氏の作品世界が表れていると思います。命令は絶対であり、ためらいも見せてはならないのです。説明はありません。否、この説明のなさこそが、何よりの説明になっているのです。

 他方、そんな中で添えられる非ストイックは、ことさら光ります。氏の作品の読者ならおわかりいただけると思いますが、まず、氏の作品は潔癖なほど媚びません。率直に言って、戦地が舞台の小説なら、もっと媚びることができます。例えば、現地の女とどうのこうの、など、いくらでもできると思うのですが、氏の作品は基本的にそうした「サービス」とは無縁です。そんな中で描かれる非ストイック、もとい(個人的に氏の作品の雰囲気には合わない言葉ですが)「温かみ」や「人情」は、たとえるなら線香花火です。本作で描かれる、刹那のチャンスを掴もうとする一個人の切実さと、最後の最後にほのめかされる本人ですら自覚していなかった仁義も、氏の手でなければこうは描き出されません。

 しかし、こんなに(ある意味で)仕事しかしていない人たちに情念を感じるのは、とても不思議です。私は氏の作品を読むたびに『ルール』を思い出します。『ルール』も戦地を舞台とする氏の代表作で、私が最初に読んだ氏の作品でもあるのですが、自分の好みにドストライクだったというより、自分はこれが好きなのだと教えてもらったような心地になりました。そのときも、こんなに寡黙で任務しかしていない人たちにどうして泣くのだろう? と、とても不思議でした。自分もこういう小説が書きたい、と強く思います。人間のストイックさはいちいち説明されなければならないのか? 答えはないでしょうし、いりません。氏の作品の戦士たちが無言のうちに教えてくれます。