作家・ITコンサルタント・東大大学院の客員准教授として活躍する樋口恭介による、最新SF短編集『何もかも理想とかけ離れていた』。2096年の近未来で、「家族」「幸福」「社会制度」がどのように変容し、個人の選択や感情と衝突していくのかを鋭く描き出した1冊です。

 

「小説推理」2026年2月号に掲載された書評家・冬木糸一氏のレビューで『何もかも理想とかけ離れていた』の読みどころをご紹介します。

 

 

■『何もかも理想とかけ離れていた』樋口恭介  /冬木糸一 [評]

 

最先端のテクノロジーからこぼれ落ちる感情をすくい上げた珠玉の短編集

 

『構造素子』でデビューし、その後は評論集『すべて名もなき未来』やビジネス書『反逆の仕事論』を刊行してきた樋口恭介。近年はSFを現実のイノベーションや未来戦略に用いるSFプロトタイピングの専門家としても活躍し──と、傍から見ていると樋口恭介は「SFをビジネスに活用する人」になっていた。だが、初のSF短編小説集である本書『何もかも理想とかけ離れていた』を読めば、作家・樋口恭介が決して眠っていたわけではないことがよくわかる。

 

 収録作は様々な媒体に掲載された全六編だ。たとえば表題作は、出生前の子どもに遺伝子改変を行うのが当然になった未来で、あえて無改変の自然分娩を行った母親の苦悩の物語だ。しかし産まれてきた子どもは心臓が悪く一二歳で亡くなってしまい、ソフトウェアと化した息子のコピーだけが残された。そのような状況下での親子はどのような関係性を辿るのか。

 

同じくマインドアップロード物として興味深いのは、物理人類が滅びソフトウェア人類のみとなった未来を描き出す「一〇〇〇億の物語」。おもしろいのがこの世界では新たな子どもはランダムなパラメータで生み出されること。そうすると遺伝的な親子関係が消失するわけだが、その代わりに類似度が近しい個体が家族を形成するようになっており、ソフトウェア人類ならではの家族の在り方、その帰結が描き出されていく。

 

 本作品中のもう一つの軸は人間の神経や脳の改変をテーマにしたニューロサイエンスを扱った作品群。誰もが専用ナノマシンを体内に注入し、利他的な行動を行いスコアを上げることで神経伝達物質を制御し自身の幸福感を高める、未来の日本人の幸福と絶望を描き出す「ニュー(ロ)エコノミーの世紀」が特に素晴らしい。

 

重要なのは、どの作品もそうした未来的なテクノロジーの登場で、単純に言葉で表すことができずこぼれ落ちてしまう“なにか”を丹念にすくい上げようとしている点にある。樋口恭介はずっと腕に磨きをかけていたのだと、体感させられる短編集だ。