2
社長室で館脇と別れると、萩尾と秋穂はエレベーターホールに向かった。見送りに来た雨森が言った。
「相変わらず、ああいう調子です」
萩尾は言った。
「私らは、音川からも話を聞こうと思います」
「アポを取りましょうか?」
「連絡先をご存じですか?」
「わが社がオープンする博物館で、キュレーターをやると申したでしょう」
「あ、そうでした。では、お願いできますか」
雨森はうなずいた。
「後ほど、連絡させていただきます」
警視庁本部に戻ると、秋穂が言った。
「詐欺なんだから、二課の舎人に調べさせましょうか」
舎人真三は、学芸員の資格を持つ捜査二課の捜査員だ。イギリスでキュレーターの勉強をしたことがあるという目利きだ。
萩尾は言った。
「まだ詐欺と決まったわけじゃない。それに、舎人はおまえさんの先輩で年上なんだ。呼び捨てにするなよ」
「話をすれば、興味を持つんじゃないですか」
萩尾はしばらく考えてからこたえた。
「二課に行ってみるか」
「二課の捜査員は、本部庁舎にいるとは限りませんよ」
秋穂が言うとおり、国会議員の汚職や選挙違反を扱うこともある二課は、別の場所に居を構えて捜査することが多い。
秋穂が電話してみると、案の定舎人は池袋にいるということだ。夕方に、本部庁舎に寄ってもいいと言う。
午後五時に、三課に来てもらうことにした。
「何ですか? 話って……」
やってきた舎人は、挨拶もなしに萩尾にそう言った。萩尾は、館脇の博物館と『ギルガメッシュ叙事詩』の話をした。
「ああ、今度オープンする博物館の目玉って、『ギルガメッシュ叙事詩』なんですか……」
舎人に驚いた様子はない。こいつは何があっても柳に風といった風情だ。
その舎人が、次の萩尾の一言で豹変した。
「アメリカの古美術商と館脇の仲介をしたのが、音川らしいんだが……」
舎人は、はたと萩尾を見つめて言った。
「音川ですって。だったら、その粘土板は贋作ですよ。音川が作ったものに決まってます」
「いきなり食いついてきたわね」
秋穂が言った。「じゃあ、詐欺師はアメリカのアブドル・ハサンじゃなくて、音川だと……?」
「決まってるじゃないですか。そのアブドルとかいう古美術商なんて、実在するかどうかも怪しいもんです」
「いや、実在はするらしいんだがね……」
萩尾は言った。「だが、そのほうが犯罪としては現実味があるな……」
舎人が言った。
「そんなもん、年代測定すれば一発じゃないですか」
「年代測定……」
「そうですよ。本物の『ギルガメッシュ叙事詩』なら、『アッシュールバニパルの図書館』の一部で、紀元前一三〇〇年から、一二〇〇年頃のものですから……」
「その点を音川に質問してみるか……」
何事につけても熱意など感じられない舎人が、珍しく目を輝かせる。
「音川に会いにいくんですか?」
「ああ。そのつもりだ」
「自分も行きます」
萩尾と秋穂は顔を見合わせていた。
音川は、新しい博物館の準備をしているということだった。萩尾、秋穂、舎人の三人はその現場を訪ねた。
音川は、三人を笑みを浮かべて迎えた。
「ようこそ、タテワキ博物館へ」
「へえ……」
萩尾は言った。「博物館というから、上野にあるような建物を想像していたんだけど、まさか高層ビルの中にあるとはな……」
港区の商業施設の中にあるビルの二フロアがタテワキ博物館となっていた。
音川がこたえた。
「人々が行き交う街の中にあってこそ、博物館の意味があると、館脇は申しております」
「ああ、その話は聞いたよ」
舎人が言った。
「偽物の『ギルガメッシュ叙事詩』はどこだ?」
いきなりの戦闘モードだ。音川は、余裕の笑みを絶やさない。
「偽物ではありませんよ」
「そんなわけがあるか。現存する十二枚の粘土板は、すべてイラクの博物館にあるはずだ」
「たしかに……。しかし、『ギルガメッシュ叙事詩』はその十二枚がすべてではありません」
「何だって……」
「一九九一年の盗難事件はご存じですか?」
舎人は、はっとした顔になり、言葉の勢いをなくした。
「聞いたことはある……」
萩尾は音川に尋ねた。
「『ギルガメッシュ叙事詩』が盗まれたのか?」
「一九九一年に、粘土板がイラクの博物館から盗まれたのです。湾岸戦争が起きたどさくさの出来事です。その粘土板は二〇〇一年にイギリスで発見されます」
「イギリス?」
秋穂が言った。「まさか、大英博物館じゃないでしょうね」
「いえ、そうではありません。ロンドン在住のヨルダン人一族が所有していました」
舎人が尋ねた。
「なぜ、そのヨルダン人一族が持っていたんだ?」
「その経緯は、私にはわかりません。そのヨルダン人一族から、二〇〇三年にアメリカの美術商が購入しました。そしてそれをアメリカに密輸したのです。さらに二〇〇七年に、その美術商は、偽の鑑定書をつけて、五万ドルで古美術商に売りました。当時のレートで約五百五十万円です」
舎人が言う。
「えらく安い気がするな」
「まあ、ここまでは闇ルートですから」
「ここまではというと、その先があるということだな?」
「アメリカのある実業家が、その古美術商から百六十七万ドルで購入します。日本円で一億八千四百万円です。その実業家は自分が所有する博物館で展示しようとしたのですが、それはかないませんでした。二〇一七年に、博物館の学芸員が鑑定書の不備に気づき、続く一九年に、米国政府に押収されることになります」
舎人が言った。
「その先は、知っている。アメリカ政府からイラクに返還されたんだ」
音川はうなずいた。
「おっしゃるとおりです。そして、アメリカの実業家に粘土板を売却した古美術商がアブドル・ハサンだったのです」
「でも……」
秋穂が言った。「粘土板はアメリカ政府に押収されて、イラクに返還されたんでしょう? やっぱり、館脇さんが買ったという粘土板は偽物ということになりますよね?」
「そうだよ」
舎人が言う。「おまえが作った偽物なんだろう」
音川は落ち着いた態度のままで言った。
「一九九一年にイラクの博物館から盗まれたというのは、一例に過ぎません。戦争のどさくさでイラクから流出した出土品の類は数知れません。また、大英博物館が所蔵している『アッシュールバニパルの図書館』の文書はすべてではありません。他にも散逸した出土品があったはずです。つまり、失われた文書です」
秋穂が尋ねる。
「館脇さんが手に入れた粘土板は、その失われた文書の一つだということですか?」
音川がこたえた。
「アブドル・ハサンは、その名からわかるとおり、アラブ系です。湾岸戦争時に略奪された文化財を発見しては入手していたというのです。今回の『ギルガメッシュ叙事詩』の粘土板もそういう経緯で入手したのだそうです」
秋穂が言う。
「本物ならイラクに返還しなければなりませんよね」
「それは所有者の判断ですね」
自分の知ったことではないという口調だ。
舎人が言った。
「真贋の鑑定をさせろ」
「それも、所有者の判断ですね」
「詐欺かどうかを調べなくてはならない」
「館脇さんから、詐欺にあったという訴えがあったのですか?」
舎人が萩尾を見た。萩尾はこたえた。
「秘書の雨森さんが石神さんに、調べてほしいと依頼したんだ」
「私立探偵への依頼を、警察が調べているのですか?」
舎人が言う。
「詐欺の疑いがあれば調べる」
「アメリカの専門家の鑑定書があります」
「専門家?」
「大学の考古学の権威です」
「鑑定の内容は?」
「『本物であるという確証はないが、偽物だという証拠もない』というものです。館脇さんには、それで充分だったようです」
舎人は引かない。
「年代測定をやれば真贋はわかる」
音川はほほえんだ。
「あなたは、絵画や陶器についての知識はおありのようですが、出土品についてはあまりご存じないようですね」
「なに……」
「どうやって年代測定をやるおつもりですか?」
「そりゃ、放射性炭素測定法とか……」
「粘土板は有機物を含みませんから、その測定法は使えませんよ。他の年代測定法は、手間と時間と金がかかります」
「あ……」
「それに、たぶん館脇さんは年代測定を望みませんよ」
「それは……」
萩尾は言った。「本人に直接訊いてみましょう」
萩尾は雨森に連絡を取り、館脇とのアポを取った。そして、その会見の場に石神と音川にも同席してほしいと告げた。
約束の日時に、萩尾は秋穂と舎人を伴って館脇の会社を訪れた。社長室で、館脇と雨森が萩尾たちを待っていた。
すでに、石神と音川も来ていた。彼らは会議用のテーブルに向かって座っていた。
館脇が言った。
「ハギさん。皆を集めてどうしようってんだ?」
「詐欺疑惑に決着を付けようと思いまして」
「だからさ。詐欺なんかじゃないんだってば……」
萩尾は石神に尋ねた。
「アブドル・ハサンのことは調べてくれた?」
「ああ。彼は実在するし、正真正銘の古美術商だった」
「彼がどこから粘土板を手に入れたかは?」
「そこまではわからなかったな」
「そのアブドル・ハサンが誰かに雇われている可能性は?」
「そんなこと、俺には調べられない」
「可能性はあるね」
舎人が言った。「例えば、音川に……」
音川は笑みを浮かべている。
「僕がハサンを雇うなんて、あり得ません。僕はあくまで仲介をしただけです」
舎人はさらに言う。
「音川が粘土板の偽物を作り、アブドル・ハサンとグルになって館脇さんに粘土板を売りつける。アブドル・ハサンは分け前をもらい、残りの金はすべて音川が手にするという寸法だ。つまり、音川が仕掛けた詐欺だという絵が成立する」
「証拠はあるんですか?」
「ふん。証拠はあるかと言うのは、犯罪者の常套句だよ。粘土板を分析して、真贋を明らかにすればいい」
「ですから、炭素年代測定法は、粘土板には使えないんです」
「他にも年代測定の方法はある」
「手間とお金の無駄ですよ」
「粘土板が偽物だということがわかっているから、年代測定をやりたくないんだろう。おまえが作ったんだからな」
萩尾は館脇に言った。
「……こういうことになっていますが、どうです? 粘土板の年代測定をやってみては……」
すると、館脇がきっぱりと言った。
「それは断る」
「どうしてですか? 舎人が言うように、年代測定をすれば真贋はある程度はっきりします。そうすれば、雨森さんが抱いていらっしゃる疑惑も晴れます」
「その必要はないんだよ」
「詐欺にあっているかもしれないという疑惑を晴らす必要がないということですか?」
「ない。なぜなら、俺が本物だと信じているからだ」
舎人が言った。
「詐欺罪は親告罪じゃないんですよ。だから、被害者の訴えがなくても、疑いがあれば我々は捜査しなければならないんです」
館脇が舎人に言った。
「これは、釈迦に説法かもしれないがね、詐欺罪が成立するには、四つの要件をすべて満たさなければならないんだよね」
舎人がうなずく。
「おっしゃるとおりです」
「その四つの要件とは……?」
舎人はすらすらとこたえた。
「人を欺く行為、被害者の錯誤、被害者による交付行為、 財物または財産上の利益の移転」
「俺が被害者だとしたら、たしかに交付行為はあった。財産上の利益の移転もあったと見ることができる。だが、それだけだ。俺は錯誤してはいない。本物だと信じているからな。だから、誰かが俺を欺いたという事実もない。四つの要件のうち二つを満たしてない。だから、詐欺罪は成立しない」
舎人は言った。
「粘土板が偽物だとわかったら、誰かがあなたを欺いたことになります。偽物と知らずに金を支払ったのだから、あなたは錯誤したことになる」
「だーかーら」
館脇が言った。「偽物かどうかなんて、どうでもいいって言ってるだろう」
萩尾は尋ねた。
「二億をドブに捨てたのかもしれないのですよ」
「ドブに捨てただって? そうじゃないよ」
「じゃ、どういうことなんです?」
「俺が、その粘土板に二億の価値を生ませたってことだ」
秋穂が鸚鵡返しに尋ねた。
「二億の価値を生ませた……?」
「そうだ。骨董品や出土品の価値なんてそんなもんだ。粘土板はただの土塊だよ」
秋穂が言う。
「でも、『ギルガメッシュ叙事詩』は人類最古の物語で、歴史的な価値がありますよね」
「歴史的価値でメシは食えないよ。美術品だの骨董だの出土品だのの金銭的な価値はどうやって生まれると思う?」
「オークションとかですか?」
「そう。つまり、出資者がいるからだ。ゴッホの絵は死ぬまで売れなかった。ゴッホの絵が売れるようになったのは、弟の嫁のヨーが辛抱強く批評家のヤン・ベスを説得したからだ」
音川がうなずいた。
「美術の世界で批評家の権威は重要ですね」
さらに館脇の言葉が続いた。
「考古学の世界でも権威が必要だ。俺の粘土板も鑑定してもらったよ。本物だという確証はないが、偽物だという証拠もない。それが結論だ」
「ですから……」
舎人が言う。「偽物だという証拠を明らかに……」
館脇はそれを遮った。
「俺にはその鑑定結果で充分なんだよ。いいかね。美術品や骨董品が価値を得るのは、権威のそのまた先があるからだ。出資者がいるからだよ。美術品だって買い手がつかなければ、ただのガラクタだ。画商や美術商がいて売買され、オークションでコレクターが大枚をはたくから価値が生まれる。粘土板もそうだ。俺が二億で買った。そのときに価値が生まれたんだ」
舎人が言う。
「偽物でもいいと……?」
館脇がこたえた。
「俺が本物にしたんだ」
音川が言った。
「骨董品や歴史的な出土品の世界は迷宮のようなものです。多くの人々の思惑と欲と、そしてロマンが交錯しているのです」
萩尾は雨森に尋ねた。
「どうお考えですか?」
雨森は肩をすくめた。
「社長が本物だと主張するのだから、仕方がありませんね」
「では」
萩尾は言った。「一件落着でいいですね」
萩尾は秋穂や舎人といっしょにタテワキ博物館のオープニングイベントに出かけた。
三人は立ち尽くし、目を丸くした。来館者であふれかえっている。
萩尾は言った。
「こいつは何事だ……」
秋穂が指さした。
「あれです」そこには、イベントのキャッチフレーズが大書されている。
〈世界最古の物語 本物か偽物か あなたの眼で見極めよう〉
「あれが大当たりしたみたいです」
「なるほどなあ。さすがと言うべきか……」
長い列に並び、ようやく入館した三人を、音川が出迎えた。
「やあ、ようこそいらっしゃいました」
秋穂が言った。
「あ、ちゃんとキュレーターやってるのね」
「もちろんです。さ、皆さんお目当ての粘土板はあちらです」
促されて、人の流れに乗る。
舎人がつぶやいた。
「音川のやつ、いつか捕まえてやる」
やがて、ガラスの陳列ケースの中の、十センチ四方に満たない小さな粘土板が見えてきた。
「二億円か……」
粘土板を見ながら、萩尾は言った。「まさか、マネーロンダリングじゃないよなあ……」
(了)