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「へえ……」
秋穂がスマートフォンを見ながら、声を上げた。向かいの席にいる萩尾は尋ねた。
「何だ?」
「館脇友久が、都内に博物館を作ったんですって」
「館脇……? IT長者だな」
以前、盗難にあったという知らせを受けて調べたことがある。
秋穂が言う。
「そう。とんでもない金持ちですよね。『ソロモンの指輪』を所有していて、それを盗まれたという騒ぎがありました」
「結局、その指輪は自宅の中にあり、事件にはならなかったんだがな……」
「また何か手に入れたみたいですよ」
何かというのは、骨董品か。彼は海外のオークションなどで、歴史的に価値がある出土品などを集めている。おそろしく金のかかる道楽だ。
「何かって、何だ?」
「それは、博物館の目玉になるので、オープニング直前に発表になるらしいです」
「ほう」
「入手するのに億単位の金がかかったということですから、たいした宝物なんでしょうね」
「まあ、盗まれでもしない限り、俺たちとは関係ないがね」
「そうですね」
そんな話をした数日後、私立探偵の石神達彦から電話があり、萩尾は驚いた。
「あんたが電話してくるなんて、珍しいな」
「すっかりご無沙汰だったからな」
「館脇友久の『ソロモンの指輪』騒ぎ以来だな」
「その館脇なんだが……」
「ああ、都内に博物館を作るんだそうだな。展示の目玉に、何かまたえらく高価なものを手に入れたそうじゃないか」
「その件で、依頼があった」
「依頼? 誰から、どんな依頼があったんだ?」
「雨森夕子からの依頼だ」
「館脇友久の秘書だな。まだ館脇のところで働いているのか?」
「まだ秘書をやっている。彼女は館脇が詐欺にあったのかもしれないと言っている」
「詐欺……?」
「博物館の目玉展示物だ。何でも、二億円で手に入れたというんだが……」
「二億円か。館脇は相変わらずだな。いったい何を手に入れたというんだ」
「『ギルガメッシュ叙事詩』だ」
「いやあ、そいつはいかにも眉唾だな」
「どうしてそう思う?」
「有名過ぎるじゃないか。それに、現存する粘土板は、どこかの国の博物館に厳重に保管されているんじゃないのか」
「とにかく、話がしたい」
「わかった。どこで会う?」
「事務所に来てくれるとありがたい」
「わかった。乃木坂だったな?」
「そうだ」
「これから向かう」
「じゃあ、後で」
電話が切れた。
萩尾は、向かいの席の秋穂に、今の電話の内容を伝えた。すると、秋穂はあきれたような顔になった。
「『ギルガメッシュ叙事詩』ですって? そんなの本物なわけないじゃないですか」
「俺もそう思うが、館脇は本物だと思ったわけだろう?」
「だから、誰かに騙されたわけでしょう」
「だが、館脇は歴史や考古学には詳しい。遺跡から発掘された埋蔵品なんかの目利きのはずだ」
「マニアほど騙されやすいんですよ」
「とにかく、石神の話を聞こう」
萩尾は秋穂とともに、石神の事務所に出かけた。
かなり年季の入った革張りのソファに低いテーブル。小さな窓に両袖の大きな机。まさに、絵に描いたような探偵事務所だ。
石神は近代的なオフィスなどにはまったく興味がないらしい。
応接セットに先客がいた。雨森夕子だ。彼女は萩尾と秋穂を見ると立ち上がり、丁寧にお辞儀をした。
「その節はお世話になりました」
挨拶を済ませると、四人はソファに腰を下ろした。石神と雨森夕子が並んで座り、その向かいに萩尾と秋穂だ。
萩尾が言った。
「雨森さんは石神さんに、館脇さんが手に入れた物について調査を依頼されたそうですね」
「ええ。どんなものかはもうお聞きになりましたか?」
「『ギルガメッシュ叙事詩』の粘土板だとか……」
雨森はうなずいた。
「そうなんです。館脇はそれに二億円もの金を投じました。私は詐欺にあったのではないかと案じております。それで……」
「警察ではなく、私立探偵に調べてもらおうと考えたのはなぜです?」
「詐欺かどうか、確信が持てませんでした。警察は被害がはっきりしていないと動いてはくれないのでしょう?」
「もし詐欺だとしたら、被害額二億円というのは、ちょっとしたものです」
石神が言った。
「被害かどうか、まだわからない。それは、入手するために支払われた正当な対価なのかもしれない」
「でも……」
秋穂が言った。「雨森さんは、そうは思っていないわけですね」
雨森がこたえた。
「だって、『ギルガメッシュ叙事詩』ですよ。偽物に決まっているじゃないですか」
秋穂が言う。
「うちのハギさんも、同じようなことを言ってましたが……」
石神が秋穂に尋ねた。
「あんたは信じるのか?」
「どうですかね……。館脇さんはどうおっしゃっているんですか?」
雨森が言う。
「もちろん、本物だと言っています」
「あの人も懲りないな……」
萩尾は言った。「『ソロモンの指輪』で痛い目にあって、多少は懲りたんじゃないかと思っていたんですが……」
石神が言った。
「懲りるも何も、『ソロモンの指輪』は本物だったんだし、盗まれたわけじゃなかった」
それに対して、秋穂が言った。
「でも、世間を騒がせたことは事実でしょう。反省してもらいたかったんですけどね」
萩尾は尋ねた。
「問題の粘土板はどこにあるんですか?」
雨森がこたえた。
「銀行の貸金庫に預けてあります」
「館脇さんは、都内に博物館を作るのだそうですね。その粘土板は、オープン時の展示の目玉にするんだとか……」
「はい。そのつもりのようです」
石神が言う。
「博物館も人を集めないとな。『ギルガメッシュ叙事詩』の粘土板ともなれば、おおいに話題になるはずだ」
萩尾は続けて雨森に質問した。
「その粘土板は、どこから入手したのですか?」
「アメリカの古美術商から買いました。アブドル・ハサンという名です」
「何だか、アラブ人のような名前ですね」
「アラブ系のアメリカ人だと思います。おそらく、イラク系ではないかと……」
すると石神が言った。
「現在、『ギルガメッシュ叙事詩』と呼ばれているのは、紀元前一三〇〇年から一二〇〇年頃にまとめられた『標準版』と呼ばれるものだ」
「『標準版』?」
「標準バビロニア語で書かれているので、そう呼ばれる。粘土板に楔形文字で刻まれているものだ。ニネヴェの『アッシュールバニパルの図書館』と呼ばれる文書コレクションの中に含まれていた」
「図書館にあったのか?」
「『アッシュールバニパルの図書館』というのは、遺跡のことだよ。三万点以上の粘土板やその断片が掘り出されたので、図書館と呼ばれている」
雨森が言った。
「古代アッシリアのニネヴェは、今のイラク北部の都市モスルにあります」
秋穂が言った。
「あ、さっきのアメリカ人古美術商は、イラク系だって言いましたよね?」
雨森がうなずいた。
「イラク人に伝手があったのではないかと思います」
萩尾は尋ねた。
「じゃあ、その『アッシュールバニパルの図書館』の粘土板は、イラクにあるってことか?」
「ところが……」
石神が言う。「粘土板の多くは、イギリスに運ばれて、大英博物館に収蔵されているんだ」
「イギリスに……」
「イラクは貴重な歴史的財産なので、取り戻そうと必死だがね」
「その何とか言うアメリカ人古美術商だが、どうして『ギルガメッシュ叙事詩』の粘土板を持っていたのだろう」
雨森が言った。
「それについては、音川さんが詳しく知っています」
萩尾と秋穂は声をそろえて「音川」と言った。
石神が萩尾に言う。
「俺も、その名前を聞いてあんたに連絡する気になったんだ」
秋穂が言った。
「音川が絡んでいるのなら、詐欺に決まっています」
音川理一は、世田谷にある美術館のキュレーターだ。だがそれは表向きの顔で、実はきわめて腕のいい贋作師だ。絵画から焼き物まで何でもありで、精巧な偽物を作る。
雨森が言った。
「アブドル・ハサンとの仲介役をやってくれたのが、音川さんなんです」
萩尾が言った。
「館脇さんと音川さんは、まだお付き合いがあったんですね」
「……というか、すっかり意気投合です。新しくできる博物館で、音川さんがキュレーターをやることになっています」
萩尾はちょっとあきれた。
「なんとまあ……」
『ソロモンの指輪』盗難騒ぎの筋書きを書いたのが音川だったのだ。そもそも盗難がなかったことになったので、彼も罪に問われることはなかったのだが……。
秋穂が繰り返した。
「あいつが仲介だなんて、絶対に詐欺です」
すると、石神が言った。
「どうも不思議なんだが、誰もが、偽物だと思っているし、それに二億円も払うのは詐欺だと思っている。だが、館脇さんだけは、マジなんだよ」
雨森が言った。
「『ソロモンの指輪』を入手するために使った資金は館脇個人のものでした。ですから、私は口出しする立場にありませんでした。しかし、今回は会社のお金なのです」
石神が補足するように言った。
「博物館は会社の事業なので、二億円は経費になるらしい」
「とにかく……」
萩尾は言った。「館脇さんにも、お話をうかがわないと……」
そして、雨森に尋ねた。
「石神さんに相談していることは、館脇さんには言っていないんですね?」
「はい。言うとへそを曲げると思いまして……」
秋穂が言った。
「でも、そんなことを言ってるときじゃないですよね。二億円の詐欺って大事ですよ」
雨森がうなずいた。
「館脇には知られずに、詐欺の証拠をつかんでもらおうと思ったのですが、そう簡単にはいきそうにないですね」
石神が言う。
「アメリカの古美術商だの、イラクの博物館だのという話は、俺には荷が重い」
萩尾は言った。
「そんなの、警視庁にだって荷が重いさ。ともかく、館脇さんに話を聞こう。それと、音川だ」
雨森が言った。
「館脇に、警察に出頭するように言いましょうか?」
萩尾は慌てた。
「いやいや、被疑者でも参考人でもないのですから、それには及びません。まず、私らが御社をお訪ねします」
雨森がスマートフォンを見て館脇の予定を確認し、予定を組んだ。明日の午前十一時だ。
石神が言った。
「俺が依頼を受けたんだ。俺が行くべきじゃないか」
「あんたは、アメリカの古美術商のことを調べてくれ。何か伝手はあるんだろう?」
「それなら、音川に訊けばいい」
「嘘をつかれたときのために、あらかじめ裏を取っておくんだよ。あんたも、元サツカンなんだから、そのへんの段取りはわかっているだろう」
石神は無言でうなずいた。
萩尾は雨宮に言った。
「では、明日十一時に」
株式会社タテワキには、何度か足を運んでいるので、だいたい様子はわかっていた。だだっ広くて金属を多用したインテリアのぴかぴかした社長室は、萩尾の記憶と同じだった。
「おお、ハギさんじゃないか。久しぶりだねえ」
館脇は還暦を過ぎているが、まだ若々しい。机の脇には雨宮が立っている。
すぐに会議ができるように、ぴかぴかのテーブルと椅子があり、館脇と萩尾、秋穂はその椅子に座った。
館脇が雨宮に言った。
「君はもういいよ」
すると雨宮は言った。
「いいえ。私もいっしょにお話をうかがおうと思います」
「あ、そう。わかった」
館脇と雨宮の力関係がわかるやり取りだと、萩尾は思った。
館脇が萩尾に言った。
「さて、何の話かな?」
「『ギルガメッシュ叙事詩』についてです」
とたんに館脇はうれしそうな顔になった。
「そいつはまだ秘密なんだがね。結局、情報解禁を待たずにバレちまうんだなあ」
「博物館のオープンイベントの目玉だそうですね」
「そうだよ。……というか、そいつが手に入るということになったので、博物館を作ることにしたわけだ」
「『ギルガメッシュ叙事詩』のために博物館を……」
「突然降ってわいた話じゃないよ。わが社の文化事業の一環だ。ね、ハギさんは、ニューヨークに行ったことある?」
「ニューヨークですか? いえ、ないですね」
「マンハッタンに立ち並ぶ高層ビル。街を行き交う多種多彩な人々。ありとあらゆる贅沢があり、ブロードウェイ、オフブロードウェイといったエンターテインメントがある」
「はあ……」
「驚くのは、街のいたるところに美術館や博物館があることだ。買い物をしていて、路地に入ってみると、そこに小さな博物館があったりするんだ。俺はね、東京もそういう街にしたいと思ったんだ」
「上野に行けば、美術館も博物館もありますが……」
「そういうんじゃないんだ。飯食ったり、買い物したりする街に、そういうものがあるのがいいんだよ。ところが、いざ計画を立ち上げようとすると、何を作ればいいかわからないわけだ」
「はあ……」
萩尾は言った。「金持ちにしかわからない悩みですね」
「そこに、『ギルガメッシュ叙事詩』の粘土板が手に入るという話が舞い込んだ。それで、計画が一気に具体化したわけだ」
「どこからその話が来たんですか?」
「それなんだよ。音川は知っているよね」
「もちろんです」
「その音川が話を持って来たんだ。『ギルガメッシュ叙事詩』の粘土板を所有しているアメリカ人の古美術商がいて、買い手を探している、と……」
「アブドル・ハサンですね?」
「さすが警察だね。そこまで知っているのか」
「雨森さんにうかがったのです」
館脇は雨森をちらりと見たが何も言わなかった。
萩尾は尋ねた。
「そのアブドル・ハサンとは直接会われたのですか?」
「当然だろう。高い買い物だからな」
「二億円もしたそうですね」
「雨森はそんなこともしゃべったのか」
「ええ。うかがいました」
「知ってるよ。雨森は詐欺じゃないかと疑っているんだろう?」
「ご存じならば話は早い。その粘土板は本物なんですか?」
「どうだろうな」
館脇のこのこたえに、萩尾は驚いた。
秋穂もびっくりしている。そして、雨森さえも……。
萩尾はさらに尋ねた。
「本物だと信じているから、二億円という巨額を投じたのですよね?」
「二億円が巨額かな……」
資産家のこの感覚はわからない。
「まあ、それはいいとして……」
館脇が言った。「その点については、音川を信じたんだよ」
(つづく)