第1回

「土肥くーん」

 俺を呼ぶその声を聞くといつも、大げさでなく全身に鳥肌が立つ。腹をくだしたときのように、冷や汗も吹き出る。無意識のうちに貧乏ゆすりをはじめてしまう。

 ああ、くる。やってくる。そのダイナミックな体型に似つかわしくない敏捷な動きで、俺のところまでやってくる。そして、隣に屈みこんでデスク上のモニターをのぞき込むと、勝手に俺の手からマウスを奪った。そのときの、匂い。なんとも言えない、というか何か言うとしたらもうそれは“不快”という言葉以外何も思いつかない、匂い。汗と、化粧品や香水の甘い匂いがまざりあったもの。同時に腕に押し付けられる、肉の感触。というか、胸。そうなんだ。この女はいつも、俺に仕事を教えるふりをしながら、胸という名の脂肪のかたまりを押し付けてくるんだ。それも、空気の抜けたバレーボールみたいな質感の。最悪だ。やめてくれ。思わず身を引くと、女はこちらをのぞき込み、ふふっと笑った。その顔。きわめて個性的な顔だ。プレデターにちょっと似ている。

「当たっちゃった? ごめんね。あたしっていつも近づきすぎちゃうの。距離感をつかむのが苦手な人なんだ。エヘ」

 それは普通の女性と比べて体の幅が広すぎることが原因じゃないですかね……と思ったが、もちろんそんなことは言えなかった。

「土肥くん。何かわからないことある? 今のうちになんでも聞いて?」

「いや……別に」

「ちょっと見せて……うん、この処理、正しくできてる。あ、ちょっと待って。これ、間違えてる!」女は急に喜々とした声を出した。「前も教えたと思うけど、この受付の場合……」

 胸を俺の肘に、さらにぐいぐい押し付けてくる。そのぴったりした黒いTシャツの首元がだんだん伸びてきて、今や胸の谷間が丸出しになっていた。見たくないのに、なぜだか視線を向けてしまう。胸元の皮膚はやけに浅黒く、老人みたいなシミがたくさん浮いていた。なんだか……とても不潔な景色だ。こんな汚いものを見るために、俺は履歴書を書いたり面接を受けたり、クソ面倒な研修期間を耐え忍んだわけじゃない! しかし女は俺の苦痛に全く気付くことなく、気色の悪い猫なで声でしゃべり続ける。 

 そのとき、別の場所から視線を感じて、顔をあげた。

 二人の女性がこちらを見ていた。

 篠田由美と田川向日葵。

 この職場で俺が一番好きな女性と、二番目に好きな女性だ。

 二人とも細身で、色白で、ストレートのロングヘア。いつもニコニコしていて、何があってもイライラしたり怒ったりせず、優しい性格。俺の好みがすべて詰まっているような女性たち。

 二人がこちらを見ながら、クスクス笑っている。会話がはっきりと聞こえてくる。「彼と彼女、付き合ってるのかしら」「お似合いよね」「土肥さんってデブ専なのかな」

 違う! 違うんだ! 誤解だ、誤解しないでくれ! 俺は心の中で叫んだ。太った女は好きじゃない。むしろ嫌いだ。大嫌いなんだ!

……でも、どうしてなのか。子供のときから、俺は、太った女にばかり好かれてしまう。

 小学校の六年間、俺をずっとストーキングし続けたジオングこと川田恵美。中一から高三にかけてのすべての誕生日とクリスマスとバレンタインデーに告白してきたデブ美こと山田芙美。前の会社で上司という立場を利用して逆セクハラを繰り返し俺にパニック障害を発症させ退職に追い込んだベイマックスこと加藤雅美。そして今、隣にいるこの臭い女。

 みんなデブ。恐ろしいほどデブ。

「ねえ、土肥くん、こっち見て」

 ぎょっとした。いつの間に、胸が完全に露わになっていた。

「やだ、じっと見ないで。コーフンしてるの? ここは職場よ? へんたーい」

 それは……俺のセリフだ!

「土肥くんって、彼女いないんだよね。かっこ良くてモテそうなのにもったいないよ。あ、今日は誕生日だよね。これ、プレゼント。手作りだよ」

 女は、だしぬけにジップロックのタッパーに入った肉じゃがを差し出した。肉じゃがは豚肉と白滝がたっぷりと使われた、俺好みのつゆだくタイプだった。脂が蛍光灯のあかりをテカテカと照り返している。

 俺は肉じゃがと、彼女の驚くほど黒い二つの乳首を交互に見た。なぜだ。なぜ俺は、デブ女ばかりに好かれるんだ。スリムな女性が好きなのに、スリムな女性は俺に告白してこない。そのせいで、俺はいまだにただの一人も彼女がいたことがない。俺が三十一にもなって童貞なのも無職なのも、全部デブ女のせいだ。

 とにかく、もうたくさんだ! 

 

「おい、おい! 恵太!」

 ハッとして目を覚ます。憲二が俺をのぞき込んでいた。

「お前……すげえうなされてたぞ」

 全身、汗でびっしょりだった。顔をあげると、窓からの日差しに目がつぶれそうになった。今日も暑そうだ。

「ていうか、今何時?」

「もう一時だよ。お前、今日親戚のおばさんのところにいくんじゃねえのか」

 まずい。完全に寝坊だ。無職になっても毎朝九時前には起きてたのに、なぜ今日に限って寝坊なんかしてしまうのか。

 飛び起きて、急いでシャワーを浴び、身支度して家を出た。

 外は気が遠くなりそうな暑さだった。蝉が全盛期のクリスティーナ・アギレラもかくやの声量で鳴きまくっている。今が夏のはじめなのか、終わりなのか、七月なのか、八月なのか、一瞬わからなくなる。

 それにしても、叔母とはいえ、人と会う約束をするのは随分と久しぶりだ。父方の叔母の真知子はダイエット教室を経営している。メディアでの宣伝は一切行わず、口コミだけで客を増やした。一部では「ダイエットの神様」などと呼ばれているそうだ。最近はエステサロンやネイルサロンなどにも手を広げているらしい。

 叔母とは、今まで一度しか会ったことがない。しかも五年ぐらい前の祖父の葬式のときに、挨拶をした程度だ。父方の親族は公務員など堅い職業が多く、その中で叔母はかなり浮いた存在だった。中学のときから何度も家出しては男のところに転がり込み、高校卒業と同時に失踪、そのまま十五年近く行方不明だったらしい。兄である俺の父親とはとくに折り合いが悪く、俺は彼女の悪口ばかり聞かされて育った。でも俺の父親は俺と弟の間で羽賀研二同一人物説がささやかれるほどの稀代のワルで嘘つきなので、逆に叔母はいい人なんじゃないかと俺は思っている。

 その叔母が、一週間前に突然、電話をかけてきた。番号は俺の母親に聞いたらしい。いい話があるから、一度ダイエット教室のオフィスにこないかということだった。  

 具体的な内容は聞かされなかった。が、親戚が持ち掛けてくる「いい話」は、だいたい見合い話と相場がきまっているものだ。

 そして俺は、実はちょっと……期待している。ダイエット教室でダイエットに成功した、スリムで清楚な二十代女性を紹介してくれるのではないか、と。無職でも構わない、そのままのあなたでもいいと言ってくれる、優しい女性を。

 都内から電車を乗り継ぎ、一時間ほどかけて横浜駅に着いた。叔母のダイエット教室は、駅から歩いて十分ほどの雑居ビルの中にあった。

 八階建てのビルの一階と二階が教室、三階にエステサロンとネイルサロン、四階全体がオフィスになっているようだ。ほかに、別オーナーと思われる美容室やスマホの修理屋、地下にはうどん屋とパスタ屋が入っている。 

 入口の案内表示を眺めていると、奥のエレベーターから、体にぴったりフィットしたトレーニングウエア姿の背の高い女性が出てきた。すれ違うとき、全く汗のにおいがしないどころか、どういうわけかフルーツの香りがした。あと、仕組みがまったく不明だが、顔面が発光していた。少なくとも俺の目にはそう見えた。さっきの人が見合いの相手だったら……いやアレ、都心部にとくに多い、相当若く見えるタイプの三十代だ。しかも後半だ。年上はちょっとな。そんなとりとめのないことを考えつつ、俺はエレベーターに乗った。

 そしてその日、俺は叔母にあっさりとすっぽかされた。 

 再び叔母に呼び出されたのは、それから三日後だった。

 話は十分足らずで終わった。「いい話」は見合いではなく、仕事の斡旋だった。要は自分のところが人手不足なので、アルバイトしろということだった。他にやることもないし、貯金もあまり残っていない。それに叔母の圧力がかなり強めで断りづらかったので、引き受けた。

 その俺に与えられた第一のミッション。それは、ダイエット教室を退会した元会員たちを説得して、再入会させること。

 説得に成功した場合、一人当たり五万円の成功報酬がもらえる……らしい。だまされていなければの話だが。

 ほかに、こまごまとした事務仕事も任されることになった。とりあえず最初は時給千円。長らく勤めた事務員が半年ほど前にやめてしまい、その後に誰を雇っても長く続かなくて困っているらしい。少し話しただけでも、叔母がかなりキツイ性格であることがわかった。あんなババアの下で長く続くほうがおかしいと思うが、しかしダイエット教室もエステサロンもネイルサロンも、ベテランの従業員ばかりだという。たぶん、カマキリみたいに気の強い女しかいないんだと思う。

 翌日から働きはじめた。四階のフロアの中で、一番狭い四畳半が俺の仕事部屋になった。昨日は叔母がどこかの地方へ講演にいっていて退会者の名簿を受け取れなかったので、隣の部屋にいる経理の明美さんに事務仕事を教えてもらうことにした。明美さんはおとなしく、ほとんど動かないおばさんだった。とくに午後二時以降は席に座ったまま微動だにしなかった。即身成仏したのかと思った。

 二日目の今日、出社すると、デスクの上に退会者に関する資料が用意されていた。思っていたより量が多い。今後の仕事の効率を考え、まずは一日かけて名簿化するところからはじめた。

 俺は順調に仕事をこなした。誰にも邪魔されず、密室で作業できるのは気が楽だった。ところがあるところで、急に動悸息切れがとまらなくなった。

 見覚えのある、ありすぎる名前を見つけた。

 福田小百合。

 同姓同名の別人物でありますように、という願いは、すぐに打ち砕かれた。記されている多くの情報が、俺のしっている人物とほぼ一致していた。

 年齢四十五歳……一致。西川口在住……一致。身長百六十二センチ、体重八十キロ……俺の見積もりとほぼ一致。ダイエット教室の担当者が記した本人に対する所見「思い込みが激しく、すぐにクレームをつけてくる。しかも嘘つき。若い女性が嫌い。ベテラントレーナー対応案件」……俺の見解と完全一致。

 間違いない。これは、あの肉じゃがデブ女だ。

 肉じゃがデブ女こと福田小百合とは、この春まで働いていたクレジットカード会社のコールセンターで出会った。俺はSEとして新卒で入った会社を女上司のセクハラで退職し、数ヶ月休んだ後、リハビリがてら短期派遣で電話受付の仕事をはじめた。今年の初め頃のことだ。小百合は勤続十年の契約社員だった。

 でっぷりと太った体に厚化粧、髪は真っ赤なロングヘア。胸元を強調した露出の激しい服装。そして、プレデター似の顔面。外見だけでも浮きまくっていたが、その大人げなく身勝手な言動で、従業員全員から煙たがられていた。

 気分屋で、すぐ怒る。若い女性にとくに冷たく接し、辞めるまでいじめることもしばしば。業務知識は豊富で仕事はできるが、客からのクレームが多い。ここ数年は客とのトラブル防止を優先し、研修や新人指導係を任されているようで、俺の新人研修も彼女が担当だった。 

 新人の中で俺はなぜかあからさまに気に入られていた。理由はよくわからない。一番若い男だからというだけかもしれない。

 気づくと、いつもそばにいた。研修中も、昼の社食でも。帰りは偶然を装って会社前や駅前で待ち伏せされた。

 俺はときどき社内で過呼吸に近い症状に見舞われるようになった。彼女からのプレッシャーは、日に日に俺を弱らせていった。

 そして迎えた俺の誕生日。入社して二か月と少しした頃。

 仕事は夜八時に終わった。その頃、帰り道に小百合につきまとわれるのを回避するため、毎晩、駅までダッシュしていた。その日は朝起きたときから、なんとなくイヤな予感がしていた。だからいつも以上の全力ダッシュで駅まで向かった。

 しかし、その先に絶望が待っていた。小百合がいた。タクシー乗り場付近で、ミーアキャットのように首を伸ばして俺を探していた。 

「やだー、奇遇~。あたしも今、駅に着いたとこ~」

 ふざけるなよ、と思った。でも走ったせいで息が苦しかったし、言葉が出なかった。

「ていうかあたしたち、偶然会うの多すぎじゃな~い? 土肥君ってあたしのストーカー?」

 いやだからふざけるなよ、と思った。しかし、やっぱり何も言えなかった。

「あ、そうそう。今日誕生日だよね。よかったらこれ、食べて」

 彼女はジップロックのタッパーが入った紙袋を差し出した。とりあえず受け取ると、「じゃあね!」と言って走り去った。

 紙袋の中身は、自宅で開けた。

 タッパーに入っていたのは肉じゃがだった。大きな豚肉と大量の白滝が入った、俺好みの肉じゃがだった。肉の脂が部屋の蛍光灯のあかりをテカテカと照り返していた。すぐに台所のごみ箱にタッパーごと突っ込んだ。

 その後で、タッパーの下に死ぬほど分厚い封筒が入っていることに気づいた。中に陰毛の束でも入っていたらと思うと恐ろしくて仕方がなかったが、好奇心もあり、迷った末に開封した。B5サイズの便箋が、全部で五十二枚あった。とりあえず読めるところまで読んでみようと思った。具体的な文面は忘れてしまったが、はじめて会ったとき、俺にどういう印象を持ってそれがどのように恋愛感情に変わっていったのかが、八十年代感のある丸文字でしたためられていた。

 三行目か四行目まで目を通したところで、トイレに駆け込み、吐いた。

 翌日、無断欠勤した。その次もその次も無断欠勤した。無断欠勤が三回続いたらクビなので、クビになった。

 そして今、俺は目の前にある、あの手紙とまったく同じ丸文字で記された退会届を見つめている。若干の吐き気を感じる。立ち上がり、窓を開け深呼吸した。

 大丈夫。今、目の前にあの女が現れるわけじゃない。俺の居場所を知られているのでもない。だから冷静になれ、落ち着くんだ。自分に言い聞かせる。

 これは、ある意味チャンスじゃないか?

 小百合は俺に惚れていた。その恋心を利用すれば、再入会させることなど簡単なのではないか。電話して、ちょっと優しい言葉をかけるだけ。それで五万。コスパ最高。

 俺は退会届に記されている携帯電話番号に電話してみることにした。手がチワワぐらい震えた。しかしまもなく「お客様のご都合により、通話ができなくなっております」というアナウンスが聞こえてきた。

 俺はすぐに思い出す。あの女が携帯料金や公共料金の類を常に滞納している、という噂を。

 やはり直接、会いにいくしかないのか。まあ、どちらにしろ、再入会の手続きには印鑑がいる。一度は会いにいかなければならない……のかもしれない。

 よし、ここが俺の踏ん張りどころだ。今日、会社の最寄り駅までいって待ち伏せしよう。人がたくさんいるところだったら危害を加えることもないはずだ。

 今日は水曜日。あの女は基本月火休みで、夜七時までの勤務だった。

 今、午後三時半。会社の最寄り駅はさいたまの川口駅だから、出るにはまだ早い。しかし、時間がくるのを待っていたら、気持ちがくじけてしまいそうな気がした。俺は明美さんに一言あいさつし、オフィスを出た。

 各駅の京浜東北線に乗り、川口に着いたのは午後五時前だった。

八時まで駅前のサンマルクで時間をつぶし、それから西口改札前に移動した。

 果たして、夜九時過ぎ。あの女は、疲れきった顔で現れ、そして、俺の横をまっすぐ素通りした。

 目があった気がしたが、慌てた様子もなく逸らされた。忘れているのか? この俺を? びっくりして、反射的に彼女の背中にむかって「福田さん」と声をかけた。

 彼女はゆっくり振り返った。まるで道に吐き捨てられたガムでも見るような目で、俺のつま先から頭のてっぺんまで観察する。そして言った。

「え? 今更何? ストーキング? 勘弁してよ」

 動揺した。こんな反応は全くの予想外だ。俺は断じてストーカーではない。誤解を解くため、ここまできた目的を早口で彼女に伝えた。

「つーか」と小百合は俺をさえぎるように大きな声を出した。「もうダイエット必要ないし」

「……それは、なぜ?」

 見たところ、痩せた様子は皆無だ。むしろ若干前より膨らんだ気もする。

「社内で付き合いかけた男がいたけど、二股かけられてたからやめたの。そいつが自分より太ってる女は対象外って言ってたから入会したけど、もう必要ないし」

「ハア」

「あいつ、男のくせにガリガリすぎなの。別れるとき、あたしのことデブみたいな言い方してきたけど、そんなことないし。本当にムカつく。あたし、巨乳でスタイルいいもん。デブじゃない。絶対デブじゃない」

 付き合いかけたとか別れたとか、おそらく本人の妄想で、単に振られただけに違いなかった。しかしそんなこと、口がさけても言えなかった。

「ねえ、とにかく、もう二度と現れないで」小百合は言った。「もしまたあたしの目の前に現れたら、ストーカーですって警察に通報するから」

 彼女は背を向け、足早にその場を去っていった。

 翌日、出社するとすぐ、小百合に関する資料をすべてシュレッダーにかけた。全て何もかもなかったことにすると決めた。

 退会者の名簿化はすでに終了していたので、その日から再入会勧誘の電話をかけていくことにした。しかし、ほとんどは門前払いも同然の反応だった。そりゃそうだ。決して安くない入会金を二度も払おうなんて人はそうそういない。

 結局、誰一人説得できぬまま、盆休みに突入してしまった。

 休み明け出社すると、明美さんからいきなりA4用紙を数枚渡された。教室のホームページにある問い合わせフォームにきたメールから、俺宛ものを抜粋してくれたらしい。送り主は全て小百合だった。合計七十二件。

 内容は、ほぼすべて同じ。お話があるので連絡いただけると嬉しいです。メール送ったんですけど届いてますか? なるべくはやく連絡もらえるとありがたいです。なぜ無視するんですか? こんにちは、久しぶりです。相談したいことがあるので、一度どこかで会えませんか……。

 読んでいるうちに息が苦しくなってきた。もしかして……また俺を狙う気になったんじゃないだろうか。そんな予感がする。この間は俺のことをストーカー呼ばわりしていたが、この連休中、「わざわざ川口まで会いにきたってことは、やっぱりあたしのことが好きなんじゃないかな」などと自分に都合のいい考えをぐつぐつと熟成させていったのだ。男に相手にされない女にありがちなやつだ。  

 ウンザリだ。今度こそ、今度こそはっきり断ってやる。

 よし、メールで返事をしよう。電話だと逆ギレされるかもしれないしな。文章だったら言いたいことも整理して伝えられるし。それで送ったあと、あの女からのメールは自動的にゴミ箱にいくようホームページの設定を変えてしまおう。

 そのとき、ドアがノックされた。返事をする前に明美さんが顔を出した。

「恵太君、お客さんだけど」

 誰ですか、と聞いたその刹那、気を失いかけた。今、この瞬間、テレポーテーションできるなら、定期預金全額と楽天ポイントすべて差し出してもいい。そう本気で思った。誰に差し出したらいいのかわからないが。神様か? 神様が楽天ポイントほしがるのか?

 明美さんの背後に、小百合がいた。

「あ、ていうかー、あたしは別になんとも思ってなかったんだけどー、向こうが『かわいい』とか『おしゃれ』とかいろいろ言ってきてー、あたしは今でもなんとも思ってないんだけどー、だって本当、全然タイプでもないしー、でも向こうがなんか『今度飲みにいきたい』とか言ってくるから、まあ、うん、考えてもいいかなって」

 この三十分、この女はずっと同じ話を繰り返している。彼女が持参したシュークリーム六つのうち、一つを俺、一つを明美さん、残り四つはこの女が全部食べた。

 どうやら、最近入ってきた新人の男と、ここ一、二週の間に急接近して舞い上がっているようだ。相手は二十八歳の劇団員・ハットリ君。忍者ハットリくんにソックリで、本当は五十嵐という名なのに小百合だけ勝手にハットリ君と呼んでいるそうだ。先方は心底ウザいと思っているだろうなあと思った。とにかく、そのハットリ君は、小百合の主張によれば、彼のほうからモーションをかけてきた(この絶望的なまでに古臭い言い方は俺の表現ではない。小百合の表現だ)そうだ。すでに個人的な連絡先も交換しているという。

 どうせまた自分に都合のいい妄想を膨らませているのだろうと思いきや、ハットリ君とのLINEのトーク画面を見る限り、そういうわけでもなさそうなのだ。少なくとも、先方のほうがより積極的に連絡を取りたがっているという事実は、認めざるを得なかった。

 ハットリ君はいわゆるB専というヤツなんだろうか。ブス専兼ブタ専兼バケモノ専のトリプルB専だ。あるいは結婚詐欺師とか。いやでも、節約のために会社の水道水をペットボトルにくんで家に持ち帰っているような女からむしりとれるものなんて、文字通りケツの毛ぐらいのものじゃないか?

「あの、いい人が見つかってよかったですね」小百合が明美さんの入れてくれた紅茶に口をつけた隙に、俺はすかさず言った。「ところで、ご用件はなんでしょう?」

「そうそう、それでね、土肥君にお願いがあって」と言いながら、小百合は前かがみになった。胸の谷間が俺の視界にIMAX4D映画の怪獣のようにせり出してきた。

 汚い景色だなあ。

「彼、体を鍛えるのが趣味らしくって、すごくイイ体してるの。そういう男の人ってさ、付き合う女にもイイ体を求めるっていうじゃん?」

「……はあ」

「それに実は……恋のライバルがいるの。田川向日葵って覚えてる?」

 その名を聞いた瞬間、心臓が止まりそうになった。

 記憶を手繰るまでもない。田川向日葵。俺の同期。高卒で地元宇都宮の中小企業に就職したが、弁護士になるという夢を捨てきれず、会社を辞めて二十四歳で大学に入学した努力家の女の子。今は二年生で、学費を稼ぐためにコールセンターとスナックで働く勤労学生でもある。水商売の女らしくない、自分に自信のなさそうな態度と、おびえたような笑顔が俺の心を嫌というほどくすぐった。しかし向日葵は彼氏持ちだった。しかもその彼氏は人気ユーチューバーらしかった。

 会社を辞めることになったとき、「何か悩み事があるならいつでも聞くから」と声をかけてくれた。だから俺のことを気にしているのは間違いないと思う。連絡先は交換していないが、誰かに聞けばわかるはずだ。食事に誘ってみようかと、辞めてから五億回ぐらい考えた。今でも週に三回ぐらいは考える。でも実行できない。無視されたらショック死すると思う。

「あの女、いつもウジウジしてて、ちょっと怒られただけですぐ泣くし、ほんっとにムカつくんだけどさ」小百合は言った。「ハットリ君のこと、狙っているのは間違いないの。この間も相談したいことがあるとか言って、仕事終わったあとずっと彼を独占して話し込んでたし。帰り道に付け回してくる男がいて困ってるんだって。嘘だと思う。でも彼はやさしいから、一緒に帰ってあげたりしてるんだよ。そんなことしなくていいのに、断り切れないんだよね、やさしいから」

 ドキドキした。俺も彼女にストーカーがいて困っていると相談されたことがあった。頼まれて、二度ほど一緒に帰ったりもした。あれはやっぱり……俺と仲良くなるための方便だったのか? 

「それにあの女、最近、激ヤセしたんだよ。絶対彼のためにダイエットしたの。間違いない。絶対そう、本当にむかつく。だから、あたしも痩せることにした。一か月で十キロは落としたい」

「えっ。ということは……再入会するってことですか?」

「そんなもん、するわけないじゃん。金ないし。バカじゃないの」

「……」

「あんたさ、ダイエットの神様の甥なわけでしょ? じゃああんたが個人トレーナーになって痩せさせてよ」

 意味不明だ。今年で一番意味不明だ。

「十キロ痩せさせてくれたら、田川向日葵と二人きりで会わせてあげる。あんた、好きなんでしょ? あのガリガリ女のこと」 

「いや……そんなことは……」

「研修のときからバレバレだったよ。毎朝あのガリガリ女の隣の席を確保するのに、命かけてたでしょ。隣に座れたらずーっとデレデレしてやたら世話焼いて、座れなかったら座れなかったでずーっとジロジロ見てるし。あとさ、あんたさ、ときどきあの子に弁当つくってきてあげてたでしょ。でっかいタッパーに幕ノ内弁当みたいなすごいやつ。バカじゃないの? 食べてもらえもしないのに。あの子、タッパーごと捨ててたよ」

「いや……捨てたんじゃなくて、ほかの人に譲ってあげてたんです。当時も彼女、ダイエットしてたから……」

「あの子、ユーチューバーの彼氏とは別れたらしいよ」

「え! 本当に!?」

 思わず立ち上がりそうになった。小百合に見下した目を向けられ、恥ずかしさのせいか恥骨が死ぬほど痛くなった。

「あんたみたいなクソださい童貞が、あのやり手女に相手にされるかはわからないけどさ、まあ取り持ってあげてもいいと思ってるよ。あたしがダイエットに成功してハットリ君と晴れてカップルになれたらね。あの女は彼に振られて弱ってるところだろうし、あんたみたいなくっさい童貞でもなんとか落とせるんじゃない? お互いにウインウインの悪くない取引だと思うけど」

 本当にウインウインなのか、この女が向日葵との仲を取り持つとして、一体何ができるというのか、俺には全くわからない。そんなことより俺がひっかかったのは、なぜ童貞だとバレているのかということだ。

「今、なんで童貞だとバレたんだ? って思ってるでしょ」

「……」

「三十過ぎた童貞ってね、匂うのよ。くさいの。体臭がどうこうって話じゃないの。行動よ。童貞がとる行動がくさいの。何をするにも童貞行動なの。言動もよ。ところで言動と行動って同じ意味? ま、とにかく、そうなの。バレバレなの」 

 尋常でないほどの屈辱感に、その瞬間、俺の意識は混濁した。

 

 気付くと横から西日が差していた。

 あれから数時間、俺は椅子に座ったまま、微動だにしなかった。ふう、と息をつく。少し、落ち着いてきた気がする。いつまでも座っているわけにもいかないので立ってみた。立ちくらみがしてすぐ座った。

 デスクの上に視線を投げる。大量のじゃがいもがピラミッドのように積み上げられている。

 小百合が置いていった。意識が混濁していたのではっきりとは覚えていないが、じゃがいもを使ったダイエットメニューを考案し、今晩中に連絡するようにと命令された気がする。北海道の実家からタダで送られてくるらしい。金もないし、使えるものがほかにないようだ。

 じゃがいも……いやそんなことより、なぜ童貞とバレていたのか。童貞の匂いってなんだ? あの女にバレているということは、他の人にもバレているということなのか? そんなまさか。信じない。信じたくない。信じないでおこう。それだけじゃない。あの女、俺が向日葵に片思いしていることに気づいていた。ならなぜ、俺をつけ回したのか。というかあの女の中では、俺に告白したこととか全くなかったことにされているような気がした。あれだけ俺を苦しめておいて、一体どういうことだよ。

 ……ダメだ。考えこむのは後にしよう。自分一人では勇気がなくて、とても向日葵を食事に誘うことなどできない。わずかでもチャンスがあるなら、行動しないよりしたほうがいい……はずだ。

 とりあえず、じゃがいもダイエットについて、ネット検索するところからはじめてみた。すると、思いのほか多くの関連ウェブサイトが見つかった。難消化性でんぷんだのレジスタントスターチだのややこしい言葉が出てきたが、要は食事の前にじゃがいもを食べることで、全体の食事量を減らせばいいようだ。りんごダイエットとかあの手のものと同じだ。効果があるのか、俺にとっては眉唾モノだが、経済的理由であの女にはじゃがいもしか手段がないのなら仕方がない。

 基本的に食べていいのは、ゆでたりふかしたりしたじゃがいもだけ。当然、フライドポテトなどは対象外。しかしそれだと飽きてしまうだろうから、オリーブオイルや葉物野菜などを使ったローカロリーのじゃがいもレシピをいくつか考えて、小百合にメールで送ってやった。そのあとで、あの女が真面目にそれらを作って毎日食べるなどありえないと気づいた。あの女は帰り道に俺に付きまといながら、いつもファミチキ三つぐらい買って一気に食べていた。あの底なしの欲望に打ち勝てないに決まっている。

 ところが。

 彼女は、翌日から本当にじゃがいもダイエットをはじめた。毎食ごとに写真を撮って、俺に送り付けてくるようになった。朝はヨーグルトとじゃがいも料理、昼はタッパーに詰めたじゃがいも料理、夜はサラダとじゃがいも料理。それで本当に痩せられるのか、正しいやり方なのか、俺にはわからない。面倒なので叔母に聞いたりもしない。しかし、これまで相当乱れた食生活を送っていたようだから、それよりは幾分マシだろう。

 しかも食事だけでなく、夜のウォーキングまでやりだしたから驚いた。ほぼ毎日、夜更けに息を弾ませながら電話してくるので、マジでやっているようだ。そのうち、ウォーキングしてないときでも電話がかかってくるようになった。主にじゃがいもに関する愚痴などを聞かされた。電話に出ないと「お前殺すぞ」「これからお前の藁人形作る」などといった恫喝メールがきた。それも無視すると「今藁人形作った」とメールがきた。二週間もすると、俺はストレスで眠れなくなった。彼女がじゃがいもを持参して俺のオフィスに現れてから、約一か月後の九月最後の日曜日、昼過ぎに起きると枕に大量の毛がついていて、俺は三十過ぎてはじめて泣いた。

 その瞬間、電話が鳴った。

 知らない番号からだったが、小百合からだと確信した。ときどき、会社の内線用PHSなどからかけてくることもあったからだ。俺は出るなり、もうほとんど反射的に「やめてくれ!」と叫んだ。「もう限界だ! 二度と電話をしないでくれ!」と。

「ごめん、土肥君」

 その声は、向日葵だった。

(第2回につづく)