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捜査三課に戻ると、萩尾は事のあらましを猪野係長に報告した。
「秒テツがタタキだって? そいつはあり得ないな」
猪野係長の言葉に、萩尾はうなずいた。
「俺もそう思います。ですが、そんな言い分は、捜査一課には理解されません」
猪野係長が腕組みをして思案顔になった。
「逃走した犯人は二人。家の中には死体。そして、侵入した犯人の一人は秒テツだとわかっている。こりゃあ、秒テツに逮捕状が出るのは時間の問題だな」
「逮捕状が出たら指名手配されるかもしれませんね」
「だが、ハギさんは、強殺の犯人が秒テツじゃないと思っている」
「俺だけじゃなくて、武田もそう思っています」
「そうなのか?」
猪野係長が尋ねると、秋穂は大きくうなずいた。
「はい。現場を見て、どうもしっくりこないんです」
「ホトケさんを見たのか?」
「いえ、私が見たのは勝手口だけですが」
「それじゃ、しっくりこないも何もないだろう」
「秒テツが勝手口の鍵を開けたことは間違いないと思います。そのとき、ゲソ痕を残していません。鑑識が採取できていないと言っていました。なのに、逃走する二人はゲソ痕を残していた……。それって、違和感があるんですよね」
「秒テツは草食動物みたいに用心深いやつだ。いくら慌てていたって、靴跡を残すとは思えないな……」
「でしょう? 犯人は被害者をゴルフクラブで殴り殺したというんですけど、その手口も秒テツにそぐわない気がするんです」
「じゃあ、現場でいったい何が起きたんだ?」
秋穂がクビを傾げる。
「それがわからないんです」
萩尾は秋穂に言った。
「牛丼の松の件を覚えているか?」
「もちろん。玉川署管内の殺人ですね」
民家で刺殺体が発見された。牛丼の松の異名がある窃盗の常習犯が強盗殺人の被疑者として逮捕された。
だが、実際には牛丼の松は、殺人現場にうっかり忍び込んだに過ぎなかった。
秋穂が言う。
「今回も、それと同じことが起きたってことですか?」
「同じとは限らないが、何かからくりがあるに違いない」
「そうですね。私もそう思います」
「どうだ。この件、おまえさんが調べてみるか?」
秋穂の顔がぱっと明るくなった。わかりやすいやつだ。
「はい。やらせてください」
「まずは、秒テツを見つけることだ。捜査一課のやつらが先に見つけちまうと、面倒なことになるぞ」
「わかりました」
「時間がないぞ。すぐにかかるんだ」
「はい」
秋穂は出かけていった。二人きりになると、猪野係長が言った。
「おい、武田一人でだいじょうぶなのか?」
「本人はやる気ですよ」
「弟子の教育はわかるが、ちょっと突き放し過ぎじゃないのかねえ」
「弟子じゃないです。相棒ですよ。俺は弟子を持つほど偉くないです」
「早く一人前にしたいんだな」
萩尾はしばらく考えてからこたえた。
「警察ってのは、いつ人事異動があるかわかりません。武田だって、いつまで俺といっしょにいられるかわからないんです」
「だからって、この件を任せちまうのは、まだ早いんじゃないのか?」
「だいじょうぶ。あいつはちゃんとやれますよ」
それを訊いた猪野係長は、ふっと笑った。
「なるほど。そつ啄(「そつ」は口へんに「卒」)同時か……」
「何です、それ……」
「碧巌録という中国の仏教書にある言葉だ。そつってのはな、卵の中の雛がこつこつと殻をつつくことだ。啄というのは親鳥が外から卵の殻をつつくことだ。これが同時に行われないと、雛は卵からかえれない」
「何の話です?」
「これはね、師が弟子を教えるときの心得なんだそうだ。つまり、雛が内側からつつくように弟子が伸びてくる。それを見逃さないで、親鳥がつつくように、そのタイミングで師が指導するんだ」
「へえ……」
「つまり、今のハギさんと武田がそうじゃないか。武田が卵の中からつついてるんだ。ハギさん、それに気づいたんだろう?」
「たしかに武田は力をつけてきてますが……」
萩尾は、それ以上何と言っていいかわからず、頭をかいていた。
「それで……」
猪野係長が言った。「武田に調べさせておいて、ハギさんは何をやるつもりだ?」
「捜査本部に顔を出して、一課のやつらを牽制でもしましょうかね」
「捜査の邪魔なんかすると、ひどい目にあいかねないぞ。捜査一課なんて、がさつなやつらだからな」
「うまくやりますよ」
捜査本部にやってきて、まず捜査を仕切っている管理官に挨拶をした。捜査一課の池谷管理官だ。
すると、すぐに菅井と苅田が近づいてきて言った。
「大原哲也の所在はつかめたか?」
萩尾はこたえた。
「ヤサにいっしょに行ったよな。姿をくらましたのは知ってるはずだ」
「それを見つけるのがあんたらの仕事だろう」
「強殺犯の被疑者を見つけるのは、おたくら捜査一課の仕事でしょう」
すると、池谷管理官が言った。
「その秒テツこと大原哲也が、強殺犯ではないと、ハギさんは言ってるようじゃないか」
「ええ。そう思ってます」
「根拠は?」
「絵が思い浮かばないんですよ」
「絵……?」
「はい。秒テツが忍び込んだ家の住人と鉢合わせをして殴り殺し、侵入した勝手口から逃走するという絵です」
菅井が言った。
「それで説明はつくだろう」
「説明はつく。だが、こじつけのように感じる」
「何がこじつけだ。いいから、秒テツを見つけろよ」
萩尾は池谷管理官に言った。
「一つ、約束してほしいんですが」
「約束? 何だ?」
「もし、俺たちが秒テツを見つけたら、逮捕する前に話を聞いてやってほしいんです」
「そりゃあ、取り調べで供述は録るよ」
「そういうことじゃなくて、やつの言うことにちゃんと耳を傾けていただきたいんで……」
菅井が萩尾に言う。
「あんたらにそんなことを言われる筋合いはない」
すると、池谷管理官はそれを制して萩尾に言った。
「ハギさんには、秒テツが何をしゃべるか予想がついているってことだね?」
「予想なんかついてやしません。でもね、やつが姿をくらましたのには理由があるんだと思います」
「どんな理由だ?」
「それを秒テツから聞かなきゃならないと思います。現場の勝手口を解錠したのは秒テツですが、ゲソ痕を残して逃走したのは別のやつらです。これはドロ刑だから明言できます」
ドロ刑は泥棒刑事、つまり窃盗専門の捜査員ということだ。
「侵入したやつと逃走したやつが別人……」
池谷管理官は眉をひそめた。「それはどういうことだ?」
「俺にわかるのはそれだけです」
その日の夕方、捜査本部にいる萩尾のもとに秋穂から連絡があった。
「秒テツを見つけました」
「今どこだ?」
「潜伏先にいます」
「潜伏先?」
「鍵福の自宅アパートです。秒テツを知ってそうな同業者を片っ端から当たりました」
鍵福は、どんな錠前でも開けるという窃盗の常習犯だ。
「捜査一課のやつらに身柄を渡さなきゃならないな」
「その前にハギさんに話を聞いてもらいたいと言ってます」
萩尾はちらりと幹部席の池谷管理官を見てからこたえた。
「わかった。すぐに行く」
萩尾はそっと捜査本部を出て西新宿四丁目の鍵福こと福田大吉の住むアパートに向かった。
「よお。ハギさん。しばらくだなあ」
ドアを開けて顔を出した鍵福は赤い顔をしていた。息が酒臭い。盗みを引退したと本人は言っている。
「秒テツがいるんだって?」
「ああ。何だかややこしいことになってるみたいじゃないか。ま、入ってくれ」
狭い部屋だが、思ったよりきれいに片づいている。ちゃぶ台を前に秒テツと秋穂が座っていた。
萩尾が近づくと、秒テツが言った。
「俺はタタキなんかやっちゃいねえぞ。罪を着せようったってそうはいかねえ」
「落ち着けよ」
萩尾は言った。「何があったか、ちゃんと話してくれ。あの家に忍び込んだのは間違いないんだろう?」
秒テツは話しだした。
「ああ。勝手口から入った。印を見たんだろう?」
「そこにいる武田が見つけた。三十秒で解錠したんだな」
「金目のものをいただいて、さっさとトンズラ……。そう思っていたら、勝手口から誰かが入ってきたんだ」
「誰か?」
「若い二人組だ」
「盗人か?」
「素人だよ。ケータイを見ながら、なにかごそごそ話し合っていた。咄嗟に俺は隠れたよ。俺たちの稼業は、絶対に人に姿を見られちゃいけねえからな」
秒テツの話だと、二階から誰かが下りて来たらしい。その家の住人だ。無人だと思っていた家に人がいたわけだ。
秒テツが解錠した勝手口から入って来た二人組が、その住人と鉢合わせをする。揉み合いになり、二人組の一人が玄関にあったゴルフクラブを持ってきて住人をめった打ちにしたのだそうだ。
二人は度を失っている様子だったという。ゴルフクラブを投げ捨て、彼らは勝手口に向かった。そしてバタバタと駆けて逃げていったらしい。
「それから……」
秒テツは言った。「俺はそっと現場を離れたよ」
萩尾は言った。
「足跡が残っていなかったそうだ」
「ゲソ痕残すようなヘマやるかよ」
「姿をくらましたのはなぜだ?」
「コロシを、俺のせいにされちゃたまらねえからな」
「逃げた二人の顔は見たのか?」
「見た。だが、俺の証言より映像見たほうが早いだろう。百聞は一見にしかずだ」
「どういうことだ?」
「現場の家を出て右に三十メートルほどいったところに防犯カメラがある。その二人はそっちのほうに逃げていったから、映っているんじゃないのか」
「俺たちは、おまえをこれから捜査本部に連れていかなきゃならない」
「おい。俺は殺してないって……」
「だから、それを話すんだよ」
「どうせ、信じてもらえねえんだろう」
「信じさせる」
「ハギさんがか?」
「この武田が、だ」
秋穂と鍵福が目を丸くしていた。
捜査本部に秒テツの身柄を持っていくと、捜査一課の連中が色めき立った。菅井が大声で言った。
「すぐに取り調べだ。今日中に落とせよ」
萩尾は池谷管理官に言った。
「約束です。こっちの話を聞いてください」
菅井が言った。
「取り調べはこっちでやる。引っ込んでろ」
「まあ、待て」
池谷管理官が言った。「本当に三課さんが身柄を取ってきたんだ。約束は約束だ。言い分を聞こうじゃないか」
萩尾は言った。
「秒テツを見つけたのは、この武田です。だから、武田が説明します」
秋穂は、先ほど秒テツが話したことを池谷管理官に伝えた。話を聞き終えると、池谷管理官が尋ねた。
「秒テツが侵入した後に、別な二人組が侵入してきたというのか?」
秋穂がこたえた。
「はい。秒テツが解錠したので勝手口の鍵は開いていました。それで二人組が侵入してきたのです」
「その二人が、志田康次郎さんを殺害して逃走したと……」
「秒テツこと大原哲也は、その場面を目撃しています。つまり、彼は目撃者なのです」
「その二人組はおそらく、防犯カメラに映っているだろうと……」
「はい」
すると、菅井が言った。
「現場付近の防犯カメラの映像は、すでに入手しております」
「解析は?」
「これからです」
「すぐに、それらしい二人組の映像を探すんだ」
「はい」
菅井たちはばたばたと駆けていった。
池谷管理官が武田に言った。
「今の話を、大原哲也から録取してくれ」
「了解しました」
萩尾が言った。
「じゃあ、秒テツを取調室に連れていきます」
「ああ、ハギさん」
池谷管理官が言った。「彼女、武田と言ったか? なかなかやるじゃないか」
「ええ」
萩尾はこたえた。「俺の相棒ですから」
捜査一課を中心とした捜査本部の突進力はすさまじかった。防犯カメラに映っていた二人の映像からたちまち身元を割り出し、身柄を確保した。
被疑者の名前は飯島赳夫と石浜隆太。飯島は二十二歳の学生で、石浜は二十六歳、無職だ。
彼らは闇バイトに応募して、SNSによる指示役からの命令で盗みを働くために侵入する家を物色していた。秒テツが盗みに入ったタイミングがたまたま重なってしまったのだ。
志田家の勝手口の鍵が開いているのに気づき、侵入し、康次郎と鉢合わせ。抵抗されたので、石浜が逆上しゴルフクラブでめった打ちにしたのだった。
菅井たちは、指示役を突きとめるべく、捜査を続けていると、萩尾は聞いた。彼らは彼らの仕事をしているのだ。
「また闇バイトか……」
猪野係長が言った。萩尾がこたえる。
「やつら、素人だから無茶しますよね」
「背後に組織だった動きがあるようだ。一課あたりがちゃんと検挙してくれないと、三課はやりにくくて仕方がない」
「そうですね」
「それはそうと、池谷管理官がえらくほめてたそうだよ」
「いやあ、やるべきことをやっただけです」
「ハギさん。あんたじゃないよ、武田のことだよ」
「あ、武田ですか……」
その場にいた秋穂が言う。
「わあ、うれしい」
「若いのにたいしたもんだと、池谷管理官は言ってたらしい」
「そりゃまあ……」
萩尾は言う。「俺の相棒ですからね」
「相棒というより……」
秋穂が言った。「私、ハギさんの弟子ですから」
(了)