遺体を発見したという通報があったようだ。世田谷署管内だ。
 猪野係長が言った。
「ハギさん。行ってくれ」
 萩尾秀一は驚いて言った。
「ホトケさんですよ。一課の仕事でしょう」
「その一課からお声がかかったんだよ。居直り強盗の可能性もあるからって……」
「つまり、盗っ人が住人と鉢合わせをしちまって、それで殺害したと……」
「とにかく、現場に行ってみてくれ。世田谷署の盗犯係もいるはずだ」
「わかりました」
 萩尾は相棒の武田秋穂に言った。「行こうか」
「はい」
 秋穂はきびきびと立ち上がった。「強盗殺人ですね」
「おい。俺たちが強殺の捜査をするわけじゃないぞ」
「わかってます。ホシの侵入経路を明らかにするのが仕事ですよね」
「侵入の手口から、ホシが割れるかもしれない」
「三課の実力を見せつけてやりましょう」

「最寄りの駅が三軒茶屋だということですが……」
 現場に向かいながら秋穂が言った。「駅からずいぶんありますね」
 十分ほど歩いたがまだ着かない。萩尾はこたえた。
「たぶん、近くにバス停があるんだろうが、バスの路線はよくわからないな……」
「テレビドラマだと、刑事は颯爽と車で現着するじゃないですか。あれ、うらやましいですよね」
「捜査員みんなが車両使ってたら、何台あっても足りないよ」
 萩尾と秋穂はいつも電車かバスだ。
 ようやく現場に着いた。世田谷区下馬三丁目の一軒家だった。二階建ての古びた家屋で、住宅街の路地に面している。
 近くに鑑識の車両が止まっている。紺色のマイクロバスだ。世田谷署のパトカーも来ていた。覆面車がいたが、機動捜査隊だろうと萩尾は思った。
「よう、ハギさんに武田」
 そう声をかけてきたのは、世田谷署盗犯係の片山善弘係長だった。萩尾と同じ警部補で、年齢もそれほど違わない。
 萩尾は尋ねた。
「どんな様子なんだ?」
「被害者は、志田しだやすろう、八十三歳。リビングルームに倒れているのを、買い物から帰ってきた息子の嫁が発見した」
「息子夫婦と同居していたってことだね?」
「そのようだ。嫁さんは、すぐに一一〇番通報して、うちの地域課が駆けつけた。そのときにはすでに被害者の息はなかった」
「死因は?」
「鈍器で殴打された跡があった。息子のゴルフクラブが遺体のそばに落ちていたらしい。それが凶器だろうということだ」
「ゴルフクラブ……」
「めちゃくちゃに殴ったらしい。ドライバーだが、シャフトが折れ曲がっていた。被害者の頭部・顔面はぼこぼこだってよ」
「あんた、まだホトケさんを見てないのか?」
「まず鑑識作業だ。それから、うちの強行犯係が見て、捜査一課が臨場してからは、彼らが現場を見る」
「捜査一課は来てるのか?」
「ああ。今現場にいる」
「居直り強盗の線もあるということだが……」
「だから、俺たち盗犯係やハギさんら三課が呼ばれたんだろう。つまり、犯人は空き巣のつもりで入ったのかもしれないと……」
「侵入路はわかっているのか?」
「たぶん、勝手口だ」
 片山係長が指さした。
 隣家との間の細い路地の先に、開いているドアが見えた。それが勝手口だろう。
 萩尾は尋ねた。
「あのドアは開いていたのか?」
「ああ。地域課が現着したときから開いていたということだ。多分、犯人たちが逃走したときのままなんだ」
「犯人たち?」
 萩尾は訊いた。「複数なのか?」
「鑑識によると、二種類のゲソ痕が採取できたらしい」
 ゲソ痕とは足跡のことだ。
「話を聞けるか?」
「鑑識車にいるよ」
 萩尾は秋穂に言った。
「行ってみよう」
 マイクロバスの助手席をノックすると、鑑識活動服の男が顔を見せた。
「お、ハギさんじゃないか。なんでコロシの現場に三課がいるんだ?」
 警視庁本部の鑑識課係員だった。名前は樫村かしむらだ。
「居直り強盗の線だよ。ゲソ痕が二種類出たんだって?」
「ああ。見てのとおり、地面はコンクリートだから、採取に苦労したよ」
「昔のように石膏こねてってわけにはいかないな」
「紫外線を当てて撮影したよ。間違いなく、二人組だ」
「どっち向きだ?」
「勝手口からこっち側に向かっている。逃走の足跡だろう」
「侵入の跡は?」
「それは採取できていない。おそらく、侵入時は慎重に歩を運んでいたので、足跡が残らなかったんだろう。逃走するときは、地面を強く踏みしめたんで跡が残った」
「勝手口のドアが開いていたということだが、犯人はよほど慌てていたらしいな」
「居直り強盗なら、慌てるのも無理はないだろう。いないと思っていた住人が目の前に現れたわけだからな」
「そうだな……」
 萩尾は樫村に礼を言って、秋穂とともに片山係長のもとに戻った。
「侵入路は勝手口と見ていいだろうか」
 萩尾が尋ねると、片山係長は曖昧にうなずいた。
「まあ、侵入した場所から逃走するのが普通だろうな。そう考えると、勝手口から侵入したと考えるのが自然じゃないか」
 萩尾は秋穂に尋ねた。
「勝手口と聞いて、何が思い浮かぶ?」
「勝手タケです」
 勝手タケは、他に入りやすい場所があっても、必ず勝手口から侵入するという窃盗の常習犯だ。
 片山係長が言った。
「だが、勝手タケは今、ムショにいるはずだ」
 萩尾は言った。
「とにかく、勝手口を見てみよう」
「ああ」
 片山係長のあとに続いて、萩尾と秋穂は勝手口にやってきた。萩尾は秋穂に言った。
「さて、おまえさんの見立てを聞こうか」
「はい」
 武田が勝手口を仔細に調べはじめる。周囲の様子から始まり、ドアフレーム、窓ガラス、ドアノブと見ていく。
「窓ガラスに損傷はありませんね。ということはピッキングですか……」
 ドアには針金の入った曇りガラスがはめ込まれている。ガラスを割り、サムターンを回して解錠するという手口がある。
 だが、秋穂が言ったとおり、ガラスは割れていない。ドアノブについている鍵穴をピッキングしたのだ。
 秋穂は鍵穴を調べはじめた。
 そのとき、勝手口の中から声がした。
「ここで何をしている?」
 捜査一課の菅井敬警部補だ。いつも組んでいる苅田浩巡査部長がいっしょだった。
 萩尾はこたえた。
「何してるって、呼ばれたから来たんだ」
「だからって、現場を荒らすなよ」
「それはこっちの台詞だ。大切な手がかりを台無しにされたくないな」
「ここはコロシの現場なんだ。捜査一課の指示に従ってもらう」
「俺たちは俺たちの仕事をする」
 菅井と苅田は顔を見合わせた。
 苅田が言った。
「それで、そのおたくらの仕事って、何のことです?」
 萩尾はこたえた。
「もし、勝手口から侵入したのなら、その痕跡が残っている。それで、侵入したやつの素性がわかるかもしれない」
 菅井がふんと鼻を鳴らす。
「侵入の痕跡があったからって、犯人がわかるわけじゃないだろう」
「犯人かどうかはわからない。だが、侵入したやつはわかるかもしれないと言ってるんだ」
 苅田が言う。
「はったりでしょう」
 萩尾は秋穂に尋ねた。
「どうだ?」
 秋穂は鍵穴を見つめたまま言った。
「ハギさん。これ……」
 萩尾はその言葉に促されて、鍵穴に目を近づけた。
「あ……。いかん。老眼鏡……」
 内ポケットから眼鏡を取り出してかける。あらためて鍵穴を見る。秋穂が言わんとしていたことがわかった。
 萩尾は秋穂にうなずきかけた。
「何だよ」
 菅井が言う。「鍵穴がどうかしたのか?」
 秋穂が言った。
「ピッキングしたやつがわかりました。秒テツです」
 菅井が眉をひそめる。
「何だそれは……」
 萩尾はこたえた。
「窃盗の常習犯だ。どんな錠前も一分以内、つまり秒単位で開けるから秒テツの二つ名がある。本名は大原哲おおはらてつだ」
「なぜそいつだとわかるんだ?」
 それにこたえたのは秋穂だった。
「サインがあります」
「サイン?」
「秒テツは、ピッキングで解錠すると、鍵穴に必ず傷を付けていくんです。ここにもその傷があります。鍵穴に沿って三つの傷が並んでいます」
 萩尾は補足した。
「それは、三十秒で解錠したという印なんだ」
 菅井は歩み出て、ドアノブの鍵穴を覗き込んだ。
「傷なんて見えないぞ」
 秋穂が指で示す。
「ここです」
「何だ? これが印だというのか? 鍵を差し込むときにこすれた跡じゃないのか?」
 秋穂が言う。
「正確に二ミリ間隔で傷が並んでいます。間違いなく秒テツのサインです」
「二ミリ間隔?」
 菅井が秋穂に尋ねた。「その秒テツってやつは、定規で測ったとでも言うのか?」
 萩尾は言った。
「定規なんか使わなくても、秒テツにはわかるんだよ。ミリ単位、いや〇・一ミリ単位の寸法が感覚でわかるんだ。それが彼のピッキング技術を支えている」
「苅田が言ったとおり、はったりなんじゃないのか? 俺にはサインには見えない。ただの傷だ」
 菅井の言葉に対して、萩尾は言った。
「一課の雑な現場検証とは違うんだよ。これが俺たち三課の仕事だ。気に入らないのなら、俺たちは帰る。仕事は終わったからな」
「ちょっと待てよ」
 菅井が慌てはじめたのがわかった。「その秒テツについて、知っていることを教えてくれ」
「はったりだと思ってるんじゃないのか?」
「手がかりは手がかりだ。ガセだとしても、いちおう調べてみないとな」
「さっき言ったとおり、名前は大原哲也。ヤサは、たしか小田急線の豪徳寺駅のあたりだ。だが、ヤサには戻らないだろうな」
「戻らない?」
「こんな事件に関わっちまったんだ。雲隠れするに決まってるだろう」
「じゃあ、見つけろよ。強盗殺人の被疑者だ」
「待てよ。秒テツが殺したとは限らない」
「強殺の共犯だ」
 すると、秋穂が言った。
「三課としては納得ができないことがあります」
 菅井が尋ねた。
「納得できないこと? 何だ?」
「秒テツは常に単独で犯行に及びます。誰かといっしょに家屋に侵入することはありません」
「そんなのは絶対じゃないだろう。今回は共犯がいた。ただそれだけのことだ」
「あんたら一課が相手にするのは、たいてい素人の犯罪者だ」
 萩尾は言った。「だが、俺たちの相手はプロなんだよ。プロはやり方を変えない。でないと危険だからだ。窃盗犯というのはおそろしく用心深いんだ」
「それに……」
 秋穂がさらに言う。「秒テツが居直り強盗なんて、信じられません」
 菅井が「なぜだ」と訊く。
「秒テツは、人の気配に敏感だからです。住人がいると気づいたら、鉢合わせなどせずにそっと逃げ出したでしょう」
「それも推論に過ぎない。出会い頭ってこともある」
「いえ……」
 秋穂は言った。「どうしても納得できません」
 菅井は苛立たしげに言った。
「捕まえてみりゃわかるさ。さあ、その秒テツのヤサに案内してもらおうか」
「そうだな」
 萩尾は言った。「俺たちも、様子を見てみたい」
 菅井と苅田を連れて、秒テツの住処に行ってみることにした。

 三軒茶屋から世田谷線に乗り山下駅に向かった。山下は小田急線豪徳寺駅に隣接している。
 秋穂が菅井に言った。
「捜査一課なのに、捜査車両使わないんですか?」
「おい。電車の中でカイシャの話をするなよ」
 山下で電車を降りて狭い商店街の中を進む。やがて、住宅街にやってきた。秒テツこと大原哲也が住むアパートはその住宅街にある。古い安アパートだった。
 一階と二階に四部屋ずつ、計八部屋ある。細い階段を上がると、暗い廊下だ。秒テツの部屋は二階の一番奥だ。
 秋穂がドアをノックする。
「大原さん。いらっしゃいますか? 大原さん」
 呼びかけにも返事はない。
 秋穂が再びドアを叩いたとき、隣の部屋のドアが開いた。
 色あせてよれよれのスウェットを着た老人が顔を出して言った。
「テツさんならいないよ」
 秋穂はその老人に尋ねた。
「いない? 留守ですか?」
「ああ。昨日から姿が見えないな」
「どこに行ったかわかりますか?」
「知らないよ。テツさんはときどき、ふらりといなくなるからなあ」
 秋穂が礼を言うと、その老人は目をすがめた。
「何だい、おたくら。ひょっとして警察かい?」
 菅井と苅田は何も言わない。この場は萩尾たちに任せるつもりだろう。
「萩尾っていうんだ。テツの知り合いだ」
「萩尾さんね。テツさんが戻ってきたら、あんたが訪ねてきたって伝えておくよ」
「ああ。心配してたと伝えてほしい」
「わかった」
 老人の眼には猜疑心があふれていた。
 萩尾はその場をあとにした。秋穂がすぐ後ろに続いた。ややあって、菅井と苅田がついてきた。
 アパートの外に出ると、菅井が萩尾に噛みついた。
「何であっさり引きあげるんだよ」
「留守だというんだから、しょうがないだろう」
「部屋に潜んでいたかもしれない」
「ノックして声をかけたけど、返事がなかったじゃないか」
「何をぬるいことを言ってるんだ。ドアを蹴破ってでも調べるべきだろう」
 萩尾は目を丸くしてみせた。
「一課は無茶を言うよな。令状もないのに、そんなことをしたら、こっちが捕まっちまう」
「ふん。ホシを挙げりゃあいいんだよ。被疑者の身柄ガラ取っちまえば、捜索差押なんて何とでもなる」
「俺たち三課は、そんな無謀な捜査はしない」
「隣の住人だって怪しかったじゃないか。任意で引っ張って叩けば、何か出るんじゃないのか?」
「善意の協力者を引っ張るのか?」
「秒テツとやらの知り合いらしいじゃないか。もしかしたら、今回の事件の共犯者かもしれない」
「あんなじいさんにタタキがやれると思うか?」
 タタキは強盗を意味する隠語だ。
「人間いざとなりゃ何だってできるさ。それに、殺害を実行したのは秒テツかもしれない」
 萩尾はあきれてかぶりを振った。
「あんた、マジで言ってんのか」
 萩尾が歩き出すと、菅井が言った。
「待て。どこに行くんだ」
「カイシャに戻るよ」
 この場合のカイシャは、警視庁本部のことだ。秋穂が無言でついてきた。
 菅井がさらに言った。
「戻るだって? 冗談だろう。じきに世田谷署に捜査本部ができるから、そこに詰めるんだ」
「とにかく一度、戻る」
 萩尾は秋穂とともに、菅井と苅田に背を向けたまま、その場を去った。

 

(つづく)