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 びんぼうになっちゃった。

 

 びんぼうになったら、着飾るための道具が買えなくなった。おかげで浮かれた場所にはいけなくなり、日常からハレとケが消えうせた。

 

 すると必然的に活動範囲が狭まり、いまでは生活というものがぴたりと肌に貼りついている。

 

 びんぼうの暮らしは、自分自身が近いのだ。鼓動がつねにわなないて、生かしてくれ、生かしてくれとさけんでいるのがわかる。

 

 だからいい、と思ってしまう。

 

 

 

 いままでぼくは、自分自身が遠かった。ナイルよりも、ビッグベンよりも、火星の木陰よりも遠かった。ぶあつい繭のような着ぐるみに、年がら年中覆われていたからだ。

 

 変わった着ぐるみだったせいか、そこにいるだけで人が集まってきてくれたし、いくらかお金を得ることもできた。側から見れば、それなりにしあわせに見えたかもしれない。たしかにわるいことばかりではなかった。

 

 けれど着ぐるみは、ぼくから皮膚感覚みたいなものをどんどん奪っていったのだ。だれに触れられたとして、それが痛くても、やさしくても同じ。わからない。

 

 そのうちこころも動かなくなった。なにが自分にとってのよろこびで、かなしみなのか、すべて漂白されたように忘れてしまった。気がつくとぼくはぼく自身ではなく、着ぐるみそのものになっていたのだ。

 

 おまけに、着ぐるみのなかは酸素が薄かった。この世にありあまる空気を、ちびりちびりと吸うことしかできないのだ。これでどうして、生きていると言えるだろう。

 

 

 

 着ぐるみを脱いでみたときの気分を、爽快さを、どう表現したらいいかわからない。身体じゅう隈なく電流が流れだし、あらゆる感覚が押し寄せ、目に映る景色のすべてが鮮やかにきらめきだした、あのときの気持ちを、文字なんかで写しとることはぜったいにできない。空気も好きなだけ吸って吐いて、吸って吐いて、と思いきやまた吸って、地球にフェイントかけたりできちゃう。

 

 なんていう自由だ。これが生身ということか。

 

 もはや、なにもこわいものなんてなかった。この身軽さ、爽快さの代わりに、いくらか失うものがあったとしても、引き受けたい。いや、引き受けていけるだろう。

 

 ぼくは世界一勇敢な王子さまみたいな気分だった。

 

 そうしてびんぼうがやってきた。

 

 

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 こうなってしまうことは、なんとなくだけどわかっていた。

 

 だって着ぐるみありきで、ぼくは人と関わったり、社会と関わったりしてきたんだもの。突然すっぱだかになったりしたら、みんなびっくりしてしまうし、居場所も、役割もなくなって当然だろう。ぼく自身も、あたらしくなにをしたらいいかなんて、まったく見当もつかない。

 

 それでも、着ぐるみのなかにいたころよりは、ずっと生き生きしているのだ。

 

 

 

 もちろんびんぼうは、基本的にはつらい。お金なんて、あったほうがいいに決まっているし、もし目の前に10万円が落ちていたら迷わず拾っちゃう。たとえそのお金が、ぼく以上にひもじい人の全財産であってもだ。びんぼうになるって、きっとそういう想像をしてみては、変わってしまった自分に傷つく、傷つきつづけるってことかもしれない。おそらく麻痺するまでずっと。

 

 しかし着ぐるみのなかにいたころは、そういった己の、醜いといっていいようなねがいや欲望もわからなかった。

 

 だからぼくは、自分の発する「つらい」を、「ほしい」を、「もっとたべたい/たべるべき」を、きちんと聞きとってやれるいまのくらしを、身体じゅう軋むようなびんぼうのくらしを、愛おしく思わずにいられない。

 

 

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 びんぼうといっても、畳敷きの古アパートで素ラーメンばかり食べていたりはしない。洗濯機も室内にあるし、チャイムが鳴ったらモニターに顔が映るようなシステムも備わっているし、たまには外食もする。けれど、まぎれもないびんぼうだ。そう言うと、どうしてか怒る人がいる。お金借りたわけでもないのに。

 

 贅沢なんてちっともできない。洋服なんてほしいとすら思わなくなった。なのにびんぼうになってから、妙に無駄遣いが増えている。こわいから家計簿なんてつけていないけど、こまごましたものをつい買ってしまって、あとで焦るということがあまりにも多い。おかげでほんとに必要なもの、ほんとに欲しいものを我慢せざるを得なくなったりして、ばからしいんだけど、でも例えば月に5千円の余裕が生まれたとして、なにに使うかと考えたとき、5千円のものはもちろん、3千円のものは買えない。どんなに必要でも、どんなに欲しくても買えない。なんかびっくりしちゃうからだ。

 

 それでつい、100円や200円のよろこびを、毎日にちりばめるという選択をしてしまう。その100円や200円が、信じられないほど安くてまずいビールだったり、駄菓子だったり、プリキュアのおまけつきだったりに化けるのだ。

 

 だましだましゆるやかに減っていくのだと、消費に対する罪悪感も薄くて済む。アハ体験みたく、消失に気づかないというラッキーさえ起こる。ラッキーというのは、この場合びっくりしなくてすむ、ってだけの意味だけど。

 

  そういえば小学生のころ、いつもびんぼうびんぼう言っているクラスメイトがいた。その子のお母さんもいつもびんぼうびんぼう言っていて、ある日おうちに遊びにいってみると、スナック菓子がたくさん出てくるし、テレビ台にはずらりとポケモンの指人形が並んでいて、おさないぼくはちょっと呆れたような、いらいらするような感情をおぼえたのだった。

 

 あのときの自分がいまのぼくを見たら、やっぱり怒るんだろうか。

 

 

 

 ちなみに今日は100円でセーラームーンのカードを買い、80円でビールを買い、残り20円でカルパスを買った。夕飯は、マハラジャだったら口に入れた途端に吐き出す程度のものをよろこんでたべた。近ごろは犬も食わないようなもの。

 

 

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 家賃を払うために契約させられたカード会社が、あらゆる手段をつかって催促をしてくる。手紙なら破り捨てるし、訪問なら居留守を使うし、電話なら完全無視を決めているのだけど、今朝は寝起きでとっさに出てしまい、しまったと思いつつ、久々に聞いた担当者さんらしき人の声に思わず「あ、お久しぶりです」なんて挨拶してしまった。お姉さんはくじけていた。

 

 そういえば以前テレアポで働いていた友だちから聞いたのだけど、わりと強気なお客さんが通話中にとつぜん「えっ!」とさけんで黙りこみ、どうしたのかとたずねると「金正日が死んだって、いまニュースで……」と興奮気味に口走ったそうだ。友人もつられて「えっ!」とおどろき、ふたりしてぼんやりしたまま、なんとなく通話が終わったらしい。へんな話だけど、そういうほうがかわいくていいと思う。

 

 

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 お昼に水道管の整備がありますよ、という張り紙を見ていたので、ラーメンを作ろうとして水が出なくてもおどろかなかった。

 

 それどころか、仕方のないことだから、とお店で豪華なチャーシューメンをたべたり、ビールを飲んだり、帰りは銭湯にも行って、わりと充実した一日を過ごすことができた。断水さまさまだ。

 

 銭湯には、とてもきれいな男の人がいた。手足が長くて、首も細くて、顔もはっとするほどかっこいい。

 

 もちろん人様の裸体をジロジロと見たりしてはいけないので、壁のタイルの模様や、よくわからない西洋ふうのお城が描かれた壁画をメインにして、けっして裸体にピントが合うことのないよう配慮しながら、あくまで漠然とながめた。それでもわかるくらいきれいなものが、視界の端でかがやいていて、うつくしいということはほんとにすごい。

 

 あんなにきれいだと、自分の肉体をごく自然に慈しめるのか、洗い方がやたらと丁寧だった。うえからしたまで、ちょうど良さげな力加減で、あますことなく磨いていくのだ。まるですべすべした石膏のうえを、するどい銀の彫刻刀が、心地よくすべっていくみたいに。

 

 ぼくは生身の身体で生きていくとか言っておいて、そこらへんすごく雑だ。泡つけてピッ、ピッ、で終わらせてしまう。

 

 それで反省をこめて、なるだけていねいに洗ってみようとしたのだけど、いまこの自分の姿には、だれも惚れ惚れなんてしてくれないんだと思ったら、途中ですっかりやる気が失せてしまった。しかし、ていねいに洗いあげた足の指が、風呂あがりにすごく大切に思えたので、一応やっておいてよかったのかもしれない。

 

 

 

 ちょうど日付をまたいだころ、コーラを飲みつつ家路に着くと、こないだ下の階に引っ越してきたばかりの女の子が、アパートの前で電話をかけていた。となりには彼氏と思しき男の子がぴたりと寄り添っていて、なんともいえない切羽詰まった雰囲気を醸している。なんだろう……と思っていたのだけど、部屋に戻って、お茶を飲もうとしてすぐにわかった。

 

「もしかして、水ですか?」

 

 ふたたびアパートの前に出ていってたずねると、「はい、そうなんです」とふたりしてうなずく。

 

「あ、もしもしお母さん。いまね、うえの階の人がきてね、うえの人も、お水まだ出ないって。ちょっと話してみるけ、じゃあね」

 

 女の子は安心した顔で電話を切った。

 

「あの、たしか断水、今日でしたよね……? 昼には終わるって書いてあったのに(それは知らなかった)、夜になっても出ないなんて……こういうことってふつうなんですか?」

 

 ぼくはアパートの先輩として、ちょっと気取って答えた。

 

「いや、こんなことはじめてですよ。どうも長いなあとは思っていたんですけど」

 

「そうですか……あの、どうしたらいいですかね?」

 

 どうしたらいいかなんてまったく想像もつかなくて、ぼくはぎょっとした。逃げることに注力していたドッジボールで、ふいにパスされてしまったときの感じを思い出した。

 

 一応、大家さんが近くの一軒家に住んでいるけれど、さっき通りがかったときにはすでに真っ暗だったし、こんな時間にたずねていくのも変な気がする。しかし、それ以外になにも思いつかなかった。

 

「あの、夜遅いですけど、非常事態ですし、大家さんのとこに行ってみましょうか」

 

「えっ……いいんですかね、こんな時間に」

 

 いいわけない。

 

「でも、非常事態ですし……このアパート、大家さんのものだし……」

 

 ぼくはもごもご言った。

 

 

 

 大家さんの家に向かって歩きながら、ぼくは気を取り直して、さも余裕ありげにたずねた。

 

「ふたりとも、若いね。いくつ? 学生さん?」

 

「はい、ちかくの大学に通ってて、19歳です」

 

「19かあ! いいなあ」

 

 そう言いながら、ぼくは遠い19歳の春に、もう触れようにも触れられない、かがやかしい青春の記憶があるかのように目を細めた。もちろんそんなものありはしない。19歳といったら、人生で一番鬱屈としていた時期だ。

 

 大家さんの家に着くと、窓という窓が真っ暗で、チャイムを押してもだれも出てはこなかった。それでも待っていると、しばらくしてお嫁さんと思しき女の人がパジャマ姿で出てきた。

 

「こんな時間に、なんですか……」

 

 地獄の沼から這い上がってきたみたいな顔だった。

 

 ぼくが事情を話そうとすると、緊張しているせいかひどく口ごもってしまい、代わりに女の子がてきぱきと説明をしてくれた。男の子のほうが「たよりないなあ」という目をぼくに向けている。

 

「ああ……ああ、今朝の水道工事ですよね。すみません、アパートの持ち主が義母なんですけど、もう寝てしまっているので……また明日でもいいですか……」

 

「そんな、でも、こまるんです。明日も学校があるし、お風呂も洗濯も……」

 

 そのとき、アパートのほうでバタンと車のドアの閉まる音がして、見るとなんと、管理会社の人が来ていた。

 

 そうかーーってそうじゃんー。こういうときはまず、管理会社じゃんーーとぼくはやっと思い出した。カップルふたりは、しらーっとした表情を、もう隠さなくなっている。

 

 管理会社を呼んだのはおそらくぼくのお隣さんで、いちばん長く住んでいる韓国人のお姉さんだった。ちなみになんで彼女のルーツを知っているかというと、たまたまドアの鍵をかけていなかったときに、彼女の親類と思しきおばさんたちが、まちがえてぼくの部屋に入ってきたことがあったから。

 

 アパートに戻ると、大柄な管理会社のおじさんが、ガチャガチャとタンクに向かって工具をいじっていた。ちょっとイライラした口調で「これは朝までかかるかもしれねえな」とぼやきつつ、顔はなんとなく誇らしげに見える。

 

 心配したお姉さんも窓から顔を出し、さらに女の子の隣の部屋に住んでる、ぬりかべみたいに図体のでかい男の子も、同じように窓から様子を窺っていた。全員でなんとなく目配せしあい、こまったように微笑みあったりしてしまう。

 

 思えばぬりかべの男の子。あなたは、いつもゴミの出し方が汚いですね。玄関まわりも異臭がすごく、そのくせ挨拶もスルーしますね。女の子も、いつも友達をおおぜい連れ込んで騒ぎ、そのうちコソコソとふたりだけ部屋から抜け出して、目の前の空き地でまぐわったりしていますね。ぼくは何度かそれを見ましたね。隣のお姉さんは、夜中に物音を立てるぼくを正直ぶっ殺したいと思っていますね。すこしでも鬱憤を晴らすためか、出かけ際にぼくの自転車のライトを勝手につけたりしていますね。

 

 しかし、いまやすべてのものごとが水道トラブルの元に調和され、意識が共通の目的に向かいはじめていた。バラバラだったアパート住人のこころが、ついにひとつになったのだ。

 

 興奮のあまり、ぼくは全身に鳥肌が立ち、涙さえ流しそうになっていた。そして、そんな気分を全員と共有できているものと信じていた。

 

 

 

 結局水道はすぐに復旧し、ぼくたちはたいしてよろこびを分かち合うこともなく、しずかにそれぞれの部屋に、それぞれの生活に戻っていった。けれどぼくは興奮状態がずっと続いていて、布団に入っても全然寝付けなかった。

 

 翌日、電話で大家さんから深夜の訪問を叱られ、むしゃくしゃしてまたがった自転車のライトはつけっぱなしになっていた。

 

 

(第2回につづく)