エレジーとは「哀歌」という意味である。

 今なら菅田将暉の曲を連想する人が多いだろうが、温泉街となれば思い浮かぶのは戦後歌謡の「湯の町エレジー」だろう。温泉街に初恋の人の面影を求めながらギターを弾く「流し」の哀切たる心情を歌ったヒット曲だ。

 だが、本書のタイトルをよく見ると、エレジーは「流れない」のである。温泉街なのに『エレジーは流れない』? 流れてナンボではないのか。どういうことだ?

 と疑問に思いながらページをめくった。

 舞台は海と山に囲まれた餅湯温泉。一大リゾート地だったのは過去の話で、今はやや寂れがちの、けれどそのぶんのどかな温泉街だ。そんな街の商店街の、お土産屋の一人息子で高校二年生の怜が物語の主人公である。

 母親とふたり暮らしの怜の、賑やかにして平凡な朝の様子で物語は幕を開ける。学校でつるんでいるのは、真面目な美術部員のマルちゃん、彼女とのイチャイチャに余念のない脳筋男・竜人、自然児・心平、旅館の跡取りの藤島。屋上で弁当を食べ、修学旅行ではしゃぎ、町の博物館で起きた縄文土器盗難事件のニュースで盛り上がる。

 普通だ。極めて普通の、ちょっとおバカな男子高校生たちの日常だ。でもこういう日常のわちゃわちゃを描かせると三浦しをんはめちゃくちゃ上手いんだよなあ──とほのぼのしながら読んでいると、背負い投げを食らう。突然、怜の複雑な家庭環境が読者に明かされるのである。

 ふたつの家を定期的に行き来する怜。その中で彼は、これまで蓋をしてきた問題に直面する。進路のこと。本当の親のこと。そしてそのどちらも、心配が解消された後で、自分がそれを心配していたことに気づくのだ。

 気づく、というのがポイント。自分が心の底では何を望んでいたのか、それをなぜ見ないふりをしていたのか、それに気づくことで怜は少しずつ成長していくのである。

 同時に、おバカな仲間たちにも悩みがあり、大人たちにも事情があることが徐々に明かされる。怜だけでなくみんながそれぞれの思いを抱えながら、人を助け、人に助けられ、笑いながら毎日を生きている。そう気づいたとき、この寂れたのどかな温泉街がとてつもない楽園に思えた。

 だからエレジーは流れない、のだ。哀しみに浸ろうが浸るまいが明日はやってくる。だったら笑って生きた方がずっといい。その力が、その知恵が、私たちにはあるのだとこの物語は謳っているのである。