先日、同性の友人と、共通の知り合いである40代半ばの男性について話をしていた。彼は見た目が良く、職業もお洒落で、物腰も柔らかい。しかし未婚だ。恋人がいるという話も聞かない。どうしてだろう、もったいないね、何か問題でもあるんじゃないの、と。その時は地下鉄に乗っていて、周囲を見渡せば、1ミリもときめかない男性たちの左手に、結婚指輪が嵌まっていた。不思議である。どうしてあんなに鼻毛が出ているのに。だが、ある程度の年齢になると、見た目にかかわらず、結婚していることより、していないことのほうが不思議に思われてしまうのだ。

 しかし『誰になんと言われようと、これが私の恋愛です』を読んだ今、猛省している。既婚である友人ならまだしも、もうすぐ40歳になるが、結婚の予定もない自分のことを棚に上げて何を言うか。私こそ、彼が未婚であることを理解できるかもしれない人間だった。浮いた話はないが、実は激しく恋をしているし(相手はステージの上だが)、まだ付き合えてもいないのだから、結婚なんて考えるのは早すぎる。何か問題があるように見えるかもしれないが、全く問題はない。しかし、どこかで私も同じようなことを言われているのだろう。

 40年近く生きると、さすがにわかってくる。結婚できるできないは、どうも見た目や意志の問題ではなさそうだぞ、と。しかしこの本は、平成元年生まれの女性4名からなるユニット「劇団雌猫」によって編まれており、彼女たちが集計したアンケートの回答者は、7割以上が20代だ。まだまだ普通に恋愛結婚をする可能性が残されており、「誰になんと言われようと」なんて若さ故、頑なに思い込んでいるだけでしょう。そうやって、距離を置いて読み始めた、はずだった。エッセイを綴る女性たちに共通するのは、何かしらのオタクであることのみ。推しが恋愛対象であったりなかったり、未婚だったり既婚だったり、読めば読むほど、恋愛の「普通」がわからなくなる。一本の短いエッセイの中で、恋愛への考え方や状況がミステリのようにどんでん返しすることもあって、恋愛はこうであらねば、と考えたり押し付けたりすることの無意味さを知った。読めども読めども、何の法則性も見えてこないのである。強いて言うなら、恋愛は何があるかわからない、ということのみ。つまり、私が推しと結婚することだって、なきにしもあらずなのだ! 年下の女性たちの恋バナで、前向きになれる素敵な本であった。