第一話

 あの日、私たちは、犯罪被害者遺族ってやつになった。

 宅地化が進んだとはいえ、そこそこに畑が点在し、里山も残る平和でのどかな田舎町でこれほど凄惨な事件が起きるなんて、いったい誰が想像しただろう。

 ううん、起こってしまった今でも、正直、信じられない。

 だって、誰もが顔見知りのこの小さな町の住民は、基本的にみんな、いい人だから。

 少なくとも、人を殺しておきながら、平然と普段どおりの生活が送れる神経の持ち主がいるとはとても思えない。

 けれどあの日、どこまでも気持ちよく晴れ渡った秋空の下、やぎ野原公園(通称メーメー公園)に集まったのはこの町の住民、百八名だけで、部外者はひとりもいなかった。

 つまり、四人を殺した犯人は、ここに住む誰か――と、いうことになる。そしてその誰かは、今も私たちのすぐそばにいて何食わぬ顔でしれっと暮らしているのだ。

 いったい誰が――?

 泣き腫らした瞳をぎゅっときつく閉じ、仁美はつらい記憶を手繰る。

 まぶたの裏に青く澄んだ空が広がり、焼きそばの香ばしい匂いが鼻先によみがえる。走る自分の息遣いと心臓の音が鼓膜を震わせ、爽やかな秋の風が頬をかすめ吹き抜けていく。五感のすべてが、仁美をあの日の公園へといざなった。

 

「仁美ちゃん、焼きそば、味見してかない?」

「ありがと、おばちゃん。今、急いでるから、あとで」

「おう、仁美! 涼音ちゃんもそんなに急いでどこ行くんだよ?」

「ダンスのリハ」

「おう、ダンスか。おっちゃんもあとで見に行くからな」

 隣を走る涼音と顔を見合わせ、仁美は苦笑いを浮かべる。こっちは必死で走っているのに、この町の人たちは顔を合わせればやたらと話しかけてきて、やかましくてしかたない。

 近所のおばちゃんが「おしょうゆ貸して」とごく当たり前に上がり込んでくるこの町のことを、高校の友人たちはまるで昭和とからかうけれど、仁美は決して嫌いじゃない。面倒くさいと思うこともあるにはあるが、みんなが顔見知りでなんやかやと世話を焼いてくるこのやかましさこそが、幼いころから慣れ親しんだ、仁美にとっての日常なのだ。

 だが、公園の突き当たりに集まった中高生の中に、頭ひとつぶん空に近いヤツの姿をはっきりとらえた瞬間、そんな周囲の喧騒がふっと遠のいた。

 イベント用のテントの下で野菜を切りながら噂話に興じるおばちゃんたちの笑い声も、ヨーヨーが釣れたとはしゃぐちびっ子たちの歓声も、秋祭りを盛り上げる楽しげなBGMも、涼音の足音や息遣いさえもすべて消えて、今、仁美の耳を占めているのは、早鐘を打つ自分の鼓動だけだ。

 こんなに動悸が激しいのは、東西に長く広がるやぎ野原公園の西の端から東の端まで全力疾走してきたからに違いない。

 そう思いたいのに、振り返った薄茶色の瞳に見つめられた途端、小さな生き物が左胸の皮膚を破って顔を出すのではと不安になるほど心臓が暴れる。そんな仁美の高揚をよそに、やや薄いその唇からこぼれ落ちたのは、いかにも修一郎らしい冷ややかな言葉だった。

「遅っ」

 ボソッとつぶやくその姿にどぎまぎしながら、仁美は肩で息をし、態勢を整える。

「こ、こっちもいろいろあって大変だったんだって」

 ちょっとだけ声が上擦ってしまったが、爆走してきたせいだと思ってもらえただろう。あえて仏頂面をつくる仁美の隣で、涼音が能面のような顔で「ごめんね」と頭を下げた。

「でも仁美ちゃんが悪いんじゃないの。うちのママが今ごろになってやっと来て、それまでおしるこの鍋のそばを離れることができなかったから……」

 同じ距離を走ってきたのにビスクドールみたいに涼しげで綺麗な涼音の顔にぎょっとし、全身から噴き出す汗を慌ててTシャツの袖で拭いながら、仁美は彼女の言葉を遮る。

「涼音、いいって。うちら、おしるこに入れる白玉を朝からずーっと腱鞘炎になるほどこねまくってたんだからね。ちょっとくらいの遅刻でガタガタ言うな」

 後半は内心の動揺を隠し、修一郎にぶつけた。いつもの癖でつい乱暴な言葉を吐いてしまい、仁美は心の中で舌打ちしたが、端正な彼の顔がなぜかふっとゆるんだ。

「しかたない。今日のところは、おばさんのおしるこに免じて許してやる」

 ああ、そうか、おしるこか。仁美の母、千草がつくる白玉入りのおしるこは、町内会の秋祭りの名物で、楽しみにしている人も少なくない。甘いものに目がない修一郎も、もちろんそのひとりだ。

 高一とは思えない修一郎の偉そうな物言いに、「何様なんだよ?」と応じたものの、仁美は目を合わせることができず、顔を背けた。

 耳の奥で脈打つような心臓の音が、さっきよりもさらにやかましく響いている。

 いつものように自然に振る舞えないのは、今朝、修一郎からスマホに届いたメッセージのせいだ。

『秋祭りのあと、ちょっと時間ある? ふたりで話したいんだけど』

 なんの話かもわからないのに、こんなにも動揺してしまう情けない自分自身に、仁美はひどく腹を立てていた。どうせクソつまらない用事に決まっている。ちょっと頭がいいからってひとつ年下のくせにクソ生意気な修一郎に、いったいなにを期待しているのだろう。

 女子に陰でキャーキャー言われるくらいそこそこイケメンであるにもかかわらず、彼女ができたためしがないのは、生意気で実は根暗という、ヤツの面倒くさい性格ゆえだ。

 この田舎町で生まれ育った三人は、仁美が一番年上で、修一郎、涼音の順に年齢がひとつずつ違うけれど、子供のころからなんとなく気が合ってよく一緒に遊んだ。

 修一郎の母親と千草も仲が良く、医者志望の修一郎が医師免許を取ったら仁美と結婚させて真壁医院――仁美の祖父が開いたこの町にひとつしかない個人病院で、祖父の死後は、婿養子である仁美の父、仁が引き継いでいる――を継がせようと、母親同士で勝手に盛り上がっている。「何時代の話だよ!」と反発して見せながらも、修一郎との未来を秘かに夢想するようになったのは、いつごろからだったろう……。

「遅れて来てなにバカみたいにボーっとしてんの? リハやるよ」

 修一郎の辛辣な言葉に、仁美はハッと我に返る。

 そうだ、ダンスのリハをするために、全力で走ってきたのだった。

 町内会の秋祭りで中高生がダンスを披露するのも、毎年の恒例行事だ。 

 踊るのは南中ソーランの農業ヴァージョンとでもいうのか、この土地に古くから伝わる豊作祈願の舞をロック調にアレンジして振り付けたものなのだが、これが思いのほか出来が良く、迫力があって格好いい。十年ほど前から中学の体育祭の演舞にもなり、それが話題となって地元の新聞社やテレビ局が取材にきたほどだ。秋祭り公演――公園の一角で踊るだけなので公演と呼ぶほどのものではないけれど――でも、毎年子供からお年寄りまで幅広い世代が楽しみに見に来てくれる。

 本来は祭りの前日までに公園で通し稽古をおこない、立ち位置の確認をしておくのだが、今年は部活や習い事などの都合で全員が揃う日がなくてできなかった。さらに当日も修一郎の塾の模試が重なってしまい、祭りの開始後にしか来られないことがわかったため、彼の到着を待って、こそっとリハーサルをする計画になっていたのだ。

 午後三時から祭りは始まっているものの、人出が多くなるのは、今、街中を練り歩いている小学生男子による子供神輿が公園に戻って、焼きそばやおしるこの無料配布が始まる四時ごろからだし、ダンスの公演場所は東側の一番奥まったところなので、それまでにさくっと終わらせれば問題ないはずだ。

「じゃあ、みんな、立ち位置決めるよ」

 修一郎が声をかけると、集まった中高生たちは素直に従う。

「今回はじめてここで踊る中一の三人は後ろの列ね。うん、豊はそこ、良美が真ん中で、武蔵が……、あー、ダメだ。武蔵、おまえ、デカ過ぎてバランス悪いから、やっぱ、真ん中入って」

 今日集まったこの町内の中高生十一人の中で最年長は高二の仁美なのだが、成績優秀でしっかり者の修一郎が自然と場を仕切り、それぞれの立ち位置を次々と決めていく。

「で……、えっと……、最後、ほら、ここ立って」

 修一郎が顎で指し示した場所に移動しながら、ああ、まただ、と仁美は思う。

「仁美ちゃん、仁美ちゃん」とまとわりついて来ていた小さな彼を仰ぎ見るようになったころから、修一郎は仁美を名前で呼ばなくなった。

「なぁ」とか「おい」とか、熟年夫婦かとつっこみたくなるような呼び方か、今みたいに顎で指すだけ、だ。

 いや……、一度だけ、小さな声でボソッと呼び捨てにされたことがある。ぶっきらぼうに、でもどこかちょっと恥ずかしそうに「ひとみ」と名前を呼ばれた刹那、電流が駆け抜けたみたいに心が震えた。そうか、あのときだ。

 たぶん、あの瞬間から、仁美は修一郎のことをただの幼なじみとは思えなくなったのだ。

 あれはいつのことだったっけ。もうずいぶん昔のような気が……。

「はーい、じゃ、始めるよ。一回しかやらないから、みんな、集中して」

 修一郎の号令で我に返ると、ボリュームを絞った音楽が流れてきて、通し稽古が始まる。

 隣で踊る修一郎が気になって仁美はまったく集中できず、気がついたら終わっていたという体たらくだったけれど、あとから涼音が撮影してくれた動画を見ると、まあまあ普通に踊れていた。毎年のことなので、頭がお留守でも体が覚えているらしい。

 動画を見た修一郎がダメ出しを始めたが、仁美の意識はまた祭りのあとの約束へと飛んでいく。修一郎はいったいなにを話すつもりなのだろう。

 まさかとは思うけれど、もしかして……。

 妄想の世界に入りかけたとき、「ねぇ」と背中を叩かれ、仁美は思わず声を上げそうになった。振り返ると、母、千草が眉間にしわを寄せ、立っている。

「な、なによ!? みんないるんだから、あっち行ってよ」

 手で追い払いながら小声で文句を言う仁美に、母はどこか遠くを見たままつぶやいた。

「エリカさん、どこへ行ったのかしら?」

「え?」

 母の視線の先を目で追うと、長方形の公園の西側の奥、今いる場所から対極に位置するおしるこのテントが無人になっていた。

 仁美も涼音も、そして千草も少し前まであそこで配布の準備をしていた。涼音の母、景浦エリカが来てくれたので、あとを任せて、仁美と涼音はダンスのリハに、千草は焼きそばのテントへ手伝いに出たのだった。

「さっきまでいたのに、どこ行っちゃったんだろう」

 隣にいた涼音もエリカの不在に気づいて、唇を噛む。

「ごめんなさい。あの、私、代わりに……」

 テントに向かって駆けだそうとした涼音を千草が止めた。

「涼音ちゃん、待って。おばさん、もう戻れるから、ふたりも行く必要ないわ」

「え、でも」

「涼音ちゃんは、おしるこ配るときに手伝ってくれれば大丈夫だから。あとでお願いね。修一郎君、みんなも、邪魔しちゃってごめんなさいね。ダンス、楽しみにしてるから」

 そう言って笑顔を見せる千草に、修一郎も満面の笑みを返した。

「僕らもおばさんのおしるこ、楽しみにしてます」

「ありがとう」と微笑みを残し、母はおしるこのテントへと足早に去っていった。

 仁美は涼音と公園内を見回しエリカを捜したが、子供神輿が帰ってきたため人が多くわちゃわちゃしていて、その姿はどこにも見つけられない。

「はい、じゃあ、これでいったん解散」と、修一郎が声を張った。「五時から本番だから、衣装に着替えて十分前にここに再集合ね。焼きそばとおしるこ、食い過ぎるなよ」 

 口々に礼を述べながら去っていく後輩たちを見送り、スマートフォンを涼音に返しながら、修一郎も目でエリカを捜す。

「いないね。どこ行っちゃったんだろう?」

「もしかして怜音か萌音ちゃんが帰りたがって、エリカちゃんが家に連れて帰ったとか?」

 涼音の母、エリカを、仁美は親しみを込めて『エリカちゃん』とちゃん付けで呼んでいる。三児の母にはとても見えない、若々しくて美しいエリカに、おばさんなどという呼称はふさわしくないからだ。

 エリカは六年前に、涼音の父親である夫を病気で亡くした。

 その後再婚し、涼音を連れて東京へ引っ越したのだが、怜音を出産するや瞬く間に離婚。原因はエリカに好きな人が出来たからで、再婚禁止期間が過ぎるのを待ってそのお相手と再々婚し、萌音を出産したものの、二年足らずで再々離婚……という怒涛の歳月を経て、三か月ほど前に三人の子供とともにこの町に帰ってきたばかりだった。

 他人の目など気にせずやりたいことをやるエリカはこの田舎町では稀有な存在で、仁美は子供のころから憧れている。

「ううん、ふたりはあそこにいるから」

 涼音が指差したおしるこのテントのすぐそばにあるヤギのベンチに、幼児がふたりちょこんと腰かけているのが見えた。歳の離れた涼音の弟妹、四歳の怜音と二歳の萌音だ。

「おしるこ、食べてるのかな?」

 ふたりが手にしている白い容器は、発泡スチロールでできたおしるこ用のお椀だろう。

「うん、そうみたい。まだ四時前なのに」

 そうつぶやく涼音は一見無表情に見えるが、ほんの少しだけ口の端が下がっている。

 取り決めを無視し、配布時間前におしるこを与えたエリカの行動を憂えているのだろう。

 涼音は母ゆずりの美しい顔立ちながら、感情を表に出すのが苦手で表情が極端に乏しい。なにを考えているのかわかりづらいせいで、小学生のときは「マネキン」とか「ブキミ」とか呼ばれ、いじめられていた。頼りない教師たちは見て見ぬふりだったので、なにかあると、仁美が出張っていって涼音を助けた。嫌なことをされたらやり返せばいいのに、自由奔放で空気など読まない母、エリカの反動か、幼いころから涼音は常に周囲に気を遣い、自分の気持ちを押し殺してしまうようなところがあった。

「仁美ちゃん、私、先におばさんの手伝いに行くね」

 涼音の言葉に、ああ、また気ぃ遣ってと思いながらおしるこのテントに目をやると、千草がひとりで立ち働いていた。

 そろそろ時間だし、一緒に行くよ。そう言おうと思って振り返った仁美より数秒早く、「だったら……」と修一郎が口を開いた。

「僕も一緒に行くよ、すず」

 その言葉を耳にした瞬間、冷たい手で心臓を鷲づかみにされたような痛みが走った。

 今、修一郎は涼音のことを、『すず』と呼んだ。

 ごく自然に、そして、とても親しげに。

 子供のころは、『すずねちゃん』と呼んでいたはずだ。三か月前、涼音がこの町に戻ってきてからは、どうだっただろう。思い出せないけれど、彼が『すず』と呼ぶのを、仁美は今、はじめて聞いた。

 たいしたことではないのかもしれない。幼なじみの名を少しだけ短く縮めて愛称のように呼んだだけだ。なのに、鷲づかみにされた心臓の冷たい感触が、じわじわと仁美の全身に広がってゆく。ゆっくりと時間をかけて少しずつ体を蝕んでゆく毒みたいに。

「……仁美ちゃん」

 すぐ目の前にあった能面のような涼音の顔に、一瞬、凍りつくような恐怖を感じた。

 かたちの良い眉をかすかに寄せているから、涼音は仁美のことを心配してくれているのだろう。その顔をまじまじと見つめ、綺麗だな、と改めて思う。表情が乏しいのは相変わらずだが、以前の涼音がマネキンだとしたら、目の前にいる十五歳の彼女は人形作家が丹精込めて大切に創り作り上げた芸術作品みたいだ。エリカのような華やかさはないけれど、無垢な美しさに魅せられてしまう。

「仁美ちゃん、大丈夫?」

「え……? あ、えっと、大丈夫って、なにが?」

「今日、なんだか、いつもと違うから」

 心臓がきゅっと引きつる。感情表現が不得手なくせに、涼音は他人の気持ちには人一倍敏感なのだ。

「どうせまたしょーもないこと考えてただけだろ。おしること焼きそばどっちから食うかとかさ」

 混ぜ返す修一郎を、仁美は複雑な思いで睨みつける。

「……修一郎のおしるこ、白玉抜きにしてやる」

「は? ふざけんなよ、白玉マシマシでくれよな」

「ふたりとも、ごめん。私、やっぱり気になるから、先に行くね」

「あ、待って、涼音。私も一緒に……」 

 追いかけようと、仁美が前を向いたそのときだった。

 テントのそばでおしるこを食べていた涼音の妹、萌音がふらっと前かがみになり、座っていたベンチから落ちた。

「あっ、萌音ちゃ……、涼音、萌音ちゃんが!」

「えっ?」

「早く!」

 叫ぶと同時に、涼音の手を強くつかみ、仁美は走り出す。さっきまでのざわざわした感情は、その衝撃で吹き飛んでいた。

 また公園の端から端まで全力で走り、息を切らして駆け寄ると、萌音は苦しそうにえずいていた。

 近くにおしるこが入ったおわんが転がっていたので、白玉をのどに詰まらせたのだと思い、仁美は一瞬ためらったのち、吐き出させようとその小さな口に自分の指を突っ込む。

 萌音はすぐにおえっともどしたものの、嘔吐物の中に白玉はない。

 のどになにかが詰まっていたわけではなかった。なのに、萌音はなおも小さな手で苦しげにおなかを押さえ、胃の中のものを吐きもどそうとしている。背中をさすり、萌音の衣類をゆるめながら、ベンチに並んでおしるこを食べていた萌音の兄、怜音に、仁美は訊く。

「怜音、今日、萌音ちゃん、おしるこ以外になに食べた?」

 返事はかえってこなかった。

 彼もまた、ベンチから崩れ落ちるように倒れ、嘔吐していたからだ。

「怜音! 大丈夫? 怜音、しっかりして」

 弟の名を叫びながら、涼音が懸命に背中をさする。

「涼音、この子たち、なにか食べ物にアレルギーある?」

「ないと思う。今までこんなふうになったことない」

 無料配布用のおしるこは千草がつくり、白玉は仁美と涼音が丸めたものだ。あれが原因で食中毒を起こすとは思えないが……。

 動揺している涼音を大丈夫だからとなだめて手伝わせ、嘔吐物で窒息しないよう怜音を横に向かせてから、仁美は立ち上がり会場に来ているはずの父を捜す。

 父の姿を求め、イベント用のテントを振り返ると、コンロにかけたおしるこの鍋の陰で、母、千草までもがつらそうに体を折っていた。

 驚いて駆け寄った仁美は、人目から隠すようにして母を吐かせると同時に大声で叫んだ。

「おしるこ、食べないで!」

 その声に、修一郎の絶叫が重なる。

「かすみ、しっかりしろ! 誰か、救急車!」

 見ると、少し離れた草むらで、小学生の女の子ふたりが口や腹を押さえて、悶え苦しんでいる。修一郎の妹、かすみと、町内会長の孫の成富麗奈だ。かすみは真っ青な顔でぐったりとうずくまったまま動かず、ひどく容体が悪そうだった。そんな妹を前にあの修一郎が取り乱し、どうにか助けようとその体に取りすがっている。

 子供のころから通っている公園、毎年楽しみにしていた秋祭り、そんな日常の風景が一転し、地獄絵図と化していた。

「お父さん! どこっ!?」

「仁先生!」

 父を呼ぶ仁美の声に修一郎の叫びが重なる。悲鳴のようなそれが届いたのか、ふたりの呼びかけに応え、公園の中ほどに置かれた子供神輿の陰から、「ここだ!」と父が手を上げた。

 だが、父の隣にも嘔吐している女性がいる。涼音の母、エリカだ。

 彼女を介抱していた父が、こちらの惨状に気づいて、走ってくる。そして救急車を呼ぶよう仁美に指示し、一番症状の重そうなかすみから処置をはじめた。

 父が来てくれたことで、仁美は安堵した。医師として町の人たちから厚い信頼を寄せられている父なら、必ずみんなを助けてくれるに違いない。

 ほどなくして救急車が到着し、六人は二つ隣の駅にある総合病院へと搬送された。

 しかし、そのうち生きてこの町に帰ってこられたのは、たったふたりだけだった――。

(第2回へつづく)