プロローグ

 木下ひよりが消えたのは、小学五年生のときだ。

 

「じゃあ、またね」

 二人で下校する途中、いつもの分かれ道で彼女は云った。

 日に日に緑が濃くなる初夏らしい季節で、けれど空気はじっとりと湿気を孕み、やけに蒸し暑かったのを覚えている。生暖かい風に、広がる田んぼの青い穂がざわめいていた。

 ひよりがこちらを見て右手を振った。

「ばいばい。瑞希みずきちゃん」

 それから前を向き、あぜ道を駆けていく。別れ際の彼女がどんな顔をしていたのか、思い出せない。普段と変わらず笑っていたのか、それとも不安そうに歪んでいたのか。

 異変に気づいたのは夜になってからだった。

 覚えているのは、屋根を叩く強い雨風。窓越しに明滅するパトランプの赤。子供心に、何か大変なことが起きたのだ、と察せられた。大人たちの動き回る物々しい気配にどうしていいかわからず、身がすくんだ。友達に、自分の生活に、本当に恐ろしいことなど起こるはずがないと当たり前のように思っていたから。

 

 ――それが、あの夏に起きた悲劇の始まりだった。

 

 

第一章

 雑居ビルの二階のドアを開けて室内に入った途端、火照った顔に冷房の涼しい風を感じた。

 陽射しの強い外を歩き回った上、一基のみのエレベーターは不運にも『点検中』の札が掛かっており階段で上がってきたため、軽く息が上がっていた。それにしても、この古い建物は常にどこかしら『点検中』であるような気がする。

 本棚とロッカーに挟まれ、書籍や郵便物が積み上がったデスクに向かって私は声をかけた。

「ただ今、戻りました」

 私が肩掛けバッグを下ろすや否や、書類をめくっていた恰幅のいい中年男性が横柄な口調で尋ねてくる。

「お疲れ、取材はきっちり終わったの?」

 声も体も大きい彼は、私がバイト社員として働く「日ひの出で書房」の雑誌編集長の大賀おおがだ。

 日の出書房は、一般向けの娯楽雑誌を発行している、ごく小さな出版社だ。白髪まじりのぼさぼさな前髪に分厚いレンズの黒縁眼鏡を掛け、どこかうさん臭さを醸し出している大賀は、空調が効いているのにいつも汗をかいている。

「……きっちりも、何も」

 私はげんなりする思いで、「都内の恐怖心霊スポット特集、行けば呪われる!」と書かれた企画書に視線を落とした。

「水場や廃トンネルなんかはまだしも、公に祀まつられてる平将門の首塚とか、寺院の墓地とかが、こんなふざけた企画に取材許可出してくれると思います? 趣旨を説明して撮影させてほしいってお願いしたら、不謹慎だってあからさまに嫌な顔されちゃいましたよ。それはそうですよ」

 ぼやきながら、壁に貼られた雑誌『トワイライト』の広告ポスターを一瞥する。朱色のポスターには、UFOや都市伝説、国家の陰謀といった怪しげな文言が中心に躍っている。

 月刊『トワイライト』は、マイナーなカルチャー誌だ。「謎と不思議をクローズアップするエンタメ系雑誌」というキャッチコピーで、流行りの占いや娯楽映画を紹介したり、未解決事件を科学的に考察するといった様々な記事を載せているが、実のところうさん臭い内容の企画も多い。

『トワイライト』編集部に正規の編集者は大賀を含めて三人しかいないため、私もアンケートの集計といった雑用から読者コーナーのサクラ、はては特集記事の執筆まであらゆる作業を押しつけられている。

 外の暑さと、取材先の冷淡な対応を思い出してやや恨みがましい思いで見ると、大賀が「あのなあ、小川おがわ」と居丈高に声を発した。

「そこをうまいことやるのが編集の腕だろうが。なんでも正面から馬鹿正直にやればいいってもんじゃないだろ。とにかく載せちまえばこっちのものなんだよ。青臭い十代のガキかよ。そんなんだから、せっかく入った大手出版社でもやっていけなかったんだろ。まったく使えねえな」

 早口に喋り、わざとらしくため息をつく。大賀の言葉に、胸がちくりと痛んで黙った。壁際に置かれたテレビから流れるワイドショーで、ゲストの女性タレントが「キャハハハ」とタイミング良く甲高い笑い声を上げ、なんだか自分が嘲笑されたかのような気分になる。

 ニュースが変わった。出演者が真剣な表情に切り替え、次のニュースを読み上げる。

『先月から続く猛暑と日照りの影響で、全国的に深刻な水不足が起きています。気象庁によりますと、都内で雨が降らない日数は観測が始まって以来の最長記録を更新し続けており、各地で渇水による取水制限が行われるなど、観光や日常生活にも影響が出ております。――さて、次も渇水関連の話題です』

 画面に、山の中の風景が映し出された。

『異常渇水で各主要ダムの平均貯水率が低下しておりますが、山形県の青葉あおばダムが干上がり、十三年前にダムに沈んだ月沢つきさわ村が姿を現したことが話題になっています』

 見知った地名と風景が流れ、あ、と思わず声が出た。大賀が「何だ?」と眉をひそめて訊いてくる。

 私はテレビ画面をまじまじと見つめた。ドローンで撮影したと思しき映像には、干上がったダム底の景色が映し出されている。

 水没していた部分の色が変わった山肌がむき出しになり、斜面の底に、乾いた土に覆われた小さな橋や生活道路が露出していた。コンクリートの校舎や、かつての村役場も、ひび割れた地面にまるで遺跡のごとく佇立している。枯れ木などの他に、石垣だったと思われるものや、建築物の土台、そして何軒かの家屋が朽ちた状態で残っているのも見て取れる。

『えっ、すごい、学校とかそのまま残ってる!』

『水底から現れた風景を見物に連日多くの人々が訪れており、無断でダムに下りたりしないよう、管理団体が事故を懸念して注意喚起を行っております』

 キャスターがそこで、より神妙な顔を作った。

『実は、青葉ダムの底に沈んだこの集落では、廃村直前にある悲しい事件が起こったんです』

 こちらに語りかけるように、カメラ目線で話し続ける。

『月沢村に住んでいた、当時小学五年生の女の子が忽然といなくなる事件がありました。警察をはじめ、消防団や地元の方々が廃村になる間際まで懸命に周辺の捜索を続けたのですが、女の子の行方はわからないまま、月沢村はダムに沈みました』

『そうなんですか? 怖ーい、可哀そう。建物が何軒かそのまま残ってるのって、もしかしてその事件の影響もあったりするんですかね?』

「……ああ、なんか聞き覚えがあると思ったら、月沢村ってのはあれか。『平成の神隠し事件』とか、一時期騒がれたやつか」

 大賀が思い出したように呟いた。机上のパソコンで検索し、短く頷く。

「やっぱりそうだ。ワイドショーとか、ネットで昔ちょっと話題になってたよな」

 テレビの前に突っ立っている私を見やり、大賀はやれやれ、というふうに「山形の月沢村で子供が消えた事件、そう呼ばれてるんだよ」と説明し始めた。

「あの辺りは星が綺麗に見えるっていうんで、かつては『星のふる里』って謳い文句で観光客を誘致してたらしいんだが、UFOの目撃情報やら、夜空に謎の発光体を見たって証言やらが、当時ごまんとあったらしい。……ま、どこまで信憑性があるかは甚だ怪しいがな」

 どうせ客集めが目的の話題作りってとこだろう、と鼻で笑い、大賀が続ける。

「そんないわくつきの土地だったせいで、いなくなった子供は宇宙人にアブダクション――拉致されたんじゃないか、なんて噂が立ったんだ。月沢村には昔から神隠しの伝承が残されてたこともあって、もしかすると過去に行方不明になった人たちも、実はUFOに連れ去られてたんじゃないかって考察がオカルトマニアの間で盛り上がったりしてな。まあ十三年も前の話だし、二十代半ばのお前さんじゃ知らなくても無理ないか」

 そんな過去のニュースに思い当たるあたり、伊達にオカルト系雑誌の編集長は務めていないのだろう。しかしそのとき、私の注意は別のものに強く引き付けられていた。

「……これ」

 呟き、見つめていたテレビ画面の右隅を指す。胸がさざめくような、云いようのない感覚を覚えた。

「――これ、私の住んでた家です」

「え?」

 大賀がふいをつかれた様子で私を見、再びテレビ画面に視線を戻す。

〈管理者の許可を得て撮影しています〉というテロップが表示されたダム底の映像に、何軒かの建物が小さく映っている。廃屋と表現するのが似つかわしい、屋根の色すらも不明瞭になった家屋のひとつを見て、ああ、と小さく吐息が漏れた。

「家って、お前、実家は確か宮城県だって云わなかったか?」

「はい。今は、母が仙台市に住んでるんですけど」

 私は頷き、画面の端を指したまま答えた。

「ここ、駐在所だったんですよ。父が警察官で、私が小学生の頃、家族で月沢村に住んでて」

 云いながら、映像から目が離せなかった。そうだ。泥にまみれたあの橋も、学校も、友達の家も……どれも見覚えがある。

 しかし、胸に込み上げるのは、純粋に懐かしさばかりではなかった。

「おい、ちょっと待て」と、大賀がハッと何かに気づいたような顔になる。

「てことはもしかして、行方不明になった女の子を知ってたりするのか?」

「クラスメイトです。仲の良い友達で、よく一緒に遊んでました」

 私の言葉に、大賀が目を丸くする。「それ、本当か」と訊く彼の眼鏡レンズが呼気で微かに曇るのがわかった。

「でも正直、当時のことはあまりよく覚えてないんです」

 私は目を伏せて云った。怪訝そうな大賀に、云い訳するように呟く。

「あの夏は、色々なことがあったから……子供心にショックが大きかったのかも」

「色々? どういうことだ?」

 大賀が素早く反応して尋ねてくる。この様子では、喋るまで諦めてはくれないだろう。

 私は少しためらい、口を開いた。

「木下ひよりちゃんが――友達が行方不明になった数日後、実は私たちのクラスメイトがもう一人、いなくなったんです」

「なんだと?」

 大賀が眉をひそめた。

「月沢村で行方不明になった子供がもう一人いたなんて話、聞いたことないぞ」と早口に云う。

「ええ、その子は、いなくなったその日のうちに見つかりました。夜中に、山の中の川べりで溺死しているのが発見されたんです」

「事故死ってことか」

 はい、と苦い思いで答える。

「クラスメイトが突然亡くなっただけでも大変なショックなのに、遺体が発見された状況が不自然だったせいもあって、あのときは村全体が大騒ぎでした。異様な雰囲気で、すごく怖かったのを覚えてます」

「不自然って、そりゃどういう状況だったんだ?」

 一瞬、大賀の目が鋭く光ったように見えた。私は少し考え、記憶をたぐりながら、慎重に言葉を続けた。

「水泳が得意だったんです、溺死した子。学年で一番、泳ぐのが上手かったんじゃないかな。それに……その子が川で亡くなったのは、夏祭りの日でした。月沢村では毎年、七夕の時期に『星祭り』っていうお祭りをやってたんです。たぶん一年で一番、集落が賑わう行事だったと思う。なのに賑やかなお祭りの日に、どうしてその子は人気のない夜の山なんかにいて溺れたんだろう、って不思議で」

「まあ、そう云われりゃ妙かもな」と、大賀が思案する顔になる。

「不自然だったのは、それだけじゃありません」

 喋りながら、当時の不穏な空気を漠然と思い起こす。あの空気。周りの大人たちがピリピリし、ひどく張りつめていた夏の空気。

「星祭りの日に亡くなったのは、その子ひとりじゃなかった。同時刻に同じ川の少し上流で、成人男性も亡くなっていたんです」

「溺れた子供の身内か何かか?」

 大賀のごく自然な問いに、私は小さくかぶりを振った。

「いえ、全くの他人です。東京から月沢村に移住してきた男の人で、確か……二十代くらいだったと思います」

 目を細めて記憶をたどる。まだ子供の頃、大人の年齢がうまく判別できなかったが、記憶の中の男性はそう年を取ってはいなかったはずだ。

「言葉はよくないけど、地元ではちょっとよそ者扱いっていうか――あの人は変わり者だって、周りからなんとなく敬遠されてるような印象の人でした。夜中に一人で外をうろついたり、他人の家を覗いてるのを見たっていう人なんかもいたりして。名前とかはもう、忘れちゃったんですけど。全然接点のないはずの二人がどうして同じ夜に同じ川で溺れ死んだのかって、みんな疑問に思って……住民の間で噂が広がったんです」

「噂?」

 私はそこでいったん、言葉を切った。短く息を吸い込み、再び口を開く。

「――その男性が異常性愛者で、いたずら目的で子供を殺した後、罪が露見するのを恐れて入水自殺したんじゃないかって」

「また、ずいぶん物騒な噂だな」

 大賀が大げさに目を瞠る。

「そんな噂が立つ根拠は何かあったのか?」

「溺死した子供の首に、紐で絞められたような痕が残っていたそうなんです。私は実際に見たわけじゃないですけど、発見直後に遺体を目撃したっていう大人がそう話してたらしくて。折しも行方不明のひよりちゃんを皆が必死で捜してるときだったから、もしかしたら彼がひよりちゃんのことも殺して、遺体をどこかに埋めたんじゃないかって騒ぐ人たちもいて――当時警察官だった父は色々、大変な思いをしたみたいです。結局何が起きたのかわからないまま、村はダムに沈みました」

 話し終え、なんとなくうつむく。幼い頃の話なのに、少しだけ室内の空気が薄くなったような息苦しさを覚えた。

 と、黙り込んだ大賀がふいに言葉を発した。

「――面白い」

 

(つづく)