私にはかつて、人間が分子の集合体に見えていた時期があった。小さい粒々がふわふわと漂うように集まり、よくよく見れば分子と分子の間に隙間がある。全身蜂まみれの人間から蜂を払ったら何も残らなかった、みたいに、たまたま分子たちが今は人の形を作っているだけなんだ、と思っていた。だから何も、信じられなかった。人は変わる。私も変わってしまう。

 少年アヤは変わった。見た目も行動も思考も、変わり続けた。おかまを自称していた頃と今では、粒々人間論でいうと、半分以上の粒が入れ替わったような変わりっぷりだ。

 それでも、最初の著作から読み続けている私は、今も昔もアヤちゃんが好きである。昔のほうが好きだったとか、今のほうがいいとかそういうレベルではなく、「いくらの軍艦巻き」が好き、くらいの安定感で大好きだ。もの悲しい百円の回転寿司だって心をときめかせるし、何粒かがとびっこと入れ替わっていても、「アレンジいくら」としてありがたく戴くだろう。

 あるバンドのボーカルが最高すぎて、私はもう十年以上追いかけているのだが、当時の流行だった白塗りをやめ、スプレーで立ち上げた髪はさらさらに、歌詞は「暗黒世界へようこそ」から「人を愛することって素晴らしい」に変わっていった。蜘蛛の子を散らすようにファンはいなくなったが、私は今も昔も愛している。それは彼の声が、変わらないからだ。どれだけ上手くなってもスランプに陥っても、根っこの部分は変わらず、輝かしい。

 それでいうと、私はアヤちゃんの文章が好きなのだ。文体や考え方が変わっても、声質のようなものは変えようがなく、言葉の輝きを止めることなんてできない。いつか書かなくなったとしても、書いたという事実が輝かしい。

 人間の声帯はたった一センチくらいの小さな器官だ。「文帯」も同じくらいのサイズで、指と指の間にひっそりと隠れているのかもしれない。そしてその大事な部分を守るように、粒々たちが形を整え、文章を紡ぎ出すやわらかな手を作っているのだろう。

 心に移りゆくよしなしごとを、少年アヤがそこはかとなく書きつくれば、それはまぎれもなく、世界三大随筆に並ぶ日記文学だ。同じ時代を生き、同じ言語感覚を持っているという喜びがすごい。

 これだけ変わっても好きだという事実は、人を信じることができない私に、希望の光を差す。