最初から読む

 

 貞森は、袴の裾を丁寧に仕舞いながら、ゆっくりと着座した。貞森は、養生所で見る貞森とは別人のようだった。けれど、その目だけは同じだった。病人の言葉を最後まで聞こうとする、あの頼りないほど真面目な目だった。

「自番所で藻助さんとお常さんに会ってきました」

 貞森はまるで、生きている人間に会ってきたかのように話す。泉吉は、まだ二人が生きているのではないかと錯覚する。

「奉行所の検使が見立てたとおり、藻助さんの頭の傷は、唾壺で出来たものではありませんでした。唾壺で打ったのなら、傷口はもっと広く浅くなるはずです。しかし実際の傷は、もっと細く、硬い物で打たれたものでした」

「その細くて硬い物は、下手人が持って逃げたんでしょう」

 泉吉に言葉を返さず、貞森は話し続ける。

「また、お常さんの喉の傷は、菜切り包丁によるもので間違いありませんでした。自害と見えなくもない位置にありましたが、血の跡に合点がいきませんでした」

「血の跡?」

「お常さんは、藻助さんの足もとに、うつ伏せに倒れていたと聞きました。ですが夜具に残っていた血の跡を見ると、お常さんは土間で刺され、その後、藻助さんのそばへ動かされています」

 泉吉は唇を舐めた。男病人長屋では鉄瓶の湯気で潤っていたが、診療場では酷く乾き、舐めていないとくっついてしまう。

「関口水道町の長屋にもお邪魔しました。藻助さん夫婦の部屋、泉吉さんの部屋も見させていただきました」

「ご苦労なことで」

 今度も貞森は、泉吉の言葉を聞き流した。あれほど話を聞いてくれた貞森が、今は泉吉を拒んでいる。泉吉は目の前の男が、貞森だと思えなくなっていた。

「久しぶりに、お活さんにも出会えました。お寅が奉公に出て、すっかり気落ちしていましたね」

「お活も養生所で女看病人をしていたんでしたっけ」

 返事はないとわかっているのに、泉吉はお喋りを止められなかった。

「腰は、すっかり治っていて、安心しました」

「四日前にあっしがお活を見た時は、まだ部屋で寝込んでいましたぜ。じゃあ、あれは病ではなく、怠けていただけなのか。あの婆、お寅に申し訳ないという気持ちはねえのかよ」

「藻助さん夫婦の部屋も、お活の部屋と同じでしたね。土間があり、板敷きに茶箪笥と行灯、火鉢があり、衝立があり、夜具が敷かれていました」

「裏長屋なんてみんな同じですぜ」

「藻助さん夫婦の部屋の障子の組子にも、泉吉さんの部屋の障子の組子にも、クロの爪痕はありませんでした」

 泉吉は貞森の考えがわからず、困惑した。

「飼い主でもない泉吉さんの部屋の障子を破くくらいだから、当然、飼い主の部屋の障子も破いていたのでは、と思ったのですが」

「そういうことか。いやあ、クロは賢い猫ですからねえ。飼い主の障子は破らねえ。馬鹿にして、あっしの障子だけ破る嫌な性分なんですよ」

「差配人さんにもお聞きしました。クロは鼠取りに精を出す猫で、障子紙で遊んでいるところなど、見たことがないそうです」

「いやでも、あっしが帰った時には、確かにクロが悪さしていたんですよ。それは間違いねえ」

「では、破れた障子紙はどこにやりました?」

 貞森に尋ねられ、明らかに糾弾されているにもかかわらず泉吉は、嬉しくなった。

「そりゃあ、屑屋に出しました」

「杉野様に市中の屑屋にあたってもらいましたが、事件のあった日に、猫に破られた障子紙を買い取った屑屋は、いませんでした」

 泉吉はほころんだ顔を硬くした。

「火鉢で燃やしたっけ?」

「火鉢も検分済みだ。更に言うなら、灰屋もあたっている」

 杉野が腕を組んで、静かに言う。

 泉吉は膝の上の両拳を強く握った。その中には汗が水溜まりを作っている。

「泉吉さんの部屋にあった障子は、もともと藻助さん夫婦の部屋にあったものではありませんか」

 あんなに恋しかった貞森の声が、耳に突き刺さり、その痛みで息が止まる。

「泉吉さんの部屋の障子の組子に、新しい傷がありました。何か細い物が押しつけられた跡です」

「お、おんぼろ長屋の障子ですからねえ。傷の一つや二つあるでしょう」

 なんとか声は出たが、貞森の顔が見られない。

「お常さんのかんざしを当てると、びたりと合いました」

 貞森はそこで口を噤んだ。刻の流れがやけに遅く感じ、泉吉はおのれの存在が無くなりそうな錯覚を覚えた。

「泉吉さん。藻助さんとお常さんを殺したのは、あなたですね」

 何か言わなければ、と思うのに気ばかり焦り、泉吉は言葉が出せなかった。

「あなたがあの長屋にいたのは昼九ツ(午後零時)頃から。お常さんは奉公に出ている時刻です。部屋には藻助さんしかいなかった。先に殺されたのは藻助さんでしょう。あなたは、細長く硬い物、恐らく、井戸屋の金槌で、藻助さんを殴り殺した。そして、土間の隅に潜み、お常さんが帰ってくるのを待った。お常さんが障子を閉めたのを見計らって、部屋にあった菜切り包丁で喉を一突きした。お常さんは刺された拍子に、障子へ倒れ込んだ。その刻、簪が組子に当たり、障子紙にも穴が空いた。穴の空いた障子をそのままにしておけば、他の住人が通りかかれば、すぐに中を覗かれてしまう。だから、あなたは藻助さん夫婦の部屋の障子と、おのれの部屋の障子を入れ替えた」

「見てきたように言いますねえ」

 貞森は静かに、首を横に振る。

 見てはいないが、残っているものの声に貞森が耳を傾けたのだろう。

「ですが、唾壺が割れた音はどうなるんです? 暮六ツ半に聞こえたって言う。長屋の連中が聞いているんですぜ。その時刻、あっしは養生所にいて貞森先生と話していた。だれが、壺を割ったんですかい」

「割った下手人は、クロです」

 泉吉は笑い声を漏らした。

「面白え。クロが下手人とは」

「猫は、昼間は寝て、夕方から夜にかけて動くそうです。あなたは、藻助さんを殺した後、唾壺を茶箪笥の端に置き、その中に寝ているクロの子猫を入れた」

 泉吉は笑いを止めた。

「目が覚めれば、子猫はクロを求めて鳴き声を上げる。クロが探しに来て子猫を助けようとすれば、唾壺が落ちる。唾壺の割れた音がすれば、長屋の住人たちはその時刻に何かが起きたと思う。泉吉さんはそう考えたはずです」

「証はあるんですかい」

 あるはずがない。泉吉はおのれに祈るように言い聞かせた。

「唾壺の欠片に、少量の血がついていました」

「それは、藻助の血でしょう」

「藻助さんが、打たれた刻に壺が割れていれば、もっと多くの血がつきます。反対に、藻助さんの血が乾ききった後に割れたのなら、血はつかない。あの血は藻助さんのものではありません」

「じゃあ、誰の血だって言うんです」

「クロの子猫の血です」

 貞森の声が、わずかに曇る。

「不運なことに、子猫は割れた破片が身体に刺さって死んだようです」

 クロが産んだ中で唯一、生き残っていた茶トラの小さな子猫。泉吉の拳が震え出す。

「長屋のごみ溜めのそばで、クロが死んだ子猫を舐めていました」

「クロが、ウバイを」

 泉吉の口から、その名が勝手にこぼれ落ちた。

 貞森が何気なく言った名。黒猫ではないと言ったはずなのに、いつの間にか、泉吉の中であの子猫はウバイになっていた。手に残っていたウバイの微かなぬくもりが、風に飛ばされる砂のようにさらさらと無くなった。

「かわいそうに」

 思わず口に出していた。

「得物も見つかりました」

 泉吉は顔を上げた。

「泉吉さんが下手人なら、得物がある場所は一つしかありません。あの日は、暮六ツまでに養生所に帰ってこなければならなかった。長屋のごみ溜めにも、近くの溝にも捨てられない。かといって、遠くまで捨てに行く暇はない。ですから、長屋の井戸に捨てたのでしょう。井戸屋のあなたなら、七夕の井戸替えで回収できる」

 泉吉の膝から力が抜け、板敷きに尻がついた。板敷きは、七夕に潜るつもりの井戸の底のように冷たかった。

「これをどうぞ」

 河口が懐から、見覚えのある金槌を取り出した。柄に泉吉の名が彫られている。独り立ちした時に、清五郎から送られた金槌だ。

「僭越ではありますが、泉吉さんはもう井戸に潜れる身体ではありません。ですから、杉野様にお願いして、見つけていただきました」

「あっしが、井戸に潜れない?」

「泉吉さんの病はそうどくです」

 貞森が、力強く言った。岡場所で、河川敷で、小料理屋で、いくらでも聞いた言葉だった。けれど、おのれに向けられた瞬間、まるで異国の呪いのように響いた。

「その声が証です」

「声が?」

「瘡毒は、病が進むと鼻の奥を侵します。鼻の骨が崩れ始めると、声が籠もり、以前とは違う響きになります。声が変わったのは、そのためです」

 泉吉は、岡場所や河川敷で買った女の顔を思い出した。

「じゃあ、あっしの病は労咳で、藻助にうつされたわけじゃねえんですかい」

 貞森は深く頷いた。

「あんまりだ。瘡毒なんて、労咳より酷いじゃねえか」

 泉吉は笑おうとした。けれど、喉から出たのは濁った息だった。

「なぜ、藻助夫婦を殺した? 養生所に入れられ、大きな仕事を逃したからか?」

 杉野が問う。

 泉吉は勝手に動き出そうとする口を食いしばった。きちんと説明したかった。

「手間賃をはねられていたんですよ」

 泉吉は唾で喉を潤しながら言った。

「藻助は、昔の伝手で湯屋の井戸浚いの口利きをしてくれた。床についてからは、お常に指図して口利きしてくれました。おかしいとは思っていましたよ。湯屋にとって、井戸は何よりも大事なもんだ。それにしては、少ねえ銭だった。でも、あっしは酒や女が買える銭があれば良かったんだ。誰かがあっしの話を聞いてくれるだけの銭があれば」

 泉吉が鼻をすする間も、誰も口を挟まなかった。

「それなのにあいつらは、差配人に告げ口して、あっしを養生所にぶち込ませた。差配人以上にあいつらは、あっしを安く使い続けたかったんだ。あの日まで、あっしは、あっしの病が労咳だと思っていた。あいつらにうつされたと思っていた。銭も、寿命もあいつらに持って行かれた、そう思っていた」

 泉吉の目に大粒の涙が浮かぶ。

「貞森先生に、身体は良くしてもらったけど、また長屋に帰れば、あいつらのために、血を吐くまで働かされる。もう、ごめんだった。だからあの日、長屋に戻って、藻助に言ったんですよ。お前のせいで労咳になったんだから、詫びを言え。お前の口利きだって二度と受けねえ、って。そしたらあの野郎、なんて言ったと思いますかい」

 泉吉は、あの日の腹が絞られるような怒りを、再び感じていた。

「全部、お前がやったことだろう、って」

 診療場は静まり返っていた。泉吉の言葉を、これだけ多くの人が真剣に聞くのは、後にも先にも、今だけだろう。

「その通りなんだよなあ。あいつらの世話をしていたのも、あいつらの口利きを受け入れていたのも、全部あっしが納得してやっていたことなんだよ。だから、悔しいんだよ。恨む相手がいねえから苦しいんだよ。つらくて、つらくて、気づいたら手が動いていましてねえ。藻助が血を流して死んでいたんですよ。あの野郎、死人のくせに気持ちよさそうな顔をしている気がして、また腹が立って、こいつのためにお縄になるなんて、まっぴらごめんだ、とお常も殺すことにしたんでさあ」

「藻助とお常殺しを認めるのだな」

 泉吉は微笑みながら頷いた。

 杉野は泉吉の腕を後ろ手に縛る。縄がかかると杉野は泉吉を無理矢理立たせた。

「身から出た錆だよな」

 泉吉の呟きを貞森は聞き逃さなかった。

「何ですって?」

 立ち上がり、泉吉の前に立つ。

「いや、瘡毒になったのも、人で無しになったのも、全部あっしが悪いんだと思いまして」

「泉吉さん。あなたは何も悪くない」

「何を言ってるんですかい。安い女を買って、酒を飲んで、ぺらぺら喋ってばかりいたから、罰が当たったんですよ」

「違います」

「じゃあなんで、こんなことになったんですかい?」

「病のせいです」

 貞森の眼にうつる泉吉が揺れていた。

「いえ、私のせいです。私が市中から瘡毒を一掃していれば、泉吉さんは苦しまなかった。私の力が及ばなかったのです。申し訳ありません」

「やめてくれよ」

 泉吉は、貞森から眼をそらした。

「瘡毒なんざ、貞森先生で、どうにかできる代物じゃあねえじゃねえかい」

「それでも、私はやらねばなりません」

「そんな夢物語ばかり言っているから、診察から外されるんですよ」

「それでも、私は病を憎みます。人では無く、病を」

 貞森の顔は、今までになく紅潮していた。

 ああ、この人は本当に病を憎んでいるのだ。そして人が病に追い詰められる世を憎んでいる。泉吉とは、見ているものが違うのだ。端から、泉吉と合うはずがない。

「貞森先生とは、二度と会いたくねえや」

「私は、お会いしたいです。泉吉さんは私の病人ですから」

 猫撫で声でも、井戸屋でも、下手人でも、瘡毒持ちでもなく、病人か。

「貞森先生のことは忘れねえ」

 泉吉は泣きながら笑った。

 やはり、にゃーうという猫撫で声は出なかった。

 

(了)