「いやあ、貞森先生。外は随分、賑やかでしょう? 昨日の帰りに、あちこちの稲荷神社で幟を立てているのを見ましたぜ」

 小石川養生所の男病人長屋は、満床だった。朝の鳥のさえずりに混じり、病人たちの苦しそうな吐息や、痰の絡んだ息づかいが漂っている。

 病人たちは皆、布団の上で頭までかいまきを被っていた。掻巻が波のように上下して、その海原の中で、あぐらをかいて場違いな笑みを浮かべている病人がいた。

 病人の名は泉吉、関口水道町の住人で、井戸屋をしている。

 中年に差し掛かろうという齢だが、はだけた病衣の隙間から覗く胸の肉は、艶を帯びている。生き生きとした眼は幼さを感じさせ、目元の深い皺とは、酷くちぐはぐだった。

 泉吉は他の病人たちを気にもせずに、目の前の幽霊のような男を嬉しそうに見つめている。正面には、小石川養生所医師、貞森十内が正座を崩さず座っていた。いつものように薄汚れた鼠色の着物と袴姿だが、いつもよりも肩を落とし背中を丸め、風が吹けば飛んでいきそうだ。医学の心得など一切ない泉吉から見ても、頬がこけ顔に血の気は無く、具合が悪そうだ。二人を知らない人物が見れば、どちらが医師かわからないだろう。

「気づきませんでした」

 貞森は、おのれの失態を恥じるよう項垂れた。

「いやだよ、貞森先生。今日は如月の 初午はつうまですぜ。富くじでも買って、楽しみましょうや」

 陽気な泉吉の声も、側に近寄らなければ聞き取れないほどか細いので、かろうじて掻巻の下の病人たちを苛立たせるまでには至らなかった。

「私に、そのような資格はありません」

 貞森は更に頭を垂れる。

「ああ、もう。貞森先生いい加減に元気を出してくださいよ。下を向いてばかりじゃあ、お役目を全うできませんぜ」

 泉吉は膝に両手を当て、顔を貞森に近づける。

「泉吉さんは、優しいですね」

 貞森が項垂れたまま呟いた。褒められ慣れていない泉吉は、照れくさくなる。そして、腹に力が入る。おのれの存在が輪郭を持つ。

「貞森先生には、本当に感謝しています」

 泉吉は、井戸底をさらうように深く頭を下げた。

 秋口から咳が出るようになり、暮れには胸が苦しくなった。口を開くたびに咳が止まらず、おのれの身体が、何一つ思い通りにいかなかった。この先、ずっとこのままだったらどうしよう、と恐ろしくなった。

 しかし、年明けに、長屋の差配人に小石川養生所に入れられ、貞森の診療を受けると、症状はあっさり引いた。勿論、苦しさがなくなっても、しばらくは身体に力が入らず、亀のようにのろまな動きしかできなかったが、一月たった今では三食、全て平らげ、養生所に入る前より腹が膨らんでいる。後は、しっかり動いて肉を締めるだけだ。

 入所当初から、取り留めのない話を、嫌な顔ひとつせず聞いてくれる貞森に、泉吉は好感を持っていた。それは感じの良い医者、程度の気持ちだった。けれど、数日前に、その気持ちに変化が起きた。

 貞森が担当していた妊婦が亡くなり、貞森が責任を取らされて女病人長屋の診察から外された。外診も止められ、貞森の担当は、男病人長屋の中でも症状の軽い泉吉と、数人の病人たちだけになった。さらに、養生所の外で行っていた夜鷹の診察も止められたそうだ。

 それ以来、貞森はより長く男病人長屋で過ごすようになった。泉吉だったら、仕事が無くなれば、飲みに出かける。けして残りの仕事に時間を費やすようなことはしない。貞森は仕事以外の楽しみを知らないのだろう。初めは暇つぶしの相手にされているようで、良い気分はしなかった。けれど、気づけば、貞森が非番の日は、食事が味気なく感じるようになっている。

 貞森は黙って泉吉の話を聞いてくれる。泉吉の知る輩は、要件だけ聞き出せば、泉吉の前からすぐにいなくなった。最後まで聞いていたのは、井戸屋の兄貴分である、清五郎だけだった。けれど、清五郎にしても、泉吉の話の内容は聞いておらず、猫の鳴き声程度に聞き流しているだけだった。

 貞森のような真面目に病人に向き合う医者が、おのれのような病人しか相手にできないとは勿体ない。

「あっしは、あの岩のような肉を付けた肝煎(病院長)の考えが、全くわからねえ。この養生所に入所した時点で、病人はすでに棺桶に片足を突っ込んでいるようなもんだ。その病人が死んだからって、貞森先生が責任を取らされるなんて、そんな馬鹿な話があるかってんだ」

「その病人は、気を病んで食事が喉を通らなくなりました。そのせいで衰弱して手遅れとなったのです。気を病んだのは、私のせいです。私が病人を不安にさせ、気を病ませたのです。病のせいではありません。私のせいです」

「いやいや、不安になるのも病のせいですぜ。あっしだって具合が悪いときは、お先真っ暗なことばかり考えちまった。しかも貞森先生は、腹の子を守ろうとしたんでしょう? 医者だったら、当たり前のことをしたまでじゃ、ねえですかい」

「私以外の医者は、母子共々は助けられないと考えていました」

「それでも、子下ろしはご公儀が禁止しているんだから、貞森先生が正しいじゃねえですかい」

 貞森の頬が一瞬、緩んだのを泉吉は見逃さなかった。貞森を喜ばせられて、泉吉まで嬉しくなる。

「けれど結局、病人も腹の子も助けられなかった」

「ああ、もう! 市中を隅々まで探したって、貞森先生以上の医者は居ねえんだから、あっしが請け負いますって! それなのに貞森先生はまだ、おのれを責めるんですかい」

「心を入れ替えようと思っています。一から医学を、学び直しています」

「貞森先生、まさか、寝てねえんじゃ?」

 貞森の目の下に鮮やかに浮かぶ、真っ青なくまのもとがわかり、泉吉の背筋が凍る。

「私には寸暇も無駄にはできません」

「飯も満足に食ってないんじゃ?」

「忘れることもありますが」

「嫌だよ、医者の不養生とは、貞森先生のことじゃねえか」

「私は、医者なのでしょうか」

「貞森先生が医者じゃ無かったら、誰が医者だって言うんですかい。あっしは、貞森先生しか医者じゃねえとすら思っていますぜ」

「私には、病人を助ける腕がありません」

「しっかり助けていますって。あっしを見てくださいよ。貞森先生のおかげでここまで持ち直したんですぜ」

「けれどまだ、声が弱い」

「これは、元々ですよ」

「生まれつきですか?」

「いや、先の春くらいからですかね。持って生まれた声は、もっと甲高くて張りがあるんですよ。ちょうど猫を撫でると、もっと撫でてくれと迫るような、にゃーうという、あの声みてえな。だから、仲間うちでは猫撫で声の泉吉って言われていたんですよ」

「その籠もった声とはかなり違いますね。心当たりはあるのですか?」

「さあ、安酒ばかり飲んでいるからじゃねえですか。でも、あっしはこの声を気に入っているんですよ。女を口説くにしても猫撫で声じゃあ、どうもしまらねえ。この声になってから渋さが増した、と評判は上々で」

 泉吉は、言い寄った女たちの顔を思い浮かべた。以前は泉吉のおしゃべりに、耳を塞ぐ女もいたが、籠もった声で囁くと、艶っぽいとうっとりする女もいた。

「昨日も、女に会いに?」

 貞森が悲しそうな顔をするので、泉吉は慌てて手を振った。貞森が、療養中は平癒に差し障りがあるので女と情を交わさないように、と他の病人に注意しているのを聞いたことがあったからだ。

「違いますよ。昨日は、長屋で障子紙を張り替えただけで終わっちまいましたよ。いやあ長屋に帰ったら、障子紙がびりびりに破かれていたんです。下手人はクロですよ。あ、クロっていうのは黒猫でね。あっしの飼い猫じゃあねえですよ。同じ長屋の夫婦が飼っている猫なんです。なぜかあっしに懐いて、よくあっしの部屋に来るんですよ。なんてったって、あっしは猫撫で声の泉吉ですからねえ。いや、猫に好かれたって嬉しかねえ。クロの野郎、あっしの部屋の障子紙に爪を立てたくせに、あっしの布団の上で、親子で丸くなって寝ていたんですよ。怒鳴りつけても、片眼を開けて、すぐにまた眠りやがった。ふざけた野郎ですよ。追い出したって、すぐに戻ってくるんだから、もう、根比べにゃ負けてます」

 泉吉は貞森に纏わり付く沈んだ空気を払うように陽気に言った。

「親子とは?」

「ああ、クロには子猫がいるんです。五匹くらい産んだけど、みんなすぐに死んじまって、今じゃあ一匹しか残ってないんですがねえ。そうだ、貞森先生、良い名前をつけてください。まだ、飼い主も名前を付けていねえんですよ」

 貞森は暫く悩んでから言った。

「そうですね。烏梅、とか?」

「え? うばい? 何ですかそりゃ?」

「生薬の名前です。梅を燻製にしたもので下痢に効きます。見た目は真っ黒で、黒猫には合うと思うのですが」

 泉吉は、あちゃあ、と額を叩いて頭を下げた。

「先生すみません。言ってなかったですが、子猫は黒猫じゃあねえんですよ。茶トラなんです」

「黒猫の子なのに茶トラなのですか?」

 貞森が珍しく大声を出し、すぐに口を押さえた。

「そりゃあ黒猫でも、黒猫以外の猫とじゃれあえば、茶トラもキジトラも産みますよ」

 貞森は呆然とした顔をする。

「ああ、貞森先生みたいな立派な医者は、子猫の模様の出方なんて知らなくったって良いんですよ」

「私は、おのれが考えている以上に、浮世の道理を知らないようです」

 肩を落とした貞森に、泉吉は慌てて、話題を変える。

「そういえば、ここでお寅が働いていたんですよね?」

「お寅をご存じなのですか?」

 貞森が眉に力を入れた。

「変な勘ぐりをしているわけじゃあねえですよ。あっしはお寅と同じ長屋だったんですよ。鶴次も一緒です」

 貞森は額の力を抜いて、そうでしたか、と微笑んだ。

「鶴次の父親はあっしの兄貴分なんですよ。清五郎って言うんですけどね。まさか、お寅が鶴次を海苔屋の息子殺しの下手人に仕立て上げるなんて。母親思いの見上げた子供だと思っていましたが、とんだ悪餓鬼だった。養生所を辞めさせられて日本橋に奉公に出たそうですが、ろくな人間にはなりませんぜ」

 言葉を発するたびに貞森が泣きそうな表情をするので、泉吉は焦った。

「兄貴一家は、あの事件以来、差配人につらく当たられて、そりゃあ可哀想だったんですよ。でも兄貴は鶴次を見捨てなかった。始めは勘当だ、出ていけって息巻いて、人別帳から鶴次を外すように差配人に掛け合いに行きましたけどね。あっしは、濡れ衣を着せられた上、親にまで勘当されたら可哀想だって言ってやったんですよ。いや、貞森先生だから言うけど、鶴次はよく方々の往来で小銭をってきてね。その小銭で兄貴もずいぶん助けられたんですよ。だから毒を食らわば皿までじゃねえかって。それで兄貴も目が覚めて、一から出直して真っ当に暮らそうって目黒に移りました。まあ、あっしらの仕事は景気が悪いから、生活は苦しいでしょうが、いずれ娘たちが大きくなれば、南国の飯盛女にでもなって稼いでくれますよ」

「南国?」

「いやいや。貞森先生、寝言は夜だけにしてくださいよ。南国といやあ、品川宿のことでしょうが。吉原が北国、品川が南国ですよ。本当に江戸生まれですかい?」

「私は六つの歳から様々な藩医について修行していました。各々の国許を回って、江戸にはあまりいなかったものですから」

 貞森の出向いた国は数多く、泉吉には想像もつかない国ばかりだった。

「へえ、加賀にも仙台にもいたんですかい? え? 三宅に薬草採集にも行ったって? 本当ですかい? 実は先生、島抜けした罪人だったりして。いや、すみません。とんだ軽口を叩きました」

 泉吉は深々と頭を下げ、軽口を詫びた。けれど口は止まらなかった。貞森との会話が弾むと心が浮き立ってくる。

「まあ話を戻すと、兄貴が目黒に移って、多少は俺に回ってくる仕事が増えたんですよ。いくら景気が悪いとは言え、井戸屋は多くいませんからね。最近はかなり忙しかったんですよ。それが仇になったかなあ」

 泉吉の胸に、忘れていた悔しさが、じわりとこみあがった。

「養生所に入れられて、大きな仕事を逃しちまったんですよ。日本橋の料亭から、古井戸をさらってくれって話が来ていたんです。そこら辺の、ちっぽけな小料理屋じゃなくて、お武家様も通うような料亭です。そういう料亭の井戸の修繕は、半月はかかります。しばらくは懐が温かくなるはずだったのに、長屋の差配人が養生所に入る段取りをつけやがって」

 泉吉は顔中にいぼのある、初老の男を思い出した。口調は穏やかだが、眼は店賃を取りっぱぐれないように、いつも光らせている。あの眼が泉吉は嫌いだった。

「泉吉さんの差配人さんは、大層、心配されていましたよ。私に、息子も同然だと眼を潤ませていました」

「は、そりゃあ大嘘だ。あの差配人は、あっしのことなんか金づるとしか思っていませんよ」

 泉吉は憎々しげに言ったが、ふと別の考えが浮かび、すぐに差配人への怒りは霧散した。

「ところで、貞森先生。あっしはろうがいじゃあねえんですよね? いや、ふと思い出して。差配人がここにあっしを連れてくるときに、しきりと口を塞げ、咳をするな、と言ってきたんですよ」

 ただでさえ苦しいのに、横で口うるさく怒鳴られて、こいつは鬼だ、と泉吉は思ったのだ。

「医学の心得がない差配人が、そんな注文を付けるなんて、何か心当たりがあったのに違いねえ。するってえと、長屋の住人のだれかが労咳で、あっしと同じような症状なんじゃねえかと思ったんですよ」

「けれど、差配人さんは泉吉さん以外の診察は依頼されませんでしたが」

「差配人が心配しているのは、長屋の井戸替えだけなんですよ。あっしに、いつもやらせていますからね。店子だと思って足元見やがって、いつも相場の半分も出しやしねえ。今年もまた、あっしに井戸替えをやらせるつもりで、七夕までに病を治させようと、養生所へ入れたんですよ。そうでなきゃ、店子の病など気に掛けるわけがねえんです」

「泉吉さんは、他の店子が労咳だと考えているんですね。心当たりはあるのですか」

「ええ。クロの飼い主が、長く床に伏せっているんですよ。あっしの斜め向かいに住んでいる夫婦の旦那のほうが。ほら、この前、先生に教えてもらったじゃねえですかい。黒猫を飼うと労咳が治るって言い伝えがあるって。ふと、藻助って言うんですがね。藻助が労咳なんじゃねえかと思ったんです。かかあのお常が、藻助が床から上がれなくなって暫くしたら、クロを拾ってきたんですよ。猫なんて飼う余裕もねえのに」

 貞森は、ゆっくりと首を振った。

「泉吉さんは、流行り風邪です」

「貞森先生、はっきり言ってくださいよ。覚悟はできていますから」

 泉吉も口を引き結び、貞森を直視した。しかし、貞森は首を振るだけだった。

「本当に労咳じゃねえんですかい? 本当にただの流行り風邪? それじゃあ、なんでまだ、養生所から出してもらえねえんですかい?」

「ここにいらした頃は、流行り風邪の気が強かった。されど、病は一つとは限りません。ほかの病が潜んでいないか、念を入れて診たいのです」

「こんなに達者なのに?」

 泉吉の胸に一瞬、貞森への懐疑が浮かぶ。すぐに、泉吉は頭を振ってかき消した。貞森先生が言うんだ。しっかり診てもらった方が良い。

 廊下から、貞森を呼ぶ声がした。

 

(つづく)