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「調子はどうですか」

 次の日の朝、男病人長屋に河口がやってきた。昨日とは違い、泉吉に優しい眼差しを向けている。泉吉の容態がおのれの値打ちに関わるからだ。抜け目のない医者見習いだ。

「すこぶる良いですよ。早く退所させてくださいよ」

 貞森がいなければ、養生所にもう用はない。

 河口は笑顔を浮かべたまま、泉吉の脈を取る。

「問題ないようですね。けれど、貞森先生が退所させなかったのには訳があるはずです。もう少しこちらで養生してください」

「勘弁してくださいよ」

 泉吉は、気が荒んできた。こんなところで、のんびり養生している場合ではないのだ。寝ている間にも、稼ぎは、どんどん逃げていく。

「ほら、こんなに達者ですよ」

 泉吉は立ち上がり、胸を張った。

「しかし、声にまだ張りもありませんし」

「河口先生までそんなこと言うんですかい。あっしは元から、こんな声しか出ませんぜ」

「いやいや、泉吉さんは猫撫で声の泉吉と言われていたと聞いています。猫の声はもっと、高く響くような声のはずです」

「やいやい! 医者見習いの分際で難癖を付けやがって。病人がもう良いと言っているんだから、さっさと退所させやがれ!」

 泉吉が凄むと、河口はむっとして黙り込んだ。しかし、すぐに微笑んだ。

「見習い医者で大変申し訳ありません。しかし、もうすこしだけお付き合いください」

 深々と頭を下げる。

 泉吉は、河口が気味悪くなった。貞森を真似ているつもりなのかも知れないが、軽んじている相手に、よく丁重な礼ができるものだ。

「あんたと話すことは何もねえ」

 泉吉が背を向けて口を噤むと、河口は息を漏らして退室した。

 泉吉は、障子に背を向けたまま、足音が遠ざかるまで動かなかった。

 部屋の中は、しいんと静まりかえっている。聞こえるのは病人たちの荒い息だけだ。皆、熱に浮かされ、痛みに耐えている。

 ふと、布団の上で喉を鳴らす、痩せこけた男が脳裏をよぎった。

 藻助も泉吉と同じように、よく喋る男だった。けれど、泉吉のように止めどなく喋るのではなく、話の筋をびしっと通し、悪く言えば相手を屈服させる喋り方だった。

 まだ動けた頃は、お常が働きに出ている間に井戸端で洗濯や家事をしていた。かと言って、お常に尻に敷かれているわけでもない。いつかお常が言っていた。お常の立ち回りは、すべて藻助の助言によるものだと。

 鶴次に、金はあるやつからくすねれば良い、と掏摸の手口を教えたのも藻助だった。だから、清五郎は藻助を嫌っていた。藻助の部屋へ、鶴次に悪さを教えるな、と直談判しに行ったこともあった。その時は、清五郎を止めようとして止められず、泉吉も引きずられて藻助の部屋へ行った。迎えた藻助は、ばれない手口を教えたのだから問題無かろう、と平然と言ってのけた。清五郎はすっかり出鼻をくじかれ、すごすごと退散した。そんな清五郎を藻助は不思議そうに見ていた。

 清五郎一家が長屋を去った、と伝えた時も藻助の胸の内には波風一つも立たないようだった。泉吉は、藻助にも多少の咎があるだろう、と責めた。しかし藻助は、ぽかんとした表情を浮かべるだけだった。しかも、清五郎がいなくなれば泉吉に仕事が回ってくるのだから嬉しくないのか? と尋ねてきた。泉吉は、おのれに舞い込む恩恵に気付き、その嬉しさで藻助への怒りは萎んでしまった。

 藻助には善悪の判断がない。いや、善悪のような酷く曖昧なことに興味がないと言っていい。目の前にある事柄だけが全てで、不確かな事柄は全く考えない。

 そうか、貞森は少し藻助に似ているのだ。

 その考えに驚愕して、泉吉は眼を覚ました。どうやら、居眠りしていたようだ。

 男病人長屋は何も変わっていなかった。

 泉吉は障子に近づき耳を当てた。気配がないのを確認すると、両手でそうっと障子を引く。廊下には誰もいなかった。

 このまま、抜け出せないだろうか。

 泉吉はゆっくりと足を動かし、廊下へ出た。乾いた寒風に当たり、寒さでおのれを抱く。空を見上げると、どんよりと曇っていた。ありがたい。昨日は、雲一つない晴天で、久しぶりのお天道様に目が眩んでしばらく動けなかった。

 養生所では、玄関と診療場、男病人長屋の行き来しかしていない。養生所の中は不案内だ。玄関からの出入りは、宇田川の言う通り、難しいのかも知れないが、もしかしたら、外に出られる場所があるかも知れない。

 泉吉は診療場へ続く渡り廊下を通り過ぎ、養生所の奥へ進んだ。

 奥まで進むと煮炊きの匂いがした。ここは台所だろう。そっと中を覗くと、痩せた泉吉よりも少し若そうな下男が、湯気が立ちこめる鍋をかき回していた。

 不慣れそうな手で棚の上の壺へ手を伸ばす。壺は思いのほか軽かったようで、指が軽く当たっただけで、棚から落ち土間の上で、パリンと小気味良い音を出して砕け散った。足元に塩が散らばり、男は呆然と立ちすくんでいる。

「何かあったか?」

 庭のほうから、河口が顔を出した。

「すみません、塩壺を落としてしまって」

 男は慌てて塩をかき集めようとするが、痛っ、と声を上げて伸ばした手を引っ込めた。

「見せなさい」

 一丁前の声を出して、河口が男の指を見る。

「たいしたことはないな」

「へえ」

「今日の昼餉は芋煮か。お寅がいなくなってから、火加減をみるものがいなくて困るな」

「すみません」

「いや、おまえを責めている訳ではないのだ」

 河口は慌てて、付け加えた。

 芋煮に未練はあったが、泉吉は息を潜めて台所の戸口を通り過ぎた。とにかく、早く出て長屋に戻らなくては。

 台所の裏手に回ると、小さな庭に出た。庭の隅には井戸があった。苔の這った井戸側は古いが、箍に乱れはない。つるは竿釣瓶で、井戸脇の竿は立派な竹が使われていた。

 井戸屋の性で、井戸を見ると中を覗かずにはいられない。井戸側に手をかけ、暗い底を見下ろす。水面は遠く、黒く沈んでいた。あの深さなら、何かを落としたところで、素人にはまず拾えまい。

「何をしている」

 太い声がして、泉吉は肩を跳ねさせた。振り返ると、宇田川が仁王立ちしていた。普段は、物静かなしゃべり方だが、今は鬼のような声をあげる。

「へえ、ちょっと身体が、なまっちまって」

「勝手なことをするな! 許可なく、病人長屋を出ることは許さん」

「へえ、申し訳ござんせん」

 泉吉は舌打ちをしながら、男病人長屋へ向かう。背中に宇田川の鋭い視線を感じる。やはり、抜け出すのは無理なのか。泉吉は唇を噛みしめた。

 

 貞森が帰ってきたのは、三日後のことだった。

 朝から柔らかい光が障子紙から注いでいたが、隙間から入る冷気はまだ鋭かった。起き上がると、顔が少し温かくなり、代わりに頭がぼうっとした。

 隅に置かれた火鉢の灰の中で、ほとんど白くなった炭のわずかな真ん中が弱々しい橙色になっている。泉吉はその灰をぼんやりと眺めていた。何もする気が起きなかった。まるで、養生所に来たときのように身体が重いが、それは腹の底にドスンと重石を置かれたような重さだった。

 看病中間がやって来て、炭を熾し鉄瓶を載せていった。透明だった部屋が徐々に湯気で曇りだし、生活臭さが出てきた頃、朝の回診が始まった。

 男病人長屋に入ってきた男に、泉吉は目を丸くした。嬉しさと同時に恐怖を感じた。

「泉吉さん、お久しぶりです」

「貞森先生、何です、その格好は」

 貞森は月代と顎にしっかりと剃刀を当てていた。柿色の着物にも皺はなく、茶色の袴も腰に緩みなく結ばれている。

「これでも、ご公儀に仕える身ですから、養生所で医者働きをしていなければ、このような格好をしなければならないのです」

 貞森は悲しそうな顔をする。

「まるで、その格好が厄介だとでも言いたげですね。あっしのような長屋住まいの者からしたら、羨ましいですぜ」

 泉吉は困惑する貞森を見て、逆らいたい気持ちになった。

「がっかりですぜ、貞森先生。病人より病人みてえな顔で、病人の側にいてくれるから、すっかり信じちまいましたがね。結局、貞森先生も河口先生と同じだ。いや、正直な分、河口先生のほうが、まだましかもしれねえ」

「どういう意味でしょうか」

「おのれの身分を持て余してない分だけ、潔いってことですよ。たとえ、貞森先生を真似て病人の話を聞こうとして、けれど、その内容なんてどうでも良くて、ただ病人の話を聞いているおのれに満足しているだけだとしても、河口先生のほうがましってもんさ」

「酷い言われようですね」

 貞森の後ろから、むっとした河口が現われて、泉吉は後に引けなくなった。

「なんだい、金魚の糞の分際で」

「なんだと」

 貞森は、顔を赤くした河口と泉吉の間に入ると、泉吉に微笑んだ。

「診療場へ、いらしてください」

 河口の後ろには杉野と宇田川が仁王立ちしている。仮に、貞森を突き飛ばして逃げたとしても、すぐに捕まるだろう。

 暗い気持ちで診療場に入ると、杉野と宇田川は襖を閉め、その前に立った。逃げ道を塞ぐような立ち方だった。

「一体全体、なんですかい」

 泉吉は、わざとらしいほど明るい声を出したつもりだったが、耳に届いたのは、震えたか細い声だった。

「泉吉さんにお伝えしたいことがあります」

 

(つづく)