「宇田川様がお呼びです」
障子を勢いよく開けて入ってきたのは、河口という医者見習いだった。綺麗に剃られた月代と、乱れのない着物が浮世離れしている。
小石川養生所はご公儀の物だから、当然、士分の医者も多い。河口もかなり身分の高い士分のようだが、まだ医者としては半人前。齢も二十歳を過ぎたばかりの若造だ。その深みのない表情を、苦労を重ねている病人たちは冷ややかに見ている。
貞森は頷くと、泉吉にお伺いを立てた。
「お呼びとありゃ仕方ねえ。さあさあ、気兼ねせずに行ってくだせえ」
貞森は泉吉に一礼すると、覚束ない足取りで廊下に出た。どの病人よりも、弱々しい貞森が泉吉は可哀想になる。
「宇田川様って、与力の爺さんだろう? 他の藪医者どもなら、賄賂だ薬種の誤魔化しだ、やっているだろうが、貞森先生に限ってそりゃあねえし、何の用向きかねえ」
話しかけてやったというのに、河口はわずかに眉間を寄せた。普段は、病人のご機嫌を伺うように振る舞っているが、これが本性だ。本当なら、野良猫を追い払うように、しっ、と喉を鳴らしたい所だろうに、言葉を飲んで戸を閉めた。
泉吉は面白くなくて布団の上に倒れ込んだ。貞森が泉吉の話に腹を据えて付き合ってくれるから、おのれが一端の人間のような気がするが、本来は医者見習いにも見下されるような人間なのだ。
幼い頃、泉吉はよく女の子に間違えられた。愛くるしい瞳をした可愛い子供だと評判だった。何を言っても「可愛い」と笑ってくれた女たちは、泉吉が大人になるにつれ、一人、また一人といなくなった。代わりに浴びせられるようになったのは「喋る暇があるなら、もっと稼いでこい」という言葉だった。
人の値打ちは結局、持っている金の多さで決まる。泉吉はそう思い知った。だとしたら、おのれが丁重に扱われる日など、来るはずがなかった。
泉吉は早くに両親を亡くし、棒手振りをして日々の暮らしを立てていた。稼いだわずかな金で通っていた居酒屋で清五郎と出会い、人手が足りなかったのか、誘われるまま井戸屋になった。
井戸屋は、井戸の底へ降りて汚れを浚う。修業中は、清五郎が井戸底に降りて、井戸綱を繋いだ桶に溜まった汚れを入れ、それを引き上げるのが泉吉の仕事だった。それはなかなかの重労働で、気づけば泉吉の身体には肉がつき、着物をはだけて歩けば、艶めかしい視線を浴びるようになった。
けれど女は、やはり付き合い出すとすぐに五月蠅い、と泉吉を邪険にし、清五郎によく笑われた。
清五郎は、泉吉と違い口数は少ないが、すこぶる腕の良い井戸屋だった。清五郎の手にかかれば、井戸側(井戸のまわりの土が崩れないように囲った板)の箍は決して緩まず、井戸に泥水が溜まることも少なく、数年は井戸屋を呼ばなくても良かった。清五郎もおのれの腕に間違いが無いことをわかっており、その腕に見合った金を求めた。
けれど浮世は目先の安さだけを喜び、清五郎は腕を腐らせるばかりだった。いつしか、清五郎は浮世に背を向けるように酒に溺れていった。清五郎を見ると、泉吉は修業するのが馬鹿馬鹿しくなった。腕を磨かなくても、ある程度、仕事ができれば、日銭は稼げる。このまま死ぬまで、井戸に潜って日銭を稼ぎ、酒を飲む日が続くのだ。そう観念して日々を送っていたが、清五郎の客が転がり込んできて、思いもしなかった金がちらつくようになった。どこぞの町娘とでも所帯が持てるかもと淡い期待に胸を膨らませた矢先に、病を得て養生所に入る羽目になった。
「井戸屋、貞森先生がお呼びだ」
今度は、看病中間が現われて、泉吉に顎をしゃくった。
貞森がいなくなって、まだ半刻も経っていない。
どういうことだ?
看病中間に急かされながら、泉吉は診療場へ連れて行かれた。
診療場の板敷きの上には、羽織に黄八丈の着流し姿の優男が座っていた。その両脇に、貞森と河口が座っている。
「ここに座れ」
戸口に立っていた宇田川に優男の前に座らされる。
「泉吉さん、こちらは南町奉行所の定廻り同心の杉野様です」
貞森が微笑みながら、優男に掌を向けた。
「あ、あの蔵前小町と祝言をあげる」
泉吉の声に、優男が眼を光らせて睨みをきかせる。
「お前が、関口水道町の裏長屋に住んでいる泉吉か」
「へえ。左様でございますが」
泉吉は膝の拳に力を込めて背筋を伸ばした。
「藻助とお常が死んだ」
唐突な言葉に、泉吉の理解は追いつかなかった。
「ご、ご冗談を。昨日、会ったときはピンピンしていましたよ。いや、ピンピンはおかしいか」
「藻助は、ずっと寝込んでいたらしいな」
「へえ、長屋に来た頃から徐々に弱って、昨年あたりからは、寝込んでいましたねえ。あっしも、ちっとばかし、野菜や米を、分けてやっていましたけど。本当に死んだんで? しかも、お常も? お常は日銭を稼ぐために甲斐甲斐しく働いていたはずですが、どこか、悪かったんですかい」
「病死ではない。殺されたのだ」
「そんな馬鹿な!」
泉吉は思わず、片膝を立てた。
「今朝、長屋の住人が藻助の家を覗いた。昨晩、何かが割れる音がして、気になっていたが、井戸端に出てこないので、訪ねたそうだ。障子を開けると、布団の上に藻助とお常が倒れていて、大騒ぎとなった」
泉吉は長屋のお末の顔を浮かべた。お節介な性分で、長屋で何かあるとすぐに出張ってくる。おそらく藻助の家を覗いた住人とは、お末のことだろう。
「差配人が自番所に届け、俺が呼ばれた。部屋に入ると、藻助は頭を割られて絶命していた。頭の上には壺の欠片が散っていた」
杉野は両手で壺の大きさを示す。見たところ、藻助の家にあった唾壺のようだ。藻助の枕元にいつも置かれていた素焼きの簡素な壺を思い出す。藻助の頭ほどの大きさで、厚みもあった。あれで頭を打たれれば、ひとたまりも無いだろう。
「お常は藻助の足元で腰から下を土間に投げ出して、うつ伏せに倒れていた。首に菜切り包丁が刺さっていて、口の周りは血塗れになっていた。おそらく、刺された時に、血を吐いたのだろう」
「心中じゃあ、ねえんですかい」
「なぜそう思う?」
杉野に睨み付けられて、泉吉は震え上がった。
「いや、だって、今の話を聞いたら、普通はお常が藻助の頭を割って、自害したのかと思うじゃないですか」
杉野はため息をつく。
「そうだったら、俺も楽だったのによ。検使によると藻助の頭の傷が、唾壺で割られたにしては、おかしいらしいのよ」
泉吉は息を呑んだ。
「かといって、唾壺以外にめぼしい得物はない。それで、得物を持ち帰った下手人がいるんじゃねえか、となった訳よ」
「お常がどこかに捨てたんじゃあ、ねえんですかい」
「もちろん、その筋も考えている。手下に長屋の周りを探させている。それで見つかれば、御の字だがなあ」
杉野は首を掻いて、一息ついた。
「ところで泉吉。おめえは、お常に色目を使っていたらしいな」
杉野が泉吉の腹の底を探るような目つきになり、泉吉の背中に汗が滴った。
「お末に聞いたんですかい」
杉野は何も答えなかった。けれど、その表情を見るかぎり、泉吉の問いを否定しているわけではなさそうだった。
「あの婆、ぺらぺらと人のことを喋りやがって。今度会ったらただじゃおかねえ。この間も」
「答えろ、泉吉」
さすが同心。泉吉のおしゃべりでは話題を逸らせなかった。
「お役人様には隠し事ができねえや。お役人様だって、見たんでしょう? お常はそりゃあ、いい女だったんですよ。なんでも、下総の田舎から藻助と二人で出てきて、日本橋の乾物問屋で奉公していたらしいんでさあ。でも、そこの馬鹿息子にお常が懸想されて、二人で奉公先を飛び出して、藻助は湯屋の下働きで生計を立てていたんですよ。大人しく馬鹿息子に付き合っていれば今頃、暖簾分けで小さな店を構えて、薬代くらいは工面できたかも知れないのにって、よくお常が嘆いていましたよ。まあ多少、言い寄ったことはありましたよ。だけど、お常だって、その気はあったはずですぜ。あの色っぽい眼ときたら。お役人様だってわかるでしょう。なんせ蔵前小町を射止めた御方なんだから」
「今はおめえの話だ」
ぎろりと睨まれ、泉吉は首をすくめた。
「まあ、それは冗談で、あっしがお常とよく居たのは、仕事をもらうためですよ。藻助の伝手で、あちこちの湯屋で使ってもらっていたんです。謂わば、お常はあっしの口入れ屋のようなもんなんです」
杉野は、鼻を鳴らすと目を伏せた。泉吉の話は一応の理屈は通っている。
「昨日、長屋にいたそうだな。おまえが障子の張り替えをしているところを、差配人はじめ、長屋の人間たちが見かけている」
「へえ。昨日はひさしぶりに外出許可がいただけて、長屋に帰っていました。今日なら初午参りをして、富くじでも買いたかったですがねえ。貞森先生にも言いましたけど、部屋に帰ったら、障子紙がクロに引っ掻かれていましてね。こう見えてあっしはきれい好きだから、埃の溜まった部屋の掃除でもしたかったのに、障子紙の張り替えで時が過ぎちまった。夕七ツ(午後四時)の鐘が鳴って一刻したら、養生所に帰りましたよ。暮六ツ(午後六時)までに帰る約束でしたからねえ」
杉野が宇田川を見ると、宇田川は無言で頷いた。泉吉の言い分は、養生所の記録としっかり合うはずだ。
「こっそり抜け出すなんてことは、できねえんですかい」
杉野が顔をあげ、戸口に立ったままの宇田川に尋ねる。
「中間たちに気づかれずに外にでるのは難しい」
宇田川が躊躇なく言う。
「あの、養生所の出入りを気にされるということは、藻助さんとお常さんは、夜に殺されたとお考えなのでしょうか。そうであれば、昨晩は私もこちらへ泊まり、泉吉さんと夕餉の後から床に入るまでお話ししていました」
黙っていた貞森が、杉野に声をかける。
「夜五ツ(午後八時)の鐘が鳴る一刻前に、壺が割れるような音がした、と長屋の住人たちは口をそろえて言っています。これは間違いねえようだ。だから、唾壺が藻助の頭に落とされたのは、夜六ツ半(午後七時)頃って訳ですよ」
「あの、あっしが疑われているんでしょうか」
「そうじゃねえが、おめえ以外の長屋の住人たちは、その時刻には皆、家族と部屋にいた。だから、おめえにも話を聞きに来たんだ。まあ、おめえも貞森先生と一緒にいたのなら間違いねえ。養生中に悪かったな」
杉野は、泉吉に手を払った。出て行け、ということだ。当たり前の仕草も、貞森に慣れてしまった今は気分が悪い。唇を引き結んで、泉吉はゆっくりと立ち上がった。
杉野の眼には、もう泉吉は入っていない。
「貞森先生、詳しい検視をお願いしたいんですが」
「そのようなこと、私はできません。私は、医者としてまだまだ勉強が足りません」
貞森は沈んだ声を出す。
「お滝のことは、俺も聞いていますよ。だが、あれは先生一人の咎じゃねえ。藻助とお常の無念を晴らすためには、貞森先生の力が必要なんです」
「しかし」
目の前の障子が開き、泉吉は飛び上がりそうになった。入ってきたのは、小石川養生所肝煎(病院長)の小出宝生だった。板敷きを踏みならし、貞森の前に立つ。
「貞森、行ってこい。これは私の命だ」
「私はもう、養生所には必要ないのですか」
貞森は泣き出しそうな顔で小出を見る。
「違う。今もお前には期待している。ただ、今、お前に必要なのは、医書の知識ではない。養生所を出て、様々な人と出会い、浮世を見て来い。それが、蘭漢折衷医としての修行にもなる」
「浮世を知っても、お滝は助けられませんでした」
「お滝は、子を諦めれば助かる見込みはあった。お滝もそれを望んでいた。それなのに、お前はそれを許さなかった。それは、お滝を一人の人ではなく、ただ動いている身体としか見ていなかったからだ」
「人とは、動く身体ではないのですか?」
「まったく違う。人の本質は心にある。心がなければ、身体は動かない」
「お言葉ですが、心など、どの医書にも書いてはありません」
小出は、大きく息を吐いた。出来の悪い息子に呆れている父親のようだ。
「そういうところだ、貞森。お前に足りないのは、病を介せずに人と触れ合うことだ。そうすれば、病人の暮らしもわかる。市中へ出て、多くの人の暮らしを見てこい」
「承知しました」
貞森は、珍しく不服そうな顔をして、消え入りそうな声で言った。
「この事件が片付くまでは、養生所に戻ることは、まかり通らん」
ええ、と思わず泉吉は声を上げた。小出は泉吉を一瞥すると、
「それまでは、貞森の病人は、河口が診るように」
寝耳に水だったようで、今度は河口が口を開く。何かを言いたそうだが、言葉は発せず、口を閉じた。
小出が勢いよく立ち去ると、診療場は沈黙に包まれた。