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 朝。監察官室に朝日が差し込む窓はない。パソコンのモニターに表示された時刻は午前六時。徹夜は数か月ぶりだ。

 六時半。佐伯が出勤してきた。常に、監察官室で一番早く出勤する。

「妙な記事がネットに流れている」

 私の挨拶には応えず、佐伯が言った。

 見ろ、と佐伯が差し出したスマホを受け取る。初めて見るニュースサイトの画面だ。

 記事は刈谷殺害事件について書かれていた。

「どういうことですか、これは」

 刈谷殺害事件に関係があるとして、釜場署は元警察官から事情を聞いている。県警がその事実を発表しないのは、元警察官が犯罪に関与した事実を隠蔽しようとする意志が働いているのではないか。記事の最後は県警への疑問で締めくくられていた。

「分からん。だが、情報が流れたとすれば釜場署からだろう」

 スマホを佐伯に返した。昨夜、東堂が会っていた相手。ニュースサイトの記者ではないか。こちらを牽制するために情報を流す。なりふり構わない手段を使ってきたのか。

 東堂への疑念はさらに深まった。

 私は昨夜の話を佐伯に伝えた。

「後追いの取材はあるでしょうか」

「あると想定すべきだ。この話が独り歩きする前にけりを付けなければならん」

 佐伯に断りを入れ、猪狩に電話をかける。

「猪狩さん。朝早くからすみません」

 猪狩に記事の件を説明した。

「東堂副署長と会っていた相手は、その後どうなりましたか」

「神無駅前のビジネスホテルに泊まっています。まだチェックアウトはしていません」

 東堂は終電で釜場市の自宅に帰ったという。そちらも監視は継続中だ。

「相手が記者だとすれば、釜場署に取材に向かう可能性があります。そのまま監視をお願いします」

「分かりました。東堂副署長の出勤を確認したら、私のチームは釜場駅で待機し、二段構えで監視します」

 電話を切った。東堂と矢部。どちらに動きがあるにせよ、現場は釜場市だ。

「室長、私は釜場市に向かい、猪狩さんたちと合流します」

「分かった。俺は警務部長に報告を入れてくる」

 佐伯が監察官室を出て行った。私も身支度を整え、監察官室を出た。猪狩にメッセージを送り、釜場駅に向かうことを伝える。

 神無駅から電車に乗り、釜場駅に着いた。猪狩たちは駅前ロータリー南側の駐車場に車を停めている。駅のコンビニに寄り温かい飲み物を買った。

 駐車場で猪狩が助手席に座っている車を見つけた。運転席に座っているのは調査員の警部補だ。

「おはようございます」

 後部座席に乗り込み、コンビニの袋からお茶とコーヒーを取り出し、前に座る二人に渡した。

「東堂副署長は七時半に出勤。マル対もこちらに向かう電車に乗ったと連絡がありました」

 マル対とは監視対象者を指す言葉だ。現時点で、名前も素性も分かっていない。

「お疲れではないですか」

 猪狩は私より三歳年上だ。四十代の警部補はまだしも、猪狩にとって夜通しの監視は体力的にきついはずだ。

「交代で仮眠をとりましたが、久しぶりの現場でしたので、多少は。しかし、妙な充実感があります。やはり警察官として現場感覚を忘れてはなりませんね」

 そう言うと猪狩はお茶を口に運んだ。

 午前八時過ぎ。申橋から電話があった。

「白峯さん。矢部を緊急逮捕しました」

 申橋の声は心なしか弾んでいた。

「容疑は」

 高揚する気持ちを抑え、努めて冷静に聞いた。

「刈谷殺害容疑です。本人も認めました」

 申橋が状況を説明してくれた。

 矢部は午前六時に自宅を出た。出勤には早すぎる時間で、車に大型のキャリーケースを積んだことから逃亡を図るものと思われ、申橋たちは慎重に尾行した。矢部の車が向かった先は、会社ではなく港方面で、木崎の指示で、申橋のチームが港に先行。証拠隠滅の可能性。その読みは当たった。刈谷の遺体が発見された廃工場を通り過ぎ、港の外れで矢部は車を停めた。その時にはすでに先行した申橋たちが待機している。

 矢部は紙袋を持って車を降りた。紙袋は重みがあるように見えた。証拠の品を海に沈めるためか。岸壁まで五メートル。申橋が矢部に声をかけた。

 その瞬間、矢部が紙袋を海に向かって放り投げた。しかし、二メートルも飛ばず、地面に落ちた。

「その場で職質をかけたんですが、矢部は諦めたのか抵抗しませんでした。紙袋の中身を確認することにも素直に同意しましたしね。紙袋の中身は予想通り血痕が付着したハンマーと、重り代わりの大きめの石が入っていました」

 ハンマーのことを問い詰めると、すぐに刈谷殺害を認めたという。

「今、木崎管理官が捜査車両の中で矢部から話を聞いています。釜場署に連行することになるでしょうね」

「木崎管理官も同行していたのか」

「応援メンバーを連れて深夜に合流しました。人の手配に無理をしたようですが」

「私も釜場駅前にいる。もうすぐ釜場署に向かう予定だ」

 ちょっと待っていてください。申橋の言葉の後、保留音に切り替わった。一分ほど待たされ、保留音が止んだ。

「白峯さん、木崎管理官からの伝言です。矢部の取り調べに立ち会いませんか」

「いいのか」

「冤罪という、刑事警察にとって最大の過ちを犯さずに済んだ。その借りを返したいそうです」

「義理堅いんだな」

 では、後ほど。申橋が電話を切った。

「矢部が刈谷殺害を認めたそうです」

 猪狩たちに、状況を説明する。

「官製談合についても、矢部の証言が得られれば最後の決め手になりますね」

 猪狩が落ち着いた声で言った。事態が大きく動いた時、冷静さを失わない存在はありがたい。

「まもなくマル対が乗る電車が到着する時刻です」

 猪狩の言葉に私は気持ちを切り替えた。

「私が駅前で待機します」

 警部補が車を降りた。

 十分ほどで警部補が駆け戻ってきた。

「マル対はタクシーに乗りました。車を出します」

 行先は釜場署だろう。マル対が記者だとしても、釜場署にアポをとっているのだろうか。

 前方に信号待ちをしているタクシーが見えた。

「あのタクシーです」

 ハンドルを握る警部補が言った。いくらか緊張しているようだ。

「行先の予想はついている。慌てなくていい」

 猪狩が警部補に声をかけた。

 予想通り、タクシーが釜場署の正門に入っていった。私たちの車もそれに続き、来客用の駐車場に車を停める。

「マル対が署に入っていきましたね。白峯さん。こっちは我々に任せて、矢部の取り調べに立ち会ってください」

 猪狩の申し出に礼を言った。猪狩たちが車を降り、正面玄関に向かう背中を見送った。

 正門から車が三台入ってきた。署の裏手にある駐車場に回り込んでいく。私は車を降り、署の裏手に向かった。

 申橋と木崎の姿が見えた。二人も私に気付いたようだ。

「ご苦労様です」

 木崎に声をかけた。

「これから矢部の取り調べを行います。白峯さんも同席してください」

「よろしいのですか」

 私の問いに木崎はうなずいた。

「そちらの事案のネタも握っているようですから。お互い情報を共有することは必要でしょう」

 木崎の後ろで申橋が苦笑を浮かべている。

 釜場署裏口のドアが開き、スーツ姿の男が数人出てきた。

「木崎管理官、これはどういうことですか」

 一番年かさの男が木崎に詰め寄った。

「強行犯係の係長です」

 小声で申橋が教えてくれた。

「さっき電話で話した通りだ。刈谷殺害事件の被疑者を確保した。取調室を貸してくれ。取り調べはうちでやる」

 係長が何か言い返そうと口を開きかけたが、木崎の圧力に気圧されたのか無言で後ろに下がった。

 木崎の合図で車から四人の男が下りてきた。手錠をかけられた男が刑事たちに両脇を抱えられている。矢部だ。スポーツをしているのか冬でも肌は日焼けしている。

 裏口から署に入っていく矢部たちの後に私も続いた。

「私は刑事課長に話を付けてくる。申橋、取り調べは任せた」

 木崎は申橋に命じると、私に軽く頭を下げた。

 取調室に入る。矢部と申橋が向かい合い、記録係の席に矢部を連行してきた刑事が座った。私はパイプ椅子を部屋の隅に置き、そこに腰を下ろす。

 矢部は落ち着きなく室内を見渡した後、机の上に視線を落とした。頬の肉が時折動いているのは奥歯を噛み締めているからだろうか。

 取り調べが始まった。矢部は言葉に詰まることはあったが申橋の質問には素直に答え、刈谷を殺害したことを認めた。凶器であるハンマーを捨てようとしているところを確保されたのだ。言い逃れは無駄だと悟っているのだろう。

「私は、刈谷から脅迫されていました」

 矢部はいくらか悔しさをにじませた。反省の色は見えない。

「刑事さんたちは捜査一課の方だと言っていましたね。釜場署とは無関係なんですね」

「ええ。同じ警察であることに違いはありませんがね」

「これから話すことは釜場署にとっても都合が悪い話でしょうから。私の身の安全は保障してもらえますね」

 矢部が上目遣いで申橋を見た。小狡い笑みが口元に浮かぶ。

「警察にどんな印象を持っているかは知りませんがね。警察が被疑者に危害を加えることはありませんよ。それに、こちらの白峯警視は県警本部の監察官といって、警察内部の不正を取り締まる役目の人です。身内にも容赦のない怖い人ですからね。釜場署の件も調べています。いい加減な話は通用しませんよ」

 もう少し言い方があるだろう。そう思ったが口には出さず、申橋の言葉に乗ることにした。精々厳めしい表情を作る。

「そうですか。まあ、私としては自分だけ罪を被せられるのは割が合わないんでね」

 矢部が弱々しい声で言った。

「うちの会社は釜場署新築を入札しています。二年前は少々業績が悪かったので、入札は本社からの至上命令でした。何とか情報を得るために釜場署に働きかけました。過去に外壁工事を請け負ったりしていましたし、県警本部には伝手がありませんでしたから」

 矢部がチラチラと私に視線を向けてくる。

「もちろん、簡単に情報を漏らすような人はいませんでしたが」

 そもそも予算額を知る人間は限られている。そして、その立場にいる人間であれば外部の人間との接触には細心の注意を払う。

「手ごたえを感じたのが副署長の東堂さんでした」

 やはり東堂か。

「何度か食事をご一緒させていただいたんですが、定年後の再就職先を気にしていらしたので、上司に相談し、部長待遇のポストを用意することにしました」

 そして入札情報を得た。

 現職の警察官、それも副署長という幹部職員が関与した官製談合事案。それが二年の時を経て殺人事件の引き金となった。矢部が刈谷を殺害した動機は官製談合の件だけではない。過去に関与した労働組合の組合費横領事件も動機の一つだ。だが、矢部と刈谷が再会したのは、刈谷が官製談合という腐臭を嗅ぎ付け釜場市に引き寄せられたからだ。刈谷は昏い喜びを感じたのだろう。矢部一人に脅迫のネタが二つ。矢部が警察に相談したとしても、所詮は同じ穴の狢だ。

 申橋がこちらを振り向き、「どうします?」と目で問いかけてきた。これから矢部が刈谷を殺害した状況について詳しく取り調べるつもりだろう。そこまで私が立ち会う必要はなく、東堂の動きも気になる。

 私は申橋に向かってうなずき立ち上がった。

 取調室を出るとスマホを確認する。猪狩から「刑事課に来てください」とメッセージが届いていた。

 廊下を進み、階段に向かう。刑事課は一つ下の階だ。途中、使用中の取調室があった。

 この中で、取り調べを受けているのは増田だろうか。立ち止まった。扉を開けたい衝動を堪えた。待っていろ。歩き出した。

 刑事課の扉を開けた。ノックはしない。

 木崎と猪狩たち県警本部の人間と、釜場署刑事課の人間が相対している。東堂の姿もあった。

 私を見て反応を示したのは東堂だけだった。

「うちにも面子ってものがあります。こんな真似されて黙ってはいられませんよ」

 制服姿の男が言った。釜場署の刑事課長だ。怒りと困惑、半々といった表情だ。部下の手前、抗議せざるをえないのだろう。

「全ては私の指示だ。別動隊の動きを釜場署に秘匿していたことは謝罪する。だが、冤罪を生んでは面子どころではない」

 木崎の言葉に、刑事課長は苦い顔をした。

「白峯さん。矢部の取り調べはいかがでしたか」

 木崎に問われ、一歩前に出た。東堂が険しい表情で私を睨んでいる。

「矢部は自供しました。動機も含めてね」

 東堂の視線を正面から受け止めた。この一言で、東堂には伝わるはずだ。他の署員がいる前で、東堂を追及するつもりはない。妙な抵抗をしなければだが。

「凶器も押収済みだ。鑑識に回す。それと、増田は刈谷殺害とは無関係だ。釈放の手続きを進めてくれ」

 木崎の言葉に反論する者は、刑事たちにはいなかった。

「待て。増田は公務執行妨害の現行犯だ。釈放するわけにはいかん。元警察官だからといって甘い処分をするわけにはいかない。マスコミの目もある」

 東堂が口を挟んできた。

「マスコミというのは今、一階をうろついているニュースサイトの記者のことですか」

 猪狩が静かな口調で言った。

「先ほど少し話をしましてね。身元は確認済みです。東堂副署長。あなたは昨夜、神無駅前の居酒屋でこの記者と会っていますね。その後、この記者の記事がニュースサイトに載りました。刈谷殺害事件の被疑者が元警察官で、その事実を警察が隠蔽しようとしているという内容でしたね。あれは釜場署刑事課も公表することを了承済みですか」

「いえ、初耳ですが」

 刑事課長が絞り出すように言った。東堂と目を合わせないようにしている。

「私はそんな記者など知らん」

「写真を撮っています。もちろん隠し撮りですが、抗議は受け付けません。現職の警察官が相手ですからね。甘い調査をするわけにはいきません」

 東堂が何かを言いかけた。まだ、言い逃れの言葉を並べるつもりか。

「東堂さん。あなたも副署長の立場にあるのなら、これ以上醜態をさらさず、観念したらいかがですか。まだ、つまらない言い訳を続けるのであれば、ここにいる署員の前で非違事案の取り調べを行います。刈谷殺害事件の動機にも関わる事案ですから、むしろその方が都合がいいかもしれませんね」

 私の言葉に東堂の顔色が変わった。釜場署の刑事たちの不信感が込められた視線が東堂に集中する。

「どうしますか」

「場所を……移してもらえますか」

 東堂が肩を落とした。いいでしょう。私は承諾した。

「では、会議室に……」

 逃げるように刑事課の出口に向かおうとした東堂を私は呼び止めた。

「東堂さん。増田の処遇をどうするか、あなたの言葉で指示を出してください」

 残酷な仕打ちだとは思わなかった。けじめを付けずに、この場を去ることは許されない。

 分かりました。東堂は小声で言うと顔を上げた。

「増田の送検は見送る。釈放の手続きをしてくれ」

 これで良いですか、というように東堂が私を見た。私はうなずかなかった。

 まだ、言うべきことがあるはずだ。今、この瞬間だけ私は私情で動いている。

「私に代わり、増田……さんに、謝罪して欲しい。ご迷惑をおかけして、申し訳ないと」

 この場にいない増田に向かってなのか、刑事課の人間に対してなのか、東堂は深々と頭を下げた。

「それと、うちの刑事たちは、見込み違いがあったとはいえ、真剣に刈谷殺害事件の捜査をしていました。彼らの名誉のためにそれだけは言わせてください」

 東堂が真剣な眼差しで言った。その言葉だけは信じてもいいと思い、うなずいた。東堂の背中に向かって、刑事課長たちが頭を下げる姿から、私は目を逸らせた。

 

 釜場署二階の会議室に場所を移した。猪狩が同席し書記役を引き受けてくれた。

 東堂が入札情報を漏らした経緯は矢部の証言と一致した。私が聞きたいのはその先の話だ。なぜ、再就職先確保のために不正に手を染めたのか。経歴を見る限り、東堂は堅実な警察官人生を歩んできている。

「そこまでして再就職先の確保が重要だったのですか。ご自身で探さなくても厚生課が相談に乗ってくれたはずですが」

 仮説は立てていた。東堂の経歴。二年前の情報漏洩事案。それらを調査した結果、見えた道筋がある。

 東堂がためらいを見せた。

「神高会ですか」

 私の言葉に東堂が顔を上げた。

「そこまで調べていたんですね」

「真の原因を見つけ、それをつぶさなければ同じことを繰り返します。組織の構造や慣習に原因があるのなら、それを正さねばなりません」

「慣習ですか。確かに、昔からの慣習に縛られていたかもしれません」

 東堂が力なく首を振った。

「高校時代の上下関係を、この年まで引きずるなど馬鹿げたことだとは思います。だが、長年染みついたその関係を崩すことはできなかった。どこかで心地よさも感じていたんでしょうね」

「心地よさですか」

「職場とは違う人間関係の中で、先輩や後輩という役を演じることです。職場での立場が上がるほど、年に何回かの神高会の集まりがストレス解消になっていました。後輩の役を演じて、先輩に頭を叩かれることすら楽しかった」

 多少は理解できた。私も同期と集まった時に、似たような気分になる。

「神高会の人脈が仕事に役立つ場面もありました。部署が違っても根回しがスムーズにいきましたからね」

 東堂が懐かしむような表情を浮かべたが、すぐに真顔になった。

「白峯さんは二年前の情報漏洩事案をご存じですね」

「ええ、関係者についても調査済みです」

 二年前の情報漏洩事案に関わっていたOBの一人は、神高会のメンバーで東堂の先輩だ。そのOBの再就職先である大手保険会社は神無高校出身者の再就職を二十年以上受け入れている。だが、情報漏洩事案を境に県警との関わりは断たれた。

「その事案に関わっていた先輩は保険会社を辞めました。事実上の解雇です。正直、私もその保険会社に再就職するつもりでしたので当てが外れました。待遇が良いと聞いていたのでね」

 東堂が疲れたようにため息をついた。

「その先輩から呼び出され、神高会の再就職先を新たに見つけるよう命じられました。後輩のためにも待遇の良い再就職先を確保しろと。自分の不始末で再就職先を潰したというのにね」

「その頃、矢部からの接触があったのですね」

「はい。釜場署新築の競争入札の公募が始まった時期でした。矢部が下心を持って近づいてきたことは当然分かっていました。普段なら食事の誘いに乗ることすらありません。饗応の疑いを招きますから。ですが、その時は再就職先の確保という下心が私にもあったので……」

 餌に食いついた。そういうことか。

「神高会のような親睦会の存在を否定するつもりはありません。新人や若い人間をサポートする役目を果たしているならね。実際はどうですか。上の世代が先輩風を吹かす、自己満足の場になっていませんか」

 昭和の体育会系のノリはちょっとつらかった。武則の言葉。武則のように苦笑を浮かべながら、受け流せる若者ばかりではない。苦痛に感じながらも、断り切れず参加している者もいるのではないか。実際、武則は二期上の先輩がこき使われていたと言っていた。

「若い世代がどう感じているかなど考えたことはありませんでした。昔から続く伝統でしたから。それが慣習に縛られていたということなのでしょうね」

 私も武則の言葉で気付かされることがある。親子だから言えることもあるだろう。武則と同世代の部下なら上司に言えないこともあるはずだ。だからこそ、上の世代が自身の言動を客観的に顧みる必要がある。そうしなければ、悪しき慣習を断ち切ることはできない。いや、悪しき慣習だということに気付くことすらできない。

「私の警察官人生はあと二か月でした。最後の最後でこんなことになるとは……」

 東堂が震える声で言った。同情はしない。ただ、東堂だけを処分して終わりにはしない。東堂が断ち切れなかった慣習。それを断ち切るまでこの事案は終わらせない。

 それはまだ果たせていない増田との約束でもあった。

 

 

 冬の日差しが釜場署の白い外壁を照らしていた。今日は、寒さがいくらか和らいでいる。寒さの厳しい冬でも、今日のように一息つける日がある。

 私は釜場署の正門前に立っていた。東堂は猪狩たちが本部に連行した。

 空を見上げた。雲はない。この天気が夜まで続けば、ここ釜場市では星が見えるのだろうか。

 釜場署の正面玄関から男が出てきた。

 体形はあまり変わっていない。髪は遠目にはグレーに見えるほど白髪が多い。近づいてきた。私に気付き立ち止まった。顔。面影を探すまでもない。ただ、三十年の時が刻まれただけだ。彼の目に私はどう映っているのだろうか。

 男が歩き出した。口元に穏やかな笑みが浮かんでいる。自然と私の口元もほころんだ。

 かける言葉を探した。話したいことがあり過ぎる。

 増田が目の前に立っている。目が赤い。きっと私も同じだろう。

 同時にお互いの名を口にした。声が被り思わず笑い合った。

 増田が空を見上げた。

 つられて私も空を見上げる。

「今は見えているよ。新しい星が」

 青空がぼやけた。空に一筋の飛行機雲が流れた。

 増田は忘れていなかった。三十年前に交わした言葉を。

 私が忘れられなかったように。

 

(了)