三
翌日。寝不足のまま出勤すると、県警本部前で着信があった。スマホの画面に表示された時刻は七時四十分。登録されていない固定電話からの着信だった。
「白峯さん、一体どういうことですか」
榎本の声は尖っていた。
「増田のことですよ。ついさっき、警察に連行されたというじゃありませんか」
どういうことだ。聞きたいのは私の方だ。私は県警本部の建物を見上げた。本部三階。刑事部捜査一課はそこにある。
「落ち着いてください」
半ば自分に言い聞かせるように、榎本に語りかけた。
「落ち着いてなどいられません。昨日と話が違うではありませんか。増田は自宅前で連行されたんですよ。しかも家族の目の前で。すぐに奥さんから私に連絡がありました」
なおも苦情を言い立てる榎本をなだめ、状況を確認することを約束して電話を切った。
榎本は連行されたと言ったが、おそらくは任意同行だろう。
捜査本部が任意同行に踏み切ったのはなぜか。昨日の時点ではそこまでのネタはなかったはずだ。木崎が手札を隠していなければの話ではあるが。
スマホの画面を見つめ、束の間迷った。湧き上がる気持ちに抗うことができず、木崎に電話をかけた。
「おはようございます」
コール一回で電話に出た木崎の声は腹立たしいほど冷静だった。
「朝からすまない。確認したいことがある」
意識してゆっくり話した。
「増田の件ですか」
「そうだ。任意同行を求めたそうだな」
「さすがに耳が早いですね」
「さくら会の榎本さんから電話があった」
申橋に疑いがかからないように告げた。
「配慮してくれと頼んだはずだ。なぜ、家族の前で任意同行をかけたんだ」
捜査本部の方針に異を唱えるのは筋違いだ。それは分かっている。
「捜査中の事案ですのでお答えしかねます」
返す言葉がなかった。木崎の言い分は正しい。
「白峯さん。あなたと増田が同期だという話は聞いています。増田に肩入れしているとは言いませんが、少々冷静さを失っていませんか」
冷や水を浴びせられた気持ちだった。木崎の言うとおりだ。相手が増田でなければ、私はここまで心を乱していないだろう。
「余計なことを聞いてすまない。忘れてくれ」
「いえ。そういえば、お礼を言うのを忘れていました。昨日はありがとうございます。お陰様で、さくら会の関係者から話を聞くことができました」
そこで増田への疑念を強める証言が出たのだろうか。その疑問を飲み込み、電話を切った。
県警本部六階まで階段を上る。いくらか気持ちが落ち着いた。
昨日、私は榎本に言った。警察は常に公正でなければならないと。
公正であろうとすることは、これほど苦しいものなのか。
「その顔、話は聞いたようだな」
佐伯が私の顔を見るなり、そう言った。
「俺にも木崎から連絡があった。今朝、七時前に捜査本部が出勤のため家を出た増田に、任意同行を求め、増田もそれに応じた。身柄は今釜場署だ」
「朝早くから引っ張るだけのネタがあったということですか」
「詳細は分からん」
佐伯は立ち上がると、顎で監察官室のドアを示し、「ちょっと来い」と短く言った。
空いている会議室に入った。佐伯は長机に尻を乗せ、腕を組んだ。私は手近な椅子に腰を下ろし佐伯の言葉を待った。
手を出すな。そう釘を刺されることを覚悟した。
「殺された刈谷の話だ」
佐伯の話は予想とは異なっていた。
「俺も心当たりがあって少し探ってみた。昔の伝手を使ってな」
佐伯は公安畑が長い。昔の伝手とは公安のことか。
「全革連は知っているな」
公安の人間でなくとも警察官なら誰でも知っている。暴力革命を標榜する極左集団だ。警察学校で、過去に起こした事件を含め、その思想の危険性を叩き込まれる。
「刈谷は大学時代から全革連の活動家だ。卒業後、小さな出版社に就職した。出版社と言っても全革連の機関誌を出版するような左翼系出版社だ。二十九歳の時、傷害事件を起こして逮捕され、出版社を辞めている。表向きはな」
「表向きですか」
「起訴され、執行猶予付きの判決を受けたが、その後もジャーナリストを名乗り、古巣の出版社から仕事を引き受けている。取材と称して企業の労働組合に接触し始めたのもこの頃からだ」
「刈谷は威力業務妨害での逮捕歴もあります。労働組合への接触も企業恐喝のネタ探しだったのかもしれません」
「身内はいないが、トラブルの火種だけは多い人生だったようだ。今になって殺されるほど恨まれていたのかは分からんが」
榎本も労働組合の支部長を務めていた。捜査本部は、どこまで捜査範囲を広げているのだろうか。
「トラブルの火種は過去に限ったものじゃない。釜場署新築に絡む談合が事実だと仮定して、ダメージを負うのは警察だけではない。むしろ相手方の方がダメージを被るだろう。どれだけ叩かれようと、警察が廃業することはないが、民間企業はそうはいかないからな」
「刈谷が狙うとすれば相手方の企業でしょうね。また企業恐喝を企てていたとすれば、相手方の企業には動機があると言えます」
「動機があるのは釜場署の人間も同じだ。そこまで愚かな奴がいるとは思いたくないが」
冗談とは思えない口調で佐伯が言った。
「結局のところ、うちとしては釜場署の事案を追うしかない。白峯、任せたぞ」
佐伯の言葉に、すぐ返事をすることができなかった。
「よろしいのですか。私が調査を続けても」
「何だ、自信がないのか。自信がないなら、この事案は他の人間に任せるぞ」
私は椅子から立ち上がり、佐伯の正面に立った。
「これは、私の事案です」
他の誰でもない。私がこの事案を最後まで見届ける。
「室長、お願いがあります」
「珍しいな。聞くだけ聞いてやる。言ってみろ」
「刈谷が過去に起こした威力業務妨害の手口を探れますか。釜場署の件も、その線で追えば何かつかめるかもしれません」
佐伯の細い目が、さらに細められた。心の奥まで冷徹に観察する目だ。解剖台の上に乗せられた気分になる。
「いいだろう」
佐伯は立ち上がり会議室を出て行った。少し間を空け私も会議室を出る。
監察官室に戻ると佐伯の姿はなかった。席に戻り、パソコンを立ち上げる。
釜場署の課長以上全員の金の動きを三人の監察官室員に追わせている。預貯金の増減、住宅ローンの繰り上げ返済やその他借金の返済。車などの高額の買い物。今のところ目立った金の動きは見つかっていない。
金銭以外の見返り。あるいは他の理由。
調査対象を広げるか。だが、噂程度でも予算額を知りえる立場の人間は限られるはずだ。
これまでの調査対象者のリストを開く。署長を筆頭に十二人。年齢は副署長の東堂が一番上で、五十九歳。他の対象者もみな五十五歳を過ぎている。
思いついたことがあり、杉本に内線をかけた。
杉本も警察学校の同期で、今は警務部教養企画課長を務めている。
「どうした。一服の誘いか」
いつも通りの杉本の声になぜか安堵した。増田のことを話したい。杉本にとっても増田は同期だ。
「いや、しばらく禁煙しようと思っている」
増田の件が解決するまでは禁煙する。杉本は理由を聞いてこなかった。
「定年後の再就職先の情報を調べられるか」
「詳しい人間に心当たりはあるが、今から再就職の心配じゃないよな」
「当たり前だ。釜場署員の再就職先について情報が欲しい」
しばし沈黙が流れた。
「見返りになるような待遇を約束できる会社となると限られるだろうな」
説明しなくても、私の質問の背景を悟ったようだ。
「すまんな、頼み事ばかりで」
「構わんさ。何の願掛けか知らんが、俺は遠慮なく一服させてもらう」
電話を切った。そのまま電話から視線を離すことができない。増田は今どうしているのか。任意の事情聴取はまだ続いているのか。
誰かが状況を知らせてくれる。甘い期待を捨て、電話から視線を外した。
午後になって杉本から電話があった。呼び出されたのは喫煙所ではなく、県警本部近くの喫茶店だ。県警本部の周りには、県庁や神無市役所があり、市役所裏の通りには昔ながらの飲食店が立ち並んでいる。喫茶店もその一角にあった。
杉本は店の奥のテーブル席に座っていた。テーブルの上にはコーヒーカップと灰皿が置いてある。灰皿には吸い殻が一本。この店は今では珍しくなった喫煙可の店だ。
「悪いな、一服させてもらった」
杉本の正面に座り、普段は頼まない紅茶を頼んだ。コーヒーを飲むと、煙草を吸いたくなる。
「妙な噂を聞いた」
私が頼んだ紅茶が運ばれてくるのを待って、杉本が口を開いた。
「知っていると思うが再就職先の斡旋は厚生課の仕事だ。新規開拓に厚生課の連中は頭を悩ませている」
杉本が声をひそめた。店内には、少ないが他の客もいる。
「警視以上の幹部の再就職先は公開している。以前、毎年のように情報開示請求があったからな。前に、公務員の天下りが問題になったことがあっただろ。あれ以来、同じ会社の同じポストに何度も就くのは癒着を生んでいると批判の声も上がるようになった。勤務実態があるのかも疑われる場合もある」
「うちでも二年前に問題が起きている」
県警OBに個人情報を流していたとして、所轄刑事課の警部補が処分された事案があった。複数のOBから、中途採用候補者の犯罪歴照会を依頼され、情報を流していたのだ。警部補は依願退職。依頼したOBも職を失ったと聞いている。
「あれで再就職先が三つ消えた。少なくても、ほとぼりが冷めるまで何年かは使えないだろう」
関与したOBたちは、いずれも自身の独断で、再就職先から頼まれたわけではないと証言している。
「そんな事情もあって、今年の再就職先斡旋は難航するとみられていた。退職者数に対して、ポストが足りなかったからな。だが、厚生課の斡旋を受けず、自分で再就職先を確保しただけでなく、他の退職者受け入れも可能だと提案してきた人間がいるらしい」
「誰だ」
「釜場署の東堂副署長だ」
一昨日、東堂と会う約束をしていたのは、今回の疑惑に関して彼が釜場署の窓口になっていたからだ。彼個人に疑いを持っていたわけではない。刈谷の遺体発見を口実に面会をキャンセルされたことで、東堂が何かを知っている、という感触を得た。杉本の情報はその疑念を裏付けるものだ。
「再就職先も分かっているのか」
私の問いに杉本は首を振った。
「これ以上の話を聞き出すにはそれなりの理由が必要だ。厚生課としても、年度末を控えたこの時期に余計な横槍が入るのは避けたいだろうからな」
「だが、今のうちに芽をつぶしておいた方が、ダメージが少ない場合もある」
「官製談合の疑いか」
私は答えなかった。間違いではないが、それだけではない。だが、増田の件を話すことはできない。
「相変わらず嘘がつけない奴だな」
杉本が苦笑した。話せないことがあると見抜かれたようだ。
「答えにくい話なら聞かん。だが、談合疑惑の話はそれとなく使わせてもらうぞ」
「すまん。頼んだ」
杉本はうなずくと、煙草の箱に手を伸ばしかけやめた。
「自分で再就職先を見つけるのは珍しいのか」
話題を変えると杉本の表情が緩んだ。
「幹部クラスでは珍しいだろうな。白峯は自分で再就職先を見つけるつもりか」
「当てはないな。私の立場を知って、誘ってくる相手なら断るだろう」
「えり好みをしていると老後に苦労するぞ」
「老後か。そんな話をする歳になったのか。そのうち同期会の話題が健康の話ばかりになりそうだ」
杉本を残し、先に本部に戻った。釜場署新築工事を落札した業者一覧を確認する。この中に東堂の再就職先があるのか。
腑に落ちない点もある。工事の入札は二年前。その時点で、不正に手を染めてまで再就職先を確保しようとした理由。定年をひかえ、危ない橋を渡らなくとも、再就職先の斡旋を待てばよかったのではないか。
単に、目の前の餌に食いついただけなのか。さっき、杉本と冗談交じりで話した老後という言葉。数年後、私もその言葉に不安を感じるようになるのだろうか。
スマホに着信があった。申橋だ。私は監察官室を出て廊下で電話に出た。
「白峯さん。増田が逮捕されました」
一度では、申橋の言葉を理解することができなかった。
「どういうことだ」
任意で事情聴取を受けていたはずだ。時刻は午後三時半。今まで事情聴取を受けていたとすれば長すぎる。
「すみません、刈谷殺害の件ではなく、公務執行妨害です」
どういうことだ。もう一度同じ質問をした。頭がうまく働かない。
「事情聴取の途中、急に暴れ出したとのことです。釜場署の刑事が一人、殴られています」
「任意の域を超えたことはやってないだろうな」
申橋を責めるつもりはない。だが、いくらか棘のある物言いになってしまった。
「昼休みも含め、休憩は挟んでいました。言い訳に聞こえるかもしれませんが、無茶なことはしていません」
申橋が申し訳なさそうな声で言った。
「それと、増田に任意同行を求めた理由ですが、五年前にも刈谷と接点があったことが分かったからです。刈谷の自宅から見つかった取材メモに、増田が務める槻木建材のことが書かれていました」
防火パネルの出荷検査で不合格になった製品を出荷した疑い。刈谷のノートに、名前は伏せられていたが、関係者への取材内容が書かれていたという。その中に、品質保証部門のMは不正を否定、と書かれた一文もあった。
「一度だけ、週刊誌の記事になっていますが、すぐに槻木建材側はホームページ上で不正を否定しています。後追いの記事もありませんから事実ではなかったのでしょうね。刈谷が増田の名刺を持っていたのも、当時の取材で入手したと思われます」
増田にとって不利な材料がそろっている。捜査本部が増田に狙いを定めるのも理屈の上では理解できた。
申橋に礼を言い電話を切った。進展があれば連絡します。申橋はそう言ってくれた。
外の空気が吸いたくなり、県警本部を出た。
増田はなぜ急に暴れ出したのか。学生のころから喧嘩などしたことがない男だった。何より暴力を嫌っていた。理不尽な暴力から、誰かを守る。そのために警察官の道を選んだのだ。だが、警察学校で待っていたのは、増田が何よりも嫌う理不尽と思える暴力だった。
県警本部前の掲示板の前で立ち止まった。県警本部からの告知手段がホームページに移行して久しく、掲示板に貼られているのは警察官募集のポスターだけだ。
三十年前。私と増田はこの掲示板の前に立っていた。警察官採用試験の結果を見るためだ。
私は増田の、増田は私の受験番号を探した。ほとんど同時にお互いの受験番号を見つけ、祝いの言葉を口にした。
その夜、県警本部近くの居酒屋で、祝杯をあげた。増田と二人で酒を飲んだのはその時が初めてで、今のところ最後だ。
増田が警察学校を辞めてから、槻木建材に就職するまで空白の期間がある。警察学校で負った心の傷を癒すために必要な期間だったのだろう。
傷は完全に癒えたのか。
フラッシュバック。過去の辛い記憶がなんらかのきっかけで蘇り、思いがけない行動を引き起こすことがある。
増田にとって、警察に関わる辛い記憶は警察学校時代のものだろう。思い描いていた夢の前に立ちはだかった現実。
その記憶を想起させる出来事が、釜場署で起きたのではないか。
直接的な暴力があったとは思わない。だが、任意の取り調べにふさわしくない言動はなかったのか。考えても答えは出ない。
県警本部がある一画を一周し、監察官室に戻った。佐伯に手招きされ、彼の机の前に立つ。
「増田が逮捕されたことは聞いているな」
「はい」
「辛そうだな」
思いがけない佐伯の言葉に戸惑った。彼の口から労りの言葉を聞くのは初めてだ。口調には優しさのかけらも感じられないが。
「お前はいつも公正であろうとするから苦しむ。たまには私情をさらけ出してみろ。責めはしない」
素直に受け取って良いのだろうか。あるいは何かを試されているのか。
「お気遣い、ありがとうございます。ですが、公正さを保つ努力を放棄するつもりはありません」
警察官である限り変えるつもりはない。
私の答えに、佐伯の口元が歪んだ。彼の気に入る答えだったのかは分からない。
「お前に頼まれていた件、調べておいた」
佐伯が腕を組んで話し始めた。
「刈谷が全革連の活動家だったことは話したな」
「はい」
「全革連は大手企業の労働組合に人脈を持っていた。大学時代に全革連の活動に参加し、そのまま就職して組合に入り込んだ人間が多かったからな」
八十年代の話だ。警察学校で「左翼活動の歴史」として習った。
「そういう連中が会社の中で、それも組合の中でそれなりの力を持つようになると、勉強会の名目で刈谷に引き合わせる。最初は若い組合員の悩みや愚痴を聞くふりをして信頼関係を築く。労働者の味方って顔をしてな。愚痴の中には不正行為に結び付くものも含まれていたんだろうな。 そして使えそうなネタがあれば、企業を揺さぶって小遣い稼ぎをしたり、週刊誌に記事を売り込む。それが刈谷の手口だ」
増田の会社も、一度週刊誌の記事になっている。
「ですが、刈谷を引き込んだ連中にしても、自分の会社の不利益になるのでは」
「連中にとって、会社の経営者は敵だ。中には刈谷を都合の悪い人間を追い落とすことに利用した人間もいたようだ」
弱みを見つけ出す嗅覚だけは鋭い小悪党。話を聞く限り刈谷に活動家という印象は薄い。
「ここ十年ほどは全革連側も距離を置いている。組織の理念よりも自分の小遣い稼ぎに精を出すような人間だから当然だろうな」
刈谷が同じ手口を繰り返していたとすれば、釜場署新築に関わった企業の労働組合に接触していた可能性がある。
「役に立ちそうか」
「はい。ありがとうございます」
私は佐伯に頭を下げた。
席に戻りパソコンを立ち上げた。県警職員データベースにログインし、釜場署の全係長以上の経歴を改めてチェックする。県警入庁後の配属先だけでなく、出身地と出身校もだ。
東堂の出身高校に目を引かれた。息子の武則と同じ神無高校だ。神無市にある公立高校で、スポーツにも力を入れている。武則はレスリング部があるという理由でその高校を選んだ。
去年の夏。武則がまだ警察学校の学生だった頃、県警の同じ高校出身者の親睦会に呼ばれたと言っていたのを思い出した。親睦会の名は、高校の名前をとって神高会だ。
「顔を出した方がいいかな」
武則に相談された。私はその手の集まりに出席したことはない。だが、現場に出る前に様々な年代の人間と接するのはいい経験になるはずだ。私はそう答え、武則は出席を決めたようだが、感想は聞いていない。
学閥というほどでもないが、同じ高校や大学出身者で作られる親睦会はいくつか存在する。同じ署で同じ親睦会に属していれば、それだけ関係は深くなる。神高会はどのような雰囲気だったのか。東堂とも顔を合わせているかもしれない。
武則に聞いてみるか。卓上カレンダーを見た。今日は一月十五日。正月に会った時、どんと祭の日は当直だとぼやいていた。どんと祭は、毎年一月十四日にM県内各地の神社で開かれる祭りだ。正月飾りを神社の境内で焼き、一年間の無病息災や家内安全を祈る。昨日がどんと祭で、当直勤務だったなら、今日は非番だ。
廊下に出て武則に電話をかけた。用事があればそれほど躊躇することなく電話をかけることができる。
「こんな時間に珍しいね」
いつもと変わらない、どこかのんびりとした武則の声にほっとした。
「ちょっと聞きたいことがあってな」
武則に昨年の神高会に出席した時のことを聞いた。どんな様子だったのか。武則は何を感じたのか。
「ああ、あれね」
電話の向こうで武則が苦笑した気配を感じた。
「いい経験になったことは確かだけど、顔を出すのは一回でいいかな。昭和の体育会系のノリはちょっとつらかった」
「何となく想像がつくな」
「不思議な感じだったよ。父さんくらいの年代の人たちに、高校の部活並みの上下関係を見せられたからね」
「武則に対してはどうだった」
「お客さん扱いだったよ。二期上の先輩は結構こき使われていたけどね。ただ、おじさんたちの若いころの武勇伝を長々と聞かされたのにはまいった」
今の若者は職場の飲み会も避けることが多いと聞く。
「一番偉そうにしていたのはOBの人だったね。二人だったかな、OBは。どこの署か忘れたけど、副署長をあごで使っていたよ。野球部の先輩後輩って言った」
その副署長とは東堂のことだろう。
「どう、役に立ちそう?」
武則の言葉に、一瞬返答に詰まった。
「ああ、ありがとう。詳しくは話せないが役に立った」
東堂にとって頭の上がらない人間がいる。それは新しい視点だ。
「その感じだと、今日も遅くなりそうだね。冷えるから風邪ひかないようにね」
それは親が言うセリフだ。お前もな、と言い返し電話を切った。
佐伯から聞かされた刈谷の情報を元に調べごとをしていると午後九時を過ぎた。佐伯は先に退庁していて監察官室を出たのは私が最後だった。
外に出て夜空を見上げた。星はどこにも見えない。街の明かりが星の瞬きを消している。街灯、飲食店の看板。それらの光が白々しく思えた。
三十年前。警察学校は神無市内にあった。今は名越市に移転している。
増田が警察学校を辞める前夜。消灯時間前のわずかな自由時間に二人で寮の屋上に上がった。
その時はすでに増田が退職する意思を固めていることを聞いていた。引き留める言葉を口にしたかは覚えていない。強い意志を持って引き留めることができなかったのは確かだ。当時、私は社会人になって三か月の若造だった。理想と現実のギャップに絶望した友人に未来の希望を語ることはできなかった。現実の辛さに打ちのめされていたのは私も同じで、去る者と踏みとどまる者に大きな差や優劣はない。私は辞める決断をできなかっただけだ。
「星は、もう見えないな」
増田の言葉の意味はすぐに分かった。小学六年生の時、林間学校で訪れた県北の山間部で、私たちは満天の星空を見上げた。
将来は警察官になる。増田が将来の夢を語ったのはこの時が初めてだった。私が将来の進路として警察官の道を意識したのは高校生の時で、増田が語った夢が頭の片隅になければ選択肢には入らなかっただろう。
そうだ。増田にとって警察官になることは夢であり、私にとっては進路の一つにすぎなかった。
星空の下で語った夢。
星の見えない屋上で迎えた警察学校最後の夜。
「ここからは見えないだけさ。星が消えてなくなったわけじゃない」
私の言葉に、増田は寂しそうに笑った。
「いつか見せてくれよ。僕が目指した警察官になった白峯の姿を。作ってくれよ、僕のような思いを味わわなくてもいい警察を」
「約束する。俺が警察を変える」
それが、増田と交わした最後の言葉になった。
翌朝。担当教官に退職の意思を伝えた増田は、午前中の授業に姿を見せなかった。荷物の整理と退職の手続きをしていたのだろう。
昼食が終わった時間。スーツ姿で食堂に表れた増田は、最後の挨拶で感謝の言葉だけを口にした。恨み言は一度も口にしなかった。
一礼し、教官に付き添われて増田は食堂から出て行った。
「最後だ。見送ろう」
私は同期たちに声をかけた。反対する者はいなかった。教官たちも止めなかった。私たちは急いで三階の教室に向かった。誰が仕切ったわけでもなく正門側の窓に整列した。警察学校の周囲は住宅街だ。大きな声を出すことはできない。
「増田巡査に敬礼」
号令は私がかけた。一糸乱れぬ敬礼は、三か月間の訓練の賜物ではなく、同期の気持ちが一つになったからだ。私は今でもそう思っている。
正門の前で増田は深々と頭を下げた。
敬礼ではない。それが辛かった。
あれから三十年。
増田は留置所で夜を迎える。
私はまだ、増田との約束を果たしていない。