釜場駅から外に出ると、冷たい空気に鼻の奥が刺激された。年が明けて二週間。雪はまだ降っていないが、気温は例年を下回り、寒さは厳しい。

 次のバスが来るまで二十分。釜場署まで歩いても時間は変わらない。歩いて体を温めるか、暖房の利いた駅舎の中でバスを待つか。考えていると、海風に乗って、サイレンの音が聞こえた。パトカーだ。事件か、事故か。一台ではない。サイレンの音に誘われるように私は歩きだした。

 結局二十分歩いても、体は温まらなかった。むしろ海風にさらされ、体は冷え切った。ここ数年、暑さや寒さに弱くなったと感じる。

 釜場署に着いた。建物の老朽化を理由に、庁舎が新築され、まだ半年だ。白を基調とした真新しい外壁は、市民に威圧感を与えないよう計算されたデザインだと聞く。効果があるのかは分からない。

 釜場署一階は、警務課と地域課、交通課のフロアだ。交通課のエリアに慌ただしさは感じられない。さっきのサイレンは事故現場に向かうものではなかったということか。

「本部の白峯です。東堂副署長と面会の約束をしています」

 警務課の受付カウンターで署員に用件を伝えた。応対した若い警務課員の顔に緊張が走った。

「はっ、お約束の件はうかがっております。ですが、先ほど緊急事案が発生したため、日を改めさせてほしいと、副署長から伝言を預かっております」

 気の毒に思えるほど恐縮した態度で警務課員が言った。彼が気を遣う必要はない。私は落胆が顔に出ないよう、努めて平静を装い聞いた。

「ここに来る途中、サイレンの音が聞こえたが、事件か」

 周囲に民間人の姿は見えなかったが、警務課員は私に顔を近づけ、声をひそめた。無駄足を踏むことになった私へのサービスのつもりか、情報を差し出してくれた。

「変死体が見つかったとの通報がありました。緊急配備の必要があるか、検討しているようです」

 発見された変死体に事件性があり、事件発生から間もないのなら、緊急配備が必要だ。だとすれば、地域課や交通課にもう少し動きがあるはずだ。ここだけの秘密ですよ、と言いたげな表情の警務課員は、疑問を感じていないようだ。

 私は警務課員に礼を言い、外に出た。収穫がなかったわけではない。どうやら東堂は事件を口実にしてでも私に会いたくないらしい。

 振り返り、四階建ての庁舎を見上げた。この庁舎新築を巡り、ある疑惑が持ち上がっている。その調査を命じられている私の目には、白を基調とした外壁が寒々しく映った。

 釜場署の門を出て、駅とは反対方向に歩き出す。かすかに潮の匂いを感じた。この先は海浜公園があり、さらにその先に工場と倉庫が立ち並ぶエリアがある。パトカーのサイレンが遠ざかったのはそちらの方角だ。

 五分ほどで海浜公園に着いた。公園と言っても遊具があるわけではない。人工の丘があり、その上にベンチがあるだけだ。さえぎるものがなく、吹きつける海風にコートの裾がはためいた。人影はない。この場所も東日本大震災で津波被害に遭っている。

 公園に入り、丘に向かった。手前に、御影石で作られたモニュメントがある。私はその前で立ち止まり、しばし黙とうを捧げた。東日本大震災で、M県警では十二人の警察官が殉職した。釜場署でも、殉職者が一人いる。

 地震発生後、住民の避難誘導にあたり、津波にのまれたのだ。太平洋に面した釜場市は、沖合に点在する離島で勢いが弱められたとはいえ、最大四メートルの津波に襲われ、市の面積の二割が浸水した。新庁舎よりも、百メートルほど海寄りにあった旧釜場署一階も浸水している。

 私は釜場署の方角を振り向いた。

 一か月前、県警総務部情報公開係が、釜場市の市民団体さくら会からの情報開示請求を受け付けた。釜場署新築の計画内容や事業費の妥当性を問うもので、情報公開係は請求通りに関連文書を公開した。

 さらに一週間前に、入札参加業者や予定価格の根拠にまで踏み込んだ追加請求を受けた。

 つまりは釜場署新築を巡り、官製談合の疑惑を向けられているということだ。

 一口に新築工事といっても関わる業者は多岐にわたる。設計事務所、建築工事、機械設備工事、内装工事の各業者、庁舎移転における引っ越し業者などだ。

 さくら会は、どの部分に疑惑を持っているのか。

 私は監察官室室長の佐伯から調査指示を受けた。

「外部の働きかけで不祥事が明らかになる前に、うちの手で調査し、処分を下す」

 警察の自浄作用が機能していることを示す。それが佐伯の考えだった。私の考えも同様だ。

 階段で丘に登り、そこから佐伯に電話をかけた。東堂との面会が空振りに終わったことを報告し、変死体発見の情報が本部に入っているか尋ねた。

「十分待て」

 私が返事をする前に電話が切られた。ベンチに腰掛け、海を見下ろしながら佐伯からの電話を待った。

「緊急配備は敷かれていないな。一一〇番通報は十四時七分。場所は松前町の廃工場だ。遺体は六十代男性。こっちの情報は今のところ、この程度だ」

 通信指令室に問い合わせたのだろう。本部に戻ります、と言い、佐伯の返事を聞かずに電話を切った。

 丘を降りる前に、もう一度海を見た。海は静かに凪いでいた。

 

 翌日。

 朝刊に釜場市で発見された遺体の身元が報じられた。

 刈谷真一、六十四歳。職業不詳。後頭部に殴打された跡があり、それが死因とみられる。

 死体遺棄と殺人の疑いで捜査中。記事はそう締めくくられていた。

 出勤すると、東堂から謝罪の連絡があった。結局、緊急配備は敷かれなかったが、それは指摘しなかった。

 次は、アポなしで会いに行く。そう心に決めた。

 十一時過ぎ。朝から姿の見えない佐伯から電話があった。三階の会議室にこい。それだけで電話は切られた。自分の言いたいことだけ言って電話を切る。普段通りではあるが、いつになく緊迫した様子だった。

 会議室には佐伯と、もう一人の男が私を待っていた。県警捜査一課管理官の木崎だ。管理官としては私の後任にあたる。同じ長机に並んで座っているが、友好的な雰囲気とは程遠い。

 二人と向かい合って座った。

「釜場市の殺しの件だ」

 口を開いたのは佐伯だった。木崎は腕を組み、唇をきつく引き結んでいる。殺人事件に絡んで、捜査一課の管理官が監察官室に話を持ってくる。想像できる理由は多くない。

「被害者の身元が割れた。刈谷真一、六十四歳。ジャーナリストだ。自称、が付くがな」

 佐伯の言葉に、被害者への同情は感じられない。

「刈谷は取材の名目でさくら会に接触していたようだ。さくら会の関係者と口論になっているところを目撃されている」

「関係者ですか」

「そうだ。オブザーバーという形で会合に何度か参加している男がいる。先週土曜日に開かれた釜場市民向けの活動報告会に刈谷が現れ、騒ぎを起こしたらしい。そこで、その男が刈谷を会場から追い出そうとして、口論になったとの目撃情報があった。当然、捜査本部はその男から事情を聞こうとしている」

 佐伯が珍しくためらう様子を見せた。

「俺と一課の管理官が並んでいる時点で察しがついていると思うが、その男は警察関係者だ。正確には元警察官だがな」

 なぜか、悪寒めいたものを感じた。私が呼ばれた理由。言語化できていたわけではないが、無意識のうちに理解したのかもしれない。

「増田俊介。知っているな」

 知っている。

 警察学校の同期だった男だ。

 三十年前。増田は警察学校の正門で校舎に向かって深々と頭を下げた。私は、校舎三階の教室から彼を見送った。最後に交わした言葉を今でも忘れることができない。

 増田は警察学校の同期だった。

 友人だったことまで過去形にはしたくない。

 

 

「なぜ、増田が」

 その一言を口にするまで、長い時間が過ぎた気がした。

 増田は、今何をしているのか。仕事は、家族はいるのか。はやる気持ちを抑え、佐伯の言葉を待った。

「増田は現在、釜場市内の槻木建材という住宅建材メーカーの工場に勤めている。さくら会代表の榎本は、元釜場市議会議員だが、その前は増田が務める工場の労働組合で支部長をしていた。増田が中途入社した時から面識があったようだ」

 さくら会の情報は、今回の調査開始に頭に入れている。榎本のことも知ってはいたが、増田と繋がりがあることは想像すらしていなかった。

「刈谷と増田に接点があったことを示すものがもう一つあった。刈谷の遺体発見現場からはスマホも財布も発見されていない。だが、名刺入れだけ上着のポケットから見つかった。その中から増田の名刺が見つかっている」

 名刺入れの中には増田以外の名刺も入っていたが、刈谷本人の名刺は入っていなかったという。佐伯が続きを促すように木崎を見た。

「名刺入れの件は不自然です。だが、無視はできません。刈谷が持っていた名刺の持ち主全員にあたっていますが、今のところ、名刺の他に刈谷との接点があるのは増田だけです」

 捜査本部の判断に文句を言うつもりはない。

 理屈では理解している。

「初動捜査の段階で、釜場署は増田に捜査の狙いを絞りました。ですが、問題が起きました」

 増田が元警察官だったこととは別の問題が起きたということか。

「実は、さくら会から捜査本部に抗議が寄せられています。さくら会の関係者を容疑者扱いするのは、活動への妨害だと」

 木崎が鼻から息を吐きだした。

「どうもあの手の団体は、何かと警察を目の敵にしているようです」

 捜査の指揮をとる木崎の立場は分かる。だが、決めつけるような物言いに反発を覚えた。口を開きかけたが、佐伯に先を越された。

「あの団体はまともだ。警察の不正に疑惑を持つことが、目の敵にしていることにはならん」

 佐伯の言葉に、木崎は眉をひそめたが反論はしなかった。

「単に話を聞きに行っただけで、抗議を受けたとは思えませんが」

 私はどちらへともなく質問した。答えたのは木崎だ。

「先ほどの目撃情報を得て、釜場署の捜査員がさくら会の事務所に行き、榎本から、増田の情報を聞き出すことができました。しかし、同席していたさくら会の人間が情報開示請求の話を持ち出し、公正な捜査が行われるか疑問を挟んだことで、捜査員と少々口論になりました。そこで増田が被疑者だと決めつけるような発言をしたらしいのです」

 木崎が横目で佐伯を見た。捜査員の態度が問題になるか、気にしているのだろう。佐伯は特に反応を示していない。

「結局その場ではそれ以上の話を聞くことができず、捜査員は引き下がりましたが、捜査本部にさくら会から抗議が入りました。証拠も無いのに増田を被疑者扱いするような捜査には協力できない。もし、無理な捜査をするなら相応の対応をすると言ってきています」

 警察官の態度に苦情を寄せられることはある。だが、さくら会の反応は過剰に思えた。

「現状、刈谷の足取りと人間関係を中心に捜査を進めていますが、やはり増田や、さくら会の関係者にも話を聞く必要があります」

「白峯、さくら会と話をつけてこい。開示請求に関わる事案はうちがきっちり調査してけりを付ける。そこまでは話していい。増田との個人的な関係を説得の材料にするかどうかは任せる」

「申橋を同行させます。ご協力をお願いいたします」

 木崎が立ち上がり、頭をさげた。申橋を同行させるのは彼なりの配慮だろう。捜査一課の申橋とは管理官時代にいくつかの事件を共にしている。それだけではない。昨年発生した現職警察官による交番立てこもり事件の捜査でも行動を共にしている。

 増田が関わっていると聞いた時点で、拒否するという選択肢はなかった。

「承知しました」

 私が答えると、木崎は申橋を呼んでくる、と言って出て行った。

「刈谷については俺も情報を集めてみる」

 佐伯が低い声で言った。

「心当たりがあるんですか」

 私の問いに、佐伯は答えず、会議室を出て行った。

 一人になると、落ち着かない気分になり立ち上がった。不意打ちのように増田の名を聞かされた。三十年、会うこともなく、実家ごと引っ越したと聞いても行方を探すことはしなかった。負い目を感じていたのかもしれない。増田は警察を去る決断をするほど追い詰められていた。近くにいながら、私は何の力にもなれなかった。

 それでも友人だと思い続けている身勝手さは自覚している。

 会議室の中を歩き回った。増田は事件に関わっているのか。これまで、どのような人生を歩んできたのか。考えがうまくまとまらない。

「失礼します」

 会議室のドアが開き、申橋が入ってきた。彼の顔を見て、安堵した。目的に向かって動いていた方が、余計なことを考えずに済む。

 

「ご縁があるようですね」

 ハンドルを握る申橋が、笑いを含んだ声で言った。冬でも坊主頭は変わらない。彼の運転する車で釜場市に向かっている。

「私の扱いに慣れている。上からそう思われているんじゃないのか」

「よしてくださいよ。私の手には余ります」

 申橋の表情が改まり、刈谷殺害事件の説明を始めた。

 遺体が発見されたのは昨日の十四時ごろ。場所は松前町の缶詰工場跡地。工場は三年前に閉鎖されたが、建屋は取り壊されず残っているらしい。

「遺体からは身元を示すものは発見されませんでしたが、前科がありました。二十九歳の時に傷害事件を起こしたのを皮切りに、恐喝や威力業務妨害で計四回の逮捕歴があります。実刑も二度食らっていますね」

「ジャーナリストを名乗っていたらしいが」

「取材して、記事をどこかに売り込むというより、それをネタに強請りをやっていたようです」

 住居は千葉県千葉市で家族はいない。昨日から捜査員が二人、現地に飛び、自宅アパートを捜索中だという。

「釜場署新築に絡んで情報開示請求が行われていることは聞いています。その釜場署管内で刈谷のような素性の男が遺体で発見される。嫌な感じがしますね」

 それだけではない。元警察官が事件関係者として浮上している。

「増田が刈谷ともめていたという証言があったそうだな」

 増田の名を口にするたび、後ろめたさが小さな刺となって気持ちのどこかに突き刺さった。

「同期だったそうですね」

 遠慮がちに申橋が言った。

「小学校からの友人でもある。あいつが警察学校を辞めてから一度も会っていないが」

 申橋が息をのんだ気配がした。私は前を走るトラックの荷台を見つめたまま言葉を続けた。

「申橋に頼みがある。もしも、私が私情に走っていると感じたら、遠慮なく言ってくれ。直接言いにくければ、木崎管理官に報告していい」

 しばらく答えが返ってこなかった。

「分かりました。そう感じた時は、直接白峯さんに言いますよ」

 申橋はそう言うと車の窓を少し開けた。冷たい空気に頬を叩かれ、沈みかけた気持ちに活を入れられた。

「先週の土曜日、釜場市民会館の小ホールでさくら会の会合が開かれました。一般市民も参加できるもので、一回目の情報開示請求で開示された文書の中身と、追加請求に至った経緯の説明が主な内容です」

 会合の様子を捜査本部に証言したのは、釜場市の老舗菓子屋の店主だ。店はほとんど息子に任せ、防犯協会の委員も務めている。

「刈谷は途中から出席し、初めは大人しくしていましたが、追加請求の話になると、手ぬるいだとか、地元の人間も警察と癒着しているだとか騒ぎ出したそうです」

「一昔前の総会屋みたいだな。目的が見えないが、小遣い稼ぎか」

「おそらくは。過去の威力業務妨害も、似たような手口だったと思います」

 四十分ほどで釜場市中心部に着いた。釜場駅東側のコインパーキングに車を停め、歩いて目的の場所に向かう。途中、シャッターを閉めている商店がいくつか目に入った。シャッターは風雨にさらされ退色している。震災後、駅の西側は大型商業施設が進出し、再開発が進んでいるが、この辺りは対照的だ。

「このビルの二階がさくら会の事務局です」

 申橋が四階建ての雑居ビルを指さした。

 エレベーターはなく、階段で二階に上った。廊下の天井は低く、照明は古い蛍光灯だった。壁の所々に亀裂を補修した跡があり、この建物も震災を乗り越えたことを物語っていた。

 二階のつき当りがさくら会の事務所だ。スチールの扉にペンキを塗り直した跡がある。インターホンを押して少し待つと扉が開いた。

 痩せた老人が顔を出した。榎本だろう。事前に申橋がアポをとっている。

「県警本部監察官室の白峯と申します」

 私が名乗ると、榎本はわずかに目を見開いた。

「先日は釜場署員が失礼な態度をとり、申し訳ございませんでした」

 頭を下げた。尻ぬぐいをしているとは思わない。市民からの信頼がなければ警察の存在は成り立たない。

「監察官室とは警察官の不祥事を取り締まる部署ですね。わざわざ刑事の態度ひとつで謝罪に訪れるとは思えませんが」

 榎本に促され、応接セットのソファに腰を下ろした。事務所には榎本以外誰もいない。

 労働組合の支部長から、市議会議員に出馬し、四期十六年議員を務めた男。先入観を抱いていたわけではないが、目の前の男の枯れた雰囲気は少々意外だった。

「ご承知かと思いますが、警察では昨日発見された遺体について殺人事件として捜査をしております。地域住民の皆さんの不安を一刻も早く取り除くため、被疑者逮捕に全力を尽くしています。決して榎本さんたちの活動を妨害する意図はありません」

 私の言葉に榎本は眉を寄せた。

「白峯さん。あなたの立場ならそう言うでしょう。ですが捜査員全てが同じ考えかは分からない」

「被疑者を一刻も早く逮捕する。その考えは全員同じです」

 そこは疑っていない。

「それともう一つ。私は皆さんから寄せられた情報開示請求を端緒に、釜場署新築に絡み不正が行われていないか調査しています」

 監察官室の活動の一端を部外者に話すのは異例のことだ。だが、さくら会側が事情聴取に応じないと捜査が進まない。

「なるほど。それを伝えるために監察官室のあなたがここに来たわけですか」

 榎本は考えをまとめるためか、目を閉じた。だが、私の話を拒絶しているわけではないようだ。

「調査の結果、不正が認められれば処分を下し、再発防止に努める。同じ警察官だからといって手心を加えることはありません。いや、同じ警察官だからこそ厳しく対処する。それが我々の職務です。事件の捜査も同様です。事件に関する事実関係を捜査し、関係の有無を事実にもとづき選別し、被疑者を特定、検挙する。それ以外の思惑を介在させることは許されない。警察は常に公正でなければなりません」

 自分自身への戒めの言葉でもある。

 これを忘れた時、私は警察官でいられなくなる。

「不思議ですね。同じことを他の人間から聞いたら、空疎な理想論に聞こえるでしょう。ですが、初対面なのにあなたが言うと妙な説得力がある」

 榎本が目を開けた。先程まで感じた頑なさがいくらか和らいだように見える。

「白峯さんでしたね。確かに人が一人亡くなっています。我々にとっては不愉快な存在でしたが命を奪われて良いわけがない。私も理不尽に命が失われる現場を目の当たりにした経験がありますから」

 榎本も震災で身近な人間を亡くしたのだろうか。

「さくら会にも様々な考えを持つ人間がおりましてね。警察に対する感情にも温度差がある。しかし、冷静に話せば、皆分別のある大人です。理解してくれるでしょう」

 榎本は冷静に話をするために、この場に他の人間を同席させなかったのではないだろうか。

「分かりました。捜査に協力します。知っていることはお話ししましょう」

 私は申橋と共に頭を下げ、礼を言った。

「お話は、こちらの申橋がうかがいます。彼は捜査一課の刑事です」

 殺人事件の捜査に口を挟むつもりはない。

 私の知らない増田を知る榎本に聞きたいことはあった。それは、事件の捜査に直接関係することではない。

 申橋は刈谷がさくら会に接触した経緯と目的について質問した。

「さくら会の活動はホームページで公開していますからね。土曜日の活動報告会についてもホームページで告知していますし、参加は自由です。地元の新聞社が取材に来ることもあるので、ジャーナリストを名乗った刈谷を不審には思いませんでした」

 榎本が苦々しい表情で答えた。

「最初は、大人しく話を聞いていましたが、釜場署新築の情報開示請求の報告が始まると野次を飛ばし始めました」

 榎本が、ちらりと私を見た。さくら会は何に疑念を感じ、情報開示請求をしたのか。それを榎本に聞くわけにはいかない。

「我々は活動家ではありませんし、ことさら警察を敵視しているわけではない。ただ、予算が公正に使われているかを監視するためにさくら会を立ち上げました。釜場市にとって、震災からの復興が何よりも大切ですから」

「刈谷はどのような野次を飛ばしたのですか」

「思い出すのも腹立たしいが、情報開示請求など単なるパフォーマンスだとか、どうせ地元企業ぐるみの出来レースだろうと言われました。これは私の印象ですが、騒ぎ慣れているようでした」

 刈谷の前科を思い返す。榎本の印象は間違いではない。

「会合に、そういう輩が顔を出すことは初めてではありません。基本的には相手にせず、目に余るようであれば次から出入り禁止にします。しかし、増田が会合に参加したのは二度目でしたので、まともに相手をしてしまいました。刈谷に静かにするよう求め、応じないと退出させようとしました。刈谷はもめ事の火種を待っているような人間です。さらに騒ぎ立てました。一つ、誤解のないように言っておきますが、増田は冷静でしたよ。毅然とした態度で、刈谷に接し、会場から退出させました」

 増田が刈谷ともめていた。その目撃証言が間違っていたわけではないだろう。同じ光景でも、見る人間によって印象は異なる。

 申橋が、いくつか質問した後、確認するように私を見た。この場で私が質問することはない。私は首を振った。

 申橋が榎本に礼を言った。

「私が話したことの確認をとるのでしょう。それがあなた方の仕事だということは理解している。だが、増田を容疑者扱いすることはやめていただきたい」

「承知しています。現時点では被害者と接点があった人物の一人に過ぎません。十分配慮します」

 申橋が頭を下げた。私もそれに倣う。

「あなた方のことは信用しますよ」

 もう一度榎本に礼を言い、事務所を出た。

「もっと聞きたいことがあったんじゃないですか」

 車に戻る途中、申橋に問われた。

「言ったはずだ、私情には走らないと」

「事件に関係ある内容なら問題ないでしょう」

「それを聞くのは捜査本部の仕事だ。私が聞くのは筋が違う」

「相変わらずお堅い人だ」

 申橋の軽口は聞こえないふりをした。

 

(つづく)