「なあ、東京行くの、やっぱり瞬が言うように『出雲』でええか? 俺はええけど」
と言ったのは、さっきから時刻表を読んでいたセノマンだ。
「ああ、俺も『出雲』でええで」とガンデンが言うと、みんなそれぞれ「ええで」「ええよ」などと賛成の意思表明をした。プーメンだけが「君らと『出雲』で行くと大学全部落ちそうな気がするわ」と言い添えたが、でも賛成だ。
「アホ、どっちみち落ちるわい。奇跡が起きん限り」と中本が言った。みんな浪人は覚悟しているのだ。いや、覚悟というのか、この頃は現役偶然、一浪当然、二浪平然、三浪唖然と言われているくらい浪人なんて当たり前のことだったし、まだ日本経済がバブル末期のころで、子供たちを一浪、二浪くらいさせる余力がある家庭はおおかった。
「じゃ『出雲』で決まりな。やっぱり俺らは形から入らんといけんだら」と僕は言った。
『出雲』というのはプロローグで散々書いたように寝台特急『出雲』のことだ。僕たちは大学受験のための上京手段として、飛行機か新幹線か『出雲』かのどの交通機関で行くのかまだ決めていなかったのだが、僕は最初から『出雲』で行こうと提案していた。僕にとって、この大学受験での上京が初めての東京だ。飛行機や新幹線でサクッと上京してしまうのはあまりにも味気なさすぎる。大学受験とはいえみんな六~七大学は受験するから東京滞在は三週間近くの長丁場になる。東京も初めてなら長く親元を離れるのも初めてだ。僕たち田舎の高校生にとってはこの大学受験の旅は小さな冒険のようなものだ。その冒険の出発を飛行機や新幹線などという便利なものに頼って味気なくしたくなかった。『夜汽車』というワクワクするような状況で出発したかったのだ。つまり僕は過去も今もたいして脳内は変わっていないのだった。
「まあ『出雲』で行ったほうが将来のためにええネタになるしな」と中本が言った。
その通りだった。将来、有名な映画監督になれた暁には「いや~、大学受験は友達七人と寝台車で上京しましてね」なんて言ったほうが面白いに決まっている。ここにいる全員とは言わないが、何人かはそんな未来のことも見据えていた気がする。
「じゃあ、『出雲』にするぞ。出発は二十八日で大丈夫か?」とセノマンが言った。
「おお、俺の青学が最初だったけな。三十一日だ」と中本。
大学受験の初陣をきるのは中本の青山学院大学だ。次は僕の明治大学が二月一日だったはずだ。本命の日大芸術学部映画学科の一次試験は二月六日で受かれば二次試験がその十日後くらいにある。
「じゃあ俺がみんなの切符取ってもええけどどうする?」とセノマン。セノマンはそういう面倒くさいことをなぜか率先してやってくれるのだ。
「ええで、頼むわ」と僕が言うと、みんながセノマンにお願いすることになった。
「そういえばカーシズは大阪の大学らしいぞ」とガンデンが言った。
「えー、マジかいや、東京こいや!」とエロ川。
カーシズというのは中央高校で一番の美女と評判の魚山伊智子のことだ。この名前からなぜカーシズなどというあだ名がついたのかというと、彼女の笑顔は工藤静香の笑顔のように困った顔の八の字眉毛になってかわいいからカーシズというあだ名を僕たちはつけたのだ。
「まあ結局、倉吉の女は大阪止まりっちゅうことだら」とセノマン。
「物の本質を見る力がないけえの。俺らは東京出てからが勝負だわい」と僕は言った。
倉吉の女性の皆さん、本当にごめんなさい。当時、僕らは女性からまったくモテなくて――いや、正確には野球部のエースだった中本は少しモテた。もう少し女子に愛想が良ければもっとモテただろうに、中本はなぜか女子に対して愛想が悪かった――それを倉吉在住の女性たちが俺たちの本質を見抜く力がないからだなどと言っていたのだ。まことに申し訳ございませんでした。
モテなかったと書いたが、それでも僕は高校二年のときに一つ年上の三年生の前田智恵美さんから告白されたことがある。昼休みに部室棟の裏に呼び出され「付き合ってほしいんだけど」と告白された。人生で初めて告白された僕はすっかり舞い上がってしまい、うんともすんとも返事ができなかった。ただ、前田智恵美さんの外見はそんなに好みではなかった。色黒で背が小さくてオッパイもほとんど目立たなくて、顔は良く言えばミッキーマウス、悪く言えばただのネズミのような顔をした人だった。ねずみ男とまでは言わないが前歯が二本、常にチラッと見えていた。それでもこんな僕に告白してくれたことが嬉しくて、「今日、一緒に帰らん? 高崎君が部活終わるの待っとるけえ」と前田さんに言われると「はい」と僕は答えてしまった。
教室に戻ると、すでに僕が告白されたことはクラスの男子がほぼ全員知っていた。みんな口々に「お前、あんなのがええだかいや」「後悔するぞ!」「ただのネズミだがな」などと、今思うと、いや、当時でもずいぶんとひどいことを言われた。そして彼女のあだ名はあっという間に「チュー」になった。もちろんキスのチューではなくてネズミの鳴き声の「チュー」だ。しかし一番ひどいのはそんなあだ名をつけた仲間たちではなくてこの僕だった。
ソフトボール部の練習場は陸上部のグラウンドの脇に小さく併設された空き地のような狭いグラウンドなのだが、チュー……いや前田さんはその日、だいぶ離れた目立たない場所からソフトボール部の練習をずっと見ていた。僕は練習の間ずっと「どうしゃーか、どうしゃーか(どうしよう、どうしよう)」と考えていた。つまりそのときの僕は、友人たちからの評価の低い前田さんと付き合う気がなくなっていたのだ。
部活が終わり、部室で着替えていると同じソフトボール部のセノマンが「ほんにでチューと付き合うだかいや。ずっと待っとるがな」と言ってきた。
「うーん……どうしよう。やっぱりイヤかも……」と僕が言うと、セノマンをはじめソフトボール部の仲間たちが「じゃあ、ここから逃げちゃえーや」と言って部室にある小窓をあけた。人一人なんとか通り抜けられそうな小さな窓だ。
前田さんは部室の表で僕を待っている。この小窓から出れば部室の裏に出られるから前田さんに見つからないように逃げることができる。
僕はソフトボール部の仲間たちから「逃げちゃえ、逃げちゃえ」と焚きつけられて、その小窓から脱出をはかった。前田さんがどんな気持ちになるか、その頃の僕は想像できなかった。いやちょっとは想像した。なにせ人生で初めて僕に告白してくれた人だ。感謝の気持ちはあったし、きっと前田さんはすごく傷つくと思ったが、それよりも友人たちから評価の低い「チュー」というあだ名のついた前田さんと付き合うことのほうが僕には苦痛だった。サイテーなやつだと自分でも思いながら、心の中で「前田さん、ごめんなさい!」と謝って逃げた。
翌日、前田さんの友達という女生徒が僕の教室を訪ねてきて、彼女からの伝言と言って僕に手紙を渡してきた。その手紙を開くと、「あんた最低な人だな。あんまりなめたことしとると血ぃ見るで」とだけ書いてあった。僕はそれを読んで怖くなった。もしかしたら前田さんのお父さんがヤクザとか、とんでもないヤンキーのお兄さんでもいるのだろうかと想像して、拉致監禁などされたらどうしようかとにわかに不安になったのだ。なにせその頃の倉吉周辺はヤンキーだらけで被害を被ったこともあったし、小学生の頃は山一抗争の舞台にもなっていた街だから暴力と血の匂いに僕は敏感で臆病なのだ。だがその後、前田さんからなにかを仕掛けられるということはなかった。校内ですれ違っても前田さんは僕のほうを見ることもなく、何事もなかったかのように通り過ぎて行った。どうしてそんなに何事もなかったかのように振舞えるのかと当時の僕は不思議に思ったが、そうする以外になかったのだろうということが今は少しわかる。ニコッと微笑むなんてできっこないし、睨みつけることも嫌だろう。
そんな前田さんは高校を卒業後、地元のスーパーに就職して、天神祭りというお祭りで「ミス天神川」の称号をゲットした(天神川というのは鳥取県中部を流れる一級河川だ)。そのミスコンには三人しかエントリーがなかったようだが、今は元気な男の子を四人育てているとのことだ。
話が大きくそれてしまったが、カーシズが東京の大学を受けないということはさほどショックではなかった。どうせ東京に出ればカーシズ以上の女性がたくさんいるはずだ。
「東京に行けば赤名リカみたいな女がようけおるわい!」
エロ川がそう言いながら学生ズボンを脱いで毛むくじゃらの股間を出して腰を振った。
「きたねえなお前。出すな」とイチモンが言った。
エロ川は、まるで類人猿にでも先祖返りしたかのように毛深い。お尻も股間も剛毛で覆われていて胸毛もびっしりだ。初めてその裸体を見たときは軽く驚いたが、エロ川は脱ぎ癖があるのだ。僕ならこんな剛毛裸体を他人にさらすのは恥ずかしいが、エロ川は平気で人前で脱ぐ。何度もその裸体を見ているうちにすっかり見慣れてしまった。
「そうだ、今日『東ラブ』の二話だがな。見ないけんがな」とガンデンが言った。
『東ラブ』というのは『東京ラブストーリー』という織田裕二と鈴木保奈美主演のドラマのことで、僕たちは略して『東ラブ』と言っていた。先週からフジテレビで始まったのだが、僕たちはすっかり鈴木保奈美の虜になってしまった。東京に行けば、あんなに積極的で美しい女性に会えると本気で思っているのだ。
「ほんに鈴木保奈美最高だわ」とプーメン。
「シコるなよ!」とエロ川が学生ズボンをはきながら言ったが、わざとチャックの部分をあけておちんちんは出したままだ。
今夜、『東京ラブストーリー』の第二話の放送があるというだけで、受験勉強をしなければならないという暗い気分が少し吹っ飛んだ。
家に帰るとすでに父も妹もそれぞれ仕事と学校から帰っていてちょうど夕飯を食べていた。
「腹減ったよ、今日なに?」
いつものように僕はメニューを聞く。
「いつもと変わらん。さっさと食べちゃって」と母が言った。
食卓の上にはどーんと豚肉の生姜焼きと昨晩の残りのハンバーグ、大きな皿にお刺身が何種類かのっている。ポテトサラダだけがなぜか丁寧に四人分に分けられているのはいいのだが、のっているのはコーヒーカップのソーサーだ。母は昔から食器の使い方がいい加減で、僕はそれをなんとも思っていなかったのだが、中学の時に泊まりにきたガンデンが、「お前の母ちゃん、変わっとるとは思っとったけど、やっぱりかなり変わっとるな」と言ったことで、母が少し変わった人なんだと分かった。変わっているのは食器の使い方だけでなく、洗濯物も庭の壁とか木なんかに干す。物心ついたときから目にしていた光景なので、それが特段珍しいことだとは思っていなかった。
僕はほとんど飲み込むようにして生姜焼きとご飯を喉に流し込む。
「もっとゆっくり食べなさいよ。味わって。美味しいでしょ」
と母は冗談めかして言った。
「うん。いつもと変わらないけどね」
「一言余計よ」
鳥取弁を使わない母は、熊本県の出身で、名を佳子と書いてヨシコと読む。大学時代に東京で父と出会って、結婚して父の故郷である倉吉にやってきた。鳥取弁はダサいから使わないのだと言う。
今ものどかな田舎町の倉吉は、母が来たときは、ほぼ野っ原で家と家の間隔が五十メートルくらい離れていたというのは母の談だ。こんな田舎でどう過ごしていいのか途方にくれた母は、とりあえず友達を作ろうと思って出会う人に片っ端から「うちにお茶飲みに来ない?」と声をかけた結果、変わり者扱いされて誰にも相手にされなくなったようだ(そりゃそうだろう)。
僕が赤ちゃんから幼稚園に入る三歳くらいまでは、ベビーカーに乗せて十キロくらい歩いて毎日のように海を見に行っていたそうだ。僕が小学校にあがる頃にようやく親同士のつながりとか、他県から来た同じような境遇の人と出会って友達ができたのだが、とにかく最初の数年は孤独で辛かったらしい。
その時の辛さを忘れられないのか、僕が小学生の頃から「あんたは東京に出なさい。こんな田舎にいちゃダメ」と鳥取県に住んでいる人が聞いたら怒りそうなことをずっと言っていた。だから僕は早いうちから高校を卒業したら東京に行くものだと思っていた。日大芸術学部映画学科を目指すことになったのは、中学二年のときに母が「こんな学校があるよ」とその頃すでに映画好きだった僕に、日大芸術学部の赤本を買ってきたのがきっかけだ。
そこで僕の進路は決まったのだが、アホな僕はその過去三年分の入学試験問題が載っている赤本だけを高校二年までやり続けた。その結果、その赤本に関しては常に百点がとれるようになったのだが(当たり前だ)高校三年生の受験生になり、新しい赤本を買ってみると、ぜんぜんできなかった。
「あ、そうだ、やっぱり『出雲』で行くことにしたから」
「なに?」と母。
「受験だよ。中本やガンデンたちと」
「飛行機で行けばいいじゃない、あっという間なんだから」と母が言うと、「『出雲』で行きたいって言っとったがな。ほんに大丈夫かいや、お前ら」と父が言った。
大学時代に東京にいたとはいえ、鳥取県出身の父は当然のように鳥取弁を使う。
「大丈夫だよ。飛行機なんかで行ってもつまんないよ」
そしてお気づきの読者の方もいらっしゃるかもしれないが、僕も家では東京弁というのか標準語で話す。母がそうだったから自然とそうなってしまったのだが、ちなみに今のセリフを倉吉弁で言うと、
「大丈夫だわいや。飛行機なんかで行ってもつまらんが」
になる。
「修学旅行じゃないだぞ」と父は半分笑って言った。完全に修学旅行気分というか遊び気分なのはバレバレだ。