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* * *

 

 沖晴と両親が暮らした家は、雪杜市から在来線を乗り継いで二時間ほど北上した街にある。海沿いの狭い土地に、家々が身を寄せ合っているような小さな街だった。街の中心は漁港。漁業が盛んで……それ以外は特に思い浮かばない。そういう街。

 沖晴の家は、海へ続く川の側に建っていた。記憶にある家は、青い屋根の二階建てだった。庭には両親の運転する車がいつも停まっていて、縁側の横の花壇には、季節ごとに花が咲いていた。

 ということは、父か母か、もしくは両方が、花が好きだったのだと思う。

 想像しかできないのは、あそこにどんな花が植わっていたか沖晴がほとんど覚えておらず、両親に直接聞くこともできないからだ。

 あの地震があったのは、沖晴が八歳のときだ。

 金曜日だった。沖晴は小学校にいた。五時間目の授業が終わった直後だった。このまま帰りの会をやるからと、担任の先生が号令をかけたとき。

 体がどんと跳ねるような衝撃を感じた瞬間、先生が「机の下に!」と叫んだ。「入って」という声は、教室全体がガタガタと軋む音と、近くの席の女の子の悲鳴で掻き消された。教室の後方のロッカーからランドセルが大量に飛び出て、学級文庫の棚が倒れた。

 地球がバラバラになって崩れてしまうんじゃないか。子供ながらに、そんなことを思った。机の脚を両手で掴んで、目を閉じて、息を止めて、振り回されるような大きな揺れに耐えた。遠くでガラスの割れる音がした。

 地震は長かった。あんなに長い地震には、後にも先にも遭遇したことがない。やっと揺れが収まったところで、グラウンドに避難した。

 外に出た瞬間、湿った磯の香りがした。小学校から海がよく見えて、あの日の海は灰色がかった深い藍色だった。

 寒さが頬に染みたけれど、そんなこと気にしていられなかった。上履きで蹴ったグラウンドの砂は、ざりっと湿った音をしていた。下級生の女の子が転んで、一瞬だけ泣き声を上げて、それどころじゃないと察したのかすぐさま立ち上がった。

 グラウンドに避難しているうちに、正門の方から何台か車が入ってきた。あまりに大きな地震だったから、子供を心配して保護者が迎えに来たのだ。

 その中に、沖晴の両親もいた。

 父が車から駆け降りてきたのが見えたとき、心底安心して、沖晴は二人のもとに走っていった。

 何も心配していなかった。大きな地震だったけれど。防災無線からしきりにサイレンが鳴っているけれど、両親と一緒ならもう何もかも大丈夫。そう信じていた。

 両親と共に学校を出た直後、渋滞に巻き込まれた。高台に車で避難しようとした人々で、街の中心部を走る道路は大渋滞していた。

 そこに、津波が来た。

 迫り来る黒々とした海と、灰色の飛沫。津波に呑まれた車があげる、断末魔みたいなクラクションの音。全部よく覚えている。慌てて車を降りたのも。運転席から飛び出した父が沖晴の名前を呼んだのも。

 気がついたら海の中にいた。冷たくて、真っ黒で、ヘドロのようなえた匂いがした。毎日眺めていた海は、どす黒く濁っていた。

 藻掻いて藻掻いて、必死に水面を探した。やっと息が出来たと思ったら、自分の息が真っ白に染まっていた。掌は血だらけになっていて、目の前を軽自動車が流れていった。運転席には人がいた。割れた窓ガラスからなんとか脱出しようとしているのは、年老いた女性だった。

 人が流れていった。家も車も流れていった。何度か助けてと声を上げたが、誰も他人を助けることなんてできなかった。

 父の姿も、母の姿も、どこにもなかった。

 そのとき、誰かが自分の肩を叩いたのだ。ポンポンと、友達に声でもかけるみたいに、軽やかに叩いた。

 気がついたら、沖晴は海の上で漁船に助けられていた。

〈誰か〉が自分を助けたのだと、すぐにわかった。自分はその〈誰か〉と取引をしたから、助かった。父も母も、母のお腹の中にいた弟か妹も、生きて帰ってこなかったから。

 自分の肩を叩いた〈誰か〉を、沖晴は死神と呼んでいる。

 

 青い花模様のカップに注がれた紅茶に口をつけながら、自分の耳たぶが異様に熱いことに気づいた。薫り高いダージリンからはほのかにハチミツの風味がした。

「顔が赤いですよ」

 沖晴の向かいに腰かけた万智は、テーブルを挟んでこちらを凝視している。睨みつけているようにさえ見えた。

「すいません、自分で話してても現実に思えなくて、恥ずかしくなっちゃって」

「恥ずかしいことなんですか?」

 妙に鋭い問いかけに、慌てて「いやっ」とカップをソーサーに置く。

「別に大浪さ……いや、万智さんに言っているのではなくて、俺自身の感覚の話です」

「そうですか」

 ふーん、と鼻を鳴らした万智の左頬には、オレンジ色を帯びた金色の光が差している。

 閉店時間を過ぎたからと、カフェの照明は最小限になっていた。メインの明かりは落とされて、ペンダントライトの光だけが店内を照らす。

「俺からも、聞いてもいいですか」

 恐る恐る聞くと、万智は小さく頷いた。耳にかかっていた髪が、さらりと音を立てるように流れ落ちていく。

「志津川さんの話を聞いておいて、自分だけ話さず終わりにするつもりはないです」

「じゃあ、聞きますけど」

 一瞬だけ、息が詰まる。あの日の話を自分からするよりも、他人に質問する方が、ずっときつい。胸の奥からガラス片を取り出すように、沖晴は問いかけた。

「万智さんも、あの日、津波に遭ったんですか」

「あなたと同じです」

 沖晴を見つめたまま、表情筋をほとんど動かさず万智は言い放った。

 ざらりと、耳の奥でいびつな音が響いた気がした。冷たく暗い海の中を流れていった瓦礫の山が、擦れ合って悲鳴を上げた。

「私は、小学五年生だったから。雪杜市の隣の、海辺の街。志津川さんと同じように、地震の後は先生とクラスメイトと一緒に校庭に避難した」

 ああ、本当に、同じだ。胃のあたりがぎゅっと強ばるような感覚が、襲ってくる。

「小学校は海に近かったから、裏山に避難しようって先生達が言いだした。私の家は小学校に近かったから、母が車で学校まで迎えに来てくれた」

 背筋にぞわりと冷たいものが走っていく。紛らわそうと紅茶に手を伸ばそうとしたのに、腕が動かない。

「車ごと、ですか」

「同じ小学校に通ってた妹と一緒に、みんなで高台に向かおうとした。道が渋滞してて、妹もまだ小さいし、車を捨てて逃げようって判断するまで、時間がかかった」

 万智が言葉を切る。店は静まりかえった。路地には他に飲食店もあるが、商店街のメインストリートの賑やかさは、ここまで届かない。

「私は後部座席に妹と乗ってて、車が波に飲まれたとき、祈っちゃったんです」

「祈った?」

 彼女の視線は窓の外に向いていた。昼間はあんなに輝いていたステンドグラスが、黒くくすんでいる。

 口を開きかけた万智が、何か言おうとして言葉を呑み込んだのがわかった。余計なお世話だろうと思いつつも、沖晴は助け船を出してしまった。

「助けてって、祈ったんですか」

「そうですね。子供ながらに」

 歯切れ悪く頷いた万智が、ゆっくりと沖晴を見つめる。

「気がついたら、私達が乗った車は津波に流されていて、側にあったビルの壁に引っかかりました。そのビルには外階段がついていて、避難していた人達が私達を車から引っ張り出してくれた」

「じゃあ、お母さんも妹さんも、助かったんですね」

 ほっと息をついてしまった。あまりに沖晴の状況と酷似していたから、彼女の母親も妹も、沖晴の家族のように亡くなったか、未だに見つかっていないんじゃないかと……そんなことを考えてしまった。

「ええ、本当に、運よく助かりました。うちは両親が離婚してたから、母と妹と家族三人きりだったし」

 一瞬だけ、万智の頬が緩んだように見えた。でも、沖晴の視線に気づくと、すぐさまきゅっと引き締めてしまう。

「ごめんなさい」

 伏し目がちに、頭まで下げてくる。

「え?」

「志津川さんのご両親は亡くなったのに、うちは、みんな助かったから」

「いや、それはしょうがないっていうか、そんなこと言い出したら誰も当時のことを話せないというか……ていうか、聞いたのは俺ですし」

 自分達の境遇が奇跡的に似ていたわけじゃない。あの日、大きな地震を前に「これはただ事ではない」と慌てて子供を学校へ迎えに行き、避難中に渋滞に巻き込まれた人は多かったのだ。そのまま津波に飲まれた人が、大勢いたのだ。

 自分達が特別なのではない。同じ不運に襲われたたくさんの人のうち、たまたま生き残った二人が、たまたまこの店で出会っただけ。それは、この街では珍しいことでもなんでもない。

「万智さんは、自分を助けてくれたのが死神だと思ってるんですよね」

 沖晴の問いに、万智は少しだけ困った顔をした。口の端をねじ曲げるようにして、首を縦に振る。

「私の『助けて』を、誰かが聞いてくれた気がするの。『わかった』って答えてくれたような感覚があった」

 それに。そう短く言葉を切った万智が、か細く息を吸う。

「大勢死んじゃったのに自分達だけ気まぐれに助けてくれるなんて、死神とか、そういう禍々まがまがしいものの仕業に違いないって、子供心に思ったのよ、きっと」

「生きて帰ったら、嬉しいことを喜ぶ感情が、綺麗になくなってた?」

 沖晴の指摘に、万智は小さく鼻を鳴らす。彼女の手元にある紅茶は、全く口をつけられてない。

「……違いましたか?」

 いえ、と肩を竦めた万智に、沖晴は首を傾げてしまう。

「子供の頃、この話を母や妹、あとは当時仲のよかった友達にしても、みんな目が点になるの。だから、こんなにするする理解して……いや、話さなくても理解してくれるから、ちょっと気持ち悪くて」

 何度も肩を竦めながら、万智ははじめてカップに手を伸ばした。ハチミツ風味の紅茶を一口飲んで、わずかに、本当にわずかに、頬を緩める。

「志津川さんの指摘はとても的確です。私は、あなたの言う死神とやらに自分と家族の命を助けてもらって、その代わりに、どうやら《喜び》という感情を失ったようです。私がこれを認識するのに、三年くらいかかりました」

 笑うことができない。友達と話していても楽しくない。母が好きな料理を作ってくれても、何も感じない。好きだった歌手の新曲発売を聞いても、心が躍らない。お笑い番組を見ていて、母や妹がけらけら笑っていても、くすりとも笑えない。

 自分の心がおかしくなったのか? でも、クラスメイトにからかわれたら腹が立つし、テストの点数が悪かったら不安になるし、友人に仲間外れにされたら寂しいと思うし……ネガティブな感情は、ちゃんと自分の胸の中にあった。

 事実を一つ一つ掻き集めて、並べて、考えに考えた結果、やっと自分には《喜び》が欠落していると気づいたという。

「あなたは?」

 当然という顔で万智が聞いてくる。

「え?」

「あなたは、喜びの感情はあるんだよね?」

 そんな問いが飛んでくるのは予想できていたはずなのに、「あー……」と唸り声を上げてしまう。

 津波から生きて帰ったら、万智と同じように、自分の中の何かが変だった。

 生きて帰れてよかった、嬉しい。避難所で食べさせてもらったごはんが美味しかった、嬉しい。避難所のボランティアスタッフが優しくしてくれた、嬉しい。避難所に芸能人が慰問に来てくれた、嬉しい。

 でも──。

 父さんも母さんも死んでしまったのに、悲しくない。津波に呑まれたときのことを思い出しても、怖くない。瓦礫の隙間で血まみれになって亡くなった人を見たのに、怖くもなければ気分も悪くならない。自分を引き取ってくれた親戚に邪険にされても悲しくない。怖くない。不安も感じない。

 おかしいとわかっていた。そんな自分を、周囲の人が気味悪がっているのも。

 なかったのだ。あの頃の志津川沖晴にあるのは《喜び》だけだった。ネガティブな感情だけがなくなって、ポジティブなものだけが残っていた。

 でも、それは過去の話だ。

「どうしたの?」

 黙りこくった沖晴に、万智が重ねて聞いてくる。沖晴は店の天井に視線を泳がせた。ペンダントライトが、優しい金色に輝いていた。

「俺に、ないのは……」

 志津川沖晴には、《悲しみ》《怒り》《嫌悪》《怖れ》がない。

 志津川沖晴には、《喜び》だけがある。

 でも、それは昔の話だ。沖晴が広島の階段町で過ごしていた頃。

 踊場京香と一緒に過ごしていた頃。

 踊場京香が、生きていた頃。

「か……悲しみが」

 咄嗟に、そう口にしてしまった。

「俺は、多分、悲しいという感情を、持っていかれたんだと思います」

 駄目だとわかっているのに、本当のことを言えない。俺も確かに死神に感情を持っていかれたんですけど、今はもう全部取り戻したんです、なんて。

 どうしたって事実なのに、万智に「ふざけてるのか」と言われてしまう気がしたから。いや、絶対に言う。俺が彼女の立場だったら、絶対に怒る。

 だって彼女は、せっかく出会えた「死神に感情を取られた仲間」だから。

「そっか、悲しみがないんだ」

 自分のティーカップを見下ろしたまま、万智が呟く。ほんの少しだけ、これまでに比べると声色がまろやかだった。

「喜びがないのって、たいして不便じゃないんだけど、悲しみがないのはどう?」

「あー、うん、そうですね。便利といったら、便利、なのかな?」

《悲しみ》がなかった頃の自分を必死に思い出しながら、沖晴は絞り出した。その頃の自分が何を感じながら生きていたのか、いまいち思い出せない。

 むしろ、そんな自分と毎日のように顔を合わせていた踊場京香のことばかりを思い出してしまう。

「なら、よかったね」

 紅茶を飲み干した万智は、おもむろに席を立った。カウンターの中でがさがさと引き出しを開けたと思ったら、濃紺の紙の束を持って戻ってくる。

「これ、うちの店のドリンクチケット」

 横長のチケットには、コーヒーカップとティーカップのイラストが描かれていた。カフェ・天井裏と店名もプリントされている。

「十二枚綴りで四五〇〇円なんだけれど、あげる」

 はい、とチケットの束をテーブルに置いた万智が、微笑んだように見えた。ペンダントライトの照明の加減でそう見えただけかもしれない。

「いいんですか?」

「同じ死神仲間だから、あなたとは、もうちょっと話してみたいの。よかったら、また来て」

「この店、結構気に入ってるんで、チケットをもらわなくても全然来るつもりだったんですけど」

 言いながら、ふっと笑ってしまった。ああ、俺は転勤してから、ずっと寂しいんだな。会社の同僚とも楽しく仕事しているつもりだけど、こんなふうに新しい街で知り合いができたことを、嬉しく思っている。

 しかもその相手が、自分と同じように死神に感情を取られた人だなんて。

「死神仲間って、ちょっと面白いですね」

 チケットの束を受け取って、沖晴は「また来ます」と鞄を手に立ち上がった。空になった二つのカップを手に、万智はいつも通りの無表情で会釈をした。

「お待ちしてます」

 初めてこの店に来たときと同じ、無愛想で、素っ気ない言い方。「話してみたい」「面白い」「お待ちしてます」と言葉にはできても、そこには《喜び》の感情がない。

 でも、わかる。自分だってかつて、いつもニコニコしている不気味な少年だったから。彼女はあの頃の沖晴と真逆だ。《喜び》の感情がないから、普通にしているつもりがこうなってしまう。

 死神と取引をしたことのない人間には、きっと理解できない。

 

 カフェ・天井裏を出ると、店の明かりが完全に消えた。真っ暗に沈んだステンドグラスをしばし見つめて、沖晴は商店街のメインストリートに出た。

 カフェの静けさが嘘のように、欅の道商店街は賑やかだった。飲食店はまだまだ営業中だから、あちこちから食べ物のいい匂いが漂っている。

 夕食がまだだったが、沖晴は真っ直ぐ商店街を抜け、自宅へ向かった。さっきまでの時間を、一粒も自分の外にこぼしたくなかった。

 自分の部屋の玄関を開けると、廊下にぼんやりと小さな照明が灯っていた。帰宅したときに家が真っ暗なのが嫌で、出かけるときに必ず点けているのだ。

 スーツのジャケットを脱ぐことすらせず、ベランダに出た。スリッパ越しに、コンクリートの冷たさが這い上がってくる。

 構わず沖晴はベランダにもたれ掛かった。マンション前の公園の桜は、すっかり散ってしまった。

「初めて会ったな……」

 昔は……高校生の頃は、死神の話を平気で他人にした。階段町で出会った踊場京香にも、涼しい顔で打ち明けた。彼女がどれほど驚いても、沖晴のことを疑っても、胸は痛まなかった。そういう感情が、あの頃の自分の中になかったから。

 大人になった今は違う。死神と取引だなんて、何もかも自分の妄想だった気がしてしまう。階段町での日々が遠くなれば遠くなるほど、俺はどうかしていたんだと思えてしまうのだ。

 踊場京香という女性との思い出まで一緒に色褪せていくようで、ときどき怖くなる。

 だから、大浪万智と出会えたのは、嬉しかった。

「嘘、ついちゃったな」

 ジャケットのポケットからドリンクチケットを取りだして、思わず声に出してしまう。なんだか、嘘をついて三五〇〇円分のチケットを騙し取ったような感覚だ。

《喜び》の感情しかなかった自分なんて、とうの昔の存在なのに。この嘘を俺はつき通せるのか。ネガティブな感情がなかった頃が嘘のように、年々涙もろくなっている、この俺が。それだけが気がかりだった。

 緩やかな風に、桜の木が音を立てずに揺れる。上手く嘘をつき通せるだろうか……なんて考えながら、上下に揺れる桜の枝を眺めていた。

 

 ──沖晴君。

 

 風にのって、名前を呼ばれた気がした。懐かしい声に、沖晴はそっと目を閉じた。

「踊場さんですか? それとも、実は死神ですか?」

 戯れにそんな問いを投げてみたが、当然ながら答えはない。

 それでも、引っ越して初めて、一人きりの夜を心地がいいと思った。

 

◆ ◆ ◆

 

 カフェの裏口の鍵を閉めて、大浪万智は鍵を握り締めたまま路地を歩いていった。鍵についたトンボ玉のストラップが、掌でひんやりと冷たい。

 ここで働き始めた数年前は、店を閉めるのはマスターである若葉さんの役目だった。万智の店員歴が長くなるにつれて、施錠が万智の仕事になり、閉店作業も任されるようになった。毎日鍵を店の二階に暮らす若葉さんに返却していたのが、今では万智がそのまま家に持ち帰っている。

 信頼されているのだと思う。こんな人間が、ありがたいことに。

 今日はそれがいつも以上にありがたかった。今、誰かと言葉を交わしたくない。

 商店街の喧騒が遠ざかっていく。住宅街に入り、周囲は徐々に静かになっていく。鍵を握り締めた右手を、静かに胸にやった。痛い。彼が──志津川沖晴が「死神」という単語を口にした瞬間から、何故かずっと胸に鋭い痛みが走っている。

「本当に……」

《悲しみ》がないと、彼は言った。死神のことも知っていた。

 たくさんの大人が、友人達が、「自分の殻に閉じこもって妄想している」とか「注目されたいから嘘をついている」などと何度も……何度も何度も何度も、思い出すのもうんざりするくらい幾度も指摘したのに、志津川沖晴はあっさりと呑み込んで、「死神に会ったことがあるんですか?」と問いかけてきた。

 足を止め、万智は住宅街の路地から夜空を見上げた。星が綺麗なわけでも、月が輝いているわけでもない。

 なんてことない空は、なんてことない顔で万智を見下ろしている。

 あの津波の日も、壊滅した街を見下ろす五階建てのビルの屋上から、救助を待ちながら空を見上げていた。黒々と冷たい色をした夜空だった。氷の粒のような鋭い雪が舞っていた。

 あの大津波から、もう十五年以上たつ。

 今頃になって、同じ人間に出会うだなんて。

 

(つづく)

※作品全編はWEB小説推理でお楽しみください