プロローグ 死神の見送り
「転勤っ?」
小さな会議室を、自分の声が跳ね回った。大きなリアクションが面白かったのか、新卒から世話になっている部長の吉岡は音を立てて吹き出した。
「安心しろ、まだ決定じゃない。打診だ、打診。志津川が嫌なら断っていいし」
歳は沖晴より二十歳も上だが、若手社員の意見を積極的に聞いてくれる、いい上司だ。ちょっと彫りが深くて強面なのだが、気軽に話しかけられるいい人だと沖晴は思っている。
「うちの会社もさ、昔は有無を言わさず転勤だったんだけど、最近は当人の希望をちゃんと聞いてくれるようになったからさ」
話しながら、吉岡部長は転勤先の支社名を口にした。「冬はちょっと寒いかもしれないけど」とつけ足しながら。
「志津川、出身はあっちの方なんだろう?」
「はい、一応。小学校低学年くらいまでですけど」
「年明け早々に悪いけど、考えてみてくれ。駅前の再開発事業に参加できるチャンスだ。志津川も、研修の頃から街作りに関わりたいって言ってただろ?」
その通りだ。大学生の頃に建設業界──それも、都市開発を行うような大手企業を志望したのも、家やビルだけでなく、そこに暮らす大勢の人々の営みを作る仕事に憧れたからだった。
いろんな建設会社の採用試験を受けて、現在勤める大手建設会社「梓川建設」に滑り込んだ。希望していた都市開発部に配属され、会社員生活もあと二ヶ月ほどで三年目に突入しようとしている。
「何年くらいになるんでしょうか、転勤って」
「そうだなぁ、今年の四月から、短くて三年ってところか。再開発事業は長丁場だから、もっと長くなるかもしれん」
腕を組んで天井を仰ぐ吉岡を前に、沖晴はジャケットの内ポケットから手帳を引っ張り出し、吉岡の話をとりあえずメモしておく。一年目のときに叩き込まれた習慣だ。
転勤の期間については、あえて「五年以上」と書き込んだ。吉岡のこの口振りからして、これくらいが妥当な気がする。
「わかりました、前向きに検討します」
「おお、行ってくれるか」
「別に結婚してるわけでもないですし、身軽ですからね。入社したときから、いつか転勤もあるだろうなとは思っていたので」
俺には、家族だっていないわけだし。吉岡だってそれはわかっているはずだ。沖晴が転勤の候補者に選ばれたのだって、そういう理由からかもしれない。
「助かる。ぜひ頼んだよ」
転勤を嫌がる若手がそんなに多いのだろうか。吉岡からは異様に感謝された。今度美味い串揚げを食べに連れていってもらうという約束までした。
* * *
駅を出て少し歩いたところで、数メートル先に見知った背中を見つけた。街灯に照らされた濃紺のコートに確信を持って、沖晴は「冬馬さーん」と駆け寄る。
「なんだ、沖晴だったか」
一瞬だけ立ち止まった赤坂冬馬は、沖晴に気づくとすぐさま何食わぬ顔で歩き出した。沖晴は隣に並んで、手にしていたレジ袋を掲げてみせた。
「お土産、会社の近くにこの前オープンしたケーキ屋のプリン。同期の子が美味しいって言ってた」
「いつも悪いな。土産なんて買ってこなくていいのに」
「夕飯ご馳走になるんだから、手ぶらは申し訳ないよ。もう大学生じゃないんだし」
「新卒二年目なんて、学生みたいなもんだろ」
ははっと笑う冬馬は、三十四歳だったか。沖晴とはちょうど十歳違いだ。歳の離れた兄のような従兄のような、もしくは歳の近い伯父のような──でも、血縁関係は一切ない。説明に困る関係が、もう何年も続いている。
駅から続く広々とした歩道を歩くこと五分。二十階建てのマンションの五階が、冬馬の家だ。冬馬が帰ってきたのに気づいたのか、玄関のドアを開けた瞬間、奥から忙しない足音が聞こえてくる。
「ハルちゃ!」
数ヶ月前に二歳になったばかりの日向が、冬馬そっちのけで沖晴の足に飛びついてくる。プリンの入った箱が揺れないようにバランスを取りながら、沖晴は「あはは」と苦笑した。
「お前が来ると、パパそっちのけでこれだもんなぁ」
一瞬だけ顰めっ面をした冬馬は、「パパが帰ったぞぉ」と日向の頭をひと撫でして、リビングへ向かう。沖晴も日向の手を引いてついていった。
「ハルちゃ、おとまり?」
「ごめん、今日はお泊まりしないよ。明日お仕事だからね」
「あしたは?」
お団子みたいな短いポニーテールを揺らして、日向が聞いてくる。「また今度ね」と返したら、「いつ?」と聞かれる。自分も子供の頃はこうだったのかなと笑ってしまった。
沖晴だからハルちゃんらしいのだが、日向が言うと「ハルちゃ」にしか聞こえない。
「沖晴君、いらっしゃい。寒かったでしょ?」
キッチンで鍋を覗き込んでいた陽菜さんが、「見て、沖晴君の鍋のおかげで超美味しそうにできたの」と手招きする。
「カレーですか?」
「あ、匂いで気づいた?」
沖晴が去年のクリスマスにプレゼントしたホーロー鍋の中で、ほんのり赤いカレーが煮込まれていた。
「お水入れないで、トマトとたまねぎの水分だけで作ったカレー。まだ味見してないけど、絶対美味しいよ、これ」
ふふっと笑った陽菜さんが、「手、洗っておいで」と洗面所を指さす。はーい、と返事をして、沖晴はコートとジャケットを脱いだ。
「ハルちゃ、おふろはー?」
日向が自分のパジャマを引きずりながら寝室を出てきた。追いかけてきた冬馬が「だーめーだ」と日向を抱える。
「うちの風呂は三人じゃ入れないだろ」
肩を落としながら、冬馬は日向を連れて風呂場へ向かった。沖晴が来るといつもこうだから今更拗ねてもいられないと、この前ぽろっとこぼしていたっけ。
「日向はね~、今完全にパパより沖晴君だから」
カレーをお玉でかき混ぜながら、陽菜さんまでそんなことを言う。
「陽菜さんまでそんなこと言っていいんですか? 冬馬さん、結構拗ねてますよ?」
沖晴がこの家に来ると、「ハルちゃ」と「陽菜さん」がいるややこしい状態になる。でも、誰もそんなこと気にしない。ときどき「いいのかな?」と思っているのは、沖晴だけだ。
「いいのよ。冬馬さん、日向にデレデレなのにパパとしては結構躾に厳しいから、しょうがないの」
「いいのかなぁ……」
洗面所で手を洗っていると、扉一枚隔てた風呂場からキャッキャという日向の笑い声が聞こえてきた。
キッチンでサラダを作る陽菜さんを手伝い、カレーの付け合わせの福神漬けやらっきょうを準備しているうちに、再び廊下が騒がしくなる。
ラベンダー色のパジャマを着た日向がリビングに飛び込んできて、その後ろをドライヤーを手にした冬馬が追いかけてくる。あまりに見慣れた光景なのに、ふとした瞬間に、胸がじわっと温かくなってしまう。
冬馬とも、陽菜さんとも、当然ながら日向とも、沖晴は血縁関係がない。圧倒的に他人なのに、家族同然のようにこうして食事を共にする。親戚の子のようにこの家に泊まることもある。家族旅行にくっついて行ったことも、一度だけあった。
経験はないけれど、誰かに「あなたはこの家族とどういう関係なの?」と聞かれたら、ものすごく答えに困る。冬馬と陽菜さんが同じ質問をされたら、どんな顔をするのだろうか。
より正確に説明すると……沖晴はかつて「冬馬の元恋人の女性の実家の近所に住んでいた、ほぼ天涯孤独の高校生」だった。
あの頃、沖晴は東京よりずっと西、海を望む階段のような街で暮らしていた。山肌を坂道と階段が這い、家々が建ち並ぶ美しい街だった。
その街で冬馬の元恋人と長い時間を過ごし、最期を看取った。たくさん世話になって、たくさん迷惑をかけて。
互いの間にあった感情がなんだったのか、彼女の死から六年以上たつのに、未だによくわからない。もちろん、向こうがどう思っていたのかなんて、今更聞くこともできない。
でも、六年たった今も自分の胸にある感情をよくよく見つめてみれば、なんだかとても、恋愛感情に似ている。初恋だったんでしょう? と聞かれたら、すんなり「そうだね」と認めてしまえる気がする。
誰も、そんなことを聞いてこないだけで。
「転勤?」
陽菜さんが風呂に入ったのを見計らって、冬馬に転勤の話をした。日向を寝かしつけた冬馬は若干眠そうな顔をしていたけれど、転勤の話に目を見開いた。
「どこに?」
リビングのソファに腰かけながら、短く聞いてくる。カーペットの上でクッションの耳をいじりながら、沖晴は「東北支社だって」と答えた。
「部長は短くて三年って言ってたけど、再開発って時間かかるし、多分五年くらい。下手したら十年近くになったりするんじゃないかなって思ってる」
「梓川建設がやる再開発だろ? 渋谷駅前なんて、十年以上やってるもんなぁ」
日向と一緒に横になっていたせいで癖がついた髪を撫でつけながら、冬馬が小さくうなる。
「行くのか?」
「うーん、せっかくのチャンスだし、行ってみようかなって思ってるところ」
「大丈夫なの?」
「なにが?」
「向こう、知り合いなんてほぼいないだろ」
「そうなんだよね」
冬馬の手がテーブルに伸びる。テレビのリモコンを手に取ったと思ったら、ニュースからバラエティ番組に変えた。でも、別に見たいわけじゃなかったらしい。
「お前、ひとりぼっちは久々だろ」
ぼんやりとした言い方がなんだかおかしくて、思わず吹き出してしまった。じろっと睨まれたけれど、気にせず笑い続けた。
「うん、そうだね。久しぶりだと思う。階段町にいた頃は踊場さんがいたし、東京では冬馬さんや陽菜さんがいるし」
階段町、踊場さん。サラッと口にできたことに驚きはない。ないけれど、胸の奥がふわっと浮き足立つ。
「そっか、転勤したら、確かに久々にひとりぼっちだね」
「だろ?」
転勤先の支社で知り合いはできるだろうし、一応向こうは地元なのだから、小学生の頃の知り合いだって少しはいる。
でも、そういうことじゃない。知人や友人が何人いるかじゃなくて、自分のことを常に気にかけてくれるんだと思える人がいるかどうか、なのだ。きっと。
瀬戸内の海を望む階段町で、家族もおらず、それなのにいつもニコニコ能天気に暮らしていた沖晴のことを、あの人が──踊場京香が、いつも構ってくれたように。
「冬馬さん、心配してくれてるわけ?」
茶化してしまった。完全に、照れ隠しだった。
「俺の中でお前は、夜道でびーびー泣いてたガキのままなの」
「やめてよ、それ蒸し返すの。反省してるってば」
高校二年の秋だった。沖晴の前ではいつも元気そうだった踊場京香が、実は乳がんを患っていて、恐らくそう長く生きられないのだと、彼女自身に教えられたときだ。彼女の側にいるのが怖くなって、階段町から逃げ出したことがあった。
夜道を一人歩く沖晴を拾って連れ戻したのは、目の前に座る冬馬だった。ついでに思いきりぶん殴られた。
転勤は、自分のためにそういうことをしてくれる人達と離れて暮らすということなのか。バラエティ番組をぼんやり眺めながら、沖晴はテーブルに頬杖をついた。
「まあ、新幹線で一時間半もあれば戻ってこられるんだし、寂しくなったらまたびーびー泣きながら帰ってくればいいけどな」
背中を押されてるんだろうか。「うーん」と曖昧な返事をしたところで、陽菜さんが脱衣所を出てくる音がした。
別に、陽菜さんがいるところで話してもいいんだけれど。大事な話は、まずは冬馬とするのが、自分の中のルールになっていた。大学受験のときも、就職活動のときも、そうだった。
「そろそろ帰ろっかな」
時間を確認して、沖晴はジャケットとコートに手を伸ばした。
「あれ、沖晴君、もう帰る? 温かいお茶でも飲んでいったら?」
リビングに戻ってきた陽菜さんに、案の定引き留められる。こうやってずるずると過ごしているうちに、泊まっていきます~なんてことになってしまうのだ。
「いや、帰ります。遅くなっちゃうのも悪いし」
コートを着込んで玄関で靴を履いていると、陽菜さんがタッパーに詰めたカレーを持たせてくれた。これも、いつものことだ。
「明日の夜、食べますね」
丁重に礼を言って、赤坂家をあとにした。陽菜さんが「またね」と手を振り、冬馬はリビングから出てこない。この感じも、いつも通り。
カレーの入った紙袋をぶら下げて駅へ向かいながら、転勤したらこういうのもなくなっちゃうんだな、と思った。
「でもなぁ」
思わず、声に出してしまう。いつからだろう。思い悩むと、独り言をこぼしてしまうようになったのは。
「いつまでも、甘えん坊してるわけにはいかない、よね……?」
広々とした歩道に向かって、ぽんと声を投げかける。側に植えられた植栽がざらざらと音を立てて風に揺れた。オレンジ色の街灯が、レンガ敷きの歩道にぼんやりと明かりを落としている。
誰かに聞いてほしくて、呟いている。
その〈誰か〉は、どうしたって踊場京香なのだ。
あの人だったら、どんなアドバイスをするのか。迷ったらいつもそんなことを考える。
京香はもともと高校の先生だった。音楽の先生だった。病気を理由に辞めたらしいけれど、きっと教師という仕事が好きだったに違いない。
いつまでも冬馬と陽菜さんに甘えてちゃ駄目だよ。早く自立しないと。若いうちは転勤でもなんでもして、頑張らないとでしょ? 知らない土地で一人で頑張ってみなよ。せっかく大きなプロジェクトに入れてもらえるんだから。
あの人ならそう言うんじゃないか。勝手に考えて、勝手に背中を押された気になって、勝手に頑張る。
踊場京香がいなくなってから、そんな自己完結を繰り返してきた。就職してからは、特にそう。
「頑張って、みようかな」
そう、呟いたときだった。
──沖晴君。
一月の冷たい夜風に紛れて、確かにそう聞こえた。
「……え?」
レンガの隙間に躓きそうになって、足を止める。振り返っても背後には誰もいない。周囲を見回しても、同じ。
「踊場さん?」
確かに、間違いなく、踊場京香の声だった。
彼女の声を、自分が忘れるわけがない。何度あの声に「沖晴君」と名前を呼んでもらったか。
「え、嘘。踊場さんだった?」
懐かしい名前が、何度も口の端からこぼれてしまう。実際に口に出すと、喉の奥がじわっと熱くなるほどに懐かしい響きだった。懐かしいと思えてしまうことに、胸がずきりと痛むくらいだった。
いるわけがない。だって、あの人は俺が高三のときに死んじゃって、もう七回忌だって終わったっていうのに。
「やば、なんだよ」
耳に手をやって、深呼吸をした。冷たい空気で喉の奥が強ばる。
俺は、俺が思っているよりずっと、弱っているのだろうか。悩んでいるのだろうか。だから、あの人の声が聞こえて……いや、あの人の声を聞いてしまうのだろうか。
「頑張れ、ってこと?」
はっきりと問いかけてみた。当然ながら、返事なんてあるわけがない。
ただ、冷たい風が歩道を吹き抜けるだけだ。