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第一話 死神と天井裏

 

 車内アナウンスが、あと数分で目的の駅に到着すると告げた。荷物棚からキャリーケースを下ろし、沖晴はいそいそとデッキへ向かった。

 また懐かしい声に名前を呼ばれた気がして、沖晴は足を止めた。

「踊場さん?」

 恐る恐る振り返ったが、新幹線のデッキがあるだけだった。沖晴と同じようにキャリーケースを携えた人々が、ドアが開くのを今か今かと待っている。真後ろにいた中年男性が、じろりとこちらを見てきた。

 乾いた音を立てて、新幹線のドアが開いた。「あっ」と声を上げて、沖晴はホームに降り立った。

 東京よりずっと肌寒くて、肩がぶるりと強張る。

雪杜ゆき もり駅」と駅名が掲げられた看板を見上げたまま、沖晴はしばらくその場にたたずんでいた。新幹線を降りた客達が、ぞろぞろと自分を追い越していく。

 もうすぐ三月も終わりで、東京では週末に桜が満開になるらしいのに、ホームを行き交う人はみんな厚手のコートを羽織っている。

 北国の春は、東京よりもちょっと遅い。今日の最高気温は五度程度だと、今朝確認した天気予報も言っていた。

 キャリーケースを引きずって、沖晴は駅を出た。駅前には立派なロータリーと歩行者用の高架橋がある。

「……全然、地元って感じがしないな」

 高架橋の真ん中で、思わずそう呟いてしまった。遥々東京からやってきたこの街の名前は雪杜市という。東北では最も人口の多い都市で、その名の通り緑豊かで、冬は雪が降る。

「あなたの出身地はどこ?」と聞かれたら、間違いなくこのあたりの地名を出すのに、懐かしさはほとんど感じられない。

 一際冷たい風が吹き、沖晴は首をすぼめた。マフラーを巻き直し、小さく深呼吸をする。うっすらと白い息が舞い上がった。

 駅前は何台ものバスが行き来していた。ロータリーをさまよってバス停を探し、十分ほどかけてようやくバスに乗った。

 駅前には大きなけやき並木がある。すっかり葉が落ちているけれど、きっと夏には青々と茂った欅が、車道に綺麗な木漏れ日を落とすのだろう。

 五分ほどで目的のバス停に着いた。バスを降りてすぐのところに、無機質な灰色の外観のマンションがある。

 入り口に掲げられたマンション名を見て、沖晴は「えー」と肩を落とした。

「なんか、普通のマンションだ」

 マンションの名前は「雪杜館」という。住居を手配してくれたのは東京にある本社の人事部だ。市の名前が入っているから、てっきり歴史ある古びた建物……洋館のようないい雰囲気のアパートかマンションを想像していたのだが、全然違った。

 単身者向けの、これといって特徴もないマンション。外観だけでなく、三階にある自分の部屋の玄関を開けても、感想は変わらなかった。

 小さなキッチン、ユニットバス、それに八畳の洋室があるだけの1Kの部屋。ガランとしていて寒々しい。あと、ちょっと埃っぽい。

 今日から数年間、ここが自分の家になる。東京で暮らしていたマンションと大差ないはずなのに、なんだかすごく殺風景で、すごく寂しい気分になる。

 なんの家具も置かれていない部屋を見回し、とりあえず窓を開けた。春の冷たい風がベランダから吹き込んでくる。

 ふわりと、風が前髪を持ち上げた。

 そのときだった。

 

 ──沖晴君。

 

 また、名前を呼ばれた。ハッとして振り返ると、当然ながら部屋には誰もいない。ひんやりと冷たいフローリングが、窓からの日差しで鈍く光っているだけ。

「また、か」

 あはは、と笑ったら……笑い声はそのまま小さな溜め息になった。

 マンションの前に一台のトラックが停車した。東京から沖晴の荷物を運んできた引っ越し業者のトラックだ。沖晴は慌ててコートを脱いだ。

 スマホを確認すると、冬馬からメッセージが届いていた。そろそろ新居に着いた頃だろうと、頃合いを見計らって連絡してきたらしい。

 転勤の打診を受けることにしたと伝えたら、冬馬は意外にも「そうか」と薄いリアクションをした。陽菜さんの方が「えー、大丈夫? 寂しくなっちゃうな~。どうしよう!」と大騒ぎだった。

 それ以上に、日向に「お仕事で遠くに行くから、これまでみたいに遊びに来られなくなっちゃうんだ」とわかってもらうのが大変だった。

 どうしたって二歳児はまだ理解できないだろうし、冬馬と陽菜が開いてくれた送別の食事会では、最終的に腕を掴まれて大泣きされてしまった。沖晴としばらく会えないと、日向なりにそこで理解したらしかった。

〈ありがとう。無事に着いたよ〉

 冬馬にそんな返事をしてから、二十四歳の社会人男性を相手に過保護だな、と笑い出しそうになった。彼の中で沖晴が「夜道でびーびー泣いてたガキ」なのは本当なのだろう。

 廊下に人の気配がした。引っ越し業者が沖晴の荷物を三階まで運んできたらしい。

 チャイムが鳴る。沖晴は「はーい!」と玄関へ駆けていった。

 新しい生活が始まる。否応なく、日常は進んでいく。誰が側にいても、いなくても。

 

* * *

 

 梓川建設東北支社は、沖晴が新幹線を降りた雪杜駅のすぐ側にある。駅直結の十二階建て、一階と二階は商業施設になっている立派なビルの十階だ。

「東京と違って、駅の周り以外はごみごみしてないだろ」

 支社内の挨拶回りをしている最中、ふとオフィスの窓から外に目をやった沖晴に、都市開発部の神田かん だが話しかけてきた。

 三十代前半の彼も、五年前に東京から転勤してきたという。同じ都市開発部として、今後は一緒に働いていくことになる。

「俺も転勤してきた直後はなんもねーなーって思ってたんだけど、住むと程よい都会でいい感じだよ。志津川も、出身はこっちなんだろ?」

「住んでいたのは小さい頃だけですけどね。だから、あんまり地元って感じもしなくて」

「冬は寒いけど、飯が美味いぞ。米も肉も海の幸も、大体全部美味い」

「東京の吉岡部長にも、食べ物は美味いから楽しんでこいって送り出されました」

「ちなみに、志津川の歓迎会は牛タンだぞ」

「えっ、やった~。引っ越してきてから、まだ食べてないんです」

 出会ってまだ半日だが、神田は話しやすい先輩だった。どことなく、冬馬と雰囲気が似ている。

 支社の各部署はワンフロアに集まっているから、挨拶回りは午前中には終わった。階下の商業施設内にあるレストランフロアで、神田が「初日だからな」とラーメンを奢ってくれた。

「奢ったぶん、午後からはせっせと働いてもらうぞ」

 チャーシューにかぶりつきながら神田が宣言した通り、午後からは早速ミーティングに放り込まれた。

【雪杜駅西口市街地再開発準備組合】

 そんな仰々しい名前の事務局に、沖晴は仲間入りすることになる。

 先ほど神田が「程よい都会」と言い表した雪杜駅周辺は、駅の西口と東口にそれぞれ商店街が存在する。どちらも長い歴史を持ち、地域住民に愛されてきた商店街だ。

 商店街の側にはバスが行き交う大通りが走り、並木道に沿ってオフィスビルや商業ビル、ビジネスホテルも建ち並ぶ。行政施設や大学、市営の大きな公園もある。

 梓川建設が手がけるのは、駅の西側の再開発だ。駅西口にあった百貨店の跡地に新しい商業ビルを建設し、そこを起点に周囲の老朽化したビルや商店街が並ぶ一帯を再開発する。

「新入りの志津川には、まずは地権者への説明会や、組合の会合の運営とかを頑張ってもらおうかな」

 ミーティングの司会を務めていた神田に言われ、沖晴は「わかりました!」と元気に返事をした。神田や他の事務局メンバーがホワイトボードに書き込んだスケジュールを、さらさらと手帳にメモする。

 わざわざメモを見返さなくても、再開発プロジェクトが始まったばかりなのはよくわかる。

「地権者の再開発準備組合への加入率はどれくらいなんですか?」

 恐る恐る質問をすると、担当者が何か言う前に神田が「三割だな」と答えた。

 駅西口の商店街は、全体が再開発の対象地域になっている。三割といっても、加入した地権者の全員の意見がまとまっているわけではない。未加入の地権者に再開発の必要性を丁寧に説明し、組合に加入してもらい、そこからみんなで地域の未来を考えていく。再開発のあるべき形を探っていく。

「ちなみに……再開発に大反対している人も、当然いますよね……?」

 恐る恐る聞くと、神田を始め、ミーティングに参加していた社員達が一瞬だけ沈黙し、すぐに苦笑いを浮かべた。

「あー……そりゃあ、いますよね」

 聞くまでもなかったと、沖晴は「すみません」と頭を下げた。隣の席に座っていた同世代の女性社員が「あのね」と耳打ちしてきた。

「商店街のお店、梓川建設の社員ってだけで、ちょーっと嫌な顔をする店主もいるから、それだけ気をつけてね」

「え、追い出されたりします?」

「そこまでじゃないけど、歓迎してくれない人は、いるかなぁ」

 苦笑いしながら彼女が「ねえ?」と周囲に視線をやると、神田を含めた全員が「ねえ?」と沖晴を見て首を傾げた。

「商店街のはずれのカフェの店員さんなんて、あからさまに私達のこと睨んでくるしね」

「ああ、あそこね。店主が再開発に反対してるから」

「いや、あそこの店員さんはもともと無愛想みたいよ」

 そんな会話が飛び交う中、神田が「しょうがないさ」と笑う。

「欅のみち商店街は六十年近い歴史がある。愛着のある住民がたくさんいるから、再開発って聞くだけで大反対っていう人もいる。でも、俺達は別に商店街をぶっ壊そうって思ってるんじゃない。そこをわかってもらえるように、まずは話し合いだな」

 一瞬だけ、神田がすーっと遠くを見るような目をした。先は長いなぁ……と胸のうちで呟いたのが聞こえる。きっと、会議室にいる全員にそう聞こえただろう。

「俺達がやるべきは、地域の皆様に一緒にこの街の未来を考えていくメンバーだと認知してもらうことだ。志津川はとりあえず、会社の内外の人に名前と顔をしっかり覚えてもらうように頑張ってくれ」

 そんな前向きな指示と共に、転勤初日のミーティングは終わった。

 

* * *

 

 目を覚ました瞬間、軽い頭痛に襲われた。あれ? 具合悪い? と考えを巡らせて、二日酔いだと気づく。

「うわ……久々だぁ」

 ベッドの上をごろりと転がりながら、沖晴は呻き声を上げた。

 昨日は、都市開発部のメンバーと牛タンを食べにいった。沖晴の歓迎会だった。

 一次会は午後九時に終わったけれど、せっかくの金曜日だからと近くの居酒屋で二次会が開催され、その後は神田と二人で三次会まで行ってしまった。

 最終的に、居酒屋のカウンター席で神田が最近彼女と別れてしまったという話を延々聞かされた記憶がおぼろげにある。明確でないのは、沖晴も相当酒を飲んでいたからだ。飲まされたわけじゃないが、次から次へと酒の種類を変える神田に釣られて、ほいほいと飲んでしまったのだ。

 アルコールに弱いわけではない。でも、好んでがぶがぶ飲むわけでもない。大学時代から、酒との付き合いはほどほどにしてきたつもりだ。

 調子に乗って二次会、三次会と行ってしまったのは、「どうせ帰っても一人だしな」と思ったから。単身者向けのマンションの一室で一人で過ごすより、誰かと食事したり酒を飲んでいる方が楽しいから。

「でも……ちょっと飲み過ぎたな」

 時計を確認すると、午前十時過ぎだった。そこから数十分かけてベッドから這い出し、気分が晴れないかとぬるめのシャワーを浴びてみた。ちょっとだけ頭が冴えた。

 冷たい水を一杯飲んで、部屋の空気が淀んでいる気がして窓を開けた。四月らしい、温かく緩やかな風が吹き込んでくる。

 マンションの向かいの公園には、桜の木が何本も植わっていた。東京はとっくに散ってしまった桜だが、雪杜市はちょうど今が見頃の季節だ。

 沖晴の部屋は三階だから、満開の桜がベランダから見下ろせる。淡いピンク色に染まった花びらが、風にのって沖晴の鼻先を掠めていった。

 今更ながら、見上げた空が綺麗だった。いい天気だ。桜が映える優しい青空だ。

「朝ごはん、食べに行こうかな」

 冷蔵庫には食材らしい食材がない。食パンすらない。本当は昨日、帰りにスーパーかコンビニに寄って調達するつもりだった。酔いに酔ってそれどころじゃなかったのだ。

 生乾きの髪をドライヤーでしっかり乾かして、着替えだけはちゃんとして、家を出た。

 引っ越し直後に家の周りは散策したが、すぐに仕事が始まってしまったから、最寄りのコンビニとスーパーくらいしかわからない。会社と自宅の間には梓川建設が再開発を手がける予定の商店街もあるのに、ほとんど足を運べてなかった。

 引っ越し当日はバスを使ったが、家から駅までは歩いて十五分ほどだ。並木道が続く通りは気持ちがよくて、最近はずっと歩いて通勤していた。

 駅が近づくにつれて建物の背が高くなり、人通りが多くなっていく。「欅の道商店街」という古い看板が顔を出し、沖晴は迷わず商店街に足を踏み入れた。

 六十年近い歴史があると神田が言っていた通り、建ち並ぶ店舗もアーケードも街灯も、何もかもが年季が入っている。

 商店街のテーマソングなのだろうか、軽快な音楽が流れるアーケードの下を、一店舗ずつじっくり眺めながら沖晴は商店街を進んでいった。

 コロッケが揚げたてだと呼び込みをする精肉店があったと思ったら、その隣には甘い香りが漂う鯛焼き屋がある。和菓子屋の向かいにケーキ屋がある。ラーメン屋が三軒連続で並び、個人経営の文房具屋とパン屋が続く。土曜の昼とあって、どの店も賑わっていた。

 焼きたてのメロンパンの香りに釣られてパン屋に入ってみようかと思ったが、とりあえず商店街のはずれまで歩いてみた。

 商店街は一本道ではなく、左右に細い路地が延び、そこにも何軒もの店が並んでいる。バーや居酒屋が多いようだが、試しに一本路地に入ってみると、雑貨や衣類を売る個人経営の小さな店もあった。

 そんな中に、見つけた。

 商店街のはずれ、細い路地を進んだ先に、周囲と比べてもひと際古い二階建てがあった。

 小さいのに、洋館みたいな重厚なたたずまいをしている。青い瓦の屋根に、灰色のモルタル壁、淡い緑色の窓枠には、ところどころステンドグラスがはめ込まれていた。

 狭い路地に身を潜めるように、建物の前には小さな庭まである。木製のテーブルと椅子が、一組だけポツンと置かれているのだ。建物は洋風なのに、軒先には松やさかきが植えられた和風の仕上がりだ。

「……カフェなんだ」

 店先に木製の看板が出ていた。「カフェ・天井裏」と書いてあるから、これが店名で間違いないらしい。

 カフェの外観を見上げる。たたずまいは全然違うのに、似てる、と思ってしまった。

 高校時代、自分の家であるかのように通った踊場京香の実家は、カフェをやっていた。「カフェ・おどりば」という名だった。京香の祖母が、毎朝美味しい紅茶をれてくれた。

 階段町という町の、まさに踊場のような場所に建つ店だった。店の窓からは海がよく見えた。

 沖晴の人生における、踊場のような存在の店でもあった。

 そんなことを思い出していたら、無意識に店先の庭に足を踏み入れていた。鉄製のドアに触れると、ひんやりと冷たい。ちょんと押すと、ギイと錆びついた音を立て、凛とドアベルが鳴った。

「いらっしゃいませ」

 覗き込んだ瞬間に、店の奥から素っ気ない声が飛んできた。

 店名の通り、天井裏のような薄暗くひっそりとした店だった。どことなく空気がひんやりとしている。

 でも、決して陰気な雰囲気ではない。窓からはかすかに春の日差しが差し込んでいて、天井からはステンドグラスのペンダントライトがぶら下がっている。店の端には、古びたアップライトピアノが置かれていた。

 淡い明かりが木製の床に踊るのまで、カフェ・おどりばにそっくりだ。

「お好きな席にどうぞ」

 呆然と立ち尽くした沖晴に、再び素っ気ない声が飛んでくる。

 カウンターの中に、黒いカフェエプロンをした女性が一人、ポットを手にこちらをじーっと見ていた。

 年齢は、沖晴より少し上に感じられる。二十代後半くらいだろうか。暗めのブラウンの髪を無造作に一つに結んで、声色に負けないくらい素っ気ない眼差しをこちらに向けていた。

「あー、はい、すみません」

 ランチ時だが、店内はそこまで混んでなかった。カウンターが四席、二人がけのテーブルが五つあるだけの小さな店だが、客が四人ほどしかいない。

 庭を望む小窓の側のテーブルにつくと、先ほどの店員がすぐさま水を持ってきた。沖晴がにこやかに礼を言ったのに、無表情のまま去っていく。

 無愛想な店員のいる、商店街のはずれのカフェ……この前、先輩達がミーティングでそんな話をしていた。

 間違いない。絶対、この店のことだ。メニューを広げながら、沖晴は思わずカウンターの方へチラチラと視線をやってしまった。

 店員の女性は、コンロにかかったステンレス製のヤカンをじーっと見下ろしていた。どうやら、この時間は彼女一人で店を回しているらしい。

「マチちゃん、お会計、いい?」

 カウンターにいた高齢の男性が声をかけると、相変わらずの無表情でレジに向かった。どうやら、俺にだけ冷たい対応なわけではないらしい。もしかしてこちらが梓川建設の人間とばれているのでは? と一瞬思ったが、その心配はなさそうだ。

 会計を終えた店員が、こちらを見た。目が合ってしまった。注文したがっていると思われたらしく、音もなくスタスタとこちらに歩いてくる。

「ご注文は?」

 愛想の欠片かけらもない問いかけに、沖晴は目についたナポリタンの写真を指さした。

「ナポリタンと……あと、温かい紅茶、ください」

「アッサム、ダージリン、アールグレイ。ストレート、レモン、ミルク。どうしますか」

 取扱説明書でも読み上げるような言い方だった。急き立てられるように「じゃ、じゃあダージリンをストレートで」と答えた。

「はい、かしこまりました」

 素早く踵を返して、きびきびと音が聞こえそうな足取りでカウンターへ戻っていく。

 十分ほどで運ばれてきたナポリタンは、甘めの味付けだった。玉ねぎにピーマン、ソーセージ、具材が全部大きめにカットしてあって、ケチャップソースとよく絡んでいる。適当に頼んでしまったダージリンは真っ白なティーポットにたっぷり二杯分入っていた。

 カップに鼻を寄せると、ダージリンらしい爽やかで甘い香りがした。

 懐かしい、と思った。紅茶なんて頻繁に飲むのに、蘇るのはどうしたって階段町の思い出だ。

 きっと、この店がカフェ・おどりばみたいな雰囲気をしているせい。紅茶の種類を知ったのも、飲み方を知ったのも、全部あの店でだった。

 そのおかげだろうか。

「ナポリタンと紅茶で、九百八十円です」

 ぶれることない無愛想ぶりで会計をされても、不快感はなかった。

 むしろ、よかったとさえ思った。

 これでもし、この店員が笑顔で対応していたら。もし、この人が踊場京香みたいな優しい笑みを浮かべていたら。

 想像するだけで鼻の奥がツンとしてしまった。だから、よかった。

「また来ます」

 お釣りを受け取りながら、そんなことを口走ってしまった。あ、と顔を上げたら、店員の彼女が一瞬だけ目をみはったのに気づいた。

 ああ、よかった。この人、ちゃんと驚くんだ。

「……ナポリタンと紅茶、美味しかったので」

「そうですか。よかったです」

 一ミリもよかったと思っていなそうな顔で、彼女は「またどうぞ」と一礼した。

 店を出てすぐ、沖晴はカフェ・天井裏を見上げた。春の日差しが、モルタル製の壁を淡く照らしている。眩しい。店内が暗かったから、余計にそう感じる。店名の通り、天井裏みたいな雰囲気の店だった。

「全然違うのにな」

 なのにどうして、階段町を、カフェ・おどりばを、踊場京香を、こんなにも鮮明に思い出してしまうのだろう。

 平気だと思って東京を離れたけれど、なんだかんだ、やっぱり俺はずっと寂しいのかもしれない。

 商店街のメインストリートに向かって一歩踏み出したとき、また、聞こえた。

 ──沖晴君、と、自分の名前を呼ぶ声が。

 無視した方がいいとわかっているのに、足を止めて振り返ってしまう。飲食店や雑貨屋がぎゅっと身を寄せ合う細い路地には、当然ながらあの人の……踊場京香の姿はない。

 

◆ ◆ ◆

 

「私もお会計してもらえる?」

 万智ま ちがレジに千円札をしまっていたら、常連の老婦人が伝票片手にやってきた。

「ナポリタンと紅茶で、九百八十円です」

 先ほどの若い男性客と全く同じ注文だった。はい、とにこやかに千円札を差し出してくる。

 老婦人の柔らかな白髪に、レジの上のペンダントライトの明かりが落ちた。こちらの無愛想な態度に嫌な顔一つせず、いつも上品に微笑んでいる。

「今年の桜、風が強かったからすぐに散っちゃったわね」

「そう、ですね」

「お花見しそこなっちゃったわ。残念」

 この老婦人はいつもこうやって世間話をして帰る。こちらはこの通り、上手い相槌も、いいリアクションもできないのに。

「また、来年ですね」

「私ももう年だから、毎年毎年の桜が貴重なのよ」

 ふふっといたずらっぽく笑う老婦人に、いよいよどんな顔をすればいいのかわからなくなった。

「それじゃあ、また来るわね」

 ゆったりと会釈して、老婦人は帰っていく。ドアベルが凛と音を立てる。

「万智ちゃん、忙しい時間に任せちゃって悪いね」

 カフェ・天井裏のマスターである若葉わか ばさんが、右足を引きずるようにして店の裏手からカウンターにやってきた。足が悪いのではない。半年ほど前から腰を痛めているのだ。

 もう七十歳近いから、本人は「肉体の限界だよね」と肩をすくめていた。それでも、トレードマークの真っ白な口髭は艶やかで、貝ボタンのついた赤いカーディガンがよく似合っている。

「大丈夫ですよ、そこまで混んでないんで」

 この店は常連で持っているタイプの店だ。今日は珍しくあの若い男性客が初めて来たけれど、ランチタイムの時間帯とはいえ、目が回るほど混むことはない。

「ねえマスター。マスターの淹れたコーヒー、飲みたいよ」

 カウンター席にいた常連の男性が、笑顔でそう言った。若葉さんは「それじゃ、頑張りましょうかね」と腰を叩きながらコーヒー豆の入った棚に手を伸ばす。

「無理、しないでくださいね」

「大丈夫、今日は結構調子がいいんだ」

 若葉さんはこの店の二階に住んでいる。しかし最近は階段を下りるのも辛い日があるらしく、店はほとんど万智が一人で回していた。

「さてさて、美味しいコーヒーを淹れましょうかね」

 コーヒーミルをゴリゴリと回しながら、若葉さんはあの老婦人と同じように穏やかに微笑んでいる。

 接客業なのにいつも仏頂面で、愛想が悪くい万智のことも、「性格は人それぞれさ」と笑って雇い続けてくれる人だ。感謝してもしきれない。常連客から「あの子、なんとかならないの」と小言を言われても、「万智ちゃんは気にしなくていいよ」とフォローだってしてくれる。

「すみませーん、紅茶のおかわり、いただけます?」

 窓際の席にいた客が、すーっと右手を挙げた。「はーい」と返事をして、万智はお湯を準備した。

 コンロの上でカタカタと音を立てて震える銀色のヤカンに、ぼんやりと万智の顔が映り込んでいる。

 ふと、さっきの若い男性客の顔が蘇った。人当たりがよさそうで、爽やかな雰囲気で話す人だった。

 いい笑顔だった。自分にはできそうのない、朗らかで優しい笑い方をする人だった。

 レジで会計をしながら、一瞬だけ、あの人が感極まっていたように見えた……気がしたのだが、気のせいだろうか。

 

(つづく)