第2話 やってきた占い師

 

 

「参拝の待ち時間が長いといわれました。何か対策が要りそうな気がします」

 尚樹に実情報告をしてきた山野さんが、沈痛な面持ちで指摘した。

 参拝者の数は、やはり夏のお盆と春秋の彼岸がピークとなる。アルバイトを含めて一杯一杯の人手で賄っているが、とうとう利用者から苦情を受けてしまった。

「まあ、ちょっと変わった性格の方ではあるのですが」

「契約者にいろいろな人がいるのは必然だ。苦情を頂くようではいけない」

「ええ」

 経験豊富な山野さんの指摘はきっと的を射ている。放置できないと尚樹は思った。

 ――人を、一人、増やすか……。

 尚樹は夕刻に納骨堂を出て、駐車場へ足を向けた。静かだった。死体騒ぎは数日で鎮静化したようだ。

 いつもの場所に茜が店を広げている。ベニヤ板より少し小さいテーブル。両脇からアルミの柱が立っていて、天井枠を支えている。全体を覆うのはオレンジ色のビニールシートだ。手前に紫の幕が下がっている。幕には、「未来師 茜」と大きく染め抜かれていた。

 尚樹が近づくと、若い女性客が一人、椅子に座って茜の話を聞いているのが幕の隙間から目に入った。尚樹は気づかれないように、耳をそばだてた。

 茜の言葉が聞こえる。

「……不安でもあれば、またいらっしゃって。『光の願い』。こんなものはあなたの勇気の後押ししかできないからね。彼氏の気持ちをつかむには、素のあなたをぶつけるしか、ないね」

 そういって客に二百円を渡す。尚樹は思った。占いの料金は、百円のものを九十八円にするスーパーの値札と違う。三千円だったら三千円きっかりにしておくのが、占いなりの権威というものだろうに。「光の願い」だって、「これには恋愛の全知全能の超パワーが宿る」と少し大袈裟にいうのが、商いではないか。

 茜は飾る言葉もなく、女性客を送り出した。流行る占い師のがめつい商才は、彼女にはないのだろう。尚樹にはそれが何となく嬉しかった。

 尚樹はそのまま、大股を広げて屋台の椅子に座った。

「ギャンブル運に見放されているんだ。ちょっと見てもらえないか?」

「はい、三十分、二千八百……」といいかけて、茜が爆笑した。「なんだ。葬儀屋さんか」

「繁盛しているねえ」

「それほどでも。こないだの死体、何か分かった?」

「いや。ニュースにもならないし、俺にも分からない。警察は当然喋らないし」尚樹は肩をすくめた。「で、そのカレー屋の衣装。何通りもあるんか?」

 身に着けているのは、濃い褐色のシャツに、緑色のだぶだぶパンツだ。

「うん、色違いとちょっとした縫い方の違いがある。上下組み合わせは十二通り。馬単四頭のボックス買いと同じ。でも馬券は占わないよ。当たり馬券を他人にばらす余裕は、こっちにはないんだ」

 尚樹は笑った。

「またいつでも遊びに来てくれ。山野さんも喜ぶから」

「ありがたい。暑かったり寒かったり、雨の日も、あたし、逃げ場が欲しくなる。納骨堂だろうが何だろうが、目の前のビルに逃げ込めたら、実は助かるんだ」

 尚樹は頷く。屋台の屋根を指差して、尋ねた。

「占いの仕事、始めたきっかけは?」

 茜がうーんと唸って、少し黙った。

「変なこと聞いたか?」

「……姉を、お姉ちゃんを亡くしているんだ。だいぶ前だけど。それが始まり」

 茜の言葉に尚樹は目を伏せた。

「やっぱり悪いこと聞いたな」

「いや、いいんだ。あたし、誰かに話したくなることもある」茜は続けた。「姉はね、占いに夢中になってね。一回一万円も払う占いにのめりこんで、何したと思う?」

 尚樹は黙って茜を見た。

「男にもてたいなら、痩せろっていわれたんだ。確かに一旦、あたしから見てもきれいな体になった。でもね、そのまま、死ぬまで飯を喰わなかった」

 拒食症だった。

 茜の姉は、痩せても痩せても食べなかったという。体も心も壊れているのに、どこまでも痩せなければいけないと信じ込んだ。

「恐ろしかった」

 茜がこれ以上悔しいことはないと、顔を歪めた。本気で怒りをぶつける茜を、尚樹は初めて見た。

「何が占いだ。男ごときのために。ありゃあ、ただの人殺しだ。食べないで痩せれば、理想の男といっしょになれるだと。ふざけんじゃないよ」

 茜が空を仰いだ。こぼれそうな涙をこらえたように、尚樹には見えた。

「そのまま姉は、口に食べ物が入れられなくなるまで追い詰められて、死んでった。それだけじゃない。家族もばらばらになった。あたしは、高校卒業ちょっと前に中退して……。それでもいい働き口に恵まれて、ひとりで生きた。あたし、泣いてる暇があったら、自分で稼いで生きてくって、誓ったんだ」

「……もしも話せることなら、聞かせてくれ」

「何だい?」

「なぜ、未来師、つまりは占いの道を選んだ? だって、嫌な思い出だろう?」

 茜がくすっと笑った。

「復讐……さ。姉とあたしと家族の幸せを壊した占いへの、復讐」

 尚樹は茜の目を見つめた。目を覆っているのは、涙にしか見えなかった。

「こんな店に来る人は、大なり小なり悩んでるんだ。悩む人たちの幸せを壊すような、そんなペテンの奴らが許せないんだ。だから……」茜は屋台から、また空を仰いだ。「あたしはここで、赤の他人相手に、きっと手の届く小さな幸せを、ありのままに喋ってるんだ。意地になってね」

 尚樹は思った。茜は外見は奇抜でも、肝が据わった人間なのだ、と。

「すまなかった。余計なことを聞いて」

「んん。余計じゃない。あたしが人に話せる自分のことなんて、これくらいしかない」

「そうか。……あんた、うちに来る参拝者と話してみる気はないか?」

「えっ?」

「いや、契約者を占ってくれといってるんじゃないぞ。人手不足なんだ。もしも時間が空いていたら、納骨堂の仕事を手伝ってくれないか」

 丸顔の茜が目の縁まで丸くして驚いている。

「ありがとう……いまは何とも言えないけど、考えてみるよ」

「うん、そうだな、ありがとう」といって、尚樹は屋台を離れた。茜と話せてよかったと、心底思った。

 

 

 事務室で、山野さんが血相を変えて尚樹を呼んだ。

「館長、これ、見てください。あのときの池田勝浩さんがニュースになっています」

 尚樹は山野さんのパソコン画面を覗き込んだ。

「過激配信者を殺害 誹謗中傷の恨みか」と見出しにある。

 

 ユーチューバーさわしようさん(三六)を殺害したとして、警視庁池袋署は、無職池田勝浩容疑者(二〇)を殺人の疑いで逮捕した。調べに対し池田容疑者は容疑を認め、「家族が沢野に誹謗中傷され自殺した。復讐のために殺した」と供述している。沢野さんは「なさけびと」という名前で動画を配信……

 

 尚樹はしばらく声を出すことができなかった。山野さんが口を開いた。

「納骨の日に大暴れした池田勝浩さんが、お父さんを死に追いやった人間を殺したのですね?」

「……うん、そういうことになる。お姉さんは確か、SNSに嘘を撒き散らす男は『なさけびと』という名だといっていたから、間違いないと思う。『殺してやる』って、あの日何度も叫んでいた」

「ええ。自分から出頭したみたいです。でも、人生はこれからという若い子が……。なんといったらいいのか」

 勝浩は納骨の場で、尚樹に組み伏せられながら殺意を溢れさせていた。山野さんは、あの日、猛り狂った勝浩に突き飛ばされている。彼女も、ニュースを見る気持ちは複雑に違いなかった。

「理由は何であれ、思いとどまってほしかった。俺たちにとっても、辛い話になってしまった」

 尚樹はやりきれない思いで、山野さんとしばらく画面を見つめていた。

 

 ほどなくして捜査員がエターナルにやってきた。尚樹は山野さんと、参拝室で勝浩が暴れたときの様子を細かく聴かれた。

「怒りのやり場がないようで、自分の拳を祭壇に打ちつけて救急隊に搬送されました」

 そう、山野さんは話した。尚樹は、勝浩が暴れ、自分が押さえ込んだときの様子を説明した。勝浩は押さえ込まれながらも、「殺してやる」という言葉を繰り返したことを、記憶の通りに話した。

 捜査員がペンを走らせた。警察の関心は当日の勝浩の言動だった。彼がどれほど殺意を深めていたかという証拠を固めたいのだろうと、尚樹は察した。

 だが、加えて尚樹は、刑事から驚くべきことを聞かされることになった。ちょっと前に、駐車場の隣りに建つマンションから植え込みに落ちて白骨化した死体が、被害者のユーチューバー、沢野翔太だというのだ。

「桑原さんには、遺体発見の際に駐車場を捜査させて頂いていますので、事情をお話致します。ですが、内密に願います」と釘を刺しながら、捜査員は話した。

 沢野は、あのマンションの上層階の住人であったこと。勝浩が沢野の住居を見つけて、外階段から地面に突き落としたと推測されること。

 そして、数か月前までさかのぼって、過去に納骨堂の近くで勝浩を見かけなかったか、マンション周辺で争う声は聞こえなかったかなど、尚樹と山野さん、そしてエターナルの職員たちに聴取した。

 尚樹は、刑事が見せる沢野の写真を見つめた。だが、警察が関心をもつような情景は、何も見ていなかった。

 

 

 しとしとと雨の続く日だ。尚樹は自分の思い付きに頬を緩めた。

 ――たまには、弁当を持って茜の所に行ってみよう。

 占い屋台の幕の間から中を覗き込むと、茜が黄色のシャツにピンクのボレロを引っ掛けて、サンドイッチを頬張っている。昼休みだった。

「一緒に昼飯、いいか?」

 いきなりの尚樹の入店に茜は目を丸くしたが、喜んで折り畳み椅子を勧めた。

 笑いながら尚樹は弁当を広げた。

「何それ? えっ? チャーハン? スーパー大盛り?」

「好きなんだよ、これが。いつもこれなんだ」

 茜が思い切り口を歪めて、呆れ顔をつくった。

 スプーンを手に尚樹が訊いた。

「警察、来なかったか? その後」

「来た来た。ええっと、何っていったかな、若い男の写真をあたしに見せて、この辺で見かけなかったかって」

 池田勝浩だ。尚樹は、耳に入っている範囲の、事件の顛末を話した。

「切ないよ。親を殺された復讐か」と茜が呟く。

 尚樹はチャーハンを口に運んだ。

「けど、あんたも、復讐しているんだろ? 占いに」

 茜が苦笑した。

「あたしの復讐は、血を見るようなもんじゃない」

「でも、復讐って、あきらめられないものなんだろうな」

「どうかな。ま、あたしはいまでも、人を不幸にするような占いは許さない」

 人を不幸にしてきた「なさけびと」が、復讐の標的になるのは当然だろうと、尚樹も思う。

 屋根に雨粒の落ちる音が響いている。ベニヤ板の衝立に、たくさんの「光の願い」が、キラキラ光りながらぶら下がっていた。

「ガラス細工って、きれいなもんだな。人気、出るんじゃないか?」

「どうかなあ」茜は笑った。「でも、自分でも作風が豊かになったと思ってるんだ。繰り返し作ってると、自分の作品を見る目が違ってくる」

 尚樹は興味をもって訊いた。

「そういうもんか?」

「うん」

 茜が歯を見せて頷いた。尚樹は、持ってきた缶コーヒーを開け、「飲むか」と半分茜の湯呑みに分けた。

「あ、ありがとう。いま、あたしがこだわっているのは、色なんだ」

 コーヒーをすすりながら、茜の話に惹きつけられる尚樹だった。

 茜が手提げの紙袋から、ガラスの鳥を取り出してテーブルの上に広げて見せた。どれも長さが四、五センチくらい。色は、橙色とピンクと緑。鮮やかだった。

 茜がぼろぼろに使い込んだノートを見せた。ガラスの色の出し方のメモだった。原材料を融かすときの配合によって、目に映る色調が微妙に変わるのだという。

「この通り、苦手だった橙色とピンクと緑が、やっと納得行くようになってきた。今度ピンクで、桜の花弁を作ろうかと」

 茜が微笑んだ。

「あ、これ」

 尚樹はテーブルから、見覚えのある緑色の鳥――折れて、翼を片方失った鳥の破片を指で摘まんだ。

「ああ、それ……」茜がちょっと首を傾げた。「それ、どうもおかしいんだ」

「何が? 他のと変わらないぞ。壊れてるけど。これ、あれだろ、八代がここで拾ったやつ」

「うん、そうなんだ。だからおかしいんだよ。あの仏具屋さんは、あの日、この駐車場でこれを拾った。それはあり得ないんだ」

 茜が緑の鳥を指差した。

 尚樹はいった。

「だから、あんたが池袋に来たばかりのときに、俺が禿げ泥棒退治しただろう。あの泥棒のせいで、たくさんの『光の願い』をここで壊されたから、そのときの欠片だろう? 他にもあるかもしれないぞ」

「いや。違う。絶対に」

 即座に茜が、かぶりを振って否定した。

「なんで?」

「だって、あんときのあたしは、緑色のガラスを作ることが、まだできなかった」

 尚樹は、茜が何をいっているのか分からなかった。

「作れるようになったのは、駐車場で占いをやるようになって半月くらい経ってからだ」

「……じゃあ、なんだ。ここで占いしてて、間違って落としたとか?」

「んんん。それもない」

「じゃあ、一体どこから来たんだ、この緑の鳥は?」

 茜が腕組みして、少し沈黙した。そして、いった。

「あたし、納得できる緑色のガラスが初めて出来上がったとき、喜んで鳥を作って売ったんだ。これは、そのときのもの。売ったときのこともよく覚えているんだ。それにメモもある」

 茜が紙袋に手を突っ込んだ。

「常連さんじゃないから、相手の名は分からない。けど、これ、女の客に売った。彼女は、大切に肌身離さず持って、励みにするっていってくれた。嬉しかった。そのときの占いの中身も覚えてる」

 尚樹は茜に悪いと思いつつ、訊いた。

「そうか。じゃあ、残念だけど、その客が、買った緑の鳥が気に入らなくなって、路上に捨てたってことはないか?」

「いや、彼女、そういうことをしそうには見えなかった」茜は紙袋をゴソゴソかき回しながら話す。「三十くらいかな。この近くに住んでて、ええっと、家族が認知症とかで悩んでいるっていう話を聞かされたんだ。だから、励ました」

「それじゃあ、占いというよりか、人生相談だな。薄々気づいているんだけど、占いより人助けの方が得意だろう?」

「うん。実際のところあたしは、お悩み相談でお金もらっている場合は少なかないな」茜が笑った。「でも確か、彼女は、勤め先が、なんだっけか? 堅い仕事」

「ん? 学校の先生? 弁護士? 銀行員?」

「違う違う。お役所。あ、これこれ」

 茜が、占いの客を記録しているノートを紙袋から引っ張り出した。メモ書きを読む。

「ん? キン・ユウ・ショウ? って、そんなお役所ある? なんかお金扱うみたいなところ?」

「……」

 尚樹は、声を出すことができなかった。

 ――三十くらいの女性。認知症の家族。住まいが近く。そして、金融……庁、だ。

 尚樹は慌てた。

 ――……池田……美紀。

 尚樹の耳から雨音が消えた。

「聞いたこともない勤め先だけど、どこにあるって聞いたら、ここから地下鉄で真っすぐだって」

 ――緑の鳥……。

「あんときは、そういうとこなら安定してっから、きっと親孝行できるよって伝えたんだ。大事なのは、落ち込まずに強く生きることだって、あたし、元気づけようとした」

 ――緑の鳥を茜から買ったのは、……池田美紀。

 何が起きたのか、尚樹はすぐには頭の中身を整理できなかった。

「ねえ、どうしたん?」

 茜の呼びかけが尚樹の耳を通り過ぎていく。

「あたし、なんか変なこといった?」

 手で茜を制した。尚樹は静寂の中に落ちた。

 尚樹はあらゆる可能性を頭に置いて、考えを巡らせた。目の前に、結びつかないふたつの事実があった。

 ――緑の鳥の持ち主は、池田美紀。その緑の鳥がエターナルの駐車場に、壊れて落ちていた。泥棒に遭ってたくさんの「光の願い」を壊されたとき、緑の鳥はまだ作られていない。だから、八代が拾った緑の鳥は、泥棒事件とは別の日に、エターナルの駐車場にあったことになる。

 ――そして、駐車場脇のマンションの植え込みに沢野翔太は墜死していた。池田勝浩に上層階から突き落とされて……。人知れずマンションから落ちた沢野は、衝撃で土に沈み込み、何か月も見つからずに白骨になった。

 ふたつの流れ。ひとつは、緑の鳥。もうひとつは、死体の沢野。緑の鳥は、姉の美紀が買ったガラス細工。沢野は、弟の勝浩が殺した死体。このふたつの流れをひとつの時間軸の中で繋げることは、どうしてもできない。

 尚樹は黙考した。

 ――姉、弟。姉、弟。姉、弟。……そして……、命を絶った父。

 尚樹の中で、「家族」という歯車が回り始めた。ふたつの流れを矛盾なく結び付けられるものは、たったひとつ。「家族」……だ。

 

 

 美紀と母親の智子が納骨堂へ参拝にやってきた。二人が来るときは必ず事前に連絡があった。予約制ではないし、いつでも気軽にいらしてくださいと尚樹は伝えたが、「母の介助もあり、突然ではそちらにお手間をかけてしまうかもしれませんから」と美紀がいった。

 その日も美紀は、杖をついた智子の肘を支えて、歩くのを助けていた。尚樹は職員と二人に付き添った。

 尚樹たちは、参拝室に運んであった椅子に智子を腰掛けさせた。美紀が小声で「ありがとうございます」と礼をいう。

 参拝室で美紀は合掌した。そして、座った智子の前にしゃがみ、その両手をとって合わせた。智子が眠たそうに頭を垂れる。

「お話をしてもいいですか?」

 尚樹の声に、美紀は振り向いた。

 尚樹は美紀の前で手のひらを広げてみせた。

「このガラス細工に、見覚えはありますか?」

 片翼を欠いた緑の鳥だった。美紀は一瞥すると、目を逸らし、早口で答えた。

「いいえ」

「あなたが買い求めたものだと思います」

「いいえ。こういうものには興味はありません」

「これが、納骨堂の訪問客用の駐車場に落ちていたのを、車を止めた人が見つけたのです」

 美紀はガラス細工をもう見なかった。そして、何も答えなかった。尚樹は続けた。

「あなた方家族からお父さんを奪ったのは、沢野翔太です。沢野をこの納骨堂のはす向かいのマンションから突き落としたとして逮捕されたのは、弟さんの勝浩さんです。犯人は勝浩さんだという形で、警察は結論付けています。すべての証拠がそれを支持するのだと思います。でも……、私は、殺人の真相はそれとは違うと思っています」

 美紀が俯く。

「美紀さん、あなたは、沢野がマンションから落ちた現場にいたのではないですか? そして、何かの拍子に、このガラス細工が沢野の体と一緒に、地面へ落ちた。だから、現場脇の駐車場から、壊れたガラス細工が見つかった……、そうではありませんか?」

 尚樹の目に、俯いた美紀の唇が震えているのが見えた。

「彼女を覚えていますか?」

 女性職員が、美紀の前に立った。白のブラウスに黒のスカートを身につけている。エターナルの制服姿だった。

 美紀が顔を上げて職員の顔を見た。

「いつもと違う服を着ているので、彼女が誰か分からないでしょう。彼女は『未来師・茜』。あなたのお母さんの介護の悩みを聞き、あなたにこの緑の鳥を託したのは、彼女です」

「……茜……さん?」

 そういうと、驚いた美紀は目を大きく見開いた。硬かった表情が見る見る崩れ、こわばっていた頬からさっと緊張が解けた。

「今日、お二人がいらっしゃるということで、彼女にここに来てくれないかとお願いしていたんです」

 尚樹は茜に緑の鳥を渡した。茜は手のひらに鳥をのせると、口を開いた。

「美紀さん。『このガラスの鳥を肌身離さず大切にして、辛いときも哀しいときも、強く生きる』って、あたしに誓ってくれた。その約束を守ってくれたからこそ、この『光の願い』が、いまあたしの手元にあるんだ」

 美紀が首を振った。

「美紀さん、話して。真実を」

 美紀は茜を見つめると、掠れた声で話し始めた。

 

 

「私は『なさけびと』の居場所を突き止めなければなりませんでした。『なさけびと』はけっして自分を隠そうとしません。動画には顔出しで出演し、首にオレンジ色のマフラーを巻いて、自己顕示に徹します。『なさけびと』は、しばしば新宿と池袋の路上で、撮影していました。狙われた校長先生と私の父の職場が池袋に近かったので、池袋の路上で、『なさけびと』を探すことにしました。池袋なら、私は二十年以上住んでいますから、土地勘があります。画面の何か所かで、駅西口の東京芸術劇場すぐ近くの街路が撮影場所になっていることに気づきました。タブレットで動画を見ながら実際に歩き回り、『なさけびと』が好んで撮影に使う細い通りに、当たりをつけました。区の大規模な健康診断を引き受ける診療所の看板が、撮影場所を特定する決め手でした」

 美紀は診療所の名前をいうと、どうやって『なさけびと』に接触できたかを話した。

「職場を休んで、芸術劇場からその診療所の間の一ブロックを見張ったのです。幸いに半月もすると、近くの路上でカメラを構える男を見つけることができました。オレンジのマフラーをして自撮り棒でスマホをかざしたと思うと、ものの二分くらいで終えます。そして、マフラーを外し、代わりに大きなマスクをして黒いサングラスをかけました。身長は百七十センチくらいの筋肉質で、撮影時を除くと普通の人にしか見えません」

 美紀はスマホを取り出すと、尚樹と茜に、『なさけびと』が街の人波に溶け込んで歩く後ろ姿を、画面で見せた。

「その後男を尾行し、住んでいるマンションの部屋を特定しました。築五十年は経過していそうな古いマンションでした。照明の少ないうす暗い廊下に外階段。鉄の手すりには錆が浮いています。沢野翔太という本名を知ったのは、マンションの郵便受けからです。驚くほど、私たちの家の近くに住んでいました。沢野が『なさけびと』であることは、数日後、私が目にした撮影の情景が実際に動画で配信されたことで確認できました。すぐに殺すことを計画しました」

 独りで殺す計画を考えたことを、美紀は話した。

「相手は男です。私の力で殺すにはどうすればいいかを思案しました。私は毎晩のように、沢野のマンションへ行き、沢野の行動を監視しながら考え続けました。車で轢く、女として近づく、ホームから突き落とす、毒を盛る。どれも容易とは思われませんでした。そしてある晩、沢野が部屋に入るのを見届けて自宅へ帰ろうとしたら呼び止められました、『姉ちゃん』と。弟が微笑んでいました。弟は私同様に、『なさけびと』の撮影地が池袋周辺であることに感づいて、それらしい撮影者の跡をつけていたそうです」

 美紀は弟とのやり取りを語った。姉弟は揃って「なさけびと」の正体をつかみ、二人で殺意を共有したのだ。

「互いに、『自分が殺すから』と主張しました。私が『姉ちゃんが殺す』というと、弟は『喧嘩もしたことがないくせに。あいつの体見て分からないか。男でも手強い。姉ちゃんに何ができる』と怒鳴りました。確かに弟のいう通りです」

 尚樹の耳に、茜のすすり泣く声が聞こえてきた。

「弟から見たら、私は足手まといです。弟は最初受け付けませんでしたが、私から懇願して、二人で協力して殺すことを受け入れてもらいました。弟は、私が思いつかないような巧みな計画を作ってくれました。しかも弟は、『二人で一緒に復讐する』ことを、何よりも大切に考えてくれたのです。方法を練りながら、私に丁寧に説明してくれました。弟一人の方が、もっと容易に殺せるに違いないのに……」

 美紀は話を続けた。

「『なさけびと』が住む802号室は目の前に外階段がありました。外階段の手すりは、高くありません。一方、隣りの801号室は八階の一番端の部屋ですが、外から玄関が見えないように、事務室で使うようなパーティションを外廊下に置いて、視界を遮っていました。私たちからすれば好都合です。廊下に衝立を置くことはきっとルール違反でしょうが、みんな好き勝手に共用スペースに物を置いていて、自転車や古くなったゴルフバッグなんかもありました。こうしたすべてのことを、弟はもう調べ終えていました。外階段の手すりの高さまで、弟は巻き尺を当ててすでに測ってありました。弟は802号室正面の外階段に隠れ、私は801号室のパーティションの裏で待ち伏せするというのが、弟の計画でした。帰宅してエレベーターから自室前まで歩いてきた沢野を、外階段の弟が背後から組み伏せる手筈です。私は沢野が801号室に助けを呼ばないように、逃げ道を塞ぐ役割でした。私に大したことができないのは分かっているのに、弟は『必ず二人で、外階段からあいつを地面に突き落そう。一緒にやろう』と、いってくれました」

 茜が嗚咽を漏らした。

「弟は『あいつを殺す前に、まず親父の納骨をしよう』といいました。私も、すべきことをしてからがいいと思い、同意しました」

 美紀が参拝室を見渡した。

「父の納骨の日、家族でこの納骨堂を訪れました。そして、あの事件になりました。弟は自分の体を傷つけて、血だらけになりながら、沢野への殺意を叫びました。ご迷惑をおかけしました」

 尚樹は首を横に振った。

「そして、あの夜を迎えました。二人で一時間ほど待つと、狙った通り、沢野が帰宅しました。弟が玄関前で沢野の首を背後から腕で締め上げ、外階段まで引きずるようにして運びました。パーティションの陰から走り寄った私は、呻く沢野の足を持とうとしました。事前に、『俺が体を押さえるから、姉ちゃんは足を持って』と弟にいわれていました。ですが、沢野と目が合った瞬間、恐怖でしゃがみこんでしまいました。でも、何とか立ち上がって、ありったけの力を込めて沢野のバタバタ暴れる両膝を抱えて、できるだけ高く持ち上げました。沢野の体は外階段の手すりの上を、するりと越えました。きっと九割以上は弟の力で持ち上げてくれたのだと思います。そして、沢野に蹴られながら思いきり沢野の足を外へ放り投げると、暗い闇の中、沢野は落ちていきました」

 美紀がしばらく目を閉じた。

「殺してから気づきました。沢野を殺すことで精一杯で、後のことを考えていませんでした。自宅に戻ると、弟が一言、『俺、独りで警察へ行く。姉ちゃんは残って』というのです。私は慌てました。『それは違う。二人で警察に自首しよう』といいました。ところが、弟は『最初から、独りで行くつもりだった。二人で出頭してしまったら、おふくろの面倒を誰がみるんだ?』と、強い口調でいいました。弟のあんなに怖い顔を見るのは、初めてでした。咄嗟に私は『自治体に、認知症患者に対する福祉支援の仕組みが……』と、まるで国会で答弁書に書き込んでいるような言葉を、弟に吐いてしまいました。そのときです。寝ていたと思った母が、隣の部屋から出てきたのです。『さっき、お父さんにおはぎを買ってくるの、忘れた』といいながら。母はいつになく明るく笑っていました。母を忘れていた自分を、死ぬほど恥じました」

 尚樹は、姉弟が抱いた恨みが切なく思えて仕方がなかった。茜がハンカチを目に当てたまま、肩を小刻みに震わせている。

「私は愚かでした。母を守らなければならないことすら、沢野への復讐心のあまり、忘れていたのですから。霞が関から福祉国家に貢献するなどと偉そうに仕事を自負していた私は、一番大切で一番近くにいる母親のことすら、思いを欠いていたのです。沢野を殺しても、母はこれからも毎日を生きていくのに」

 美紀は、座っている智子の手を握った。

「『俺が自首するよ。姉ちゃんは残って、おふくろをみてやってくれ』と、弟は繰り返しいいました。弟は、『俺に考えがあるから、協力してくれ。死体が見つかる前にできるだけ準備をしてから、俺が出頭する』といいました」

 その夜、勝浩は美紀に質問を繰り返したという。それは、沢野のマンションを見つけるまでの経緯についてだった。美紀と勝浩が沢野のマンションを見つける方法は似ていたが、具体的には共通点はなかった。美紀は弟から、いつどこで沢野らしい人物を池袋の街に見つけ、どのように尾行したかを根掘り葉掘り聞かれたという。

「弟からは、私が休暇を取って池袋にいた日付まで、尋ねられました。弟は自供内容の信用性を高める用意をしたのです。弟の胸の中では、自分が自首して罪を引き受けるという作戦が、はっきりと固まっていたに違いありません。考えてみれば、最初から弟が独りで警察に行く計画を私に話したら、弟と一緒に復讐を進められませんでした。弟は、私の心の裡を、すべて読んでいたのです。ただ、思いも寄らなかったことに、翌日も翌々日も一週間後も、死体が見つからないまま、日が経過しました。いつしか、『あわよくばこのまま死体が見つからずに、事件にならないのでは?』と期待する気持ちが湧いてきました。私はこれまで通りに毎日通勤し、役所の仕事に忙殺されました。この間にも弟は、私が働きながら母を介護できるようにと、よくできた訪問介護のプランを、私に詳しく紹介してくれました」

 美紀が続けた。

「沢野の死体が見つかったことは、ニュースの速報で知りました。その日、弟は突然霞が関の私の職場まで面会に来ました。驚きました。私は母の急病を装ってデスクを離れ、弟と会いました。弟はいいました。『姉ちゃん、すごい建物で仕事してるんだね』と。そして、『死体が出た。先を急ごう。俺の恨みはとっくに終わっているよ。だから俺はすぐに警察へ行く。でも、姉ちゃんがやらなきゃいけないことは、刑務所に入ることじゃない。親父の思いを継いで、市民のために仕事をしてほしいんだ。みんなの幸せのために恨まれるんだって話してた親父のあの生き方を、さっきのビルで全うして、姉ちゃんは親父の心を継ぐんだ。それは姉ちゃんにしかできない仕事なんだ。姉ちゃんは、その道で生きてくれ。親父の働いていた組織は、親父のために何もしてくれなかったはずだ。でも、姉ちゃんはその世界のプロして生き抜くことで、親父の屈辱を晴らすことができるんだ。本当は難しくて、俺には分かんないけど。……あと、悪いけど、おふくろを頼む』と」

 尚樹は茜と視線が合った。茜は号泣していた。

「弟は、私を守ろうとしたのです。弟は、父と私が仕事に向ける気持ちを、行政官としての私と父の熱意を、すべて知っていました。そして何より、私が抱く、この仕事のプロとしての思いまで、弟は理解していたのです」

 美紀が尚樹を見つめる。

「独りで自首するという弟には心底申し訳ないと思いながら、弟の優しさに、私は負けました」

 美紀はきりりとした眼差しで、話した。

「弟の願いは、私をエリート官僚として生き残らせることだったと思います。弟の目的は、私に、父の恥辱を晴らさせることです。弟は、沢野が踏みにじった父の誇りを、私が生涯を人々のために尽くすことで、蘇らせようとしたに違いありません。そして最後に、母を私に託したのです」

「美紀……さん」

 茜が涙声で呼んだ。

「そのことに気づいたときにはもう、何食わぬ顔で勤務を続け、母に寄り添って介護する役を、演じ慣れていました。そういう毎日が、自分に染みついてしまっていました。弟が勧めてきた母の介護プランは、何から何まで完璧に設計されていました。弟がどのくらい臨機応変に考えたかは分からないですが、死体が見つからない三か月の時間を利用して、弟は、その後の私の暮らしを、少しでも自然に、少しでも幸せになるように形作ってしまったのだと思います」

 美紀は言葉を噛みしめるようにして、頷いた。

「弟は、私など考えが及ばないほどに、緻密な検討を重ねたのだと思います。弟のよく出来た単独犯の供述は、完全に信用されたと聞きました。私は、そのときにやっと気づきました。弟は『姉ちゃん、二人で一緒にやろう』といった段階で、すでに、私を守り、母を守り、代わりにすべてを独りで背負う覚悟を決めていたことを」

 尚樹は美紀の独白を聞いて、茫然とするしかなかった。

「後で思えば、『まず親父の納骨をしよう』といったのが、弟の計画の第一歩でした。納骨の日に自傷に走った弟を見て、弟はこんなにも『なさけびと』を憎んでいるのかと、驚きました。でも、あの日の弟の真意は、そんなところにはありませんでした」

 美紀が恐縮したように、尚樹を見た。

「弟は、警察のお世話になった経験があります。そういう弟には、桑原さんやここの職員の方が、警察から当日の様子を聴かれることが予測できていたのだと思います。納骨堂の方々を利用して、弟は『なさけびと』への恨みを印象付けたかったのでしょう。納骨堂のみなさんにご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした」

 話を聞いて、尚樹はやっと知ることができた。勝浩は、納骨の日、冷静だったのだ。姉にすら話さない計画を立てて、行動していた。彼が暴れたのは、殺意から精神が崩壊したためではない。沢野を憎んでいる様子を、周囲に印象付けようとしたのだ。単独犯としての自供が自然に見えるように、殺意のあまり自制心を失った姿を、エターナルの複数の人の前で演じたに違いない。勝浩は緻密に事を進めたのだ。

 そのとき、尚樹の目の前で、茜が流れる涙を拭おうともせずに口を開いた。

「美紀さん。あなたは沢野を殺す瞬間まで、『光の願い』を肌身離さず持っていたはず。でも、その『光の願い』を落としたことに、いつ気づいたの?」

 美紀が答えた。

「沢野を殺し、自宅に戻ったときに気づきました。私、『光の願い』をずっと首から下げていましたが、殺すのに精一杯で、マンションの現場では気づかなかった」

「ではなぜ、落とした『光の願い』を探さずに、そのままにしたの? 美紀さんも殺人に加わっていたことが分かってしまうかもしれないのに」

「それは……」美紀がかぶりを振った。「茜さんに頂いた大切な『光の願い』を、私、現場に落としてしまって……。それで動転して……」

 美紀は明らかにしどろもどろになって、黙った。静寂が三人を包んだ。

 茜が涙を拭いた。

「あなた、本当は、発見されてほしかったんでしょう? ガラスの破片」

「……」

 美紀の顔が見る見る崩れていった。

「あ、茜……さん」

 美紀が号泣した。茜が、いまにも倒れそうな美紀の肩を抱きとめて、話した。

「あなたは、弟さんの考える完璧な復讐に感謝したと思う。でも、弟さんの優しさに苦しんだ。自分を守ろうとする弟さんが、この後何をするのか怖くなった。もしかしたら、弟さんが一人で罪を背負うのではないかと、予期できたのかもしれない。あなたは、弟さんの優しさと人を殺した罪の間に挟まって、迷い苦しんだ。どこかで、弟さんがあなたを思う気持ちから逃げ出したかった。でも自分の力ではどうしても逃げられない」

 茜が、美紀の肩を抱き起こす。そして、涙で溢れた彼女の目を見つめた。

「だから沢野の命を奪った後、これをわざと現場に落としたのでしょう?」

 茜が美紀の前で、手のひらを広げた。片翼だけの緑の鳥があった。

「沢野を殺した犯人が自分であることに結びつく可能性のあるものを、あなたは残そうとしたんだ。それが、この『光の願い』。そうですよね? 美紀さん」

 沈黙があった。

 そして、美紀が首を縦に振った。

「私が現場に落とした『光の願い』が原因で弟の自供が覆されたら、それは、茜さんが私に与えてくれた、私が過ちを正して生きる最後の機会だと考えてきました。いま、その機会が訪れたのだと思います。私を救ってくださったのは、茜さん、あなたです」

 美紀が茜を見つめた。

「茜さんとは、屋台でひとつ約束をしました」

 茜が頷く。

「辛くても強く生きる、という約束でした。『エリートが泣いてどうなる? 強く生きなければいけない』と、茜さんは鼓舞してくれました。それが私にできる人生のすべてだと、教えてくれました。その言葉を胸に、私は、これからの人生を生きていきます」

「あ、あ、ああ」

 そのとき、参拝室に智子の声が響いた。

 驚いた美紀が振り向いて、声をあげた。

「お、お母さんっ……」

 智子が言葉を発した。底抜けに明るい笑顔だった。

「美紀ちゃん。お父さんはね、最高の連れ合いだけれど、ぜんぜん面白くない男なんだ」

 

 

「エレベーターは、必ず参拝者に同乗する職員が操作するように。慣れるまでは、どこに何があるか分からないと思うけど、そのうち、あの人の骨はこのフロアだと、データベースを見なくても思い出せるようになる」

「へええ」

 茜がエターナルにやってきた。アルバイトとしてスタッフに加わってもらうよう、尚樹が説得した。占いの仕事は、平日の午前中から午後の早い時間までが比較的空いている。一方の納骨堂は、朝から昼時までに参拝しようとする高齢の契約者が年々増えているので、茜が昼過ぎまでシフトに入るのは理に適っていた。繁忙期にだけ対応する学生アルバイトに比べて、茜の方が、日常的に勤務が多くなることは予想がつく。

 ここ数日、職員が茜に館内業務を初歩から教えていた。新人なのに先輩社員にタメ口をきく茜にみな驚いた。だが、尚樹は心配していなかった。悩む人を相手に占う茜を見ていれば、参拝者に優しさをもって接するのは間違いないと分かるからだ。

 尚樹は茜を連れて、納骨室を説明して回った。

「せっかくだから、参拝者がしばらく来ないと思われるお箱を点検しておこう」

「そういう人もいるんだ?」

「ああ。契約者の事情はそれぞれだが」

 尚樹はいくつかのお箱を実際に開け、長期間契約者が来ていないケースを説明していった。

「……この里中康さとなかやすさんは、故人の息子さんが海外転勤だ。戻るのに時間がかかる」

「うん。覚えた」と茜。

「で、この納骨室にはもうひとつ……。4539番だ。お箱を取り出してみて」

 指示をもらった茜がお箱を引き出して机の上に置いた。尚樹が蓋を開け、中にあった小箱を開いた。

「このお箱はちょっと特別な例になるけれど、故人のお骨がない。代わりにこの通り、物がひとつだけ入って……」

「待って」

 茜が鋭い声で制した。

「どうした?」

「これ」

 茜がお箱の中を凝視している。

「これを作ったのは、あたしだ」

 そこには、白く光るガラスの球体があった。

「丸いのは珍しいけど、これも『光の願い』なんだ。夫婦の幸せを願って奥さんに贈りたいっていう、ちょっと老けた男にお願いされて、作った。あのおじさん、よく笑ういい人だった。これは、彼が大事そうに持って帰ったんだ」

 尚樹は驚いて茜を見た。

「そう……だったか」

 静寂が参拝室に広がった。尚樹は頷くと、口を開いた。

「このガラス玉をあんたに作ってもらった人は、岡本武彦さん。彼こそ、このお箱の中の故人だ。契約者は奥さんの京子さん。この二人は……」

 尚樹は、少し長くなりそうだと思いながら、ゆっくりと話し始めた。

 

(了)