第2話 やってきた占い師

 

 箒を手に、桑原尚樹は屈んで歩道にごみが落ちていないかを確かめる。

 毎日、朝と午後の二回、尚樹は納骨堂の玄関前を掃き清めることにしていた。なぜなら、故人を悼むために現れる人々に、自分がしてあげられることは少ないと思っているからだ。何もできない自分が、気持ちを込めることができることのひとつは、玄関先の掃除だった。

 尚樹はふっと息を吐き、箒と塵取りの柄に指を絡めて立ち上がった。

 そのときだった。

「泥棒ぉーーっ」

 女の金切り声だ。

 尚樹の目に、自分の方へ走ってくる二人が見えた。禿げ頭の労務者風の男を、奇怪な服装の女が追ってくる。一瞬驚いた尚樹だが、どこかの芝居で見かけそうな光景に、思わず苦笑をもらした。

「捕まえてぇ」

 二十メートル、十メートル、五メートル……。

「つ、捕まえてぇ」

 視線が合った男は避けるように道の端に寄ったが、逃走をあきらめることはなかった。

 尚樹は関心のない振りをして禿げ頭の男を目一杯まで引きつけると、その脛をタイミングよく蹴り上げた。中学時代に柔道を習い、一時期は近県の学校相手なら誰にも負けないくらいだった。足技には三十年物の切れ味がある。

 うぐっと呻いた男は、そのまま前のめりに突っ込んだ。男が抱えていた金属の箱が歩道に投げ出され、甲高い破壊音とともに中身が派手に飛び散った。

 ――きれいだ。

 三百六十度、花火が開くように転がり出たのは、キラキラ光るいくつものガラス細工の破片だ。

 尚樹は手際よく男の体に体重をかけて押さえ込み、右腕を捻り上げた。顔から地面に落ちた男は、こめかみと頬から血を滲ませていた。観念したような男を見て、尚樹は立ち上がる。

「あ、……ありがと。ありがと。助かったあ」

 強烈なアジアの風が漂った。スパイスと香草を混ぜたような香水だ。息を切らして追いついてきた女の服装を見て、尚樹はぷっと吹き出した。

「なんだ、その恰好? 魔法のインドカレーでも売っているのか?」

 黄色のシャツ。だぶだぶの紫のズボン。直径五センチはありそうなピンクの丸いイヤリング。褐色の長い髪に銀のメッシュ。分けた前髪の間に垂れる赤い石と金の鎖。手には、走りながらむしり取ったと思しき空色の被り物。サリーとはだいぶ違うあり合わせのシャツからは、原色ギラギラの小さな飾りがいくつもぶら下がっている。

 尚樹が思い浮かべたのは、若い頃日本から逃げるように移り住んだインドネシアで、ジャカルタの街に出没していた蛇使いだ。もともとそんな民俗芸能はないはずの街に、インド風のエセ蛇使いが流行り出していた。目の前の女の恰好は、インド人の物真似で稼ぐ、たくましいジャカルタの大道芸人そのものだった。

「その禿げが、あたしの道具とつり銭、かっぱらったんだ」

「何っ?」

 尚樹は倒れたままの男のポケットから、色も形もド派手な財布、いや、がま口がはみ出ているのを認めた。苦笑しながら、「ほいよ」といって抜き取ったがま口を女に投げる。両手で拝むように受け止めた女は、男の顔を覗き込んだ。

 うぐうぐと呻く禿頭を二、三度、拳固で小突く。

「は、放せ、放してくれ」

 尚樹は女に目線を送った。

「こいつ、どうしとく?」

「……金。戻ってきたから、もういいよ」

 頷くと尚樹は男の体を起こし、尻に蹴りを一発入れた。男の悲鳴が響く。

「二度と、この通りを歩くんじゃねえぞ」

 男は何度もつまずきながら、走り去った。

「で、なんだその恰好は?」

 尚樹は振り返っていった。

 丸顔の半分を占めそうな垂れ目が、尚樹を見た。

 小柄な女は紫のズボンを引っ張り上げ、顎をしゃくりながら答える。

「あたし、その先でやってるんだ。『未来師・あかね』」

 ポケットから角の丸い名刺を差し出す。カードの左上には、カンガルーらしき、おなかの袋に子を入れた動物の絵が描かれている。

 尚樹はもう一度吹いた。

 茜が、路上に散らばったガラス細工をひとつひとつ拾って、大事そうに箱に戻していく。小さい物で三センチ、大きい物は十五センチくらい。白、赤、黄、青、黒……。鮮やかな色使いが目を惹く。

「あああ、これも壊れちゃったか……」

 一際大きなガラス片を手に取って、茜が残念そうに俯いた。

「未来師って、あの世から来たみたいだな、新興宗教か?」

「いや。あたしは神や仏の使いじゃあないよ。ま、占い師さ」

 尚樹は茜の顔と衣装と名刺を、順に見た。足元に転がっている真っ青なガラス片を拾い、茜に渡した。

「あ、ありがと」

「その豚のガラス細工が売り物かい?」

「豚じゃないよ。犬だ。これ、『光の願い』っていうんだ。ほら、きれいだろ?」

 尚樹はガラス細工を凝視した。犬には見えない。笑いをこらえるのに苦労する。

「じゃあ、この烏も、『光の願い』か?」

 今度は赤いのを拾って、まじまじと見る。

「烏じゃない、鳩だ。どこに目ぇつけてんだ? あんた」

 尚樹は呆れて訊いた。

「つまりは、獣や鳥のガラス細工を作って、占いの客に売っているんだな?」

 茜がふくれっ面を見せる。

「そんないい方するなよ。それじゃあまるで、あたしが押し売りみたいじゃないか。そうじゃなくて、あたしの占いを聞いたら清々しい気持ちになって、『光の願い』を買いたいってなるわけだよ」

「そういうもんか?」

「うん。だから、もっときれいな『光の願い』を作りたいんだ。まだ勉強し始めたばっかりで、ピンクと橙色が出せないんだけど。あ、あと緑も。だから、花や木の実や葉っぱが作れない」

 尚樹はもう一度カンガルーの名刺を見た。

「ここに描いてある動物、なんだ?」

「インドにいるカンガルーさ、知らないのか?」

 尚樹は困惑して応じた。

「カンガルーは、インドにいないぞ」

「そうかぁ?」

 茜がすっとぼける。

「あ・か・ね……」

「あたしの名前が、どうかしたか?」

「……本名なのか?」

「本名は、明かせないな」

「いいけど、昭和の刑事ドラマに出てくる、スナックのホステスみたいだ」

 茜が口をへの字にして、眉間に皺を寄せた。

「うるさいよっ。いつも未来は、この茜だけに見通せるんだ」

 魔法のカレー屋の恰好に、廃れた酒場風の源氏名に、インドのカンガルー。尚樹は、茜を面白いと思った。

「あんたこそ、何それ?」

 茜が指差しているのは黒ネクタイだ。

「これか?」尚樹はポケットから名刺を出した。「こっちも渡しとこう」

「ん? 何? あんた、桑原っていうんだ。葬儀屋かい?」茜が尚樹のネクタイを睨んでいった。「人は必ず死ぬから、葬儀屋商売、儲かりそうだな」

「商売は商売だけど、金儲けのためじゃない。あそこでやってる」

 尚樹はビルの看板を指差した。目立たない黒文字で「エターナル」とあり、一回り大きな字で「街の納骨堂」と書いてある。

「うちは納骨堂だから、火葬場で焼いた後の、骨壺を入れておくんだ」

「へえ」と、茜がエターナル社のビルをほとんど垂直に見上げた。

 尚樹はいった。

「ひったくりの禿げ親父一人取り押さえられないんじゃ、この街で生きていくのも大変だろう? その先でやってるっていったな。芸術劇場の向こうか。あっちは道路二本跨ぐと、急に雰囲気が悪くなる。やくざと風俗と連れ込みの街だ」

 茜が急に弱気な顔を見せる。

「あたし、人通りが多くていいって思ったんだけど、明るいうちから占い屋台の釣銭狙うなんて、参ったよ」

「占いはいつからやっているんだ?」

「まだ三日目。前は目白でやってたんだけど、景気が悪くて」

 目白といえば電車で隣の駅だが、猥雑な池袋とは似ても似つかない落ち着いたところのある街だ。聞けば茜は何も知らない池袋に来て、古くからの品のよくない路上に、誰にも挨拶せずに店を出したらしい。

「いや、茜さんとやら、今日は運がいい、遭遇したのがコソ泥ジジイで。やくざっぽいのが来たら、ただじゃ済まなかったかもな」

「……」

 少し怯えた表情を覗き込むと、メイクの下にちょっとした若さが透ける。まだ三十前半くらいかと尚樹は思った。コンパスを回して描けるような丸顔に、大きな垂れ目。目を引くような美人には程遠いが、憎めない可愛らしさを覗かせている。

「よかったら、うちの駐車場の脇でやらないか?」

 尚樹は歩道を挟んだ向かいにある、参拝者専用の駐車場を示した。

「そこなら、誰も文句はいわない」

 茜が恐縮しながら、ぜひここで店をやらせてほしいと、明るい表情で頭を下げた。

 尚樹は笑みを浮かべて、からかった。

「車が入れないほどそっちの客が行列をつくったら、そのときは考えよう」

 茜がさっと表情を崩した。

「これでもあたし、ちょっとは人気なんだよ。雰囲気を出さないといけないから、アロマぷんぷんさせてるけど。でも、嘘はつかないよ」

 なぜか、嘘はつかないという茜の言葉が至極誠実なものに、尚樹には聞こえた。

 目を合わせて二人は笑った。

「でも、あんたの納骨堂、見た目はただの雑居ビルじゃん」

「……ああ。そっちと違って中身で勝負しているんだ。よろしくね」

「余計なお世話だっ」

 茜が派手ながま口を左右に振った。

 意気投合だった。

 

 

 談話室で尚樹は、お骨を納めに来た三人の家族を、山野さんと一緒に迎えていた。契約は済んでいたが、三日前に「納骨したい」と電話してきていた。机に置いた納骨プラン契約書の、家族欄に目を走らせる。

 納骨に来ているのは、故人の妻と長女と長男だ。故人の名はいけ基弘もとひろ。妻はとも、長女は美紀みき、そして長男は勝浩かつひろ。智子は五十八歳で、故人より三つ年上だった。美紀は二十六歳、勝浩は二十歳。契約者の欄には美紀の名前があった。家族の住まいは、エターナルから歩いて行ける距離だ。

 家族には普通とは異なる事情があった。故人が自ら首を吊って亡くなっているのだ。

 尚樹は、一番広い参拝室に家族を案内した。祭壇の前に並んだ智子と美紀は、顔がよく似ている。痩せた顎と切れ長の目がそっくりだ。二人とも黒のワンピースに身を包んでいる。智子はうつろな表情のまま、何も喋らなかった。美紀はときおり目に白いハンカチを当てる。黒のネクタイを締めた勝浩は、髪はぼさぼさ、顔色は青白く、口を真一文字に閉じたまま、目線を正面に固めていた。

 

 一か月ほど前、池田美紀は一人でエターナルを訪ねていた。契約のために訪れた美紀は、お骨となった父親が死を選んだ事情を、対応した尚樹に話し始めた。辛く悲しい気持ちを、誰かに聞いてもらいたいのだろうと尚樹は察した。時折涙声になりながら、美紀は話した。それは父娘の物語でもあった。

 不幸にして美紀の父親が巻き込まれたのは、「なさけびと」という配信者がつくる悪質なSNS動画番組だった。「なさけびと」は標的とした人物を強引に社会の悪と位置付け、その弱みを強調した番組をつくる。そして、標的を面白おかしく曝すことで視聴者を増やして収益を上げる、屑同然の輩だった。「なさけびと」というハンドルネームは「情の人」という意味に見えるが、実態と対極の名を名乗る、悪ふざけだった。

 美紀が語った。

「父は、仕事一筋の人間でした」

 池田基弘は大学を出ると国税専門官の試験に合格し、税務署で働き始めた。基弘の学歴では、自分よりずっと若い高学歴のエリートが上司となる。肩で風を切るキャリアたちに押しやられ、基弘は出世と縁のない日々を送った。そして、上席調査官と呼ばれる税務の現場監督役を、定年まで務める道を選んだ。上席調査官は、つまりはドサ回りだ。昇進せずに上席を続ける職員を、税務署の世界は「万年上席」と揶揄する。基弘は、絵に描いたような万年上席だった。

「父のこんな過去まで、桑原さんの時間を頂いてお話ししてもよいのですか?」

「私が故人様のことをお聞きすることで、ご遺族のためになれるかどうか分かりませんが、よろしければどうぞお話しください」

 死別の辛さからか、尚樹に故人にまつわる話を始める契約者は少なくない。お骨をもって現れる遺族に対して、納骨堂の職員には、とにかくその話に耳を傾けるという役割があるのだ。

 美紀は続けた。

 定年間際まで、うす暗く雑然とした税務署の大部屋で、基弘は仕事にすべてを捧げて生きた。趣味もないまま毎日を暮らし、家族の生活費以外の給与のほとんどを、預金口座に直行させた。薄汚れた官舎。つつましい衣食。酒にもギャンブルにも手を出さず、休日も自宅で過ごした。

「母は父より年上ですが、『出費といえば、好きなさらし餡のおはぎを時々買ってくるだけ。最高の連れ合いだけれど、ぜんぜん面白くない男なんだから』と、笑いながら話したことがあります」

 だが、あと数年で定年というときに、「なさけびと」が現れた。

 その頃「なさけびと」は、ある中学校の校長が競馬マニアだと配信し、「いいね」を積み重ねていた。

「なさけびと」のやり口は単純、効果的で、悪質だった。まず、伝統的に品行方正であることを求められる職種を選ぶ。次にその職に就いている特定の人物に狙いを定める。該当の人物を尾行し、人にあまり知られたくない私生活の一面をカメラに収める。そこに過激な見出しをつけて配信すれば、大衆は喝采し、曝された標的を下卑た目で見て騒ぐ。

「なさけびと」が最初にターゲットにしたのは、学校の先生だった。中学校のホームページを開けば、校長が写真付きで登場し、誠実な教育理念を語っている。学校の門で待っていれば、校長はその顔で特定できる。いくつかの学校から何人かの校長を尾行すれば、校長先生らしくない、聖職者の理想像とは裏腹の趣味を、ひとつくらいはもっているものだ。

「なさけびと」は、池袋にある中学校の校長が、週末に錦糸町の場外馬券場に長居することを突き止めた。「聖職者はギャンブル狂い」という見出しと、「わざわざ電車に乗って、同僚に見つからない場所まで馬券を買いに行く。つまらない遊びに回す時間を子供たちの教育に注げないものか」という悪意のこもった一言が、大衆の心の闇をつかんだ。

 校長は勤務時間中に遊んだわけではない。校長が場外馬券場に行って責められるべき理由は何もない。だが、「なさけびと」の番組は炎上に成功する。

 ネット空間が善悪を判定する基準は、イメージなのだ。校長先生たるものはギャンブルで遊んではいけないというイメージが炎上の火種になれば、「なさけびと」の思う壺だった。実際、番組が炎上した結果、校長は保護者から道徳観を問われ、教育行政からは倫理観を糺された。

 騒ぎが広がれば広がるほど、「なさけびと」の動画は視聴者を増やした。ついに校長は校長職を辞任し、教師も辞めた。聖職といわれる教師も、教師という人間を守らなければならない学校も、裁判で争うことを避けた。そして、「なさけびと」はまとまった金を得た。

 校長で味をしめた「なさけびと」が次の標的にしたのは、税務署の職員だった。この世に納税がある限り、税務署員は清廉であることを求められる。清廉なイメージほど、炎上の燃料になるものはない。

「なさけびと」が選んだのは、税務署の現場監督たる上席調査官だった。納税者を装って税務署内を歩けば、中間管理職である上席は、フロアの奥から部下たちを見渡す向きにデスクが配置されるので、一目瞭然で顔を確認することができる。税務署の出入口で待ちさえすれば、誰に尋ねずとも、上席を尾行し、容易に私生活をレンズに収めることができる。

 そうして「なさけびと」の毒牙にかかった上席の一人が、美紀の父、基弘だった。

「お酒も飲まず趣味もない父は、『なさけびと』のターゲットとしては最初は面白くなかったはずです。でも、父は運悪く、なさけびとの尾行中に、得意でもない風俗街で遊んだようです」

 美紀が目を伏せた。

「騒ぎになってから、父は私と弟を前にして事実を打ち明けてくれました。母が数年前から若年性のアルツハイマー病を患い、その病状が進行しています。父は『母さんを介護するのに疲れたんだ』と、私たちに深く頭を下げました」

「なさけびと」の動画番組は、艶めかしく下品な装飾の店に出入りする基弘を映し出していた。配信された画面の下辺には、「血税で税務署員は夜な夜な風俗」というテロップが入っていた。「なさけびと」は、動画を、大衆が税務署に嫌悪の目を向ける税の申告期間にわざわざ合わせてアップした。校長も税務署員も責め方は同じだ。ターゲットに客観的責任は何もないにもかかわらず、職責に対する市民と組織の目、すなわち固定されたイメージを悪用して、金を儲けるのだった。

「なさけびと」の手口は狡猾だった。人が風俗街で遊んでも、もちろん責任を問われるものではない。だが、税務署員に関しては、実際に風俗店に関する不祥事が続いていた。ひとつは、男性の国税専門官が上司の許可を受けずに、内偵と称して風俗店に出入りするという事件が起きていた。他の国税専門官の名前で虚偽の報告書までつくり、税務署員が職務として、予算を使って風俗遊びをしたと見なされる事件だった。また、借金を抱えた税務署の女性職員が、兼業が認められるはずもない風俗業で稼ぐという不祥事も生じていた。いずれも職員は懲戒処分を受けて、報道された。「なさけびと」はこの機を逃さなかった。風俗業との関係において税務署が市民の信頼を失っていることを利用して、法的にも倫理的にも責任を問われる筋合いのない基弘を、極悪人に仕立て上げたのだ。「なさけびと」は、税務署を厳しく糾弾する大衆の空気感を悪用して、いわば架空の不祥事を創作して、基弘を追い詰めた。

「父は憔悴しきっていました。母の病気の進行が、父の心の健康を奪ったのだと思います。母は記憶がまだらとなり、独り言を大声で叫ぶようになりました。母はもう、自分が誰だか家族が誰だか、分からないのです」美紀は俯いて話を続けた。「そして、『なさけびと』の騒ぎが大きくなった頃、親子ほど若い上司から、『国民の目を意識して私生活を律するように』という、職員への特別の訓示があったようです。父は職場の内外から白い目で見られることになりました」

 尚樹には慰める言葉がなかった。

「ある夜、私は、部屋に籠った父を弟が励ましている声を聞きました。弟は、『風俗なんか誰だって行くよ。親父は何も悪くないよ。おふくろは、家族みんなで大切にする。みんなで守る』と、涙声で叫んでいました。私は弟を頼もしく思いました。弟は高校時代に傷害事件を起こしていて、警察の厄介になったことがあります。その後もしばらくは父の脛をかじって遊んでいました。ときどき私も小遣いを渡していました。でも弟は少し前から、訪問介護事務所で事務の仕事をしています。本当は弟が優しい人間であることを、私は知っています。私は翌日、父の好きなおはぎを買って帰って、お茶を淹れようと思いました。姉弟二人で励ませば父はきっと元気になる、と。でも、翌日の早暁、父は首を吊りました」

 美紀の目から涙がこぼれた。泣きながら、自分のことを話し始めた。

 美紀は父親とは違い、エリートの道に進んでいた。最高学府を出て金融庁に入った。国の金融行政の中枢だ。父親の財務と美紀の金融は、社会の金の流れを律する両輪だ。その行政官として、美紀は親の背中を追ったのだ。

 美紀は自分の進路を父親には一言も相談しなかった。美紀は十代の頃から、どこまでも地味な公僕として働きながら家庭を支える父を、誇りに思っていた。美紀は自身が歩む経歴でもって、父への感謝と父を誇りに思う気持ちを行動で示したのだ。自分よりもはるかに学歴が高く、将来が期待できる娘。基弘は「昇進が速いだろう。万年上席の俺なんかよりずっと世の中のためになるぞ」といって、美紀を眩しそうに見たという。

 エターナルの契約書を前にして、美紀が話を続けた。尚樹は、言葉を選びながら応じた。

「故人様、お父様は、ご家族に心優しい方だったとお察しします。そしてお嬢さんのお仕事の発展を楽しみにされていた」

「せめて死を選ばないでいてくれたら……。生きてさえいてくれたら……」

 財務金融を扱う公務員は清くあるべきという社会通念を、「なさけびと」は悪用した。美紀の父親はそのために自死したに違いなかった。

 尚樹は、美紀が拳を握りしめるのを見た。

「私は、父と同じ道に入りました。私には『なさけびと』を許さない、プロとしての矜持があります。父と私が背負う職責を汚したことに対して、『なさけびと』を許すことはないのです」

 美紀の目は、涙を流しながらも、信念を湛えていた。その姿は神々しくさえ見えた。彼女の怒りは、父親を殺されたことからだけではなかった。彼女は、父個人の無念を思うだけでなく、父の背中を追って就いた仕事に命を懸け、職務の誇りを胸に生きているのだ。美紀が携える官僚たる生き方こそが、「なさけびと」への怨念と憎悪を生み、「なさけびと」を許さないのだ。

「遺族として、父の名誉のために、何かの訴訟を始めることはできるでしょう。でも、私にその選択はありません。税務署や国税局は、職員一人の名誉よりも、早く事態が静かになることを望んでいます。一職員の名誉よりも組織の安定を図る論理を、私は行政官として認識するのです。私は、父の名誉のためには何もしない組織を、憎むことはありません。憎いのは、『なさけびと』ただ一人です」

 尚樹は、美紀の言葉に、プロの行政官の魂を見せつけられた。仕事に人生を捧げるというものだろう。だが、亡くした肉親を前に、組織の理念に自分の気持ちを沿わせようとする美紀の姿は、尚樹には理解が難しくもあった。

 美紀がふっと息を吐き、表情を緩めた。

「父は私や弟には職場のことは何も話さなかったのですが、一度だけ『父さんの仕事は、みんなの幸せのために、人のお金を集めることだ。みんなに恨まれるんだよ、父さんの仕事は』と、笑っていたのを思い出します。きっと責任感が人一倍強い人だったのだと思います。私にできることは、父の誇りを受け継ぐことです」

 美紀はそう話すと、もう一度涙を拭った。そして、「どうか父のお骨をよろしくお願いします」といって、契約書に印鑑をついた。

 

 僧侶が頭を下げながら、参拝室から退出した。尚樹は参拝室の扉を開けた。中で美紀が智子に語りかけていた。

「お母さん、これで、お父さんの納骨は終わりよ。ここなら近いから、これからは歩いて十分でお父さんに会いに来られますよ」

 だが、智子は言葉の意味を理解できないのだろう。ぼうっと視線を宙に漂わせるだけだ。

「……お骨を仕舞って頂いて、今日は帰りましょう。また会いに来ましょう」

 美紀が智子の肩に手を置いて、声をかけた。

 山野さんが来て、真新しい骨壺をお箱に納めていく。きびきびとした所作だった。尚樹は、玄関まで家族を案内しようとした。

 帰りじたくをしている美紀と智子に、勝浩だけが祭壇の正面から動かなかった。勝浩は涙ひとつこぼさず、ひどく乱れた髪のまま、目をきりりと祭壇に向けている。

 尚樹は、勝浩の体が震えていることに気がついた。握った拳がぶるぶると振動している。

 と、突然、勝浩は叫び声を上げ、祭壇を自分の右拳で何度も殴りつけた。鮮血が祭壇に散った。

 美紀の悲鳴が響き渡った。

 勝浩の獣のような叫びが広がった。

 山野さんがすぐに動いた。山野さんは、後ろから勝浩の腹部を抱えて取り押さえようとしたが、振り飛ばされた。

 祭壇のお箱は払いのけられ、骨壺が転げ落ちて遺灰が床に広がった。勝浩はなおも鬼の形相で絶叫し、拳を祭壇に打ち付けた。周囲の仏具に血が飛び散った。

 尚樹は勝浩に飛び掛かり、足を払って床に倒した。そして、左右の腕で勝浩の上半身を絞めつけた。

 しばらくして勝浩の抵抗が収まる、叫び声も止まった。耳元で聞こえたのは、勝浩の擦れた声だった。

「殺して、やる」

 尚樹は押さえ込んだ勝浩の顔を見た。

「殺す、殺す、殺す、こ・ろ・し・て・や・る……。親父をこんな目に遭わせた奴を」

 恨みの声は、そのまま嗚咽に埋もれた。

 

「大丈夫ですか?」

 勝浩を床に組み伏せていた尚樹の耳に届いたのは、救急隊員の声だった。青いつなぎ姿の救急隊員が参拝室に上がってきていた。職員の誰かが救急に通報したのだろう。

 隊員に促されて、尚樹は勝浩の上半身を絞めていた両腕を解いた。

 二人の隊員が勝浩の両脇を抱え上げ、連れ出していく。血を流して運ばれていく勝浩は、まるで警察官に制圧された殺人者に見えた。

「他に怪我をされた方はいませんか?」

 尚樹は「山野さんっ」と叫んでいた。そして、参拝室の脇でうずくまったままの山野さんの上半身を、抱きかかえた。白いブラウスに飛び散った鮮血を見て驚いたが、「いいえ、私の怪我ではありません。大丈夫です」と、山野さんは気丈な姿を見せた。

 静かになった参拝室で、美紀が嗚咽を漏らして床に座り込んでいた。そして智子は、何が起きたのか理解できない様子で壁際に立っていた。

 

 

 夏の東京は、三十五度という気温がまったく珍しくないほど、暴力的な暑さが続く。

 だが、いいタイミングで仏具店の営業担当、しろが現れた。しかも、納品する仏具に加えて、土産にアイスクリームの箱を手に持って。

 尚樹は笑顔で迎えた。

「八代、あんた、気ぃ利くな、ほんとに」

「いえいえ、桑原さん、いつもお世話様です」

 八代は、よく絶妙のセンスでお茶菓子を持ってくる。饅頭、羊羹、クッキー、そしてアイスクリーム……。甘過ぎず口に心地よい菓子を心得ていた。

 尚樹は、取引相手であるにもかかわらず、八代にはタメ口をきく。ごく初期は敬語で接していたが、打ち解けたのは、八代の納品したろうそくの芯の質が悪くて返品したことからだった。

 厳かな参拝室で早々と消えてしまうろうそくに辟易した尚樹が、「落語の『死神』じゃないんだから、消えないろうそく持ってきてくれ」と八代を冗談まじりに叱った。二人ともそれで笑い始めてしまったのが、友達付き合いに変わるきっかけだ。

 尚樹は交代で事務室を社員に任せ、みなで会議室でアイスクリームを食べることにした。まず、山野さんを誘った。

「アイスクリームとは、選択がいいです、八代さん」と、箱を覗いた山野さんが褒めた。

「前の仕事で鍛えられましたから」が、八代の答えだ。

 八代は社会に出るとしばらく、テレビ番組制作の孫請けプロダクションにいた。ADだった。収録の隙間時間に気の利いた飲み物や茶菓子を買ってこられるかどうかが、ADの腕の見せ所だと話す。八代は女性アイドルのトーク番組を担当していたので、休憩時間に甘い菓子をささっと並べる役目になったそうだ。

 八代が笑う。

「お蔭でアイドルの知識なら負けません。誰も知らない地下アイドルでも、しっかりチェックしています。あのプロダクションが潰れてなかったら、いまもADでしょうね」

「よかったんじゃないか。大汗かいて中学生の子にお菓子買ってくるより、仏壇売って位牌売ってふんぞりかえって、性に合っているよ」

「やめてくださいよ」八代が両手の人差し指で×をつくった。「ま、でもアイドルの番組や写真を見ると、いまもちょっと胸騒ぎがします」

 八代にはADのうちに叩きこまれた特技がある。撮影術だ。実際、八代の写真の技量は、プロ並みの水準だった。シャッターを切るだけではなく、被写体や小道具まで調達してくる。尚樹は、エターナルが仕事で使う写真の準備を八代に依頼していた。子役まで登場する納骨プランのパンフレットの掲載写真は、尚樹の要望を聞きながら八代が準備して撮影したものだ。

「これ、濃厚でいいな」と、スプーンを口に運びながら尚樹は褒めた。

「そうですね、生き返ります」と山野さん。

 山野さんは、今日も、白と黒の落ち着いたエターナルのユニフォームが似合っている。

 十年も前のこと、山野さんは親や兄弟と縁を切るようにして、とある男の元に走った。だが、男との間に授かった赤ん坊を、生まれて三か月で喪った。乳飲み子の死を前にして男の気持ちは彼女から離れ、気がつけば山野さんは独りになっていた。「できることなら、ここで子供を弔いながら、お参りに来る人の役に立ちたい」ということを、求人に応募してきた山野さんは面接で話した。そんな辛い過去があるとは思われないほど、いまの山野さんは明るい四十四歳を生きている。

 八代がアイスクリームのカップの底をスプーンで引っ掻いた。山野さんが思い出したように話す。

「そういえば八代さん、駐車場の脇に、占いの人、いませんでしたか?」

「ああ、謎のカレー屋さんみたいな女性ですか?」

「はいっ、そうですっ」と山野さんが笑う。「この猛暑で大変だと思うんです」

「路上に店を出したいというから、駐車場脇を勧めたんだ。ちょっと呼んでこようか?」

 尚樹は二人に説明する。

「えっ、館長、あの人と知り合いなのですか?」と引きつった表情の山野さんに、「知り合いとはちょっと違うな」と尚樹は慌てて否定した。

 山野さんは目を白黒させたが、五分後には茜はエアコンの効いた会議室にいた。

 幻想めいた厚化粧は崩れ、相変わらずのインド風の衣装は汗でびっしょりだった。グレーのシャツに、黄色のズボン。腰のベルトのところが蒸れて鬱陶しくてしょうがないと、茜が嘆く。手に紙の袋を大事そうに提げていた。占い屋台で使う家財道具一式だそうだ。仕事中は手放せないのだと笑う。

 茜は周囲をさっと見渡していった。

「納骨堂っていうから、しゃれこうべが壁一面に並んでて、社員が四六時中マントラ唱えてるのかと」

 山野さんが吹き出した。

「そんな訳ないじゃないですか。さあ、座って涼んで。定番のバニラです」

「いいの?」と遠慮する茜。

「もちろんです」と山野さん。

 茜が満面の笑みを見せた。そして、「忘れてた」といいながら、『未来師・茜』の名刺を山野さんと八代に渡す。二人の顔が困惑に変わる。

 尚樹は訊いた。

「あそこでやってて、熱中症は大丈夫か?」

 茜がゴクリとアイスクリームを飲み込みながら、答えた。

「……いや、暑さそのものより、今日は生ごみの臭い」

「えっ」

 三人が顔を見合わせた。

「この暑さだから、あっちの、燃えるごみの捨て場から、物が腐る臭いが漂ってんだ。昨日からかな」

 確かに燃えるごみの捨て場が歩道沿いにある。茜の占い屋台からは、五十メートル以上は離れていそうだが。

「どこかのスナックが、生ごみをたくさん出したのではないですか」と山野さんがいう。池袋の街は飲食店ばかりだ。

 初めて話す山野さんは、茜の仕事に興味津々だった。

「茜さんは、どういう占いが得意なのですか?」

 茜がスプーンを手にしながら答えた。

「これかなぁ?」

 茜は衣装からぶら下がるチェーンを外すと、繋がっているガラス細工を見せた。キラキラ光る白い鳥を山野さんが珍しそうに見た。

「この鳥が、得意技ですか?」

「『光の願い』っていうんだ。モチーフは鳩。この輝きを信じる者は、どんなに悪い奴でも救われるんだ」

 尚樹は笑った。

「茜に占ってもらったら、この細工を買わないと呪われるぞ」

「勝手なこというな」

 茜が丸顔をもう一回りふくらませた。

「あっ。それぇ……」と八代がいう。

 八代は背広のポケットから、手のひらに包めるくらいの大きさのガラスを出して、茜に渡す。片翼が折れた鳥だった。

「いま、そこで拾いました。ごみかと思った。車を降りた足元に落ちていて。壊れてしまっていますかね?」

 緑色の鳥の体の一部が、茜の手のひらにのっている。

「ありがと。……翼が折れてる」と、茜が鳥を眺めた。

 尚樹は思い出した。

「ああ、禿げの泥棒に遭ったときに、あそこでいくつも割られただろ? あんときの欠片だろ」

「……」

 茜は首を傾げた。翼を失った鳥に照明を当て、眉を寄せて凝視する。

 尚樹が茜と知り合うきっかけとなった泥棒の話を披露すると、一しきり盛り上がった。

「『光の願い』には、神秘のパワーが宿っていそうですね」山野さんが茜を持ち上げる。「これはどこで手に入れるのですか?」

「作るんだってば」

「えっ。このきれいなのを、自分で作れるの? 凄いです。チェコのお土産だといわれたら信用します」

「チェコ? そんなアフリカの国で、ガラス作ってんの?」

「……」

 盛り上がった雰囲気は沈静したが、茜は気にする様子もなく「光の願い」をオーダーメイドで作れるように、ガラス細工を学んだのだと話す。みな、その熱心さに驚いた。

「山野さん、今度豚でも作ってもらいなよ」と、尚樹はからかった。

「豚の細工があるのですか。私は願い事がたくさんありますから、大きな豚を買わないとパワーが足りないかもしれません」

 茜が口を尖らせる。

「あたしのは、豚じゃなくて、犬。買うんじゃなくて、祈るの。あたしの言葉を信じる者は救われるんだ」

 尚樹は茜のいつもの調子に大笑いし、山野さんと八代は目を瞬いて戸惑っていた。

 

 

 池袋の街路を秋の風が吹き抜ける朝だった。尚樹が出勤してくると、納骨堂のはす向かいに、パトカーが止まり、ブルーシートが張られている。エターナル社の駐車場と接した賃貸マンションの敷地のへりに植え込みがある。シートは、その周囲を取り囲んでいた。

「何事か」と尚樹が訝しんでいると、制服姿の山野さんと未来師の衣装の茜が、立て続けにやってきた。二人とも慌てている。

「し、死体が出たから、調べるって、警察の人がいってます。駐車場の責任者にお話ししたい、と」

 山野さんは青ざめていた。

「えっ」

 死体という言葉に、尚樹は慄いた。

 茜が眉をひそめる。

「人が死んでたらしい。ポリのおっさんがいっぱいで、なんか大変な騒ぎなんで、ちょっと屋台、どけるよ」

 すぐに尚樹は捜査員に囲まれて、事情を聞かれる羽目になった。

「責任者の桑原です。駐車場は、私が経営している納骨堂のものです」

 納骨堂という言葉を聞いてか、七三分けの若い捜査員の眉が動いた。指はブルーシートを指している。

「そこから死体が出ましてね」メモ帳を開いて捜査員が話した。「この周辺で、ここ数か月の間に変わったことはありませんでしたか?」

「死体って……」

 愕然としながら、尚樹は尋ね返した。

「怖いな。殺された死体が、植え込みに捨ててあったんですか?」

 捜査員は首を振りながら「まだ分からない」という。つっけんどんな態度だった。

 だが、何人もの警察の人間がマンションの外階段を上っていくのが見えた。見上げると外階段の上層階部分で鑑識らしき警察官が入念に作業を続けている。ああやって指紋を集める鑑識課のテレビドラマを尚樹は思い出した。

「ひょっとして、あの高い所から飛び降り自殺ですか?」

 捜査員が、口を歪めて苛ついた表情を見せた。尚樹の質問を無視して、再度尋ねてきた。

「ここ三か月か四か月の間に、何か変わったことは?」

 尚樹は思い当たることはないと話し、「あの植え込みは奥まっているので、駐車場の利用者はあまり近づかないと思います」と続けた。

 捜査員は黙ったまま、メモを取っている。

「それに三、四か月って、あそこにそんなに前からあったんですか? 死体が」

 捜査員が尚樹を睨んだ。尋ねているのはこっちだといいたいのだろう。

 そこに、年配の、明らかに上司と見える白髪まじりの捜査員がやってきた。

「お忙しいところ申し訳ありません。駐車場から何か検出できるかもしれませんので、この後、調べさせてください。令状というものがありますので、ま、持って参ります」

 穏やかな声だった。

「あそこに、ずっと前から死体があったのですね?」

 尚樹が訊ねると、年配の捜査員が少し苦笑いしてから、答えた。

「ま、上から落ちてきた強い衝撃で、植え込みの土の中にすっぽり埋まったようでして」

「えっ?」

「なぜ落ちたかは分かりませんけれど、ま、人の体は結構重いので、相手が土の地面だと、ほとんど見えなくなるくらい沈んで、埋まってしまうことも、ま、ありましてね。そうなると、落ちてから何か月も、骨になるまで見つからんこともあるんです」

 喋り過ぎだといいたいのか、若い捜査員が年配の捜査員に視線を送る。だが、年配の捜査員は話を続けた。

 死体はほぼ白骨化していて、植え込みを掃除しようとした清掃業者が、地上に出ていた足の一部を見つけて、騒ぎになったのだという。

 尚樹は、あの一件を思い出した。

「そういえば……」

 その一言を聞いた若い捜査員が、こめかみをピクリと動かした。

「以前、仏具店の営業がここに車を止めた日があって……」

 尚樹は記憶をたどって、八代がアイスクリームを持ってきた日に、茜が「生ごみ臭い」といっていた話を、二人に話した。茜以外は誰も気づかなかったことも含めて。

「それはいつ頃でしょう?」と年配の捜査員が訊く。

「二か月くらい前かな。ものすごく暑かった日。うちの仏具の納品書を見れば、分かりますが」

 

 聞き込みから解放されて事務室に戻った尚樹を、山野さんが出迎えた。

「山野さん、忙しいときに、悪かった」

「いいえ。何てことありません。でも、骨になった人ですけれど、身投げしてもずっと誰にも見つからなかったなんて、なんか可哀そうです」

「ああ。そうだな」

 尚樹は溜息をついた。

 翌日には、ウェブもテレビも新聞も、池袋で白骨死体発見、と報じた。ただし、専ら誰にも見つけてもらえずに骨になった点が関心を惹いて、「大都会の悲哀」という論調で伝えられた。「人知れず白骨に」、「悲し過ぎる自殺?」、「都心の孤独」といった見出しが並んだ。

「自殺白骨 目と鼻の先に納骨堂」

 そう騒いだのはSNSの書き込みだった。

 

(つづく)