元文六年(1741年)、正月元日。
南町奉行所定廻同心の杉野郁太郎は、上役に年始の挨拶をすませると、八丁堀を出て市中の見廻りに出かけた。
千代田の御城までやってくると、桔梗門外の下馬所は例年通りの大賑わいだった。公方様へ年始の挨拶にきた大名行列と、その見物に来た町人たち。その間を讀賣が練り歩き、遠巻きに蕎麦や酒の屋台が立ち並ぶ。
元日は名だたる大名が登城する。主人を待つ馬たちも名馬ばかりだ。中天に近づくお天道さまの日差しを受け、その糞は鼈甲のように光っている。
木枯らしが土埃を立て、杉野は咳き込んだ。
「これは、杉野様」
涙目を向けると、声の主は小石川養生所の見習い医師、河口橘平だった。濃藍色の裃をつけており、どこぞの小藩の若様と言われても納得するような精悍な出で立ちだが、手には薬籠を持っている。
「こりゃあ、河口先生。おめでとうございます」
「おめでとうございます。お役目ご苦労様でございます」
河口は深々と頭を下げた。河口の父は表御番医だ。元日の挨拶を許されており、その供として来たのだろう。
「なぜ、それを?」
杉野は薬籠を見ながら言った。革帯が巻かれた南蛮趣味の薬籠で、裃姿と滑稽なほど似合っていない。
「あ、これから、外診に行こうかと思いまして」
「正月、早々ですかい」
河口の患者は、養生所に入所していた市中の貧民だ。供とは言え、公方様に御目見得した後に、よく貧民の元へ行こうと思うものだ。
「病人には、暮れも正月もありませんから」
河口は照れくさそうに苦笑した。河口も、おのれの行動が柄にもないと思っているのかも知れない。
「特に、お活の腰が気になりまして」
お活は養生所で働いていた女看病人だ。腰を痛めて、娘のお寅が代わりを務めていたが、昨秋、お寅は悪事を働き養生所を追い出された。今は、河口の口利きで、日本橋の薬種問屋に奉公にあがったと聞いている。
変わったな、と杉野は思った。初めて会った時、河口は養生所での漢方医修行を気に入らず不貞腐れていた。それが、正月早々、外診するまでになったとは。
貞森十内の影響か。
杉野は、養生所の医師、貞森の血色がない顔と小枝のような痩せた身体の、幽霊然とした佇まいを脳裏に浮かべた。御目見得医に推挙されてもおかしくない優秀な医師がゆえ、肝煎の小出宝生に養生所に留め置かれ、それを喜んでいる欲のない男だ。しかも、蘭方医であり漢方医でもある蘭漢折衷医であり、河口にとっての先達でもある。河口が感化されるのは当然だが、ここまでとなると貞森の影響力の大きさを感じる。
「あ、大変失礼いたしました。この度は、祝着に存じます」
河口が深々と頭を下げ、杉野は驚いた。
「祝言はいつ頃ですか」
「ああ、春頃です」
口にしながら、視界の端に見え隠れする讀賣に辟易した。讀賣が手にする瓦版に、杉野の嫁取り話も載っている。勿論、話の肝は杉野ではない。相手が名の知れた女なのだ。
発端は、町奉行だった。世襲の与力、同心と違い、町奉行は旗本の出世の半ばの役だ。数年ごとに交代し、南町奉行所にも昨年、新しい町奉行がやって来た。その町奉行は勘定吟味役の出で、市中の札差に精通しており、そのうちの一つ、蔵前の大黒屋と懇意にしていた。以前から、その末娘の見合い相手を探していたようで、妻帯していない同心の中で杉野に白羽の矢が立った。町奉行直々の縁談を断れる同心などいない。
「月に照らされ、桃色の花びらを載せた綿帽子。蔵前小町の花嫁姿はさぞ、絵になるでしょうね」
うっとりとする河口に、杉野はこの上なく居心地が悪い。
相手の名前は由良という。蔵前小町と評判の美しい見た目をしているが、女だてらに一刀流の道場で稽古に励み目録まで上り詰めた。女でなければ免許を与えられたのに、と師匠が嘆くほどの腕前らしい。最近では四谷まで足を運び、神道無念流という新興の流派と交流しているようだ。
「実は以前、父の代診で、大黒屋さんに伺ったことがあるんです。腹痛でお困りだった御母上を心配そうに介抱する蔵前小町は、錦絵の万倍も美しく、それは驚きました」
杉野は縁談相手の噂を聞くたびに憂鬱になる。聞けば聞くほど、おのれの手に余りそうだ。
「あの蔵前小町を射止めるとは、さすが杉野様ですね」
お追従ではなく、河口は心から言っているようだった。杉野には河口に一目置かれる心当たりがなく、気味が悪い。
「行き遅れて仕方なくですよ」
そうは言ったが、年が明けて由良は二十歳。まだ周囲が眉を顰める程ではない。縁談自体は十六歳ごろからあったようだが、今までは頑なに拒んでいたそうだ。なぜ、おのれとの縁談は了承したのか。杉野は心当たりが全くなく、困惑のほうが強かった。
「いやいや、やはり他生の縁なのでしょう」
河口にそう言われ、杉野は見合いの日を思い返した。組屋敷の上役宅に呼ばれ、嫌々、足を運んだ。もう少しで下手人を追い詰められる事件があり、出された茶を一気に飲み干すと、脱兎のごとく後にした。どうやら由良が来ていて障子越しに杉野を見ていたらしいが、あんな僅かな時間では満足に杉野を品定めできなかっただろう。それなのに、後日、縁談の話が来て驚いた。条件だけで考えれば、もっと良い男は他にもたくさんいるはずだ。
腑に落ちない点は多いが、由良の気が変わらないうちに、と町奉行を仲人に足早に結納まで終えさせられ、あとは祝言を待つばかりとなった。
蔵前小町がついに祝言をあげる。瓦版が大量に刷られ、その相手として杉野の名前も市中に知れ渡った。
「河口先生、外診は良いんですかい」
「あ、これはいけない」
河口は西に向かって小走りに駆け出した。
「悪いこたあ言わねえ。着替えたほうがいいですぜ」
背中に投げた杉野の言葉に、河口は一瞬、足を止めおのれの身なりを確認すると、振り返って苦笑した。北に進路を変え、神田駿河台の屋敷へ戻るのだろう。河口を見送ると、杉野はまた市中見廻りへと足を進めた。
八丁堀に戻る頃には、日が暮れていた。北島町の組屋敷に帰ると、いつもは出迎えてくる母がいない。女中に言われ奥の間に行くと、高衣桁が出され、そこに杉野家の丸に五三桐紋が染め抜かれた裃と熨斗目が掛けられていた。裃と熨斗目は同じ染めのようで初めて見る色だった。透けのない深い黒。しかし仄かに茶が混ざっており冷たさはなく温かい。
「やだ、郁太郎さん。帰ったら声をかけてくださいよ」
高衣桁の前に座っていた母の佐奈が、杉野の気配に気づき振り返った。
「気が早いと思いましたが、待ちきれず花婿衣装を出してしまいました」
肌の手入れを怠らず、普段から杉野の姉に見間違われるほど若作りの佐奈だが、杉野の縁談がまとまってからは、更に生気が漲り、妹と言っても騙される輩がいるのではないかと思うほど、若々しくなっている。
「不思議な色ですね」
杉野が花婿衣装を見上げながら言う。
「憲房染めですよ」
見たことはなかったが、名前は知っていた。一乗寺下り松で、かの宮本武蔵と決闘し、その名を後世に残した吉岡一門の生業は染物屋だ。得意としているのが、憲房染めで、吉岡家四代目当主、吉岡憲房が明人に習い、始めたとされる。憲房染めで染め上げられた憲房黒は、武士の中では最も格式が高い色の一つとされている。
「墨や鉄漿とは違う、なんとも気品のある色ですね」
「檳榔子という南蛮の貴重な種子で染めるそうですからね」
「檳榔子?」
「南方の木の実で大変、高価なものなんですって」
「我が家には、些か不釣り合いでは?」
町奉行所の同心は、三十俵二人扶持の御家人だ。冠婚葬祭でも、旗本のような格式は必要ない。
「何をおっしゃいますか! これは杉野のご先祖様が、御家老様と懇意になって、いただいた品。お舅様も旦那様も祝言では、これを着たんですよ」
佐奈は亡き父を思い出したのか、目尻にうっすらと涙を浮かべた。亡き父と母はこの組屋敷で育った幼馴染同士だ。比翼の鳥と言えるほど仲睦まじかった。両親に、おのれと由良を重ねようとするが、まだ上手く重ならない。
愛おしそうに裃を撫でる佐奈を置いて、杉野は静かに座敷を出た。
正月二日。朝の支度が一段落した頃に、杉野が雇っている岡っ引きの文蔵がやって来た。杉野は庭で大根を引き抜いていた。
奉行所の役人は、少ない家禄でも賄賂をたっぷり貰えるので家計に困ることはない。しかし杉野家は、亡き父が賄賂を嫌がり、賄賂を受け取らない家と周知されてしまったがために、杉野の代になっても賄賂が来なかった。父から受け継いだ庭の畑で、杉野も糊口を凌ぐ野菜を育てており、この大根は今夜の膳に載る物だ。
「なんだ文蔵、正月早々」
杉野は大根の土を払って、縁側の笊の上に置く。
「実は、我が家にこれが持ち込まれまして」
杉野が手を洗うのを待って、文蔵は小さく折りたたまれた楮紙を出した。
文蔵は八丁堀に近い入船町で、髪結い床をやっている。二日は魚河岸の初売りがあり、元日は寝正月と決め込んだ商売人たちがこぞって髪結い床へ押し寄せる。その人山を掻き分けながら、近所の小僧が顔を出し、文蔵の妻に渡したそうだ。
杉野は訝りながら、開けていく。文字は雑に崩して書かれている。筆跡を悟られたくないのだ。杉野の背筋が伸びる。読み進めるうちに、眉間に皺が寄るのがおのれでもわかった。文蔵が、事件の匂いを嗅ぎつけ目を光らす。杉野は文蔵に文を渡し、次は大根の畝の隣の葱を抜きにかかった。土に埋まった白い部分が小さな大根のようにぷっくりと膨れ、じっくり煮たら、たいそう甘そうだ。
「お福に係る件、当方委細承知。大黒屋への露顕を欲せざるならば、金二十両を用意して待て」
これは、と文蔵が目を見開いた。
「誰が、今更こんなものを。お福と言やあ、もう十年も前になりますかい」
文蔵は杉野の父の頃から岡っ引きとして働いている。当然、息子の杉野とも長い付き合いだ。
「お福のこと、覚えているのかい」
文蔵は深く頷いた。
父がまだ存命で、杉野が同心見習いとして奉行所に出仕を始めた頃、お福という名の少女と懇ろになった。お福は葭町の桔梗屋という置屋の半玉(芸者見習い)だった。
出会ったのは、本両替町の菓子屋、阿波屋だ。本両替町も蔵前同様、札差が軒を連ねる町だ。屋号の通り、阿波の和三盆を使った上菓子や饅頭を売る阿波屋は、食通が多い札差の中でも美味いと評判だった。杉野も実際に阿波屋の饅頭を食べると、一口でその上品な甘さの虜になった。
お福は宴席で客に出す干菓子を買いに来ており、杉野とよく鉢合った。お福は一目で客を引き付けるような華のある顔立ちではなかったが、ふとした瞬間に眼が憂いを帯び、なぜだか心に残る少女だった。
ある日、杉野は我慢できずに、阿波屋を出てすぐの往来で饅頭を頬張った。しかし、ちょうど駕籠かきとぶつかり、食べかけの饅頭を落としてしまった。思わず悲鳴に似た声をあげると、後ろでくすくすと可憐な笑い声がした。振り返ると包みを抱えたお福がいた。
「お役人様、良かったらこれを」
お福は包みから、たった今落としたものと同じ饅頭を取り出した。
「いつもお役人様が買っていらっしゃるので、私も買うようになりました」
「賄賂は受けん!」
お福に笑われた恥ずかしさを隠すために語気を強めたが、お福は怯まなかった。
「賄賂ではありません。いつもあたしたちを守ってくださるお礼です」
「守る?」
「お役人様が市中を見廻ってくださるから、あたしたちは悪事に巻き込まれないで生活できるんじゃありませんか」
誰かの生活を守るなどとは考えていなかった杉野は、おのれが情けなくなった。口を引き結んで饅頭を受け取ると、一礼して立ち去った。
それ以降、店先で会えば言葉を交わし、店以外でも会うようになった。半玉の一日は忙しく、会えるのはお福の稽古が終わり、座敷に出るまでの、わずかな時間だけだったが、それでも気づけば毎日会い、向かう先が茶屋から船宿に代わるのに時間はかからなかった。船宿代を稼ぐために、杉野は破落戸から金を巻き上げたりもした。文蔵と初めて会話をしたのも、その頃だ。
お福と会った帰り道、京橋の上で文蔵に耳元で囁かれた。それまで気配は一切、感じなかった。杉野の頭から、お福との甘い時間が一気に消し飛んだ。
「坊ちゃん。女遊びもほどほどにしねえと、旦那も目をつぶれなくなりますぜ」
勿論、父の元へ出入りする文蔵の存在は知っていた。挨拶を交わすこともあったが、声だけで人を殺せそうな男とは知らなかった。文蔵なら、破落戸どころか、大盗賊でも震え上がるだろう。
汗の滴る杉野の背中を軽く叩き、文蔵は去って行った。
お福はいずれ芸者として独り立ちする身だ。杉野とどうにかなりたいとは思っていないだろう。杉野も勿論、芸者を嫁に取るつもりは毛頭ない。父に目をつけられているのなら、もう会わぬほうがお互いのためだ。
船宿で別れ際にそう言うと、お福は顔をこわばらせた。そんな反応を杉野は露とも想像していなかったので驚いた。まさか、お福は俺に未練があるのか? そう思うと怖くなり、酷い別れの言葉を吐くと脱兎のごとく逃げ出した。お福は追って来なかった。その日は、寂しいような、ほっとしたような複雑な気持ちで眠りに落ちた。数日後、お福の置屋の女将がやって来た。玄関土間でお福が懐妊している、どうしてくれると騒ぎ立てた。
父がすべてを引き受け、女将と話をつけた。杉野は何も知らされず、聞きもしなかった。お福が子下ろしをしたと、杉野に教えたのは、深川佐賀町の産科医、お静だった。杉野が市中を見廻っている時に、声をかけてきたのだ。
「最近、阿波屋さんに行ってないようですね」
声のほうへ目をやると、白髪を垂髪にした小柄な老婆がいた。降り注ぐ陽に、白髪が柔らかく波打ち、丸い背中も相まって、縁側の猫を想像させた。
「桔梗屋さんも買わなくなったから、だいぶ売り上げに響いているようですよ。せめてお役人様は行ってあげないと」
「桔梗屋が、なぜ?」
御贔屓筋の好物だから買っていたのに、店を変えては文句を言われないか。
「当たり前じゃないですか。あの店に半玉を行かせたら、男と出来ちまうんだから。泣く泣く店を変えたそうですよ」
老婆は、猫ではなく虎だった。杉野は老婆に身構えた。
「お前は誰だ!」
「申し遅れました。あたしは、深川佐賀町で産科の町医者をやっているお静と申します」
お静は、ひひひと笑うと、杉野を見つめた。
「何が言いたい?」
「そりゃあ、一つしかありませんよ」
お静は微笑んだまま鋭い眼を杉野に向ける。
「お福は子を下ろしました。あんたの子をね」
杉野は息を飲んだ。
「中条流か!」
中条流とは、子下し専門の女医の名だ。昔は堂々と看板を下げていたようだが、今は禁止されている。
「確かにあたしゃあ、中条流ですがね。勘違いしちゃあいけませんよ。中条流は由緒正しき産科の名門ですよ。子下し専門なんて思われちゃ迷惑千万ですよ」
そう言いながらも「子下し」に力を入れる。
「俺は、お福に子下ししろ、なんて言っていない」
「そりゃあ、そうですよ。お役人様がそんなこと言うはずない」
再び、ひひひと笑いながらお静は踵を返す。
「子下しは女の罪です。男どもに関係ないことですもの」
そう言いながらお静はゆっくりと去って行った。その歩き方は、老婆とは思えない、吉原の花魁のような妖艶さだった。杉野は、お静が早く立ち去るよう願うしかなかった。
「どうするんですかい」
文蔵の声に、杉野は、はっとした。抜いた葱が、手の中でひしゃげている。
「女房が小僧に聞いたところ、顔を隠した女に頼まれたと言ったそうですが。探し出しますかい?」
「いや、ほっておくさ。俺には何の非もねえことだ。仮に、大黒屋に露見したって痛くも痒くもねえ」
杉野は、葱を大根の隣に置くと、手ぬぐいで手を拭い、縁側へ上る。
「それよりも、捨て子騒動に決着をつけねえとな」
文蔵は一礼すると捨文を縁側に置き、庭から去った。杉野は捨文を懐にねじ込むと、野菜を下げるように女中に声をかけた。
昨年から、市中では捨て子が相次ぎ、ちょっとした騒動になっていた。捨て子は、生まれて一月に満たない赤子が多かった。決まった捨て場所はなく、市中の様々な町で見つかっている。
捨て子は見つけた町内で育てる決まりになっている。けれど、どの町内も捨て子を育てる余裕はない。捨て子が見つかった町内は、町名主が苦心して貰い乳をしたり、「乳の粉」という寒ざらしにした米の粉を水で溶いて煮沸した乳の代用品を工面していると聞く。
養子先を探そうにも、持参金が必要で簡単には決まらない。市中の町名主連中は、いつ、おのれの町内に捨てられるかと戦々恐々としているようだ。町名主たちから奉行所に事件の早期解決を訴えられ、杉野にお役目が回ってきた。
捨て子は時々あるものの、最近は数が多すぎる。何か理由があるはずなのだ。杉野は根気よく各町内を廻り、名主に人別帳や懐妊届を調べさせているが、今のところ、怪しい点はない。一つ、気になることと言えば、住み込みの奉公が決まり、所替えをした身重の女が数人いた。すべての町内の人別帳と照らし合わせれば、行先もわかるのだろうが、そこまではとても手が回らない。
今は市中の産婆に、子捨てをしそうな怪しい母親や身重の女がいなかったか聞き込みをしている。
「今日は、深川にでも行くか」
この文は何かのお告げかも知れねえしな。杉野は、組屋敷を出ると東に向かい歩き出した。
深川佐賀町は大川沿いにあり、小さな橋が四方八方に架けられている。お静の産所は佐賀稲荷の側にあった。油堀河岸向こうの大多喜藩の屋敷には及ばないが、それでも、杉野の組屋敷よりも広そうだ。古びた冠木門まである。
門前に来ると、急に引き返したい衝動に駆られたが、塀の脇から若い男がふらりと出てきた。木綿の紺地に万筋の着物を着ており、商家の奉公人のようだ。裏口のほうから現われたのを見ると、御用聞きだろうか。杉野が男を見送っていると、玄関から争う声が聞こえ同心の血が騒いだ。駆け込むと、土間にいたのは小石川養生所医師、貞森十内だった。
框の上から壺を抱えて叫んでいるのは、十年前と変わらない白髪に垂髪のお静だ。今日は、すでに虎のように荒ぶっている。
「とっとと帰んな! この幽霊野郎が!」
壺から白い結晶を貞森に叩きつけ、とばっちりが杉野の顔にもあたる。
「しょっぺえ!」
杉野は土間に唾を吐いた。貞森は唇を引き結んで、肩に載った白い結晶を払っている。いけ好かない河口を変えるほど病人一筋の貞森が塩をまかれるなんて、一体何が起こったんだ?
「お滝を返していただくまでは、何が何でも帰りません」
「だから、何度も言っているだろう? お滝が帰りたくないって言っているんだよ! ひつこいねえ!」
「おいおい、俺にも話を聞かせてくれ」
杉野が二人の間に割って入ると、貞森は驚きもせずに静かに言った。
「これは杉野様。私は、お静が養生所から連れてきた病の身重の女を、返していただくようお願いしています」
名を呼ばれて思わず、身体が固まった。目だけでお静を見ると、お静も杉野を見ていた。視線が合うと一瞬、表情を和らげた。たった一度会ったきりだが、杉野の顔を覚えていたようだ。
杉野は顔に血が上るのを感じた。お福の一件は、大人達が決めたことだし、それを呑んだのはお福だ。杉野が非を責められたことはないし、おのれでも非はないと思っている。それでも、若気の至りを知られているのは居心地が悪い。
「養生所から勝手に連れ出して、お縄に付く覚悟はあるんだろうな」
杉野は居心地の悪さを払うために腹から声を出し、いつも以上に睨みをきかせた。
「あら嫌だ。勿論、お許しはいただいていますよ」
「私は認めていない!」
貞森は悲鳴のような声をあげる。
「ちっとは肝煎を見習いなさい! 肝煎は承諾してくださったんだよ! お滝の身体に子を産む力はない。お滝を生かすには子は諦めるほかないんだよ!」
「子下しだけは許さん!」
貞森の頬は赤く染まり、鼻の下には汗をかいていた。よもや、貞森が激高する日がくるなど思いもよらなかった。
「貞森先生、ちょっと落ち着いてくださいよ」
杉野は今にもお静に掴みかかりそうな貞森に向き合い、両肩を軽く叩く。
「どうやら貞森先生は、身重の女を養生所に連れ帰りてえようだが、肝煎も退所を許しているようだ。宇田川さんはどうなんです?」
「確かに、宇田川様も退所を許しました。けれど、私は納得がいかないのです!」
養生所の入退所を管理する養生所見廻与力の宇田川も許しているのなら、貞森の出る幕は全くない。逆に、貞森を許しては奉行所の威信にも関わる。
「貞森先生、今日はお引き取りいただいて、少し頭を冷やしてください」
「できません。お滝は私の病人です」
「それならなぜ、お滝の身体を第一に考えないんだい!」
お静が、塩の壺に手を入れたまま叫ぶ。
「考えています! お滝も子も、助かる方法を!」
「そんなもの、ないんだよ」
「あります。必ず私が見つけてみせます!」
「お滝をあんたの博打に付き合わせるんじゃないよ!」
「博打とは、何だ!」
「子を下ろせば、お滝の身体は小康を保てる。確かなことはそれしかない。それなのに、ありもしない方法を探すなんて、博打以外の何物でもないね!」
再び、お静が壺から手を出そうとした時、後ろの衝立から、下腹の張った女が飛び出してきた。
「貞森先生、申し訳ありません」
衝立の向こうは書院になっており、奥の障子の先に廊下が見えた。奥の棟に産所があるのだろう。
女の顔を見ると頬が垂れるほど浮腫んでいる。杉野と同年配に見えるが、浮腫みがとれれば、もっと皺が浮かぶのかも知れない。
「お滝さん。具合はいかがですか」
我に返った貞森が、蹲った女に駆け寄った。
「あたしは、貞森先生に黙って養生所を出た恩知らずです」
「そんなことは、どうでも良い。どこにいたって、お滝さんは私の病人です」
「お滝、さっさと布団に戻って、おとなしく寝ていな」
お静は苛立ちながら、誰か! と奥へ叫んでいる。
「お滝さん。さあ、養生所へ帰りましょう」
「貞森先生、堪忍です。あたしは今いる子供たちのためにも、まだ働かなきゃいけないんです。早く丈夫になりたいんです」
「そのためには、腹の子を下ろしても良いと?」
「仕方ないんです。旦那の稼ぎだけじゃあ、やっていけないんです」
「お滝さん。中条流の子腐薬は檳榔子、薄荷、水銀で作るそうです」
貞森の肌を刺すような冷たい声色に、お滝が怯えた顔をする。
檳榔子と聞いて、杉野も眉を顰めた。花婿衣装の染めに使われる種子が、子腐薬にも使われるとは、どんな因果なのだろう。
「それを、あなたの産門に詰めるんです」
「ご講説は養生所だけにしておくれ!」
お静は金切り声を上げたが、貞森はお静を見ない。お滝すら見ておらず、視点の定まらない眼で熱に浮かされたように話し続ける。
「子腐薬を詰めて暫くすると子は腐り、ずるずると下りてきます。それを、吉野杉の箸で掻き出します。子の身体は千々に千切れ、外に出る頃には大小の肉片と化す」
定廻り同心という立場上、杉野も猟奇殺人とでも言うべき事件に出会ったことがある。そんな杉野でさえ、貞森の話は恐ろしかった。
案の定、お滝は顔を覆うと、言葉にならない声を上げ、泣き崩れた。
「手を下すのは、このあたしだよ。お滝じゃあない」
お静の声が、深く落ちる。静かな怒りが杉野まで伝わってくる。貞森がなぜ、苦しんでいるお滝を更に追い詰めるのか、杉野には理解できなかった。
「あんたに、お滝の主治を名乗る資格はない」
「いいえ。私がお滝さんも、子も助けます」
貞森はおのれに言い聞かせるように言う。
「全身全霊をかけて、二人とも救います。だからお滝さん、子下しは思い留まってください」
「あんたは、ただ腹の子を壊すことが嫌なだけだろう? いや、お滝にしたって、お滝の身体が大事なだけで、お滝の暮らしまでは考えちゃいないんだよ」
貞森が顔を上げ、お静を見る。その眼は微かに揺れていた。唇を戦慄かせ、だけど言葉はなかなか出てこない。
「静先生! お美津さんの子が、足から出てきました!」
廊下を女が駆けてきた。
「お聞きの通り、あたしは行かなきゃなりません。今日の所はここいらでお引き取りくださいな」
お静は踵を返すと、女にお滝を寝かせるように指示を出す。
はい、と短く答えた声に胸の奥底が揺さぶられた。女の顔を見て、杉野は驚愕した。その眼は最後に見た時と変わらずに憂いを帯びていた。
なぜ、お福がここにいるのだ。