「黙とう!」

 川島かわしま総務部長の号令が県警本部大会議室に響いた。

 一年前の十二月四日。一人の警察官が自ら命を絶った。早朝、ずみ署正面玄関脇の植え込みで発見された遺体は、交通課の制服を身に着けていた。制服の反射材が朝日に照らされ、光っていたという。死因は転落死。六階建ての伊住署屋上から飛び降りたのだ。遺書は発見されていない。現場の状況から、当直勤務中の発作的な自殺と判断された。

 命を絶ったのは、まだ二十八歳の巡査だった。

 今日は、その命日だ。

 川島の「直れ!」の声に目を開けた。正面に、県内二十五ヵ所の警察署から集まった署長たちの姿が見える。皆、神妙な面持ちで会議室前方の演台に視線を向けていた。

 演台に立つM県警本部長・古瀬こせが、署長一人一人と目を合わせるようにゆっくりと会議室を見渡した。私の席からは古瀬の表情は見えない。演台の後ろに並んだ席には県警本部の部長クラスが顔を並べている。私の場所は本来、監察官室室長・えきの席だ。

 月に一度の県警署長会議。私は佐伯の代理で出席している。

「一年前、誠に遺憾ではありますが、伊住警察署交通課の山崎卓やまざきたく巡査部長が亡くなりました。改めて故人のご冥福をお祈りするとともに、今後二度とこのような悲劇を起こさせないという決意を、幹部職員全員が固めてほしい」

 古瀬の言葉に、全員が、声の大きさを競うように「はい!」と答えた。

 会議は川島の司会で進んだ。刑法犯認知・検挙件数や交通事故発生件数などの指標が県警全体と各署の実績の順で報告される。私は報告を聞きながら、配られた分厚い資料を目で追った。報告される指標はグラフ化されておらず、数字がそのまま記載されている。目で追うだけでも一苦労だ。

 古瀬からのコメントもなく、淡々と進んだ。時間が割かれたのは各署の残業時間と有給休暇消化率の報告だった。報告が始まると署長たちの表情に緊張感が増した。古瀬が県警本部長に就任して以来、重要視されている指標だ。

 残業時間削減の目標は前年比十パーセント減。一方で、事件事故の件数は前年を上回っている。目標達成は困難に思えた。

「目標達成がかん南署だけとは残念な結果だ。次回は結果だけでなく、各署どのような施策をとっているかを報告するように」

 古瀬の言葉に、署長たちが一斉にメモを取り始めた。次回の署長会議は年明けの一月。例年、本部長の所信表明があり、地元テレビ局のカメラが入る。宿題を出された署長たちにとって、気の休まらない年末年始になるだろう。

「本日は、神無南署よりワークライフバランス推進の取り組みについて報告してもらう。各署、目標達成の参考にするように」

 古瀬に名指しされた神無南署長のつちが立ち上がった。土屋は五十代後半で、演台に向かう足取りは自信に満ちている。

「神無南署の土屋です。我が署では今年四月に、各課代表者によるワークライフバランス推進委員を設立し、活動を進めております」

 壇上で話す土屋の口調も誇らしげだ。神無南署の資料は、パワーポイントを印刷したもので、全部で十ページあった。他の資料と比べ、文章が短く、要点が分かりやすい。

 報告は十分ほどで終わった。署長たちは熱心にメモを取っている。

 私には目新しい内容ではなかった。民間企業のワークライフバランスの取り組み事例をまとめた本を読んだことがある。それと報告内容は大きく変わらない。

「何かご質問はございますか」

 土屋が会議室を見渡した。古瀬や部長たちを差し置いて手を上げる者はいないだろうと思ったが、私の予想に反し、手を上げた者がいた。予想外だったのは土屋も同様だったようで、いくらか戸惑いながら「どうぞ」と発言を促した。

「伊住署の牛込うしごめです。大変興味深いお話、ありがとうございました。山崎巡査の命日に、このようなお話を聞くことは、とても意義深いものかと思います」

 牛込はそこで言葉を区切ると、黙とうを捧げるように目を閉じ、顔を伏せた。顔を上げると挑むような視線が土屋に向けられた。

「一点、お伺いしたいのですが、ワークライフバランス推進の取り組みだけで残業時間の削減を達成できたのでしょうか」

 会議室がざわついた。

「どういうことですか。質問の意図がわかりかねますが」

 土屋の声がわずかに震えている。

「残業時間は、正しく処理されているのでしょうか」

 牛込の言葉に、会議室の空気が凍りついた。

 警察官にタイムカードはない。制度上は必要に応じて、残業申請し、上司の承認を得ることになっている。しかし、実態は申請した残業が全て認められるわけではない。予算が限られているからだ。どこまでを残業として認めるかは所属長の裁量次第だ。

 牛込は、土屋の裁量に疑問を投げかけたことになる。

「牛込署長、それ以上の発言は慎みたまえ」

 司会の川島が上ずった声を上げた。それでも牛込の視線は土屋に向けられたまま動かない。他に声を上げる者はいない。

「川島部長、牛込署長の発言の撤回と、謝罪を求めます。今の発言は私への、いや、我が署への侮辱です」

 振り向いた土屋の顔は怒りのせいか紅潮していた。手にした資料の端を握りしめている。その迫力に気圧けおされたのか、川島が牛込に「聞いた通りだ。牛込署長、謝罪したまえ」と言った。

「侮辱の意図はなく、純粋な質問でしたので、土屋署長がなぜそこまで感情的になるのか分かりかねますが。会議の場を乱したことについては謝罪いたします」

 表情を変えず、火に油を注ぐ言葉を並べ、牛込は古瀬に向かって頭を下げた。

 牛込の前に伊住署長を務めていたのは土屋ではなかったか。今年四月の人事異動を思い出した。

 土屋が身を乗り出し何かを言いかけたが、古瀬が先に口を開いた。

「二人ともそこまでにしたまえ。川島部長、この件は君が責任を持って処置するように」

 目の前で起きたいざこざに深くは首を突っ込まず、処置だけを命じる古瀬の姿に、キャリアの処世術を垣間見た気がした。

 席に戻るよう川島に促され、一瞬憮然とした表情を浮かべると土屋は演台から離れた。気まずい空気が会議室に満ちている。この後、私は先月県警内で起きた非違事案の報告をしなければならない。

 こんな時にインフルエンザに罹った佐伯を恨めしく思った。今日から一週間、私が監察官室室長代理だ。

 

 

 午後一時に始まった署長会議は三時間半に及んだ。

白峯しらみねさん、代理出席お疲れさまでした」

 会議室を出ると警務部長の森丘もりおかに声をかけられた。キャリアの森丘は私より五歳年下でまだ四十代だ。人事を司る警務部の長である彼は、県警内で本部長に次ぐ力を持っている。監察官室は警務部に属しているので、私にとって上司にあたるが、直接口を利く機会はめったにない。

「途中、予定外のトラブルがありましたが、あれは総務部案件になりましたので気にかける程度で良いですよ」

 森丘が、あえて口にする理由を考えた。洒落たフレームの眼鏡の奥で、森丘の目が笑っているように見える。首を突っ込むな、あるいはその逆か。何か試されているのか。私が答えあぐねていると、「深く考える必要はありませんよ。佐伯さんの代理、しっかり頼みます」と言い残し、森丘は去っていった。

 監察官室に戻ると普段は感じない疲れを感じ、椅子に深く身を沈めた。時刻は午後四時半を過ぎている。退庁時間が近づいているが、佐伯の代理としてやるべきことがまだ残っていた。

 佐伯から電話があったのは今朝七時。出勤前に上司からかかってくる電話が良いニュースであるはずはない。

「朝からすまん」

 佐伯の声はかすれていてひどく聞き取りにくかった。その声だけで体調の悪さが伝わり、鬼の霍乱かくらんという言葉が頭に浮かんだ。

「熱が出た。症状からみてインフルエンザの疑いが強い」

 事件の第一報を告げるような口調で佐伯が言った。

「部長には連絡済みだ。仮にインフルエンザだった場合、少なくとも今週は出勤できない。その間、白峯が私の代理だ。今日の署長会議への出席も頼む」

 たたみかけるように私への指示を口にすると、佐伯は咳き込んだ後で「予行練習だと思え」と言い電話を切った。私の返事は聞くつもりはなかったようだ。

 佐伯はどういう意味で予行練習と言ったのか。将来、彼の後釜、あるいは署長として、署長会議に出席するということか。

 午前中は署長会議の準備と、現在監察官室が抱える事案の把握に追われた。全ての事案を把握しているのは佐伯一人で、私も担当外の事案の詳細を知っているわけではない。

 昼食をとる暇もなく署長会議に出席したが空腹は感じない。

「白峯さん、よろしいですか」

 かりに声をかけられ、背もたれから身を起こした。猪狩は私と同じ警視だが、年齢は三つ上で監察官室の最年長者だ。彼を差し置いて、私が佐伯の代理を務めることをどう思っているのか、穏やかな表情から読み取ることはできない。

「午後一番に、情報管理課から連絡がありました。昨日、神無南署でUSBメモリ紛失事案が発生したとのことです」

「昨日ですか」

 報告が遅い。USBメモリやノートパソコンなどの電子媒体を紛失した場合、情報漏洩防止のため、速やかな報告が求められる。

「紛失させたのは同署刑事課盗犯係の埼陽さきはる巡査。一昨日、盗犯係のUSBメモリを自宅に持ち帰り、紛失に気付いたのが昨日午後。係長に報告後、立ち回り先を捜索したが発見できず、本日になって情報管理課に報告が入りました」

 情報管理課は総務部の一部門で情報システムの保守運用の他、電子媒体の管理をしている。

「USBメモリの中身はなんでしょうか。そもそもなぜ、自宅に持ち帰る必要があったのでしょう」

 私の問いに、猪狩は意味ありげな笑いを浮かべた。

「忘年会の写真だそうです」

「忘年会の写真?」

「過去四年分の忘年会の写真を使い、年内で定年退職する署員へ記念のフォトブックを作ろうとしていたそうです」

 本当にそれだけか。もし捜査情報や個人情報のデータが入っていたとすれば重大事案に発展する。

「詳細は報告書を送ってありますので、ご確認ください」

 猪狩に礼を言い、パソコンを立ち上げ、送られてきた報告書を開いた。

 一昨日、兎埼は午後八時過ぎに退庁。その時、USBメモリはショルダーバッグに入れていた。電子媒体を持ち出す際に必要な、外部記録媒体・端末持出簿には記入していない。「業務のデータを持ち出すわけではなかったので不要と思った」と兎埼は供述しているが、勝手な判断だ。

 兎埼はバスで通勤しており、自宅近くのバス停で降りると夕飯の買い物のためコンビニに寄っている。帰宅後、二時間ほど自宅のパソコンでフォトブックを作成し、データをUSBメモリに保存。翌朝、USBメモリをバッグに入れ、バスで出勤している。

 午前中は先月発生した事務所荒らしの捜査で聞き込みに回り、紛失に気付いたのが昼食後。すぐに係長に報告した。兎埼がコンビニやバス会社、聞き込み先に問い合わせる一方で、報告は刑事課長で止まっていた。USBメモリの中身が忘年会の写真だったから重要視しなかった、とは刑事課長の弁で、ここにも勝手な判断をした人間がいる。

 結局見つからぬまま今日に至り、副署長に報告したのが午前中。署長の土屋が署長会議出席のため、県警本部に向かった後のことだという。それでも土屋に報告されていなかったとは考えにくい。素知らぬ顔で、署長会議に出席していたのか。

 非違事案が発覚した部署の対応は、事を小さく収めようと情報を小出しにするか、最初から全ての情報を提示し、全面協力の姿勢を見せるか、の二つに分かれる。

 神無南署は前者の印象だ。

 一方、伊住署は最初から膨大な量の情報を提示してきた。

 伊住署で残業代を不正受給した人間がいる。一週間前、監察官室に署名入りの告発状が届いた。

 所属と氏名を明かして、監察官室に告発状が届くことは珍しい。ほとんどが匿名だ。

 告発者は伊住署地域課虹ヶ丘交番のうめ巡査。告発されたのが同署交通課事故調査係のへん巡査長だ。

 辺見は一年半前から、勤務実態のない残業を申請し、残業代を受け取っていた。彼は、待機寮の自室に後輩を集めて酒を飲むことが多く、その席で自慢げに「楽に稼げる」と語り、それを聞いた梅田が告発に踏み切った。

「普段は良い先輩ですが、不正を見過ごすことはできません」

 梅田からは私が直接話を聞いた。彼は、フォローのつもりなのか、しきりに普段の辺見が良い先輩で、後輩たちから慕われていることを強調した。辺見個人への悪感情は感じとれなかった。内部告発の中には、個人的な確執や嫉妬に端を発し、相手を陥れる意図がある例が少なくない。

 辺見への事情聴取は別な監察官が担当した。

「過去に嘘の申請をしたことはあるが、いつのことかは覚えていない」

 辺見の供述は曖昧だった。証拠をそろえなければ、処分を下すことはできない。

 監察官室の調査が始まると、伊住署長の牛込は全面協力を約束した。その言葉通り、伊住署から辺見の勤務表と残業申請書、その他辺見が関わった業務に関する書類が提出された。現在、三人がかりで書類の精査を行っているが、不正受給を示す証拠は見つかっていない。

 牛込は、自分の署で残業に関わる非違事案を起こしながら、なぜ土屋の残業処理に疑問を投げかけたのか。質問の際に、自殺した山崎の名を口にしたことも気になる。

 私は調査済み案件のフォルダを開き、自殺事案の資料を探した。保存場所が異なるのか、見つけることができなかった。

 猪狩が調査を担当したはずだ。私はモニターから顔を上げ、猪狩の姿を探したが席を外している。

 気になる、というだけで、事案につながるわけでもない。

 もう一つ調べたいことがあった。

 記憶を頼りに過去のメールを探す。今年の二月末、県警職員全員に配信された四月一日付の人事異動の連絡。そこに土屋と牛込の名があった。

 土屋は伊住署長から神無南署長に、牛込は警察学校教務課長から伊住署長に、それぞれ異動している。

 神無南署は県警では神無中央署に次ぐ規模の警察署だ。伊住署からの異動は栄転と言える。

 自殺者を出した後の異動としては違和感がある。

 十二月の今の時期、翌年四月の定期人事異動の素案は固まっていたはずだ。あくまでも素案で決定事項ではなく、問題が起きれば見直される。だが、一年前は見直されなかった。

 杉本すぎもとなら、何か知っているかもしれない。警務課教養企画課長を務める同期の顔を思い出した。

 気づけば退庁時間を過ぎていた。監察官室を見渡しても席を立つ者はいない。退庁を促すべきだろうか。佐伯から残業について指示されたことはない。

 午後七時を過ぎると、監察官室に残っているのは私と猪狩、伊住署の案件を手掛ける三人だけになった。私が帰らなければ、彼らも帰りにくいのだろうか。

 私の考えが伝わったわけではないだろうが、猪狩が席を立ち、残っていた三人に声をかけた。短期間とは言え、室長代理となった私の補佐をしてくれているのか。その気遣いはありがたい。

「白峯さん。伊住署の件、今のところ、不正受給を示す痕跡は見つかっていません。今日のところは切り上げ、続きは明日でよろしいでしょうか」

「ええ、構いません。猪狩さんもあがってください」

 四人が帰宅し、監察官室に残っているのは私一人になった。

 静けさが際立つ。佐伯は普段、この静けさのなかで何を考えているのだろう。

 自分自身の残業について、これまで深く考えたことはない。強行犯刑事のころは事件解決が最優先だった。管理職になり、部下の勤怠に気を配る立場に立つと、自分のことは後回しになった。

 結局、監察官室の明かりを消したのは午後八時過ぎだった。今日は朝から煙草を吸っていない。思い出すと無性に吸いたくなり、三階の喫煙室に向かった。

 喫煙室には先客がいた。

「よう、室長代理」

 杉本が煙草をくわえたまま言った。

「署長会議、盛り上がったらしいな」

 相変わらず情報通だ。どこで耳にしたのか署長会議の様子も、すでに知っているらしい。

「まだ、帰らないのか」

 杉本の問いには答えず、質問を返した。杉本は手ぶらで、帰る雰囲気ではない。

「来週、県議会の十二月定例会があるからな。先月の交番立てこもり事件を受けて、今後の職員倫理教育について質問が予定されている。その資料作りだ」

 杉本はため息と共に煙を吐いた。

「知っていたら教えて欲しいんだが」

 私は土屋の異動について、杉本に疑問をぶつけた。

「詳しいことは分からんが、土屋さんは川島部長と近いからな。若いころから可愛がられているって話だ。総務部長の椅子も譲りたいんじゃないのか。数少ないノンキャリアの部長ポストだからな」

 ごく一部の人間の思惑で人事が左右される。そこには能力以外の要素が加味され、時に不可解な人事を生む。

「納得できないって顔だな」

「まあな」

「なら、変えてくれよ、上に上がって」

 杉本が真顔で言った。

「お前は、どこか後ろめたさを感じているんじゃないか。出世をすることに。俺はちょっと歯がゆさを感じていたよ。もっと貪欲になれよ」

 思わず、杉本の顔を見返した。杉本との付き合いは長い。およそ三十年。互いをどう思っているかなど口にしたことはなかった。

「杉本はどうなんだ。まだ上を目指せるはずだ」

 杉本は煙草を灰皿に押し付けながら首を振った。

「もう一つくらいは上にいくだろうが、それだけだ」

 杉本は現在警部で、昇任すれば警視になる。

「自分で言うものじゃないが、器用だからな。便利屋みたいなもんさ。本音を表に出さずに周りに合せることにも慣れた。だが、満足しているわけではない」

「まだ、定年までは時間がある」

「そうだ。だからこそ、上に上がった白峯を見たいし、サポートしたい。俺は誰かのサポート役で力を発揮するタイプのようだからな」

 杉本は表情を崩すと煙草に火を点けた。

「俺はまだ帰れん。白峯は早く帰って休めよ」

「分かった。お先する」

 同期は何年経っても同期だ。警察学校で共に過ごした時間は一年にも満たない。それでも、やはり特別な関係なのだ。

 喫煙所を後にすると、いくらか気持ちが軽くなっていた。

 

(つづく)