『犬小屋アットホーム』は、丘の上に建つ老人ホームを舞台に、過去に傷つき、それでも前を向いて今日を生きる人と犬が紡ぐ、 至福のハートフルストーリーです。
さまざまな事情を抱えた人間と犬がパートナーとなり、お互いを支え合う物語が、どうやって生まれたのか。
著者である大山淳子さんの心に残る、ある犬とのひとつの思い出。文庫巻末に掲載の、物語の原点とも言うべき記憶を綴った、著者あとがきを紹介します。
■『犬小屋アットホーム』大山淳子
八月の犬
父は転勤族でした。単身赴任というシステムが一般的ではない時代でしたから、わたしは転校を繰り返し、5つの小学校を経験しました。
初めての転校は小1の夏休み明けで、初日に「言葉が変」と言われました。生まれは東京なので、標準語で自己紹介をしたところ、当時はテレビが今ほど普及しておらず、地方の子どもたちは標準語を知らなかったのです。標準語=なんだそれ、なのです。
わたしはその土地の言葉を半日でマスターし、休み時間には寄り目や歯笛、耳を動かすなどの芸を披露。ウケ狙いのおどけた転校生を周囲は好意的に迎えてくれて、すぐにクラスに溶け込むことができました。
土地土地に文化があるように、学校ごとにシステムや雰囲気が異なります。でも不思議とどの小学校にも共通点がふたつありました。
ひとつは、幽霊が出るトイレ。転校早々、級友たちが「あそこのトイレを使っちゃあかんよ。死んだ人が出てくるさけ」などと教えてくれるのです。まるでうちの学校には全国優勝したトロフィーがあるよとでも言うように、自慢気に。そのトイレを使ったあとだったりして、ゾッとしたこともありました。
「どの学校も必ずトイレで亡くなった人がいて、化けて出るのだなあ」と、奇妙に思っていましたが、大人になって、「トイレの花子さん」という都市伝説を知り、納得。映画『ハリー・ポッター』を見て「嘆きのマートル、あなたもか」と。「学校のトイレには幽霊がいる」は世界共通のようですね。
昭和の小学校のもうひとつの共通点は、「校庭に犬」です。
野良犬が住宅街をうろついているのは、あたりまえの時代でした。学校に一匹は毎日通ってくる犬がいて、子どもたちのアイドル的存在でした。
わたしは「将来の夢は」と聞かれて「犬を飼う」と答えるほどの犬好きでした。家は官舎で借り物なので、飼うことが許されません。それもあって、放課後は校庭でアイドル犬と遊び、残した給食をあげたりしていました。
犬の匂い、息づかい。子ども時代の風景には必ず犬がいました。大好きなのに、家では飼えない。だからこその希求もあります。家では文鳥や金魚を飼っていましたが、わたしにとって犬は特別な存在で、「言葉が通じる友」だと信じていました。
学校のアイドル犬の中で特に印象的だったのはクロです。もちろん雑種です。体は大きくてグレーハウンド種のようにほっそりとしており、色はジャーマン・シェパードと似ていて、背中は黒いのですが、お腹や顔の一部が赤みの強い茶色でした。つぶらな黒い瞳がかわいくて、走る姿は軽やか。目を惹く美しい犬です。
「クロ」と呼ぶと駆け寄ってきて、細い尻尾をぶんぶん振り、「お手」もするし、「おまわり」もします。わたしが教えたのではなく、転校してきた時にはもうそういう芸を身につけていました。わたしは芸には興味がなくて、放課後の校庭でよく一緒に走りました。野良犬と走ると、途中で興奮して吠えたり噛みついたりする犬もいましたが、クロは子どものわたしに合わせて走り、けして吠えることのない優しい犬でした。
「おいで」と言うと、うちまでついてきたこともあります。庭でビスケットをあげると、それをくわえてうれしそうに跳ね回ったあと、前足で庭を掘り、埋めていました。食べ物をとっておくんだなと、その習性を面白く思った記憶があります。
あれはよく晴れた暑い日のことです。
わたしは母に連れられて、近所のスーパーに買い物に来ていました。母が買い物を終えたので、店を出ようとした時、怒鳴り声が聞こえました。
「泥棒っ!」
出入り口の近くで、背が高い店長がモップの柄を武器に泥棒と戦っています。
泥棒はお盆のお供え用の砂糖菓子をくわえていました。犬です。蓮の花をかたどった薄桃色の砂糖菓子。お供えの定番のそれをラップフィルムごと鋭い牙でくわえ、あごを床につけるほど頭を低くして店長を睨み、「ううう」と唸っています。卑しい声でした。たいそう薄汚い犬でした。それがクロだと気づくのに、少し時間がかかりました。
店長はモップの柄でクロの体をつつきましたが、クロは卑屈に唸り続け、蓮の花を放そうとしません。
わたしは目を背け、その場から遠ざかりました。「泥棒犬!」という罵り声を背にしながら、わたしは思ったんです。
「おお、嫌だ。親友だと思っていたけど、あんな卑しい奴だったんだ」と。
ほどなくわたしは再び転校したため、クロのその後は知りません。
おとなになって、お盆の季節に店先で蓮の花の形の砂糖菓子を見かけると、いつも胸に痛みを覚えます。
たしかあれは夏休みだったんです。給食を貰えなくなったクロが必死に生きようとしていた姿を蔑み、「卑しい」と思ってしまった。幼い、愚かな自分を思い出し、胸が苦しくなるのです。
転校生のわたしが寄り目や歯笛をしてクラスに溶け込もうとしたように、クロは放課後お手やおまわりをして懸命に子どもたちから食べ物を得ていたのです。なのにわたしは夏休みになるとクロのことなど忘れて、花火をしてスイカを食べて夏を満喫していた。
ごめんね、クロ。
この作品を執筆中、幾度もクロの姿が目に浮かびました。うれしそうに走ってくる優しい姿ばかりでした。だからわたしは贖罪ではなく「愛しい」という思いを原動力に書き進めることができました。
ありがとね、クロ。
八月の犬はわたしにとり大切な思い出です。おそらく今も社会のあちこちに潜んでいるでしょう。自然界にもいるし、人間界にも。そのことを忘れずにいたい。
あれから半世紀以上経ちましたがいまだにわたしは犬と暮らせる環境を手に入れることができません。犬と暮らす夢は夢のまま化石化しました。初恋って叶わぬものですね。
今は縁あって猫と暮らしています。猫も人の言葉が通じるんです。でも、犬と違って通
じないふりをする。なかなか手強い相手です。