第1章 あなたとの再会と、たんこぶの記憶
2019年7月3日
俺の名前はヨシト。「善人」と書いてヨシトと読む。
そんな名前の俺だけど、ほんの数時間前に刑務所を出たところだ。
これで前科二犯。「名は体を表す」ということわざを真っ向から否定する人生だ。
それにしても、前科二犯というのも不思議な呼び方だ。聞いただけなら、二回しか罪を犯していないように思う人もいるだろう。でも、前科何犯というのは、犯罪の件数ではなく刑罰を受けた回数を言うので、俺は前科二犯だけど、実際に罪を犯した回数はたぶん百回は超えてる。だって空き巣なんて一回やれば確実に稼げるような仕事じゃないもん。忍び込んだのにめぼしい物がなくて、何も盗らずに帰ることだってざらにある。そんな空振りの住居侵入も含めれば、百回なんて超えてしまうのだ。百回以上罪を犯したのに前科二犯なんて、百人以上メンバーがいるのにAKB48と名乗っているレベルの過少申告だ。
いや、違うか。「百以上→二」なんだから「百以上→四十八」より過少だよな。じゃ、あれだ。千切りキャベツを「キャベツ二切れ」って呼ぶようなものだ。……いや、それはまた趣旨が違うか。それはただの変なレストランだもんな。じゃ、あれだ。イナバ物置のCMで「二人乗っても大丈夫!」って言うようなものだ。……いや、それはもう何もかも違うな。逆に二人乗って壊れる物置なんて大問題だもんな。うん、まあ、もういいや、この話は。
とにかく、俺は前回が懲役一年三ヶ月で、今回はしっかり二年食らった。刑務所暮らしのせいですっかり痩せた。まあ、服役前から痩せてはいたけど、たぶん今が成人して以来最軽量の体重だろう。
それでも、太っているよりはずっと健康的だし、以前は好きだった酒や煙草も、今では体が全然欲していない。あんなものは一度強制的に絶たれてしまえば金がかかるだけだと気付く。俺は長生きしてしまうのかもしれない。全然したくないのに。
で、出所したからといって、身元引受人がいるわけではない。いれば仮釈放も通ったかもしれないけど、俺にはいないから仮釈放の申請もしなかった。満期で出て、何のあてもなく
となると結局、頼れるのは昔の仲間だけだ。
電車を何本も乗り継ぎ、最後はJR
足音がガンガンと響く外階段を上り、201号室の前に来たところでホッとした。ドアに貼られた招き猫のシールと、中から聞こえるテレビの音が、スーさんの健在ぶりを物語っている。「ピンポーン」の「ポーン」の音だけ鳴るドアチャイムを押すと、1DKで家賃がたしか六万円の部屋の中から、ゴソゴソと物音がした。そして、白髪交じりの短髪の無精髭が顔を出した。
「おおっ、久しぶりじゃねえか」
スーさんは、一本欠けた前歯を見せて笑った。二年前と少しも変わらない顔だ。
「本日、こっちの世界に戻ってきました」俺はおどけて敬礼した。
「ああ、今日だったのか。……痩せたな」
「元々痩せてるけどね」
「そうだな。まあ入れ」
そんなやりとりだけで、俺を招き入れてくれた。このおおらかさも、二年間で変わってはいなかった。
「しばらくはここにいるんだろ?」スーさんが尋ねてきた。
「ああ、悪い、また世話になっていいかな」
「おお、好きにしろ。まあ、ちょっとぐらい家賃は入れてもらいたいけどな」
当面の寝床も確保できた。俺は「ありがとう、マジで助かる」と心から感謝した。
「いや~、しかし今日が出所だったか。もし明日だったら俺いなかったから、危ないところだったな」スーさんが言った。
「え、明日何かあるの?」
「ああ、実はちょっと、明日から出かけるんだ」
スーさんは、どこかうきうきした様子で答えた後、ふと思い付いたように提案してきた。
「そうだ、まだ昼間だけど、出所祝いの酒盛りでもするか?」
「う~ん、いいや」俺は断った。
「そうか、残念だな。お前の昔話が聞きたかったのに」
「昔話?」
「酔っ払って親とかダチの悪口言ったり、昔の女を懐かしんだりしてたの、覚えてねえか」
「えっ、俺そんなこと喋ってた?」
本当はうっすら記憶に残っているのだが、全然覚えていないふりをして俺は首を傾げた。
「じゃあ、ますます飲まないよ」
「ハハハ、そりゃ残念だ」
スーさんがまた欠けた前歯を見せた。二年のブランクを感じさせない、他愛もない会話だ。
俺は、前回の出所後もスーさんを頼ったし、今回も頼れるのはスーさんしかいないと思っていた。でも、正式に身元引受人になってもらうわけにはいかなかった。
なぜなら、スーさんも現役の空き巣だからだ。
スーさんは、表の仕事もしているけど、裏稼業の空き巣を人生の半分以上、俺の人生と同じぐらいの年数続けている。でも刑務所には、駆け出しだった三十年ほど前に一度入っただけ。それ以降は無敗記録を継続している。というのもスーさんは、被害に遭ったことを被害者に気付かせもしない、腕利きの泥棒なのだ。痕跡を残さず侵入し、住人が気付かない程度の金品を盗んで去って行く。表稼業のフリーターの収入と合わせれば、それで十分食っていけるらしい。俺もその境地に達したいものだけど、すでにスーさんより多い前科二犯になってしまったし、仕事の技術で圧倒的に負けているから難しいだろう。
「じゃあ、酒は一人で飲むとするかな、でもさすがにまだ早いかなあ」
スーさんは独り言の後、「♪一人酒……」と吉幾三を口ずさみ始めた。機嫌がよさそうだったので、俺はさっそく尋ねてみた。
「ところでスーさん、仕事ある?」
「ん……仕事ってのは?」
「これだよ」
俺は、人差し指をかぎ形に曲げてみせる。するとスーさんは、呆れたように笑った。
「ふん、やっぱり懲りてねえか」
「そりゃ、今さらまともに就職なんてあきらめてるよ。だって、窃盗犯は半分以上が再犯してるんだろ? 長いものには巻かれろってね」
俺が言うと、スーさんは笑い返した後、「そうだそうだ」と思い出したように言った。
「実は一件、期間限定のいい仕事があるんだ」
「期間限定?」
「ああ。表の仕事の出先で、たまたま見つけてな。仕事帰りにちょっと下見したら、ずいぶんよさそうな現場だったんだけど、俺はちょっと用事があったから、このまま捨てるしかないと思ってたんだ。ちょうどよかったよ」
スーさんは俺の肩をぽんと叩くと、「まあ座れ」と座布団を出してくれた。座卓を挟んで俺と向き合って座り、詳しく語り始めた。
「現場は、新築の一戸建てだ。住んでるのは若い女だが、同居人がいるかどうかは分からない。で、実はこの家、隣のビルの塗装工事の間だけ、工事の足場から二階のベランダに移れそうなんだ。家の側はもう塗り終わったみたいで、メッシュシートが外してある。まあ、メッシュシートは隙間なく張ると、風であおられて足場を引き倒しちまうことがあるからな。最初に隣の家の側を塗って、風を逃がすためにシートを外したんだろう」
スーさんは、表の職業も色々経験していて、建築現場などにも非常に詳しい。空き巣さえやっていなければ、誰からも尊敬されていいほど広範な知識の持ち主だ。
「それで、二階のベランダの窓が、今は網戸にしてあるみたいなんだ。住人の女が外出するところを観察したら、一階はちゃんと施錠してたけど、二階は網戸のままだった。家のグレードからして、冷房代をケチる必要があるとは思えねえが、田舎者の成金ほど貧乏性だったりするからな。そのせいで空き巣に入られたんじゃ話にならねえけどな」
スーさんは、ターゲットに対して毒づきながら話を続ける。
「隣のビルの塗装工事の工期を見てみたら、あさってまでだった。でも、明日の天気予報は雨。外壁塗装は雨じゃできねえから、明日は工事中止だ。まさに恵みの雨だよ」スーさんはにやりと笑う。「やるなら明日しかないと踏んでる。何日も下見したわけじゃねえけど、女は夕方の四時頃に家を出て、買い物に行くのが日課らしい。ガキの声なんかも聞こえなかったし、その間は家の中は無人だろう。セコムなんかにも入ってないみたいだし、足場からベランダに跳び移って、
スーさんはそこで、座卓の上に積み上がった書類やスポーツ新聞の間から、クリアファイルを引っ張り出した。そこに挟まれた地図のコピーに、赤ペンで印が付けてある。
「ここが現場だ。表札は出てなかったけど、通行人のふりして写真を一枚撮っておいた。それが、えっと……ああ、これだ」
スーさんは、今度は座卓の上のガラケーを手に取ると、画像を表示させた。そこには二階建ての、真新しいクリーム色の一軒家が写っていた。
「ああ、このガラケー、しばらくお前に貸そうか。俺は今、普段はこっちを使ってるから」
スーさんが、ポケットからスマホを取り出して見せた。
「ありがとう、助かるよ。ちょうど携帯なくて困ってたんだ」
俺はまた感謝して頭を下げた。服役前に持っていたスマホは、料金を引き落としていた口座の残高が底をついて、とっくに契約が切れている。一応手荷物として刑務所に預けてはいたが、もう電源も入らない。
「それじゃ、明日の午後四時までに、作業服を着て隣のビルの足場に入っておいて、女が出かけたのを見計らってからベランダに跳び移ること。落ちるんじゃねえぞ」
スーさんが仕事の手順を確認した。俺は「ありがとう、了解です」とうなずく。
「じゃ、明日使うのは、作業服と傘と、さっきの地図と、あと靴カバーだな……」
スーさんは親切にも、明日の俺のために、押し入れや引き出しを開けて仕事道具まで揃えてくれた。と、その作業の途中で、ふと手を止めて言った。
「あれ、こんなのがあった」
スーさんが手にしていたのは、手のひらサイズの細長い物体だった。スーさんが親指で小さな突起を押すと、シャッと音を立てて刃が出てきた。――飛び出しナイフだ。
「まさか使わねえよな? こんなの使うのは素人だもんな」スーさんが俺に確認してきた。
「うん、いらない」
俺はうなずいた。というか、スーさんにそんなことを言われて、使うなんて言えるはずがなかった。まあ、住人にナイフを向けた時点で、空き巣から強盗になって罪が重くなるだけだし、被害そのものに気付かれないことを目標とするスーさんや俺の流派では、ナイフなんて必要ないのだ。住人と鉢合わせしそうになったら一目散に逃げる。それが俺たちのやり方だ。
「ナイフなんて、俺も駆け出しの頃は使ってたけど、もう何十年も使ってねえもんな。でも、なんでここにあったんだ。……ああ、この前どうしてもカッターが見つからなくて引っ張り出したんだ。しかもその直後にカッターが見つかってよお。まったく年は取りたくねえよな」
スーさんが、愚痴を言いながらもどこか上機嫌な様子で、ナイフを引き出しの奥にしまった。
「ていうか、本当にありがとう。わざわざご親切に、道具まで用意してくれて」
俺が礼を言うと、スーさんは笑顔で振り返った。
「そりゃ、俺の家なんだから、お前一人じゃ道具の置き場所も分からないだろうがよ」
「まあ、それはそうなんだけど……それにしても、すごい親切だなと思って」
俺は、さっきから密かに抱いていた疑問を口にした。
「だって、こんなよさそうな仕事、本当に俺にくれちゃっていいの? スーさんが自分で入ることだってできるわけじゃん」
俺への出所祝いだとしても、下見まで済ませてある仕事を丸ごとくれるなんて太っ腹すぎる。スーさんは還暦を過ぎているけど、まだまだ体は衰えていないはずだ。さっきからやけに上機嫌だし、今日のスーさんは、俺に対して過剰なほど優しいような気がしていたのだ。
するとスーさんは、にやりと笑った。
「ふふふ……実は、これにはわけがあるんだよ」
スーさんは、さっきとは別のクリアファイルを、座卓の上から引っ張り出した。そこには、宝くじと新聞の切り抜きが挟まっていた。
「ジャ~ン。なんと、これが当たったんだよ」
「えっ、マジで!?」俺は思わず身を乗り出した。
「三等の百万円だ。もう換金したけど、記念にコピーしたんだ。ほら、1690567番」
宝くじのコピーと新聞の切り抜きを見比べると、たしかに三等の当選番号が一致していた。
「すげえ! 絶対当たんないと思ってたけど、ついに当たったんだ」
スーさんは、昔からずっと宝くじを買っていた。俺は「どうせ当たらないんだし、金がもったいないだけだろ」と言ってたけど、スーさんは「馬鹿、当てたら一発で回収できるんだよ」と言って聞かなかったのだ。宣言通りの結果を出したスーさんは、満面の笑みで語った。
「この金で、明日からスナックのおねえちゃんと地中海クルーズに行くんだよ。で、昨日まで交通警備のバイトを入れてたんだけど、その現場の近くで、この優良物件を見つけちまってな。普通だったら絶対俺が入ってたけど、隣のビルに足場が組んであるのはあさってまでだ。せっかくの旅行の前にうっかりミスって、サツにパクられたりしたら一生後悔するだろ」
「なるほど、そういうことだったのか」
俺は納得した。さっきスーさんがちらっと「明日から出かける」と言っていたのは、ホステスとの旅行だったのだ。スナック通いも、お気に入りのホステスに本気で熱を上げてしまうのも、スーさんの昔からの習性だ。そんなホステスと地中海クルーズに行けるのなら、やたらと上機嫌なのも合点がいった。
「てなわけで、俺は明日から留守にするからな。間違っても捕まってここに踏み込まれたりするんじゃねえぞ」
「うん、分かった」俺はうなずいた。
「じゃ、明日の仕事の、俺とお前の取り分は、出所祝いも兼ねて四・六にしといてやる」
「えっ……」
俺は絶句した。宝くじで百万円も当たったのに分け前取るんだ……と思ったけど、スーさんは笑顔を消して、ぎろりと俺を睨みつけて言った。
「おい、不満だってのか? 下見は俺がしといてやったんだぞ。お前は実行するだけだ。しかも、これから居候させてやろうっていうんだから、本当だったら家賃として半分以上もらってもいいぐらいだ。そこを出所祝いで、お前に六割くれてやろうって言ってんだよ」
スーさんは、世話好きで優しい人だけど、金に関しては結構シビアな部分もあるのだ。もちろん、当面の寝床と携帯電話まで貸してくれる相手に対して、今の俺が逆らえるはずがない。
「……はい、了解です」
俺は苦笑いしながら、ぺこりと頭を下げるしかなかった。
2019年7月4日
翌日は、予報通り雨だった。スーさんが意気揚々と地中海に向けて旅立った数時間後、俺はスーさんから借りた作業服を着て、ビニール傘を差し、その他もろもろの仕事道具を装備してアパートを出発した。電車を乗り継ぎ、
平日の昼間に、空き巣狙いの泥棒が怪しまれないように住宅街をうろつくには、外回りの営業マン風のスーツや、ガテン系の作業服が適している。世間の人が泥棒と聞いてイメージするような、黒ずくめの格好をしている泥棒なんて今はもういない。――という知識が、最近ではテレビなどを通じて一般人にも浸透しつつあるので、作業服を着ているだけで一安心とはいかなくなってしまった。泥棒にとっては厳しい時代だ。本物の作業員ではないことが見抜かれないように、挙動不審に見えないように気を付けて歩かなくてはいけない。
そんな中、スーさんから渡された地図のコピーはちょうどいいアイテムだった。これを持って作業服姿で歩けば、測量や道路工事などの作業員っぽく見える。俺は、これから空き巣に入る家に印を付けた地図を堂々と見ながら、空き巣じゃないふりをして歩き、十分ほどで目的地に到着した。
周囲の街並みは高級住宅街というほどでもないが、その家は明らかに金持ちの住まいだった。周りの一戸建てと比べてもひときわ真新しく、造りも頑丈そうだ。そしてスーさんの下見通り、隣の四階建てのビルには外壁塗装の足場が組まれていた。もちろん今日の工事は雨で休みだ。家の二階のベランダまで、ビルの二階部分の足場から跳び移れる距離であること、その面の足場は外側のメッシュシートが外してあることも、表の道路から一目見て分かった。
俺はいったん、近くのコンビニで時間をつぶして、午後三時四十五分に現場の家の前に戻った。そこで、道路の人通りが途絶えたのを見計らって、傘をたたんでメッシュシートをめくり、ビルの足場に侵入した。
だがその時、アクシデントが発生した。思いのほか低い位置に鉄パイプが渡されているのに気付かず、ゴツンと
「いっ……!」
俺は額をさすりつつ、ビニール傘をいったん足下に置き、足場の二階へと階段を上った。道路側にはメッシュシートがかかっているので、外から俺の姿は見えづらいはずだ。しゃがんで身を潜めていると、スーさんが下見した通りの午後四時過ぎに、ターゲットの家から住人の女が出てきて、俺が潜むビルとは反対の方向へと出かけて行くのが見えた。傘を差した後ろ姿しか見えなかったが、スレンダーな若い女のようだった。
さて、いよいよ作戦決行だ。俺は忍び足で足場を歩く。足場の二階は目当てのベランダより少し高い位置に組んである。俺は、ベランダの正面に立つと、まず持参したタオルで足下を拭き、それを作業服のポケットに入れてから、表の道路に人の気配がないのを確認した。そして、今度は頭をぶつけないように、頭上の鉄パイプの位置もちゃんと確認した上で、二メートル弱離れたベランダをしっかり見据え、思い切ってぴょんとジャンプした。
よし、成功。見事にベランダに着地した。多少物音はしたが、家の住人が不在なら誰にも気付かれなかったはずだ。また、雨だったから少し不安だったけど、ベランダの窓は薄く開けられて網戸になっていた。
そのままじっと耳をすませる。何の物音もしない。やはり今は家の中は無人のようだ。
窓から侵入する前に、靴カバーを作業服のポケットから取り出し、靴にかぶせる。靴のまま入れば足跡がつく。でも靴を脱げば、住人が帰ってきてしまった時に逃げるのに時間がかかる。双方の欠点を補うのが、百円ショップにも売っているこの靴カバーだ。本来は大雨の日などに、靴が泥で汚れないようにするための便利グッズなのだが、今では泥の側にとっても便利グッズとして重宝されているのだ。――うん、これはうまいこと言ったな。なかなかの泥棒
そんな余談を脳内で挟みつつ、俺は靴カバーを装着し、ポケットから手袋を取り出して両手にはめた。そして網戸を開け、いよいよ家に侵入した。
ベランダに面した部屋は、金持ちの割には殺風景な、ベッドとパソコンと椅子と机という、女子学生の勉強部屋のようなレイアウトだった。だが、その机の引き出しを開けると、さっそくお目当てのものが見つかった。
赤い長財布。中を見ると、なんと一万円札が二十二枚も入っていた。実に幸先のいいスタートだ。とりあえず十枚いただくことにした。
ここで欲をかいて全額盗ったりしてはいけない。さすがに通報される恐れがある。しかし、財布に二十二万円も入っているような経済力の持ち主なら、それが十二万円になっていたからって、ただちに「盗まれた、通報しよう」とは思わないのではないか。「ん、この前ATMでもうちょっと下ろした気がするけど……まあいいや」ぐらいにしか思わないはずだ。
これは予想以上に羽振りがいい家のようだ。俺は札をポケットにしまうと、掃除の行き届いた廊下を通り、隣の部屋に移動した。黒いシックな木製のドアを開けると、すぐ正面に、高そうなスーツやネクタイが掛かったハンガーラックが見えた。
そして壁際の棚に、さらなるお宝を発見した。腕時計のコレクションだ。
無骨な男物の時計が十六個ある。俺は目利きは全然できないけど、どれも高級そうだということは分かる。また、並べ方はずいぶんと雑然としている。いかにも成金タイプだ。有り余る金で高級腕時計を買い集めてはみたものの、もう飽きているとみた。
俺は、その中の三つをポケットに入れた。うち一つはロレックス。目利きのできない俺でもさすがに知っている、高値買取が確実なブランドだ。もっとも、ロレックスは二つしかなかったため、さすがに両方盗ったら通報される可能性が高いと思って、一つにしておいた。
十六個が十三個に減る。俺としては、これが持ち主に通報されない、うまくすれば気付かれもしないギリギリのラインだと踏んだ。こんな雑に並べているようなコレクターだ。気付いたとしても「あれ、どこか別の場所にしまったかな」程度でとどまってくれるのではないか。
それにしても、やはりここは相当いい物件だ。何ヶ月か経ったら、もう一回ぐらい入れるかもしれない。そのためには今回は通報されたくない。とりあえず、現金十万円と腕時計三つ、しかもうち一つがロレックスだから、二十万円ほどの利益は確定と考えていいだろう。ここから先は、よほどの物がない限り、むやみに盗むべきではない。
俺は階段を下りた。うるさい室内犬でもいれば面倒だったが、幸いそんなこともなかった。念のため持参した犬の餌は使わずに済みそうだ。あとは一階をざっと見て、よほどのお宝がなければ脱出だ。――と思いながらリビングに入ったところで、俺は妙な気分にとらわれた。
なぜだろう。ふと、懐かしいような気分がよぎったのだ。
まあ気のせいだろう。俺はすぐ気持ちを切り替えた。リビングには高そうな大型テレビやソファがあるが、当然盗むには大きすぎる。DVDプレーヤー、壁掛け時計、ダンベル……目に入った物はどれも盗むには値しない。というかダンベルなんて値段÷重さで最下位レベルなので盗むわけがない。リビングとつながる広いキッチンにも、見たところ金目の物はなかった。
リビングの壁際のクローゼットを開けると、男物のスーツと女物のワンピースが掛かっていた。だが、いくら値打ちがあったとしても着て出て行くわけにはいかないし、そもそも腕時計の目利きもできない俺に服の価値なんて分からない。その後もしばらく一階を見て回ったが、現金十万円と高級腕時計に勝るほどの品は見当たらなかった。
――と、そのさなか、またも俺の心に、妙な懐かしさが再来した。
もしかして、前にも入ったことがある家なのか? いや、都内でもこの辺は初めてのはずだぞ……。俺はモヤモヤした気分のまま、リビングを見回した。
そこで気付いた。俺が懐かしさを感じた原因は、本棚だった。見覚えのある文字列が、目に飛び込んできた。
「茨城県
思わず鳥肌が立った。両方とも俺の出身校なのだ。もっとも、高校の方は卒業できなかったのだが。
さらに、その本棚の上に、写真立てが一つ飾ってあった。
今度は、鳥肌どころでは済まなかった。公園らしき木立をバックに微笑む、その女の写真を見て、俺は思わず「えっ」と声を上げて後ずさりした。心臓が止まるかと思うぐらい驚いた。
まさか、こんなことが起こるなんて……。
たしかに俺は、今まで百軒以上の家に空き巣に入ってはいるけど、だからってこんな偶然を引き当ててしまうことがあるのか。
また、懐かしさを感じたもう一つの原因も分かった。それはにおいだった。部屋にわずかに残ったマリアの体臭だ。――というと、不快なにおいのようだが、そうではない。かといって、シャンプーや香水のような人工的な香りでもない。ほんのり甘い香りの中に、ほんの少しだけ汗のにおいが入っているような……そう、俺は小学生の時、初めて彼女に出会った瞬間から、この香りに異国を感じていたのだ。彼女は母親がフィリピン出身だった。「名前がカタカナってありえなくない? せめて漢字にしてほしかったわ」と何度も言っていたのを覚えている。
ということは、さっき出かけていった女が、マリアだったということか――。
とりあえず、こんな豪邸に住んでいるのだから、幸せに暮らしているのだろう。それは素直に喜ばしいと思った。そういえば、この家の下見をしたスーさんが、網戸のまま出かけたマリアについて「冷房代をケチる必要があるとは思えねえが、田舎者の成金ほど貧乏性だったりするからな」なんて評していたが、まさにその通りだ。この家をマリアが建てたのなら、言い方は悪いが、まさに田舎者の成金だろう。茨城から上京して、どんな仕事をしているのか知らないが、相当な稼ぎがないと、二十三区内にこの家は建たないはずだ。それにしても、マリアは東京でバリバリ働いて大金を稼ぐようになったのか。そうかそうか、それはよかった……。
と思いかけて、ふと気付いた。
この家は、本当にマリアが建てたのだろうか。
俺は、マリアが独身だと決めつけて考えていた。無意識のうちに俺の願望を反映していたのだろう。でも冷静に考えて、その可能性はどれほどあるだろうか。――苦い思いが心に広がっていくのを感じながら、俺はポケットの中の腕時計を触った。
腕時計のコレクションは、男物ばかりだった。そもそも、腕時計があった二階の部屋のハンガーには、高そうなスーツやネクタイが掛かっていたし、一階のクローゼットにも男物の服が掛かっていた。それに、このリビングのテーブルの椅子は二つだし、ソファの上のクッションも二つある。普通に考えて一人暮らしのわけがない。というか、どう考えても二人暮らしだ。今見える範囲には、マリアが一人で写る写真しか置かれていないけど、もっと探せば、他にも写真が出てきたり、一緒に暮らしている男の素性も分かるかもしれない。でも正直、今のマリアに夫や彼氏がいることを知ってしまうのは怖い。
だが、そこでまた俺は思い直す。――待てよ。男と一緒に住んでいるからって、夫や彼氏と決まったわけじゃないぞ。そうだ、弟かもしれない。マリアにはケントという弟がいたのだ。それに、今はシェアハウスなんてものが
なんて一人で考えながら、俺ははっと気付いた。
いったい俺は、さっきからじっと突っ立って何を考えてるんだ。もう盗む物は盗んだんだから、さっさと逃げなきゃ駄目だろ。泥棒が収穫を終えた家に長居してもメリットはない。捕まるリスクしかないのだ。というか、もしマリアが独身だったとして、俺は何を望んでるんだ?もう一度会おうというのか? 前科者に成り下がって昨日出所したばかりの俺が、会える身分なのか? 会ったとしてもそれからどうなる? まさか恋が再燃するとでも思ってるのか?
――と、心の中で自問していた時だった。
玄関の外で足音がした。さらに、ガチャッと鍵が差し込まれる音が聞こえた。
しまった、帰ってきてしまった! もうっ、俺の馬鹿! 泥棒が収穫を終えた家に長居しても捕まるリスクしかないのだと、さっき自覚したんだから、その後の自問タイムもまず逃げてからにすべきだったのだ。
それにしても、マリアは思っていたより帰りが早かった。まだ出かけてから十分少々しか経っていないはずだ。雨だから早く帰ってきたのか、それとも忘れ物でもしたのかは分からないが、いずれにしても、いくら幼なじみだからって、さすがに留守宅に侵入した状態では「やあ、久しぶり」なんて挨拶したところでごまかせるわけがないだろう。
俺は忍び足で廊下を歩き、手近な扉を開けた。そこはトイレだった。とりあえず扉を閉めれば廊下からは見えない。ほどなく、玄関のドアが開く音がして、傘をバサバサと振る音、廊下を歩く足音が聞こえた。その後、水を流す音が聞こえた。水道で手を洗っているのだろう。
その隙に、俺はそっと扉を開け、さっと玄関まで移動する。
だがそこで、床に置かれたスリッパラックに脚をぶつけてしまった。カタンと音が鳴り、
でも、不幸中の幸い、脛をぶつけた音の大きさは、手を洗う水音にかき消される程度だったようだ。水音は止まらず、また足音がこちらに向かってくるようなこともなかった。俺は忍び足で玄関に下りると、外に人がいないことをドアの覗き窓で確認し、音を立てないように鍵を開け、ドアを静かに閉めて外に出た。内心ドキドキしていたが、まったく不審者ではございませんよ、という堂々とした態度で道路に下りて、人目がないのを確認してから隣のビルの足場にさっと入り、犯行前に置いたビニール傘を回収して、差しながら歩いた。
ふう、どうにか助かった――。
しばらくして、スリッパラックにぶつけた脛の痛みも引いていった。さすがに鉄パイプにぶつけた額よりは軽症だったようだ。早歩きしながら、不自然にならないように後ろを振り向き、辺りを見回す。追っ手もいないし、通行人に不審な目で見られていることもなかった。というか、雨の住宅街にはそもそも人通りがほとんどなかった。
それにしても、まさかこんなことが起こるとは――。犯行が一段落したところで、再び驚きがよみがえってきた。大野中学校と竜ケ崎西高校の卒業アルバム、そしてあの顔写真。間違いなく、あの家の住人はマリアなのだ。まさか初恋相手の家に忍び込んでしまうなんて……。
と、しばらく考えていたが、時間が経って冷静になるにつれ、疑問が湧いてきた。
待てよ。あれは本当にマリアだったのか?
そうだ、もしかすると他人の空似かもしれないのだ。そもそもマリアの顔を最後に見たのは、もう十何年も前だ。俺だって三十を過ぎて、十代の頃とはかなり見た目が変わっているはずだ。マリアだって同じだろう。あの写真は、高校時代のマリアとよく似た別人の写真だっただけで、現在のマリアはもう全然違う姿になっている可能性もあるのだ。それに卒業アルバムだって、あの女と一緒に暮らしている男の物かもしれない。そういえば背表紙に「平成十何年度卒業生」とか書いてあった気がするけど、数字はちゃんと読まなかった。もしかすると、俺たちとは全然違う学年だったかもしれない。
そんなことを思いながら電車に乗り、いったんスーさんのアパートに帰る。そこで作業服からカジュアルな服装に着替え、ペーパードライバーでゴールドだったため服役中に更新期限が来なかった運転免許証を持って、腕時計の買取店に行く。作業服のままで高級腕時計を売りに行ったらさすがに怪しまれるし、身分証明書は必須なので、このプロセスは踏まなければいけない。ただ、免許証から前科がばれるようなことはないし、過去の犯行では転売先をほどよく振り分けていたので、この方法で意外にたやすく売却できてしまうのだ。
――約一時間後。店員が俺に、電卓で金額を提示した。
「これぐらいでいかがでしょう」
三十一万七千円。腕時計三つで、箱も保証書も無しでこの金額は、大当たりと言っていい。
とはいえ、俺は大喜びはせずに「もう少し上がらない?」と余裕の態度でふっかけ、「じゃ端数をおまけします」と店員が言って、三千円だけ上がって三十二万円になった。
こうして俺は、出所翌日の犯行で、現金十万円と腕時計の売却代金、しめて四十二万円も稼いでしまった。もっとも、スーさんに四割引かれる約束なんだけど、それでも二十五万円ほど手元に残ることになる。それに、獲得額をちょっと少なくスーさんに申告すれば、俺の分け前はもっと増える。まあ、ばれたら追い出されかねないから、あまりやらない方がいいけど。
とにかく、スーさんが帰ってくるまで、新たな犯行をしなくても余裕で生活できるのは確かだろう。気持ちにゆとりが生まれたところで、俺の中に再び熱い感情がわき上がった。
あの家の住人は、本当にマリアだったのだろうか。それとも、たまたまよく似た顔の、別人だったのだろうか。
もしマリアだったのなら、もう一度会いたい――。