第1回

○江戸入り

天正てんしよう十八年(一五九〇)七月二十三日──

 秀吉ひでよしより関東七ヵ国(伊豆いず相模さがみ武蔵むさし上総かずさ下総しもうさ上野こうずけ下野しもつけ常陸ひたちの一部)をたまわった家康いえやすは、約八千人の家臣団を引きつれ江戸に入った。

 この日よりさかのぼること七月五日、小田原城おだわらじよう籠城ろうじようし、豊臣軍とよとみぐんに抗していた城主北条氏直ほうじよううじなおはついに降伏の白旗を揚げた。父氏政うじまさと弟の氏照うじてるは切腹、氏直は家康の娘督姫とくひめ女婿むすめむこであったがために助命され、高野山こうやさんに追放となった。

 これにより北条氏は滅亡し、ついに秀吉の天下統一が果たされた。

 その秀吉は家康が江戸に足を踏み入れたとき、奥州平定おうしゆうへいていのためにこまを北へ向けていた。

「止まれ!」

 すんだ秋空に声をとどろかせたのは、家康軍の先手さきてを務める本多忠勝ほんだただかつだった。徳川三傑さんけつのひとりである。

 声と同時に約八千の部隊が足を止めた。そこは貝塚かいづか(現在の千代田区平河町ちよだくひらかわちよう)のあたりだった。

 本多忠勝が発した大音声だいおんじようで、駕籠かごに乗っていた家康はすだれをめくり、そのまま大地に降り立った。すぐに供侍ともざむらいがそばを固め、本多忠勝と重臣の井伊直政いいなおまさが家康のもとに騎馬きばでやってきてひらりと降りた。

「これが江戸にございまする」

 井伊直政が報告するまでもなく、家康は眼前の景色を黙したままながめていた。

 かねてより聞いてはいたが、なるほどかようなことであったかと、表情ひとつ変えず内心でつぶやいた。

 一言でいうなら、

「荒涼たる地」

 であった。

 町といえるほどの町は見あたらず、銀鱗ぎんりんのようにさざ波を打つ海が眼前に迫っており、目に映るのはいまにも倒れそうな茅葺かやぶきの家ばかりである。森と林が点在し、その間をうように幾筋いくすじもの川が流れ、葦原あしはらが広がっている。

 ぴーひゅるー、ぴーひゅるー……

 空に舞っているとんびが声を降らしてくる。のどかな土地であった。

「城はどこじゃ?」

 家康が誰にともなく問うと、

「馬へ」

 と、本多忠勝が自分の馬に乗せてくれた。その分視界が広くなった。

 ふと気づくと、近くに榊原康政さかきばらやすまさ戸田とだ忠次ただつぐが百人ほどの家来を従えて坂下に立っていた。

 この両名は小田原城の支城であった江戸城を無血占領していた先遣隊せんけんたいで、家康を出迎えに来たのだった。

 家康は静かに眺めて無言のままねぎらうようにうなずき、また遠くに視線を移し、

「城は?」

 と、再び問うた。答えたのは迎えに来ていた榊原康政だった。

「あれにてござります」

 家康は榊原康政の指さすほうに目を向けた。

 竹林ちくりん雑木林ぞうきばやしの向こうに、城と呼ぶにはあまりに貧相な建物が見えた。石垣いしがきはなく、代わりに土塁どるいを積んである。

 太田道灌おおたどうかんが造り、その後上杉家うえすぎけの手に移り、さらに北条氏が領有した“城”であった。

「正気でございますか」

 小さなつぶやきが耳に入った。本多忠勝のものだった。

 家康はそのつぶやきの意味がどういうものであるか、即座に理解した。

 家康は東海五ヵ国の大名だった。小田原北条家を滅亡させたあとも、その地にとどまり、北条家の所領をもらうこともできた。だが、秀吉は家康に関東移封を望んだ。

 無論、家臣の榊原康政、本多忠勝、井伊直政ら以下の重臣たちは、関東移封に反対した。しかし、家康は聞かなかった。

「ならば、小田原を居城にされてはいかがです」

 井伊直政の進言に、他の者たちも大きくうなずいた。北条氏直のとった籠城戦にもかかわらず、小田原城はほとんど無傷で、城下の町もととのっていた。

 無論、家康自身も迷った。家臣の考えには大いにうなずけるところがある。だが、家康は豊臣政権下の一大名に過ぎないということをわきまえていた。いまは秀吉の腹の内を探り、さらに先を見すえなければなるまい。

太閤殿下たいこうでんかの意に添うてやろう」

 家康は覚悟した。そのうえで、関東にあっても天下は取れるという算盤そろばんをはじいたのだ。

「あれが城か」

 家康は目を細めて、馬の腹を蹴った。馬はひづめの音を立てながらもゆっくり進んだ。迎えに来ていた榊原康政が、配下の家来に道を開けるように号令を発すると、家康麾下きか旗本はたもと・鉄砲隊・槍隊やりたい足軽あしがる郎党ろうとう中間ちゆうげん小荷駄こにだを運ぶ人夫にんぷら八千の兵も動きだした。

家康を先導し案内する役目は、甲斐かい奉行ぶぎよう成瀬正一なるせまさかず日下部定好くさかべさだよしが務めた。沿道には老若男女ろうにやくなんによが集まって、行列の行方ゆくえ畏怖いふしながら見守っていた。百姓や漁師、町人たちはみな、そろったようにみすぼらしいなりであった。すでに北条家の家臣らは江戸から遁走とんそうしており、その姿はなかった。

 行列は城下を通ったが、町は貧弱な茅葺きの家ばかり、それも百を数えるほどであった。川べりには葦がい茂っている。

 七つ(午後四時)過ぎ、家康は城と呼べるかどうかという“やかた”の下に到着した。

 その館は十余丈(約三十メートル)の崖の上にあり、崖下には堀がめぐっていた。その堀には拮橋はねばしがわたされているものの、数は少なかった。

 しかし近くまで来ると、なるほど、一応城の体裁ていさいだけは整っているのがわかった。要所要所にやぐらや門がもうけられていたからだ。

「ご入城、しばしお待ちくださりませ」

 家康の足を止めたのは、榊原康政だった。

何故なにゆえじゃ……」

「城はいたみがひどく、雨りがいたしますゆえ、ただいま普請ふしんをしておるところです」

 榊原康政は新設した仮寓かぐうがあるので、城内の普請が整うまで待ってくれという。

 家康は紅に染まりはじめた空を見あげ、よかろうとだくした。城内に入るまでの間、城下を視察し、壮大な構想のまとめに没頭した。

 そして、晴れて城内に足を進めたのが、八月一日であった。以来この日を、家康の江戸入りと公式に決められた。

寛永かんえい十三年(一六三六)──大井村おおいむら

 南品川宿みなみしながわしゆくの南端にある海晏寺かいあんじは、境内けいだいに植えられているかえで銀杏いちようの木々が燃えるようなや黄に色づいていた。

 鈴木近江守長次すずきおうみのかみながつぐは一本のかきの木の前で足を止めた。数羽の目白めじろが枝に取りつき、熟柿じゆくしをついばんでいる。木そのものには枯葉が数葉ついているだけで、枝はすみわたった空にひびを走らせていた。

 長次はコホンと小さなせきをして、熟柿をついばみながら小さくさえずる目白を眺めた。

「大丈夫でございますか?」

 そばについている妻のおえいが心配そうな声をかける。

「海を見に行こう」

 長次は妻の問いには答えず、足を進めた。

 海晏寺境内を出ると、ゆっくり東海道とうかいどうを横切り、海辺に立ち、しわ深くなった自分のほおふしくれだった手でなでた。

 目の前には西日を受ける海がまぶしく輝いている。潮騒しおさいの音を立てる波が真砂まさごを洗い、静かに引いては、また打ち寄せてくる。

「あれから何年になる?」

「は……」

 お栄が小首こくびをかしげる。

「そなたも年を取ったな」

 長次はお栄に顔を向けて、口の端に小さな笑みを浮かべた。

 お栄がまばたきもせずに見てくる。色白の瓜実顔うりざねがおには小じわが目立っていた。しみもところどころに散らばっている。

「おまえ様も同じですよ」

「そうだろう」

「何年になるとは、いつからのことでございますか?」

「そこに座ろう」

 長次は岩場に立つ松の根のそばに腰をおろし、お栄を隣にいざなった。

 そのままふたり並んで、しばし海を眺めた。

「人の一生とは、あっという間のことだな」

「…………」

「考えておったのは、そなたと出会ったときのことではない。叔父おじに連れられて江戸にやってきたときのことだ」

 長次は指を折りながら、頭のなかで勘定かんじようした。

「……足かけ三十八年だ」

「そうなりますか……。考えればなごうございますね」

「いや、長いようで短かった。まるで昨日のことのように覚えておる」

 長次は目尻に深いしわを寄せ、目を細め静かな海を眺めていると、頭のなかにかたの思い出が走馬燈そうまとうのようによみがえってきた。

慶長けいちよう三年(一五九八)──

 この年の八月十八日、豊臣とよとみ秀吉が薨去こうきよした。享年きようねん六十二であった。

 だが、天下人てんかびとの死を知る者は多くなかった。

 まして、遠州山名郡木原郷えんしゆうやまなぐんきはらごう(現・袋井市木原ふくろいしきわら)という寒村かんそんには、そんな知らせなど届きはしない。

 真っ青に晴れわたった空に、きね小槌こづちの音がひびいていた。

 鈴木長次は父與八郎よはちろうとともに家普請に精を出していた。股引ももひき腹掛はらがけだけなので、上半身はほとんどきだしである。肌には汗が光っていた。

「長次、長次!」

 遠くから近づいてくる蹄の音とともに、よく通る声が飛んできた。

 材木にすみを引いていた長次は、作業の手を止めてカッと目を見開き、馬上の男をあおいだ。馬袴うまばかま打裂羽織ぶつさきばおり、羽織の下に黒染めの小袖こそで手甲脚絆てつこうきやはんである。ひと目で立派な武士だとわかる。

 長次が目をみはったのは、編笠あみがさの下にあるその顔だった。

「これは叔父上。しばらくお見かけしないと思っていたら、大層たいそう出世されたそうで」

 相手は木原吉次よしつぐ。長次の母の弟だった。

「さほどのことではない。それより腕はあがったか?」

「なんの腕です?」

 長次がそうくのは、剣術の心得があるからだ。大工仕事をしているが、守護人しゆごにんから扶持ふちや給分を受けて軍役ぐんえきをになう、いわゆる「被官ひかん」であった。よって、いざいくさがはじまれば合戦場かつせんばおもむくが、いまはその気配はない。

「決まっておろう。大工の腕だ」

 吉次はひらりと馬を下りて、長次の前に立った。後ろに二頭の馬があり、家来らしき男が乗っていた。

「これは誰の家か?」

 吉次は普請場を眺めてたずねる。作業をしていた者たちが、長次と吉次を遠まきに見ていた。そのなかからひとり、歩み寄ってきた者がいた。長次の父與八郎だった。

高部たかべ親爺おやじ隠居いんきよしたんで造ってやってるんだ。小さな家だから造作ぞうさないが、どうしたんだ? 江戸にいたんじゃなかったのか?」

 與八郎は首にかけた手ぬぐいで、汗を押さえながら吉次を見た。

「ほう、高部の親爺もついに隠居したか。寄る年波には勝てぬというやつだな」

 吉次はガハハハと高笑いをした。高部の親爺は、長次の遠い親戚だった。

「江戸はどうだ? 内府ないふ様(家康)は江戸に居座られるんだろう」

「さようだ。いま江戸は大きく変えられている。わしが内府様とともに江戸に下ったときは、ここが北条家の支城だったのかと思うほどの荒れ地だった。竹藪たけやぶと雑木林がほうぼうにあり、城のそばまで海が迫っておってな。川のほとりには葦とすすきが生い茂り、茅葺きの家は風が吹けばいまにも倒れそうなものばかりだった。それも百軒あるかないかだ。呆れて開いた口がふさがらなかったわい。正直なところ、内府様も物好きなお方だと思ったほどだ」

「城はあるんだろう」

「あったはいいが、使い物にならん館だった。雨漏りはひどいし建て付けが悪くなっておって、隙間風すきまかぜがぴゅうぴゅう入りやがる。屋根板もがれ、城の土台は土塁だ。まあ崖の上に建っているのが救いで、まわりの堀もどうにもならん。いくさでも起こればあっという間につぶされる城だ。太田道灌という人が造られたらしいが、よほど悠長ゆうちよう御仁ごじんだったのだろう」

「叔父上、もしやこちらに戻ってこられるのでは……」

 長次が聞いた。まわりの大工たちはすでに三人の立ち話に興味を失ったのか、仕事に戻っていた。

「いや。わしは江戸に土地をもらった」

「土地を……」

 長次はまばたきして、よく日に焼けた吉次を見た。

「さよう。ゆえにこちらの土地は人の手にわたった。知っておろうが……」

「ええ、どうされたのだろうかと父上と話しておったのです」

 長次は父與八郎と目をあわせてうなずいた。

「江戸城から少し離れてはいるが、新井宿村あらいじゆくむら(現・大田区山王おおたくさんのうあたり)というところだ。それにわしは旗本に取り立てられ、四百四十石取りになった。名も鈴木から木原になった」

「旗本に取り立てられたとは聞き知っておったが、名前を変えたとは……」

 與八郎はまじまじと吉次を見る。

「與八郎殿、わしと浜松城はままつじようの普請にあたったときのことを覚えておられるか」

「浜松城だけではない。小田原攻めのときにも、石垣山いしがきやまに城を造ったであろう」

 與八郎が言葉を足す。

「そうであった。あの頃、内府様はわしの顔を見るたびに、木原、木原とおおせであった。よって覚えめでたくするために、木原に変えたのだ」

 吉次はハッハッハと笑った。

「それで、なにをしに帰ってきたのだ?」

「太閤様がお亡くなりになった」

 長次と與八郎は目をまるくした。吉次はつづける。

「これからは内府様の時代になる。そして、わしも忙しくなる。いや、いまも目がまわるほど忙しいのだが……」

 そこで言葉を切った吉次は、一度空をあおぎ見た。日は西に傾いている。

「こんなところで立ち話も無粋ぶすいだ。與八郎殿、そなたの家に参ってもよいか。もうわしの家はないからな」

「それはかまわぬが……」

「泊まっていくぞ」

 吉次は勝手に決めつけて、長次に顔を向け、

「長次、おぬしに大事な話があるのだ」

 その夜、旅塵りよじんを払い旅のあかを風呂で流した吉次は、どっかりとあぐらを組んで長次と與八郎の前に座った。吉次が連れてきた供の家来は、與八郎の妻の接待を別の座敷で受けていた。

「まずはまいろうか」

 吉次は徳利とくりを掲げて、與八郎に勧める。これではどちらが家の主なのかわからない。だが、いっこうに気にせぬ素振そぶりで與八郎にしやくをしてやり、自分も独酌する。

「おぬしはまだ早いから茶を飲んでおれ」

 と、長次にくぎを刺す。

「叔父上、おれに話とは?」

 長次は吉次を見る。

「明日、おぬしを江戸に連れて行く」

「なんですって」

 長次が驚けば、與八郎も呆れ、

「藪から棒になにをいいやがる」

 と、苦々しい顔をした。

「まあ聞いてくれ。太閤様亡きあと、天下を取るのは内府様だ。その内府様の城を築くんだ。江戸には人がうようよ集まってきておる。大工にかぎらず職人が足らんのだ。とくに、腕のいい木原大工のような者は少ない。長次だけではなく、他の大工も連れて行く。それも城造りのためだ」

「城を……」

 長次は目を輝かせた。

「叔父上、ほんとうですか。おれに城を造らせてくれるんですか」

うそではない。わしは本気だ。わしも城を造りたい。曳馬ひくま……いや、浜松城の城普請には関わったが、あれには満足できなかった」

 吉次はあゆの塩焼きにかぶりついた。近くを流れる太田川おおたがわの鮎だった。吉次が「曳馬」と口にしたのは、家康がそれまで本拠としていた岡崎おかざきの地を離れ、曳馬城に入ったとき「浜松」と変名させたからだ。「馬にかせる」では、縁起が悪いと考えてのことだったらしい。この浜松城大改修のとき、吉次は普請方の総奉行のひとりだった。ひとりというのは他にも何人かいたからだ。その上に統括とうかつする者がいた。

「やっぱりこちらの鮎は格別だ」

 吉次は酒を口に運んで言葉をついだ。

「浜松城は土造りだった。石垣もなかった。かわら葺きでもなかった」

 長次は興奮していた。城には物心ついたときから興味をかれていた。

「だが、江戸城には立派な石垣を造り、天守てんしゆを建てる」

「叔父上ッ!」

 思わず声を張った長次は、ひざをすって前に出た。

「なんだ」

「おれにやらせてください。おれに天守を造らせてください」

 吉次はみを消し、目の奥にキラリと光を宿した。

「連れて行ってください。江戸にまいります。父上、お願いです、行かせてください」

 言葉を重ねる長次は、父與八郎に頭を下げた。

 突如とつじよ、吉次がガハハハと笑い声を立て、膝をポンと打った。

「與八郎殿、長次がそう申しておる。連れて行ってよいな」

 聞かれた與八郎は渋面で酒を飲み、短く思案した。それから吉次を見た。

「長次はこの家の跡取りだ。家を離れさせるわけにはいかぬ」

 長次は顔をこわばらせた。

「いっときのことだ。ずっと江戸に引き留めておくというわけではない。しばし旅をさせて、大工の腕をあげさせるだけではないか」

 與八郎は、「ふむ」と考え込んだ。

「父上、天守を造ることができるのです。おれはそんな大工になりたい。もと一の大工になりたいのです。父上、行かせてください」

 長次は頭を下げて頼み込んだ。大工といっても長次は、正しくは大名家に勤仕きんししている「おん大工」で、町や村にいる大工衆よりくらいが高かった。いわゆる被官職の大工である。この「大工」の下にいるのが棟梁とうりようである。

「わしは城造りに関わりはするが、職人としての腕はない。だが、長次は大工職人としての腕をあげていると聞いた。村の大工たちも皆、そう申しておる。親戚のよしみでもあるし、長次のことは生まれたときから知っておるのだ。與八郎殿、長次の頼みはわしの頼み、内府様の頼みだと思って聞き入れてくれぬか」

「内府様の頼みだと……」

 與八郎はまじまじと吉次を見た。

「さよう。わしは作事方さくじかたの下奉行にもなっておる」

「作事方の……」

 與八郎は再び考え込んだ。普請方は土木仕事が主だが、作事方がけ負うのは主に建築物である。

「わしは長次に城造りをさせたいのだ」

 吉次は言葉を足した。

「わかった。よかろう」

 長次は父親の返事を聞いたとたん、ぱあっと顔を輝かせた。

 四日後、長次らは多摩川たまがわ渡船場とせんばに下り、あとから来た馬船うまぶねから自分たちの馬を下ろした。

「長次、もうここは江戸のうちだ」

 吉次が白い歯を見せて微笑ほほえみかける。

 長次は馬を引いて土手を上がった。だが、眼前に広がるのは田畑と森や林である。

(ここが江戸……)

 信じられなかった。故郷の木原村となんら変わらぬ、ただの田舎ではないか。

「なにをぽけーっとしておる。参るぞ」

 馬にまたがった吉次が先に進みはじめた。ふたりの家来がそれにつづく。長次も馬に飛び乗ってあとを追いかけた。

 一行が進む東海道はまだ整備されておらず、道幅もまちまちであった。周囲に田園風景が広がっている。

「今夜はわしの家で旅の疲れをいやし、明日、城下に入る」

 吉次が馬に揺られながら告げる。

「叔父上の家は近いのですか?」

「一里半(約五・九キロ)といったところだろう。妻も重次しげつぐもおぬしに会いたがっておる」

 重次は吉次の継子けいしで、下には重義しげよしという弟がいた。重義の顔を長次が見たのは、まだ三つにもならないときだが、重次とは幼い頃によく遊んだことがある。ただ、病弱な子供だった。

 吉次の家は新井宿村にあった。荒藺ヶ崎熊野神社あらいがさきくまのじんじやのそばだ。近くには池上本門寺いけがみほんもんじがあり、家康は村を通過する際に同寺を参詣し、のちに寺領百石を与え、徳川夫人や御三家ごさんけの墓所とした。そして、長次が同寺に五重塔ごじゆうのとうを建てたのは、これよりあとのことである。

「叔父上、ほんとうにおれに城を造らせてくれるのですね」

 長次の頭のなかは木原村をってから、ずっとそのことで占められていた。さらに、途中で見た小田原城には心を打ちふるわせた。

 平山城ひらやまじろではあるが、土塁の上に建つ天守の白い壁と、陽光を照り返す黒いいらか。なんとも荘厳そうごん威厳いげんがあった。

(こんな城を造ることができたら……)

 おれは死んでもよいと思ったほどだった。

「江戸に入ったら、すぐに城造りにかかるのですか?」

 心をかしている長次は吉次に聞く。

「いずれな。だが、遠い先のことではない」

「では、何をするのです?」

「城下の町造りだ。城普請もあるが、まあ明日にはわかる。さあ、もうすぐだ」

 その夜、長次は吉次の妻たえ歓待かんたいを受け、郷里木原村のことをあれこれ聞かれた。長男の重次は昔と同じひ弱な男で、口数も少なかったが、次男の重義は十歳でありながら長次のことを覚えているという。

(まさか……ほんとうだろうか)

 疑う長次の心を見透かすように、吉次は「三つ子のたましいも馬鹿にできぬ」と大声で笑った。普段の声も大きいが、笑い声も豪快だった。それに普請場で声をあげつづけているせいかしやがれていた。

 長次は磊落らいらくな男だが、どうも吉次の前だと調子が狂う。それでも大事な叔父だし、自分を引き立てようとしているのがわかるので、おとなしく従っている。

(明日は城下か……)

 その夜、長次はいつまでも眠れず、暗い天井てんじようをにらむように見ていた。これから城造りにたずさわることができると思うと、興奮で胸がふくらむ。

「いい叔父がいたものだ」

 長次は我知らず声に漏らして、にんまり笑った。

 叔父の吉次は旗本として作事方を担当し、大工をたばねる役職にあった。

 作事方の長は奉行で、以下順に、大工がしら・大棟梁・大工棟梁・肝煎きもいり絵図師えずし物書ものかきなどとなり、またこれとは別に大棟梁の下に、勘定役・小役こやく手代てだい・同心・御手おて大工、さらにその下に諸棟梁・諸請負人うけおいにん・諸肝煎・諸物書などの役があった。

 いまでいう大工にあたるのは、大工棟梁の差配さはいによって動く職人のことである。つまり、現場において下拵したごしらえ・切組切継きりくみきりつぎ建方たてかた・材木据方すえかたを担当する者たちだ。それ以外はほとんど役人の扱いであった。

 長次は現場ではたらく大工職人ではあるが、武士としての身分もあるため、いざ戦となれば武器を持って合戦場にも赴く。後世でいう町場の大工とは一線を画す存在だった。

 翌朝、まだ夜が明けきらぬうちに、長次は吉次の案内を受けて城下に向かった。

 昨日までとは違い、徐々に人の姿が多くなる。城下に近づくと、さらにその数は増した。人足にんそく姿の者もいれば職人のなりをした者もいる。無論、武士の姿も多くある。

「ここからが城下だ」

 吉次が馬を止めて一方を指した。

 のちの日比谷ひびやあたりである。目の前は海で、入江いりえになっている。海岸線は城の近くに迫っていた。対岸には藪の茂るみさきがあった。入江には漁師舟が浮かび、岬には茅葺きの家が点在している。

 つまり、現代の皇居前あたりまで海だったのである。

 吉次は城近くまで侵食している海を日比谷入江と呼び、入江の対岸に突きだしている砂州さす前島まえじまと教えてくれた。

 海面すれすれで、潮が満ちればその姿を消してしまう。前島は、のちの日本橋にほんばしを付け根に、突端とつたん有楽町ゆうらくちようあたりだと考えればよいだろう。よって新橋しんばし築地つきじ八丁堀はつちようぼりも海だったわけである。

 日比谷入江の付け根は平川ひらかわの河口で、前島の反対側(東)の付け根に石神井川しやくじいがわの河口があった。

「内府様の城が、あれだ」

 吉次に教えられた長次は、ぽかんと口を開け目をまるくした。なんとも粗末な館が見える。

「お城の前には漁師らが住んでおったが、いまは別の場所に移している。おぬしの手はじめの仕事は、普請小屋を建てることだ」

「は……」

 長次はまばたきもせずに吉次を見た。

「驚くことはない。これから大仕事をすると思えば造作なかろう」

「城はどうなっているのです?」

「新たな城普請はあとだ。内府様は堀を通し、新たに川を造られた。いまは城下の町造りに取り組んでおられる。内府様のお考えだから文句はいえまい。とにかくついてまいれ」

 長次は昨夜の興奮が一気にめていく思いがした。叔父にだまされたのではないかと、少し腹立たしくなる。

「長次、なにか不服でもあるか」

 顔色に気づいたらしく、吉次が真剣な目を向けてきた。

「いえ、なにも……」

「ひねくれ顔をしおって、この若造が。十七だからしかたあるまいが、まあいまにわかる」

 吉次は馬を進めた。長次はここで逆らうこともできず、あとにつづく。

 溜池ためいけをまわり込んで城下に入ると、大手前おおてまえに近い道三堀どうさんぼりに案内された。

「これは舟入堀ふねいりぼりだ。材木や兵糧ひようろうを積んだ船の出入りに使う」

 長次はさしたる興味もかず、ぼんやりと道三堀を眺めた。そのまま馬を進める吉次のあとに従う。やがて大きな川岸に出た。隅田川すみだがわである。

「この川の向こうからずっと東に延びている堀は小名木川おなぎがわという。新たに地面を掘り起こして造った。掘った土は町人らに運ばせ、海の埋め立てに使っておる」

「なぜ、このような運河を造られるのです?」

 長次にはせなかった。

「よいことを聞く。内府様は塩に目をつけられたのだ。そして、運河であれば雨風に左右されぬ。目当ては塩であるが、兵糧も人も野菜も運ぶことができる。小名木川は行徳ぎようとくという塩作りの地に通じておるのだ」

 小名木川の幅は二十間(約三十六メートル)ほどあった。これなら船の往来に支障はない。実際、大きな荷船が行き交っていた。

 また、道三堀に沿って町人地ができており、魚や野菜、あるいは着物や履物はきものなどを売る店もあった。あちこちから、杵や玄翁げんのうの音が空にひびいている。城下の至るところで家普請が行われているためだった。

 隅田川をあとにすると、吉次は城を迂回うかいするように馬を進めた。ゆるやかな上り坂があるかと思えば、急な下り坂もあった。坂の周囲は鬱蒼うつそうと木々の生える林である。江戸城もそんな木立こだちに囲まれていた。

 しかし、ほどなくすると真新しい家々が目の前にあらわれた。家康が旧領地(駿河するが遠江とおとうみ三河みかわ・甲斐・信濃しなの)から連れて来た家臣らの住まう屋敷群であった。

 そこは神保町じんぼうちようから飯田町いいだまち番町ばんちよう麹町こうじまちに広がる一帯だった。大工や左官さかんが動きまわっている新築中の屋敷も数多くあった。

 さらに四谷よつや牛込うしごめ方面にも屋敷が建てられている。大変な建築合戦である。

 城のまわりを一周して大手前に戻ると、吉次は貧相な城を指さした。

「長次、あの城はいずれ壊され、新たな城が築かれる。立派な天守を備えた城だ。内府様はその城がどうあるべきか練っておられる。わしはその城造りに関わる。そして長次、おぬしはその城を造るために精を出すのだ」

 内心腐りかけていた長次は、いまの言葉で救われ、カッとみはった目に光を宿した。

「その前に、ここに普請小屋を建てろ」

 最前とは打って変わって、やる気に満ち満ちた長次は、

「承知いたしました」

 張り切って答えた。

(第2回へつづく)