一万石のギリギリ大名である高岡藩の世子・井上正紀の奮闘を描く、千野隆司の人気シリーズも、本書で十四冊を数える。前巻で、老中首座・松平定信を見限った尾張徳川家一門の尖兵となった高岡藩。定信との対立は、ここからが本番のようだ。というのも定信が、ついに棄捐の令を発布したのだ。旗本や御家人が札差にしていた借金を棒引きにするという、強引な政策である。喜ぶ旗本たちだが、あまりにも札差に厳しい沙汰に、心ある者は憂慮した。実際、すぐに貸し渋りが起こり、江戸の経済は混乱する。

 この大波に、高岡藩も巻き込まれた。高岡河岸に納屋を新築するための金が、借りられなくなったのである。だからといって計画を止めたくはない。金繰りに悩みながら、正紀は奔走することになるのだった。

 さらに高岡藩江戸家老・佐名木源三郎の弟で、旗本の辻井源四郎が、さまざまな状況証拠が重なり、札差殺しの犯人と目された。辻井の無実を信じる正紀たちは、真相を突き止めようとする。

 本書でまず感心したのが、辻井源四郎の扱いだ。御目見の旗本だが、その生活は苦しく、札差の世話になっている。そんな辻井を通じて、作者は棄捐の令が、旗本たちにどのような影響を与えたのか、具体的に描いているのだ。しかもシリーズのレギュラーである佐名木の弟なので、読者は彼の言動に、興味を持たずにはいられない。実に巧みな設定なのである。

 だが作者は、それだけで終わりにしない。辻井を札差殺しの容疑者にすることで、正紀たちが活躍するストーリーを作り出したのだ。事件の意外な真相だけでなく、そこに悲しい男女の愛情を絡めて、物語を強く引っ張る。そして正紀を、情のあるヒーローとして屹立させるのだ。

 その他にも、棄捐の令の負の影響が、高岡藩に襲いかかる。新たな納屋をどうするのか。藩でも棄捐の令を求める藩士の声に、どう対処するのか。長雨で利根川が荒れるのは、自然現象だからしかたがない。しかし棄捐の令に端を発した、騒動や混乱は老中首座の招いた人災だ。だから、定信とは違う道を選んだと感じながら、前に進む正紀の奮闘を、応援せずにはいられない。

 また、正紀と京の間に生れた孝姫も、もう十ヶ月。何度転んでも立ち上がり、歩こうとする幼子の姿が、主人公たちの生き方を象徴している。どこもかしこも読みどころといいたくなる、充実の一冊なのだ。