第 1 回
「じゃあ、まどかさん、お願いします」
いつ見ても艶っぽい運転手の横顔に声をかけた。
「…………」
返事は、ない。
でも、これはいつものことだ。
十年前までこてこてのヤンキーだったと噂されるまどかさんは、枝毛の多い茶髪をひょいと耳にかけると、マイクロバスのドアを閉め、慣れた手つきでギアを入れた。そして、やけに短いスカートからのぞく美脚をひょいと動かし、アクセルを踏み込んだ。
ブロビロロロ~ン。
ぽんこつ一歩手前のエンジンが物悲しいような唸りを上げ、九名のツアー客を乗せた空色の貸し切りバスがゆっくりと動き出す。
ふう、なんとか出発できた……。
俺は運転席のすぐ後ろにある二人がけの席の通路側に座り、安物の腕時計に視線を落とした。
時刻は、午前八時十二分。
予定より十二分遅れだが、問題ない。これくらいの遅れは想定内だ。
バスは都会のターミナル駅前のロータリーをのろのろと半周して、そのまま大通りへと向かう。
ちらりと、俺のとなりの窓側の席を見た。
小雪は、窓におでこをくっつけるようにして外を見ていた。はきなれたホワイトジーンズに、春らしい華やかな桜色のニット。三五歳の女性には少し色鮮やかすぎるようにも思えたけれど、でも、色白で、はっきりした目鼻立ちの小雪が着ると不思議と違和感はなかった。その肌の白さとは対照的に、小雪の髪はいわゆる鴉の濡れ羽色で、冷たく、つるりとしている。少し内巻きになった毛先が、バスの揺れに合わせて肩甲骨のあたりでかすかに揺れていた。
三日ぶりに会った小雪は、席に着いてからずっと窓の外ばかり見ていた。もちろん、なんとなく外の風景を眺めているわけではない。ようするに、俺のことを「あえて無視」しているのだ。こちらに向けられた細い背中からは、厳然たる拒絶のオーラが発せられていて、まるで目には見えないハリネズミの棘を向けられているような気分になってくる。
ため息をこらえながら、俺は車内放送用のマイクを手にした。
小雪のことは、気にしない。
いまは仕事中だ。
声には出さず、自分に言い聞かせる。
俺はおもむろに座席から立ち上がり、後ろを向いた。
指定された席に散らばったお客さんたちをざっと見渡す。中央の通路を挟んで、向かって右側に男性が五人、左側に女性が四人、それぞれ縦に並んで座っている。
それにしても、なんだか今回のお客さんは、ヤバそうだった。外見からして、どこか異様な雰囲気を醸し出している人が多いのだ。
俺は、胸の隅っこに嫌な予感を抱きつつも_頬の筋肉に力を込め、ツアー添乗員らしく営業スマイルを浮かべた。そして、マイクに向かって、いつもの挨拶を述べはじめた。
「えー、皆さま、あらためまして、おはようございます」
「…………」
お客さんからの返事は、ない。これも、毎度のことだ。
「わたくし、今回の『失恋バスツアー』の添乗員をさせて頂きます、『あおぞらツアーズ』の天草龍太郎と申します。友人や同僚からは、龍さん、龍ちゃん、なんて呼ばれておりますので、お気軽にお声がけ下さいませ。年齢は、三七歳。独身です。もちろん、この歳ですから、過去にはいくつもの失恋経験がございましたし、その都度、落ち込みました」
そこまで言ったところで、ちらりと左を見た。
小雪は相変わらず窓の外を見ていた。
まさか「失恋バスツアー」の添乗員である俺が三日前に失恋したばかりで、しかも、いま、同じバスのとなりの席に、その失恋の相手がいるだなんて――、口が裂けても言えやしない。
俺は挨拶を続けた。
「そして今回、このバスに乗り合って下さった皆さんは、いま現在、失恋をして、心に傷を負っている仲間です。同志です。皆さん、ご安心ください。一人じゃないんです。今日からの五日間は、たまたま奇跡のように乗り合わせた仲間がそばにいてくれるわけです。ですので、もう安心して、このツアーでとことんまで落ち込もうではありませんか。すでにご存知かと思いますが、このツアーの最大の目的は、とにかくいったん落ちるところまで落ちることです。そして、人生のどん底まで心が落ち切ったそのときに、踵でどん底を思い切り蹴って、あとはぐいぐい這い上がっていきましょう。ちなみに、過去にこの『失恋バスツアー』をご利用してくださったお客様の多くは、とことんまで落ち込んで、夜ごと泣きはらしたことで、最後にはむしろスッキリしたお顔になりまして、翌日からまったく新しい素敵な人生を歩みはじめていらっしゃいます。ツアーのあと、弊社に届いた感謝のお手紙やメールの数は、すでに数百通にのぼっております」
バスは交差点でゆっくりと右折し、国道に入った。
しばらく行けば高速道路の入り口だ。
俺は座席のシートにつかまったままトークを続ける。
「さて、事前にお配り致しました『旅のしおり』にも書いてありますが、このツアーの概要および簡単なルールについて、ちょこっとだけご説明させて頂ければと思います。まず概要ですが、これからこのバスは、皆様がなるべく悲しい気持ちになれる場所、淋しい気持ちになれる場所を巡っていきます。場所によっては、私がガイドをしながら、その地に伝わる悲しい歴史などをお話し致しますが、基本は自由行動となっております。ガイドに付いていくのではなく、あえてお独りになって、ひっそりと悲しみを増幅させていくのも一興かと思われます。ご飯のときは、海辺の食堂などで皆さんご一緒でお願いすることもありますが、食後は少しばかり自由時間がございます。そして、気になるお宿の方ですが、うら淋しい風情を漂わせた、鄙びた古い旅館をご用意してございます。お料理の方も、わびしい粗食を少量だけ召し上がって頂くことになっておりますが、その粗食は無添加かつ有機栽培の、いわゆる古きよき日本の伝統料理でもございますので、ダイエット効果や健康増進効果が期待できます。ようするに、テンションを下げながら魅力的になれるという、素晴らしいお食事であると、ご好評を頂いております。次に、このツアーのルールをいくつか申し上げておこうかと思います。まず、バスの座席ですが、基本的には、いま皆さんがお座りになっているシートが、それぞれの指定席となっております。つまり、窓側と通路側を合わせた二人分のシートを、お一人でゆったりとお使いになれるということです。万一、ご自分の座席を忘れてしまった場合は、お手元のしおりにてご確認ください。二つ目のルールは、ちょっと変わっておりますが、参加者の皆様のことは、しおりの座席表に書かれているニックネームで呼び合うこととさせて頂きます。本名や個人情報などは、お互いに内緒ということでお願い致します。と申しますのも、このツアーはいわゆる『出会い系ツアー』ではなく、それぞれがとことん落ち込んで、その後に立ち直ることを目的としたツアーですので、そのあたり、どうかご理解頂ければと思います。とはいえ、もしも、ですが、もう本当に万一ですが、このツアーのあいだに、参加者同士で意気投合してしまって、どうしてもお互いの連絡先や本名などを知りたくなってしまった場合には……。ご安心ください。じつは、ひとつだけ裏技がございます。その裏技と申しますのは――」
ここでわたしは、あえてひと呼吸置いて、お客さんたちの視線をぐっと集めた。そして、唇の前に人差し指を立てて、ちょっと悪戯っぽい笑みを浮かべてみせた。
「私に気づかれずに、こっそりやりとりすることです」
いつもだったら、ここでくすくすと参加者たちが笑ってくれるのだが、今回は違った。誰も笑わないどころか、素っ頓狂なツッコミが入ったのだ。
「うわぁ、添乗員さん、まじめそうな顔してるのに、おもしろーい。でも、全然うけなかったね。ちょっと可哀想かも。うふふ」
声の主は、通路を挟んで左側(=女性側)の前から四番目に座っている、粟野留美さん、二五歳。ニックネーム「るいるい」さんだった。
るいるいさんは、ほとんどモデルかと見紛うような、ハーフで金髪の美女なのだが、その麗しい唇から発せられるのは、脳みそに突き刺さりそうなくらいにキンキンと尖った声だ。
参加者たちはみな、その声にポカンとしていた。
「え……、あはは。たしかに、うけませんでしたね。いつもは、うけるんですけどね……。私、そんなに可哀想ですかね」
あまりにもバツが悪くて後頭部を掻いていたら、そこでようやく客席からくすくすと笑い声があがった。
俺は、ちらりと小雪の方を見た。小雪は相変わらず窓の外を見たままだったけれど、よく見ると、その両肩が細かく上下していた。いきなりスベッた俺に失笑しているのだ。
正直、ちょっとムッとしたが、でも、それを顔に出すほど子供ではない。舌打ちをこらえつつも、俺はルールの説明を続けた。
「はい。では、あまりうけない裏技は置いておきまして――、次のルールについてご説明いたします。ここからは、もう、大人として当前のこととなりますが、あらかじめ誓約書に同意をして頂きましたとおり、旅の途中の自殺行為、自傷行為などは厳禁とさせて頂きます。あくまでも、立ち直って幸せになることが最終目的だということを忘れないようお願い致します。また、他の参加者の迷惑となる行為や、他者の心の傷を広げるような言動も慎んでください。あとは、一般常識やモラルに反する行いをされないよう、それぞれご注意頂ければと思います。それと、このツアーならではの特殊なルールですが、皆様はそれぞれ全力で落ち込もうとされておりますので、むやみに励ましたり、気持ちを盛り上げようとしたり、明るすぎるような振舞いをすることがないよう、くれぐれもお願い致します」
「りょうかーい」
さっそく明るすぎるキンキン声がバスのなかに響き渡った。声の主は、ほとんど遠足バスに乗った小学生のように、元気よく右手を挙げて微笑んでいる。しかも、猛烈に美しい笑顔で。
俺は、少し慌てて場の空気を取り繕おうとした。
「ああ、えっと、はい。ありがとうございます。ニックネーム、るいるいさんですね。さっそくのご理解に感謝いたします」
俺はハーフの美女に、小さく会釈をしてみせた。
すると、るいるいさんはとても満足げに目を輝かせて、すっと右手を下ろしてくれた。
車内に満ちた、この珍奇な沈黙。
とにかく俺は、続きをしゃべりはじめた。
「ええと、何でしたっけ? あ、そうでした、ルールについて、でしたね。えー、このツアーには、専属のカウンセラーの先生がついておりますので、何か相談事などがありましたら、遠慮なく先生に話しかけてくださって結構です。ただ、先生は一人しかいらっしゃいませんので、なるべくお互いに譲り合って話しかけて頂ければと思います。ええと、ルールについては、以上になります。あっ、あとひとつ、ご確認をさせてください。このバスへの乗車時に、太宰治の書いた『人間失格』という文庫本をお配り致しましたが、まだ受け取っていないという方はいらっしゃいますでしょうか? もし、いらっしゃいましたら、挙手をお願い致します」
ざっと全体を見渡した。
誰も手を挙げていない。
「はい、大丈夫なようですね。その本は、ツアー参加者に無料で配られます、いわゆる『落ち込み本』となっておりますので、バスでの移動中や、宿でお独りになったときなどに読んで頂けますと、落ち込み効果も抜群かと思われます。ええと、私からのお話はこのくらいにしておきまして――、それでは、今回、このツアーに同行してくださるカウンセラーの先生をご紹介します。小泉小雪先生です。先生、ご挨拶を宜しくお願い致します」
そう言って、俺は小雪の方を見た。
小雪は無表情を決め込んだままシートから腰を上げて、俺のとなりに立った。差し出したマイクを、何事も無かったかのように受け取り、口に当てる。
「皆様、はじめまして。今回のツアーに同行させて頂きます、カウンセラーの小泉小雪と申します」と、そこまで言って、小雪はちらりと俺の方を見た。そして一瞬、不敵に笑ったと思ったら、とんでもない台詞を並べ立てたのだ。「わたしはこの添乗員さんみたいに小うるさいことや、まったくうけないギャグは言いませんので、何かありましたら安心して、気軽に話しかけてくださいね」
冗談めかした口調で言うと、お客さんがくすくす笑い出した。
「あ、そうそう。ちなみに、この添乗員さんも、じつは最近、とっても、とっても、と~っても、大きな失恋をされたそうで、皆さんのお仲間だそうですよ」
な、なんてことを……。
俺は、あんぐりと口を開けたまま、小雪の横顔を見ていた。しかし、小雪は悪戯っぽい笑みをお客さんたちに向けたまま、さらに饒舌なトークを続けたのだ。
「でも、ご安心くださいね。わたしが相談を受けるのは、ちゃんとツアー料金を支払ってくださった皆様だけですから。はい、あんぐりと口を開けて突っ立っている添乗員さん、わたしに相談をしてこないよう、くれぐれもお願いしますよ」
そう言って、パチン、とこちらにウインクを飛ばしてきた。
「あははは。小泉先生おもしろーい」
るいるいさんが、キンキン声で吹き出した。
他のお客さんたちも失笑している。
そのなかで、ひとり大げさに手を叩いて喜んでいる男性が、ちょっとイントネーションのおかしな日本語でしゃべりだした。
「おい、あんたも、女にフラれたか。『失恋バスツアー』の添乗員が、失恋してるか? はは。笑えるね。でも、オーケーよ、オーケー。みんな仲間だろう」
右側の前から三番目、きんきらきんな中国人の陳さんだった。年齢はたしか三〇歳くらいだったはずだ。整髪料たっぷりの七三分けの髪と、でっぷりと太った体つき。ギラギラ光る金色の腕時計は、いかにも高級そうだが、金色のチェーンネックレスは、分厚い二重あごの下に埋もれそうだった。金縁のティアドロップのサングラスの奥には、うっすらと細い目が透けて見えている。ようするに、成金のおぼっちゃまか何かだろう。
「ありがとうございます。カウンセラーのわたしからは、以上になります」
小雪がこちらにマイクを差し出した。いままで浮かべていた笑みをすっと消し、感情のない顔に戻っている。
俺はマイクを受け取った。そして、なんとかこの場を取り繕わねば、と必死に言葉を探した。
「あは。あははは。いやあ、こ、困りましたね……。小泉先生は冗談がお好きですから。あはは、あはは……」
もはや俺は、しどろもどろだ。
一方の小雪は、すとんとシートに腰を下ろすやいなや、またぷいと顔を窓の外へと向けてしまった。
このツアーの五日間、先が思いやられる――。
俺はマイクを口から離し、そして、深い、深い、ため息をついてしまった。
と、その刹那、向かって右側(=男性側)の一番前に座っているスキンヘッドの巨漢が、野太い声を上げた。
「おい、大失恋の添乗員さんよぉ」
「はい。な、なにか……」
この巨漢は、ひたすら怪しかった。コスプレだか何だか知らないが、いわゆる修験者のような格好をしているのだ。太い首にかけた巨大な数珠のようなものは、動くとゴロゴロと大袈裟な音を立てるし、足元は下駄だ。
「あんまり言いたかねえがよ、このバスのなかには、悪霊がいるぞ。一応、祓っといた方がいいんじゃねえかな」
「あ、悪霊と申しますと……」
「悪霊ったら、悪霊だよ。あんまりいい霊じゃねえわな」
俺は、旅のしおりと一緒に手にしているツアーの「申し込み用紙」をちらりと見た。それによれば、この巨漢の名は、都幾川淳也さん。年齢は四五歳とある。
そして、ニックネームは。
入道さん――。
って、見た目そのまんまじゃないか。
内心、ツッコミを入れながら、俺はマイクを使わずに入道さんに言った。
「え、それは、本当でしょうか?」
「あたりめえだ。俺はな、嘘は大嫌れえなんだ。で、どうする?」
「で、では、ええと……、そうですね。高速道路に入ってからトイレ休憩がありますので、そこで皆さんがバスから降りたときに、こっそりと、お願い出来ますか?」
「おう、分かった。任せとけ」
「あ、あの……」
「なんだ?」
「お祓いの、料金とかは……」
「ああ、それな。まあ、普段だったら、きっちりもらうさ。なにしろ、それが俺の仕事だからな。けどよ、今日は俺も乗ってるバスだし、事故られても困るからよ、ただで祓ってやっから心配すんな」
「あ、ありがとうございます」
「まぁ、たいした悪霊じゃねえから、この俺にかかればちょいちょいよ」
入道さんは、プロレスラーばりの太い腕をがっしりと組んで、「ぐふふっ」と怪しく笑った。
ブロビロロロ~ン。
おんぼろバスが、少し急な坂を登りはじめた。
北へと向かう高速道路の入り口にさしかかったのだ。