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 宵闇の迫る山路を下り、屋敷に戻る。

 草木の生い茂る前庭の向こうに、軒唐破風のき から は ふの車寄せを備えた御殿造風ご てん づくり ふうの屋敷が姿を現わした。古色蒼然としたその佇まいは、どこかうずくまる巨大な黒牛の姿を思わせた。

 荷物を下ろしながら豪邸だなと口にした私に、時雨朗は広いだけさと零した。

 用意された部屋は、長い渡り廊下の先にある離屋はなれだった。時雨朗曰く、来賓を迎えるための、この屋敷随一の客間だそうだ。

 夕餉を用意するからと、先に湯浴みを勧められた。この広さである。てっきり使用人の一人か二人は抱えているものだとばかり思っていたが、どうやら今は時雨朗独りのようだった。

 折角なので遠慮なく、自慢の鉱泉で旅の埃を落とすことにした。

 巨大な岩をいたような湯船には、独特の臭い漂う硫黄泉が滾々こんこんと注がれていた。白濁してとろりとした肌触りの温湯おん とうは熱過ぎることもなく、思い切り手脚を伸ばすと、全身の毛穴という毛穴から疲労が滲み出るようだった。

 半身浴の状態で茫としているうちに、たちまち汗が吹き出した。窓越しに響く蜩の声も相まって、頭のなかの雑念が汗と共にゆっくりとしたたり落ちていく。思考は炎天下の氷のようにどんどんけ落ちて、最後に残った物は、欄間に吊り下がる浮嶋の屍体だった。

 浮嶋の死が他殺だったと仮定して、解明すべき謎は二つある。縊死と密室だ。

 縊溝に痕跡が無かった以上、絞殺してから屍体を吊るしたのではないだろう。即ち、犯人は絞首刑よろしく、浮嶋を吊るすことで殺した筈である。

 人をくびり殺すのに何も全身を浮かせる必要はない。確か非定型縊頸ひていけい いけいと云うのだったか。足や尻が床に着いた状態でも縊死は可能だが、それを改めて吊り直したのなら、絞殺の場合と同様、頸の索状痕で分かる筈だ。

 即ち浮嶋は、屍体発見時と変わらぬあの姿で吊るされ、絶命したことになる。だが一方で、百キロ近い浮嶋の身体を吊るし上げるのは決して容易なことではない。果たしてどのような仕掛けを施したのか。

 思考が揺蕩たゆたい始めた。両手で湯をすくい、汗まみれの顔を洗う。そこでふと或る事実に気が付いた。

 浮嶋の首に帯を掛けて欄間まで吊り上げるのは至難の業である。しかし、輪になった帯を予め欄間に掛けておき、別の方法で浮嶋をそこまで吊り上げることが出来れば、後は帯に首を通すだけで片が付く。

 あっと漏れた声が湯殿に反響した。

 欄間に刻まれた傷と曲がったカーテン・レール、それに屍体の下に落ちた細帯。これだ。

 重量物を吊り上げる術ならば幾らでもある。例えば手動式のチェーン・ブロック。上部のフックを天井に掛け、本体から伸びたロード・チェーンのフックを対象物に引っ掛ける。後はもう片方のハンド・チェーンを引くことで、本体内部のギヤが増力機構として働き、腕だけの力で一トン近い物体も軽々と引き上げることが出来る。チェーン・ブロック自体は三キロもない筈で、持ち運びは容易な筈だった。

 先ず浮嶋に睡眠薬入りのウイスキーをしこたま飲ませ、前後不覚の酩酊状態にする。その身体を欄間の下まで動かし、後は輪にした帯を欄間に掛ければ準備完了である。

 チェーン・ブロックの上部フックを広縁のカーテン・レールに留め、ロード・チェーンを欄間に通して俯せに倒した浮嶋の腰の細帯にフックを引っ掛ける。この時、細帯は引っ張るだけで解けるスリップ・ノットの形で結び直しておく。

 ハンド・チェーンを引けば、擦れたロード・チェーンが欄間の角に傷をつけながら、浮嶋の身体が少しずつ宙に浮いていく。それに伴い、アルミ製のカーテン・レールは浮嶋の体重をフックの一点で受けて歪み始める。

 充分な高さまで浮嶋が吊り上がったところで、予め掛けてあった絞首用の帯に浮嶋の首を通す。後はフックの掛かった細帯の結び目を引っ張り、一気に解く。支えを失った浮嶋の身体は宙に落ち、絞首刑よろしく頸骨を損傷して一気に死に至る。

 これで浮嶋の縊屍体は完成である。犯人が細帯を結び直さなかったのは、漏れ出た糞尿によって予想外に汚れてしまったためだろう。

 残る問題は、犯人は如何にして密室状態の客室から抜け出したかなのだが、流石にのぼせそうだった。

 壁掛けの耐熱時計を見ると、既に四十分近く経っていた。いつのまにか蜩の声も止み、窓の外には夜のとばりが下ろされていた。

 私はもう一度肩まで浸かり、よろよろと湯船から出た。

 

 新しい衣服に着替え、薄暗い電灯の下、大広間に向かう。どこか開いているのか、吹き渡る涼やかな夜風が火照ほ てった頬に心地よかった。

「やっと出て来たか。沈んでいるかと思ったぞ」

 部屋着に着替えていた時雨朗は、そう苦笑しながら漆塗りの膳を運んで来た。すずの酒器と併せて、山海入り混じった豪華な酒肴が八品ばかり並べられていた。

「先ずは一献」

 正面の時雨朗が私に酒器を差し出す。盃で受けた酒は、とろとろとした濁酒だった。ひと口含むと、粘つくような甘味が口腔中に広がった。

「旨い」

「お気に召したのなら何より。鱧戸の地酒だよ。それにしても長風呂だったなあ」

「浮嶋の上手い殺し方について考えていたんだ」

 私の返盃を受けて、時雨朗は微笑した。

「君らしい。それで、何か妙案は浮かんだ?」

 栄螺さざえを引き延ばしたような巻貝の煮物を摘まみつつ、私は湯殿で思いついた簡易絞首台について説明した。時雨朗は酒を含みながら黙って耳を傾けていたが、私が話し終えると、ほうと息を吐いた。

「推理小説家ってのは色んなことを考えるものなんだね。確かにそれなら浮嶋を縊り殺せるけれど、曲がったカーテン・レールと欄間の傷だけじゃちょっと弱くないか」

「飽くまで可能性の一つだ。手動式のチェーン・ブロックは特殊な器具でもない。入手経路から犯人を絞り込むことは難しいだろう。だから固執こ しつはしない。殺害方法が何であれ、犯人が分かればそれでいい」

「推理小説家にあるまじき台詞セリフだな。その調子で密室の謎も頼むよ。浮嶋を吊るした後、一体どうやって犯人は客室から姿を消したのか」

 それなんだがと私は箸を構え直す。夜風に吹かれている内に、ふと思いついたことがあるのだ。

「浮嶋の屍体は、現場となった二〇八号室の鍵を握っていたんだよな。それはお前も見たのか」

「うん。乃田さんも云っていたけれど、部屋番号が彫られたキイ・ホルダーに付いた鍵だ。間違いない」

「確かめたのか」

「何を」

その鍵が本当に二〇八号室の扉に合うのかどうかだよ

 時雨朗は目を丸くした。

 私はポケットから、ディスクシリンダー・キイに伊四〇〇型潜水艦のキイ・ホルダーが付いた自宅の鍵を取り出して見せた。

「これは私の家の鍵なんだが、見ての通り分かりやすいキイ・ホルダーが付いている。だからこそ、と云うのもなんだが、若しこの鍵が全く違う物に交換されていたとしても、家に帰って鍵穴に差し込んでみるまで、私はそれに気付かない自信がある。だってそうだろう? 同じような大きさだとすれば、鍵の細かい形状なんて外見だけじゃ誰も見分けなんてつかないんだから」

「それはそうかもしれないけど、遺体発見後に試しでもされたら一発アウトじゃないか」

「だから鍵穴にガムを詰めたんだ」

 時雨朗の箸先から、蛸の刺身がぬるりと滑り落ちた。

「乃田は律儀にガムを掻き出してサブの鍵で開けたけれど、犯人としては、扉を破壊することで押し入って欲しかったんだと私は考える。それに、万が一そうされなかったとしても、奥に残ったガムのせいで上手く鍵が差せないのだと思わせることも出来た。扉自体を汚損することで、犯人は扉を交換させようとしたんだろう。浮嶋の屍体に鍵を握らせたのは、それを証拠として一先ず警察に押収させるためだ」

 手長蝦て なが えびの天麩羅を頭殻ごと頬張り、半分ばかり酒を含む。

「浮嶋を吊るし終えた犯人は、二〇八号室のキイ・ホルダーから鍵を外して同種類の鍵を付ける。それを屍体に握らせて廊下に出る。持ち出した正規の鍵で施錠した後、鍵穴にガムを詰めたらお終いだ」

 時雨朗は盃を構えたまま、成る程なあと呟いた。

「誰が犯人なんだろう」

「注目すべきは、山から戻った浮嶋が上機嫌だったということ。翌朝一番に会社へ報告するつもりだったことを考えると、魚棚家との交渉を有利に進められる何かを山で得たと考えるのが妥当だ。それも、乃田に尋ねているということは、あの祠に関係する何かだ。犯人は浮嶋からそれを奪うため、観潮荘に忍び込んだ」

「じゃあ他の開発業者?」

「若しくは、弱みを握られた賀一翁」

「冗談だろう」

「何が冗談なものか。この山には、魚棚家にとって都合の悪い何かが隠されていた。偶々それを見つけた浮嶋は、鉱山の権利を譲るように賀一翁を脅迫した」

 流石に怒るかと思ったが、案に相違して時雨朗は押し黙ったままだった。

 暫しの間、佃煮を肴に酒を飲む。時雨朗も黙って酒盃を重ね、やがて、あり得ない話じゃないと呟いた。

 いつの間にか時が過ぎていた。

 酔ったと呟き、時雨朗がおもむろに立ち上がる。

 台詞の割には確かな足取りで座敷を横切って、少しだけ障子を開けた。涼やかな夜風と共に、壊れたラジオのような螻蛄け らの声が座敷に流れ込んできた。

「鉱山近くに住んで良いことと云えば、虫が湧かないことだね。ここに越して以来、一度も蚊に噛まれたことがない」

「毒ガス地帯に住んでいるのが、果たしていいことなのかは要検討だが」

 確かにと笑い、時雨朗は近くの柱にもたれ掛かった。灯りの下で見れば、いつの間にかその顔はすっかり赤く染まっている。

「飲み過ぎだぞ」

「そんなことはない」

 時雨朗の身体がゆらりと揺れた。慌てて立ち上がり、腕を伸ばす。

 急いだのがいけなかった。足がもつれ、私は頭から倒れそうになった。

 目の前に畳が迫る。ぶつかると思った刹那、視界が急回転して、私の身体はいつの間にか時雨朗の腕のなかにあった。

 布地越しの硬い腕の感触。微かな石鹸の匂い。

 目と目が合う。こちらを見詰めるその目は昏かった。私は息を呑んだ。

 言葉が出ない。時雨朗も何も語らない。その顔は、全ての感情が拭い去られたようだった。

 名前を呼ぼうとして、私は唇が震えていることに気が付いた。自分らしくないと思うと同時に、急に可笑お かしくなった。

 私も少なからず酔っていた。このまま身を任せるのもいいかも知れない。自ずと口角が上がり、私は瞼を閉じた。

 強く身体が引き寄せられる。あっと思った次の瞬間には、両腕を掴まれ畳に立たされていた。

「君も酔っているじゃないか。もう休んだ方がいい」

 時雨朗はこちらに背を向け、忙しない手付きで膳を片付け始めた。私はその姿を、茫然と眺めていた。

 

 翌朝、何事もなかったように時雨朗が用意した朝食を済ませ、私は街に出ることにした。浮嶋の件や鱧戸の歴史について調べたいことがあったのだ。

 時雨朗は、毎日村の中心部にある診療所に通っていた。魚棚の親族、そして今は当主でもある時雨朗が鱧戸の人間から受け容れられているのは不思議だったが、数年前、村にもう一人いた医者が没して以来、自ずと患者が増えたのだという。流石に鱧戸の住民も、背に腹は替えられなかったようだ。

 途中までセルシオに同乗し、昨日通った浜マーケットの外れで降ろして貰った。

「絶対に無茶はするんじゃないぞ」

 助手席の窓を開け、時雨朗はもう何度目かも分からない忠告を口にした。

「恐らくだけど、君の噂はもう広まっている。鱧戸の人間は余所者を警戒する。踏み込み過ぎたら何をされるか分からない」

「大丈夫だよ、気にし過ぎだ」

 本当なんだよと時雨朗はたしなめるように云った。

「暗い路地や人の敷地には絶対に入らないこと。あと、出来ることなら和田山さんには同行をして貰った方がいい。呑ん兵衛のおじさんだけど、いないよりかはマシだ」

「分かったって、ありがとう。今日は午前診察だけなんだろう? 昼までには片付けて診療所に行くから」

 その後も幾本かの釘を刺して、時雨朗は立ち去った。私は鞄を肩に掛け直し、浜マーケットに足を向けた。

 最初の目的地である写真店は、商店街の中ほどに看板を構えていた。

 薄暗い店の奥では、古びた大判の家族写真に囲まれるようにして、小柄な老婆が番をしていた。カウンターの上に昨日撮ったフィルムを置き、現像とプリントを依頼する。彼女はうつろな目で私を見詰めた後、節くれだった指でゆっくりとカウンター上の料金表を示した。現像代五百円に、プリント代が枚数×三十円。私はその上に五千円札を置いた。

「全部で三十六枚。お釣りは要りません。その代わり、二時間ぐらいしたら戻って来るので、それまでにお願い出来ませんか」

 三十秒ばかり待ったが、老婆は俯いたまま何も答えない。突き返されないということは了承と受け取って良いのだろう。宜しく頼みますと云い残し、私は店を出た。

 商店街では空き店舗に交じって、くしの歯が欠けたように店が営業していた。履物屋、理容店、電器店、簡易食堂、薬局。チェーン店の類いは一つも見当たらない。どの店もショウ・ウインドウ越しに人影は窺えるのだが、誰も彼も昏い視線をこちらに向けたままひそひそと何かを囁き合っていた。途中で出くわした恵比寿顔の交通誘導員も、私の姿を認めると足早にその場を立ち去った。時雨朗の云う通り、確かに歓迎はされていないようだった。

 十分ばかりで浜マーケットを後にして、今度は幹線道路を西に向かった。

 薄曇りの空には、時折思い出したような風が吹いていた。

 暫く進むと、急に辺りが生臭くなり、バラック小屋を寄せ集めたような海産物加工場が幾つか現われた。臭いは明らかに建屋から漂っていたが、広漠な敷地に人影は見当たらず、どの加工場も稼働しているようには感じられなかった。

 目的地たる鱧戸駐在所は、そんな加工場群を抜けた鱧戸の西端、海を望む防波堤の脇に建っていた。

 駐在の和田山は背の低い太った男だった。酒好きという時雨朗の説明に違わず、黄色く浮腫む くんだ顔で鼻ばかりが赤い。

 私が訪ねると、和田山は慌てた様子で卓上の一升瓶とコップを片付けた。どうやら午前中から一杯やっていたようだが、先ほどまでの住民の拒絶具合からすると、私にはそんな仕草も温かく、人間味が感じられた。

「へえ、あんたが魚棚の若先生のところに来た人か」

 和田山は威厳を取り戻すように咳払いして、差し出した名刺と私の顔を交互に見た。

「東京の偉い作家先生なんだってね。話は聞いてるよ。観潮荘の事件を調べているんだっけか」

「そうなんです。昨日は乃田支配人にも色々と教えていただきまして。現場の写真もお持ちだったので助かりました」

 口にしてから皮肉に聞こえたかと危ぶんだものの、和田山はまるで意に介していないようだった。勧められるまま脚の擦り減った椅子に腰掛け、鞄から手帖を取り出す。

「東京の業者が首を吊ったってアレだろう? 単なる自殺なんだから、調べるも何もないじゃないか」

「しかし、亡くなった浮嶋氏には自ら命を絶つような動機がありません。それに翌朝のモーニング・コールまで頼んでいました」

「あんたみたいな立派な人には分からんかも知れんがね、人間、急に死にたくなることだってあるんだよ」

 和田山はそう云ってから、何が可笑しいのかへへえと笑った。

 浮嶋は殺されたのだと私は思っているが、ここでその是非を議論するつもりはなかった。目的は情報だ。果たして浮嶋は、山で何を見つけたのか。欲しいのは、それを推し量るための証拠だった。

「折角なので、事件に就いて色々と教えて頂きたいのです。構いませんか」

 和田山はああと呟きながら奥の書棚に向かい、一冊の黒冊子を取り出した。

「これがあの時の報告書だ。好きに見りゃいい」

「いいんですか?」

「こんな片田舎の事件なんて、誰も気にしやしねえさ。ただ、本にするんだったらぼかして書いてよ」

 ここまで好待遇だとは思っていなかった。私はうやうやしく受け取り、早速ページをめくった。

 じられているのは死体検案書に現場写真、そして関係者の供述調書などだった。凡そは観潮荘で知り得た情報をなぞるばかりだったが、一つだけ目を引く物があった。糞尿で汚れた細帯の一部から、機械油が検出されているのだ。手動式チェーン・ブロックのフックを掛けた際に付着した物だと考えれば、推理の補強としては使えるかも知れない。

 浮嶋の荷物についても知ることが出来た。替えの下着や会社資料の他には、埋蔵金属を探るマグネチック・ロケーターや土壌サンプリング用のホール・オーガー・セットなど、調査用の機器が殆どだった。

 気兼ねする必要はないと判断したのだろう、和田山は再びコップを用意して酒を飲み始めた。

 そう云えばと、手酌で三杯目をたしていた和田山が顔を上げた。

「作家さんだって云うから、てっきり男だと思ってたんだ。なあ、あんたは若旦那の新しい嫁さんなのか」

「は?」

 睨み付けたつもりはなかったのだが、和田山は驚いたように手元を震わせ、少なくない量の酒がデスクにこぼれた。

「高校時代の友人です。妙な勘繰かん ぐりをされては困ります」

「ああ、いや、なんだ、違うのか。だってあんなみたいな人が独りで来たってなったら、誰だってそう思うだろう」

 和田山はもつれる舌でそう云いつのり、幾らか目を泳がせてから、デスクに口を付けて零れた酒を啜った。禿げた頭頂部がぎらぎらと脂で光って見える。私は目をそむけた。

 熟柿臭じゆくし くさい息を吐きながら、和田山はもう一度、何だ違うのかと呟いた。

千鶴ち づちゃんの件からもう二年経って、漸く若先生も立ち直ったのかと思ったのによう」

「千鶴さんって、事故で亡くなった彼の奥さんですよね」

 事故、と和田山は眉根を寄せた。

「若先生はあんたにそう云ったのか」

「はい。違うんですか」

「まあ、事故と云やあ事故なんだけど。あれも酷い話だよ。あんた、これは俺から聞いたって若先生には云わないでくれよ」

「約束します」

 和田山は半分ほど残ったコップの酒を干して、唇をちゅっと鳴らした。

「確かに千鶴ちゃんは事故に遭った。浜マーケットからの帰り道、九江ここのえの辻のところで後ろから車に当てられたんだ。狭い路だからそんなにスピードは出てなかったみたいで、せいぜい強く押された程度だ。ただ、その時千鶴ちゃんのお腹のなかには若先生との子どもがいた。妊娠九ヶ月だったかな。そんな妊婦が、お腹から地面に勢いよく倒れたんだ」

「どうなったんです」

 和田山は再び唇を鳴らし、駄目だったよと云った。

「館山の総合病院まで運ばれたけど、結局助からなかった。流れちゃったんだ。可哀想に。それで千鶴ちゃん、おかしくなっちまった。赤ちゃん捜して村のなかをうろうろ歩き廻るようになってな。それで最期は──」

 和田山は毛の生えた太い指で、窓の向こうの海を指した。

 知らぬ間に息を詰めていたようだった。息を吸い込み、椅子の上で居住まいを正す。昨夜時雨朗が覗かせた昏い眼差しの意味を、私は少しだけ理解した。

 犯人は捕まったのか問うと、和田山は嘲るように捕まる訳がないだろうと吐き棄てた。

「あんたみたいな都会の人には理解出来んだろうが、ここは別世界なんだ。昔から、村人同士で何重にも縁組をして、云っちまえば村自体が大きな一つの家族みたいなもんだ。だから何かしらの事件が起きた所で、内々に手打ちをして終わっちまう。俺だってここに住み着いて二十年は経つけど、結局は余所者だ。入り込む隙なんてありゃしない。してや、被害者はあの魚棚の娘だぞ。誰もが口裏を合わせて、捜査なんかしようがねえ」

 こんな場面でも真っ先に『獄門島』の冒頭を思い出す自分がうらめしかった。私は咳払いをして、魚棚家がそれで引き下がったのかと問うた。

「魚棚の大旦那はどうだったかは分からない。結局あの時も、一度だって村には下りて来なかった。対応して呉れたのは若先生と沖の婆さんだった。本当に、若先生の哀しみようったらなかった。そりゃそうだ。でも最後には諦めて呉れた。何とかしてやりたかったんだがなあ、悪いことをしたと今でも思ってるよ」

「犯人は鱧戸の人間で本当に間違いないんですか」

「誰も証言者が出て来ないってことは、つまりそういうことなんだろうさ。若し余所から来た人間の車だったら、忽ち広まっていただろうからな」

 私は腕を組み、椅子に凭れ掛かった。それならば、時雨朗は自分の妻を──結果的には──殺した者がいるなかで医者を続けていることになる。

「あんたが考えてるこたあ分かるよ」

 和田山は再びコップに酒を充たし、大きく頷いた。

「ただ、そこが若先生の偉いところだ。鱧戸には元々、喜田き だって云う年寄の医者がいた。ありゃ去年の秋ごろだったかな。喜田の爺さんが貝の毒に当たった時、呼ばれてもいないのに若先生は駆け付けて、胃の洗浄から何から何まで全部やって呉れた。爺さんもそれで何とか助かったんだが、結局は肺炎を拗らせてぽっくり死んじまった。まあ結局はそれがきっかけになって、村の連中も一応は若先生を受け容れた訳だ。何だかんだ云っても医者は要るからなあ」

「彼が魚棚の人間だったのにですか」

「そうだな。でも分からん。俺には分からんよ、村の連中が考えてることは」

 

 駐在所を辞した私は、駐在所に掲げられていた地図を記憶し、村北部にある鱧戸浅間神社せんげんじんじやへ向かった。時雨朗の忠告は覚えていたが、生憎と泥酔した和田山は涎を垂らしながら、既に大鼾おおいびきをかいていた。

 いつの間にか雲行きが怪しくなっていた。雨になるのかも知れない。私は早足で幹線道路を戻った。

 鱧戸浅間神社は木花之佐久夜毘売このはなの さ く や びめを主祭神に祀る由緒正しき神社で、目的は神社に併設する私設の歴史資料館だった。

 漆山うるしやまという宮司は、私よりも少し歳上の、狐のような顔をした男だった。門前払いも覚悟の上だったが、案に相違して、応対に出た漆山は常に穏やかな笑みを浮かべていた。

「宮司さんは、この村の歴史に通暁していると駐在の和田山さんからは伺いました。その上でお訊きしたいのですが、蛇奴という名前に聞き覚えはありますか。蛇に奴という字を書くのですが」

「さて、生憎と存じません」

 社務所の脇を抜けてさっさと進む漆山は、笑顔のまま答えた。

「では、この鱧戸には蛇を神の遣いとして崇めるような風習はありますか」

「さて、どうでしょうか。耳にしたことはございませんねえ」

 返って来たのは同じような答えだった。そこで私は漸く、この柔和な笑顔の下にも、浜マーケットの連中と同じ感情が隠されているであろうことを悟った。

 行く手に赤い屋根をした小屋が現われた。出入口には「鱧戸歴史資料館」と書かれた木の看板が掲げられていた。

 漆山が引き戸を開け、電気を点ける。電球が照らす屋内は八畳ほどだった。靴を脱いで足を踏み入れると、かびと埃の入り混じった臭いが容赦なく私の鼻をおかした。

 足を進める度に床板は軋み、抜け落ちてしまいそうだった。埃塗れのガラス・ケースには、刀身の曇った太刀や種々の景色を描いた掛軸、またひと抱えもある黒い鉱石などが収められていた。

 私は図画の類いを注意深く観察した。漁や祭事の様子などが素朴な筆致で描かれてはいるものの、そこに蛇の姿はない。幾つか並んだ手彫りの仏像も、一般的な薬師如来や阿弥陀仏が多く、そのなかには一匹の蛇も見当たらなかった。

 私は少なからず困惑した。この地域では、蛇に対する信仰があるものだとばかり思っていたのだ。祠の中身が生きた蛇だったと仮定すると、それは魚棚家特有の風習だったのだろうか。

 ひと通り見終えてから、私は出入口に立つ漆山を振り返った。

「大変興味深い内容です」

「それは何よりでした。もう宜しいですか」

「しかし、思ったよりも数が少ないのですね。鉱山の資料もあるのかと思っていました」

 眼鏡の奥で、漆山の細い目が更に薄くなった。そして、ご存じないかも知れませんがと申し訳なさそうに云った。

「この鱧戸は、先の戦争で大部分が焦土と化しました。その時に粗方燃えてしまったのです」

「ああ、そうでした。ではもう一つだけ。先ほどお尋ねした蛇奴という言葉ですが、実は魚棚家が代々祀ってきた家神の名前なのです。どうでしょう、心当たりは」

「申し訳ない、存じ上げません」

 漆山は莞爾かん じと笑ったまま、鉈で断つように私を遮った。取り付く島もないとはまさにこのことだ。私は丁寧に礼を述べ、神社を辞した。

 往来に出ると、風の奥に湿った埃のような臭いを感じた。空は分厚い雲にすっかり覆われ、いつ雨が降り出すかも分からない。

 浜マーケットに戻り、写真店を訪ねる。例の老婆の姿は無く、カウンターの上には写真の収まった封筒だけが置かれていた。

 電飾の施された看板だけが空々そら ぞらしく光る商店街を抜け、住宅地手前の診療所に向かう。時刻は十二時を少し回ったばかりだった。

 ドア・ベルの付いた扉を開けると、手狭な待合室の向こうでは時雨朗が診察器具を滅菌処理している所だった。

「おかえり。何事も無く済んだかい」

「一応な。写真を現像して、駐在所を訪ねて、最後は神社だ。行った甲斐はあった」

「漆山さんか。癖が強い人だっただろう? でも、収穫があったのなら何よりだ。直ぐに終わるから、帰って昼飯でも喰おう」

 診療所には看護婦や事務員も置かず、時雨朗独りで切り盛りしているようだった。カルテの整理や簡単な掃除を手伝い、セルシオに乗り込んだのは十三時前だった。

「どうも雲行きが怪しいね」

 山に続く路にハンドルを切りながら、時雨朗が呟いた。その予想に違わず、間もなく大粒の雨がフロント・ガラスを叩き始めた。それを待っていたかのように、車外では子どもが泣き叫ぶような風音も響き始めた。

 屋敷に着いた頃には、もうしのを突くような雨だった。私は時雨朗の勧めで汗と雨に濡れた身体を──今度は烏の行水を心掛けて──洗い流し、用意して貰った白飯と焼魚、それに冷奴から成る昼食をった。

 食事中、和田山や漆山から聞き知った情報を共有したのだが、どうも反応が悪かった。時雨朗は目頭を揉みながら頭が痛くってねと漏らした。

「折角話して呉れたのに済まない。気圧の関係だと思うんだけど」

「云って呉れたら昼食ぐらい作ったのに。あり合わせの炒飯ぐらいしか作れんが」

 美味しそうだと時雨朗は草臥くた びれた顔で微笑んだ。

「気にしないで、君はゲストなんだから。でも、夕食までは少し休もうかな」

 片付けようとする時雨朗の手から半ば強引に食器を奪い、洗い物を済ませてから私は離屋に戻った。

 縁側の窓から見える外の世界では、沛然とした驟雨に緑の木々が冒されていた。

 電灯が明る過ぎたので、私は部屋の灯りを落とした。窓際のウッド・チェアに腰掛け、煙草を取り出しながら、私は改めて一連の事件について考えを巡らせてみた。

 浮嶋の首吊りと賀一の転落死。この二つの間に蛇奴なる家神の祠が鎮座している。

 浮嶋は自殺に見せかけて殺された。確証はないものの、そうだと仮定して話を進める。前夜の言動から、浮嶋は無断で山に立ち入った結果、祠に関わる何か発見した。それは浮嶋を上機嫌にさせる物であり、朝一番で会社に報告しようとして口を封じられた。

 果たしてそれは何か──賀一との交渉を有利に進め得る物だと考えるのが自然である。それは賀一、若しくは魚棚家にとって都合の悪い物であり、だからこそ浮嶋はそれをネタとして鉱山の権利の譲渡を強気に迫ることが出来た。

 浮嶋の殺害犯が賀一である可能性は十分に考えられる。手動式のチェーン・ブロックを使えば、喜寿に近い老人でも人を縊り殺すことは容易だろう。賀一に命じられた時雨朗が観潮荘に忍び込んだ可能性も頭を過ったものの、そうだとすれば私を呼んだ意味が分からない。

 果たして浮嶋は何を見つけたのか。結局はそこに戻って来る。

 薄暗がりに立ち昇る紫煙を眺めながら、私は例の文句を声に出してみた──祠を壊せ、嵐の夜に。

 私の推理では、蛇奴の正体はアルビノ種か、若しくは凄まじく巨大な生身の蛇である。その住処すみ かを、しかも嵐の夜にどうして壊す必要があるのか?

 短くなった煙草をもうひといして、サイド・テーブルの灰皿でつぶす。

 新しい煙草に火を点けていると、或る疑念が気泡のように胸の裡に湧き上がった。

 蛇奴の正体は、本当に蛇なのだろうか。

 賀一が祠を詣でるようになったのは、昨年の十二月である。祠自体も、その時分に賀一が手作りした物だと時雨朗は云っていた。山を歩いていた賀一が偶々信仰の対象にもなり得る蛇を見つけ、がわを作ってまで祀り始めたのだとしたら、それが真冬である訳がない。どのような蛇であれ、その時分は地中深くで冬眠をしている筈である。

 先ほどよりも濃くなった闇に煙を吐き出す。叩きつけるような雨音に耳を傾けながら、私は思索にふけった。

 どれほどそうしていただろうか。いつの間にか、私の身の回りはすっかり夜の闇に包まれていた。

 夜光塗料が塗られた腕時計の針は、十八時半を指している。いつの間にか四時間近くも経過していた。暗くてよく見えないが、窓の外は依然として嵐の様相を呈しているようだった。

 私はふと思い立ち、電灯をけてから、執筆用に持ち歩いている電子辞書を鞄から取り出した。若しかしたら、蛇奴とは何かの隠語なのではないかと思ったのだ。

 国語辞典で「だど」と打ってみる。出て来たのは「田堵た と:平安時代の荘園において荘田や公田を経営して年貢・公事を納付する農民」や「他土た ど:他の土地。他郷」、「駄都だ と:卒塔婆の異称」で、いずれも何か意味を為しているとは思えない。

 英語ではどうか。dadと云えば父親だろう。他の意味を含みはしないかと英和辞典でも調べてみたが、やはり「dad:《略式・小児語》おとうちゃん、父さん、パパ」とあるだけだった。

 賀一の父親と云えば、鉱山で死んだ――殺された?――八百吉である。蛇奴の祠が八百吉の慰霊碑である可能性も考えたが、だからと云って時雨朗に壊すよう命じた意味は分からない。

 私は最後の一本を箱から摘まみ出しながら、「だど」と発音するであろう他のスペルの単語を思い付くままに打ち込んでみた。

 思わずあっと云う声が漏れた。画面に表示されたその単語の日本語訳に、私は目をみはった。

 そういうことなのか。

 口元の煙草を箱に押し戻し、私はもう一度初めから全てを考え直してみた。

 浮嶋の偽装自殺。賀一の転落事故。そして蛇奴なる魚棚家の家神を祀った祠。

 間違いない。

 全身から力が抜けるようだった。震える手で封筒を取り出し、昨日撮った写真を一つ一つ卓上に並べていく。

 様々な角度から撮影した祠とその周辺を確かめている内に、私の目は或る一枚の一箇所に釘付けになった。

 思い切り頭を殴られたような気分だった。

 この事実を時雨朗に告げることは出来ないしかし決して放っておく訳にもいかない

 関係機関――警察、それとも消防?――に連絡を入れるため、私は急ぎ離屋を出た。

 時雨朗は未だ休んでいるのか、大広間や厨房は灯が落ちたままだった。その方が私にとっては好都合だった。

 しかし、長い廊下を隅々まで歩き廻っても、肝心の電話機が見つからない。私は已むを得ず時雨朗を捜すことにした。出版社に急ぎ連絡せねばならないと云えば疑われることはないだろう。後は、如何にして電話の内容を聞かれないようにするかだ。

 その名を呼びながら大広間まで戻ったが、返答は無い。広大な屋敷内に私の声だけが響き、激しい雨音に掻き消されていく。

 若しかしたら入れ違いになったのかも知れない。再び離屋に向かった私は、渡り廊下の途中で棒立ちになった。

 閉めた筈の戸が開いている。慌てて駆け込むと、卓上ではあの単語を表示した電子辞書の画面が、こちらを向いていた。

 思わずそれを取り上げた刹那、遠くの方でエンジン音が聞こえた。

 全身に鳥肌が立った。私がいない間に、時雨朗がここを訪れたのだ。そしてこの画面を見たのだ。

 幾度も転びそうになりながら玄関まで駆け戻る。土間に奴の靴は無く、正面の戸は開け放たれたままだった。

 間違いない。時雨朗もまた全てを理解して、あの祠に向かったのである。

 このまま放っておくことは出来ない。何としても止めなくては。

 玄関脇の土間収納にあったレイン・コートを着込み、ライトを携えて雨のなかに飛び出す。矢張りガレージにセルシオの姿は無かった。

 叩きつけるような雨粒を全身に浴びながら、私は山路をひたすら走り続けた。

 二十メートルほど登った先にセルシオが止まっていた。横倒しになった杉の巨木が、行く手を塞いでいた。運転席にはキイが差されたまま、誰の姿も無かった。私は倒木を迂回して、先を急いだ。

 風は幾許か収まりつつあった。しかし、雨脚は一向に弱まる気配を見せない。泥濘ぬかるみに何度も足を取られそうになりながら、私が漸く例の祠に辿り着いたのは、それから十五分近く経った後だった。

 祠の傍らに、私と同じ黄色いレイン・コートを着込んだ人影があった。時雨朗だ。雨音に負けない大声で、私はその名を呼んだ。

 時雨朗はゆっくりとこちらを振り返った。その手に褐色のバトン――恐らくは鉱山で使われていたのであろう、採掘用のダイナマイトを認め、私は慄然とした。

「来なくてよかったのに」

 時雨朗は普段と変わらぬ声で、祠の前に立った。

「でも、こうしてまた会えてよかった。御礼は云いたかったんだ。君に頼んで正解だった。本当にそう思うよ」

「時雨朗、お前」

「僕だけじゃ絶対に辿り着けなかった。目の前の霧が晴れるっていうのはああいうことを云うんだろうな。夕食は何時頃がいいかって訊きに行ったんだ。そうしたら君はいなくて、でも電子辞書を置いていただろう? 何気なく画面を見たら、一発で全てが理解出来た」

 私は奥歯を強く噛んだ。

 答えは初めから提示されていた。蛇奴という名称は、賀一なりの諧謔かいぎやくだったのだ――蛇奴――だど――dud

 英和辞典に示されたその意味が脳裏を過る。〔名詞〕①[通例複数形で]衣類 ②aだめなもの(人) b不発弾・不発の花火……。

 私は一定の距離を保ち、再度その名を強く呼んだ。

「いいから、そこを離れるんだ。お前の考えている通り、その祠の下にはかつて鱧戸に降り注いだ艦砲射撃の名残不発弾が埋まっている。それが、魚棚賀一が創り上げた蛇奴なる神の正体だ」

 漸く義父の思いが理解出来たと、時雨朗は微笑んだ。

「あの人は、これを鱧戸への復讐に使うつもりだったんだよね」

「……恐らくはそうなんだろう。昨年十二月、賀一は丁度鱧戸村を見下ろす山間で、地表に一部が露出した不発弾を見つけた。刹那、鱧戸の住民に家族を殺された老人の脳裏には、一個の邪悪な計画が浮かび上がった。これを爆発させれば山は崩れ大規模な土石流となって鱧戸村を直撃する。鱧戸の住民のみならず村そのものを憎む賀一にとって、それは素晴らしい復讐だった。そして更には、夏を待ち台風直下など地盤の緩んだ環境で実行すればより甚大な被害が望める。だからその時は目印としての祠を立てるに留め、毎日その様子を確かめていた」

「浮嶋もこれを見つけたのか。だから義父は焦ったんだね」

「所持品のなかに金属探知機があった。恐らく調査を経てそれに気付いたんだろう。ただ、賀一の抱いた復讐計画まで読めたとは思えない。だから、『このままじゃいつ爆破するか分からないので、その処分費用もこちらで持ちましょう』とでも持ち掛けたんだろう。賀一からすれば、復讐を完遂するためにも不発弾の事実が世に広まることは何としても避けたかった。だから殺した。例の件で話し合いたいとでも云えば、浮嶋は喜んで観潮荘に賀一を迎え入れた筈だ」

「でも、結局足を滑らせて死んじゃったんだね」

「お前に憎悪だけを背負わせてな」

 ダイナマイトを弄っていた時雨朗は、濡れた顔をこちらに向けた。

 私の脳裏には、先ほど見た写真の一箇所が今も消えずに焼き付いていた。写真とはその一瞬を切り取る物なのだと、私は改めて知った。左斜め前から祠を撮ったその写真の端には、唇を強く結び、憎悪の籠った眼差しで麓を見下ろす時雨朗の姿が確かに写っていた。

「和田山から、千鶴さんの事故について聞かされた。お前は乗り越えたと云っていたが、私は違うと思っている。お前は今も、鱧戸の人間を恨んでいる」

「当たり前だろう」

 あらゆる感情がぬぐい落とされた顔で、時雨朗はゆっくりと眼下の鱧戸を指した。

「あそこには千鶴を、千鶴と僕の子どもを殺した奴がいる。村全体にかくまわれた人殺しが、今ものうのうと生活をしている。僕はそいつを許さない」

「それじゃ賀一の思う壺だ。いいか時雨朗、なんで賀一は蛇奴なんて巫山戯ふざけた名前を使ったと思う。代々祀られた家神だなんて嘘を吐いたと思う。お前をていよく使うためなんだぞ。そのダイナマイトで祠を壊せば、衝撃で不発弾は爆破するだろう。お前だって無事で済む訳がない。だから、死の間際でも何のための祠だったのかを敢えて教えなかった。云えば、お前が怖気づくと思ったからだ。魚棚賀一は全てを知った上で、自分では為せなかった鱧戸への復讐を肩代わりさせようとしているんだ。そんな下衆野郎に踊らされるな」

「それでも構わない」

 そう呟く時雨朗の右手には、いつの間にかライターが握られていた。

「時雨朗!」

「喜田が死んで、やっと僕は村の医者になることが出来た。時間は掛かっても、これから誰がやったのかを調べていこうと思っていたんだ。だけど、君のお蔭でその必要はもう無くなった。ありがとう。本当に感謝をしている」

 自分の物とも思えない呻き声が喉の奥から漏れた。

 届かない。こんな近くにいるのに、私の声はもう時雨朗には届かない。

 ライターの火がともる。導火線に火花が散る。

「さあ、早く逃げて。君まで巻き込みたくはないんだ」

 雨中に弾ける火花と白煙のせいで、時雨朗の表情は窺えない。

 私は強く唇を噛み――背を向けて駆け出した。

 幾度も転びそうになりながら山路を駆け下り続けたその瞬間、私は後方からの凄まじい衝撃波に吹き飛ばされた。

 咄嗟に口を開き、両目と両耳を押さえる。路傍の草叢に叩きつけられるのと同時に、私は逆さになった視界の端で、巨大な火柱が立ち昇るのを確かに見た。

 強烈な爆風の後に、凄まじい吹き戻しが来た。私が無事だったのは、飛ばされた先が巨大な木陰だったからだ。

 猛然たる地響きと共に、この世の終わりのような音を立てて木々が薙ぎ倒されていく。痛む全身を庇いながら、私は這うようにして山路に出た。

 雨と泥を浴びて全身が酷く重い。倒れた木の幹に捉まりながら、私は何とか立ち上がった。

 濛々とした煙が少しずつ雨で薄められていく。

 眼前の光景に私は言葉を失くした。

 先ほどまでいた山の一角は、大きくえぐれていた。呆然と顔を向けた山裾では、山の一部を呑み込んだ黒い土石流が、巨大な蛇のように長い尾を引いて、無数の灯りが点る鱧戸の村落に、今にも至らんとするところだった。

 

(了)