私がその奇妙な村の存在を知ったのは、先月末から日本中を騒がせていた須磨す まの連続児童殺傷犯がようやく捕まり、しかもそれがだ十四歳の中学生であると知れた一九九七年六月最終日のことだった。

 きっかけは、新芽しん め社の編集部経由で届いた一通の手紙だった。過熱気味のワイドショーに辟易へき えきしながらも目を離せずにいた私は、気もそぞろに取り上げたレザック加工の白封筒に、見覚えのある名前を見つけた。

 千葉県落地おろ ちぐん鱧戸はもんどむら蛇ノ口じや の くち一〇八七 魚棚うお だな時雨しぐれろう──魚棚という苗字は初めて見るが、時雨朗という変わった名前には心当たりがあった。高校時代の友人に、おうぎ時雨朗という男がいたのだ。しやと思いつつ中身をあらためると、果たして予想通りだった。

 魚棚は、奴が婿養子に入った家の名だった。時雨朗は長らくの無沙汰を詫びたのち、先代である義父の死去に伴って、今は魚棚家の当主として同地で開業医をやっていると述べていた。私はふと、奴が高校では理系クラスの首席であったこと、またその実家が代々医者の一族だったことを思い出した。二十年近く前のことだが、意外と覚えているものだった。

 時雨朗とは同じ水泳部に所属しており、古い推理小説が好きという共通点があったせいか、一緒に下校することも多かった。部活のない休日には、絶版の戦前ミステリを捜してよく二人で古本屋を巡ったものだ。だからと云って付き合っている訳ではなく、向こうもそんなつもりはなかったのだろうが、居心地の悪い関係ではなかった。私が文系だったせいか受験で忙しくなるに連れ自ずと疎遠になり、卒業式で久しぶりに言葉を交わして以来それ切りだった。確か、東北大の医学部に進んだのだったか。

 手紙のなかで、時雨朗は私の本を読んだと続けていた。鱧戸村唯一の書店で入舟清乃いり ふね きよ のなる推理小説家の新刊を見つけた、真逆ま さかと思って著者近影を見たら不機嫌そうな顔が間違いなく君で笑ってしまった、文明の最果ての地に等しいこの村にも届いているのだから売れっ子作家なのだろう、めでたいことだおめでとうと、時雨朗はあの頃と変わらぬ口吻くち ぶりで書いていた。

「しかしながら、今回こうして手紙を送ったのは、入舟家御令嬢としての君に頼みたいことがあるからだ」。時雨朗はそう続けていた。すわ宗教の勧誘か鼠講ねずみ こうかと身構えたものの、無論そんなことはなく、先述の通り義父を亡くし、魚棚家の権利一式を背負うこととなった時雨朗は、その整理のための伝手つ てを紹介して欲しいと書き綴っていた。

 よく覚えていたなと私は密かに感嘆した。母方の実家は横浜で商社を営んでおり、そこは金融や不動産など、様々な業種に分かれた関連会社を幾つか抱えていた。どうやら魚棚の遺産は土地だけでもかなりの額になるらしく、その処分は信頼の置ける業者に頼みたいとのことだった。

 それぐらいならばお安い御用と読み進めていたのだが、続く文章は意表を突く内容だった。曰く、「実は、出来ることならば推理小説家たる入舟清乃にも助言を乞いたい問題がある。それというのも、義父が死の直前に遺した言葉の意味が分からないのだ」……。

 時雨朗の義父こと魚棚賀一が いちは、自身が所有する山を散策中に崖から落ちて死亡した。発見された時には未だ辛うじて息があったらしく、慌てて駆け寄った義理の息子に対して、賀一は息も絶え絶えにこう告げた──祠を壊せ嵐の夜に

 同じ山には、魚棚家が代々まつって来た家神いえ がみ──『蛇奴だ ど』様と云うらしい──の祠があり、賀一が滑落したと思われる場所もその近くだった。果たして賀一は何の目的で、またどうして嵐の夜を指定して祠を壊すように云ったのか。それが皆目分からないのだと云う。

 それに、と時雨朗は続ける。「義父の死の前日、蛇奴様の祠を訪れたと思しき人間が、首を吊って死んだ。自殺するような理由は一切無いのにも拘わらず、だ。一応は自殺として処理されたものの、義父の件もあって正直僕は混乱している。この平成の世にたたりだなんで莫迦ば か莫迦しいとは思うけれど、人里離れたこの村にいると一体どちらが可怪お かしいのか段々分からなくなってくる。左様な次第で、出来ることならばその道のプロである君の考えを聞きたいのだ。屋敷には部屋が有り余っているから、食事と宿泊先は心配しないでいい。連絡をれたら最寄りの千倉ち くら駅までは僕が迎えに行こう。鱧戸は魚が旨いし温泉も湧いている。骨休めも兼ねてどうか一度ご来駕らい が願えないだろうか──」。

 面白いと思った。恐らく時雨朗も、私の嗜好を意識して書いたのだろう。奇妙なダイイング・メッセージに聞き慣れない土地神の名称。そして、僻村での祟りを思わせる怪死事件。一種異様なその内容は、私の好奇心を常になく刺激するものだった。

 幸い、抱えている〆切は直近でも一ヶ月先だった。私は早速時雨朗にてて、依頼を快諾する旨の返信をしたためた。

 

 

 木更津き さら づから内房線うち ぼう せんに乗り換え、房総半島ぼう そう はん とうを反時計回りに電車に揺られること一時間半余り。千倉駅に降り立ったのは正午を少し廻った頃だった。

 駅舎からロータリーに出ると、長閑のどかな風景には似つかわしくない黒塗りのセルシオが音もなく私の前にまった。

 運転席のドアが開き、色の薄いサングラスを掛けた背の高い男が現われた。時雨朗だった。

「久しぶり。ご足労いただき感謝しますよ、センセイ」

 そう笑う姿は、多少肉付きはよくなっているものの、記憶のなかの扇時雨朗と殆ど変わっていなかった。

「こちらこそお出迎えありがとう。さすがドクターだ、良い車に乗ってるじゃないか」

「中古品さ。ただ乗り心地は保証する。鞄は預かろう。さあ乗った乗った」

 私の旅行鞄をトランクに仕舞い、時雨朗は運転席に戻った。

 空調の効いた車内は確かに快適だった。車は音も無く発進し、ロータリーを抜けて左に曲がる。カー・ラジオでは、キース・エマーソンが軽快な『くるみ割り人形』をかなでていた。

「卒業式以来ってことは、二十年くらいになるのか。知らない苗字だから初めは誰かと思ったぞ。でも変わってないじゃないか」

 そうかなと笑いながら、時雨朗はスイッチを捻ってラジオを切った。

「ポストに投函した後で旧姓も書いておくべきだったかって気が付いたんだけど、君なら分かって呉れると思ったよ。だって時雨朗なんて名前、僕以外にはそうそういないだろう? ……それにしても、あの入舟清乃が推理小説家とは。何冊か取り寄せて読んだよ。なかなか面白かった」

「何を読んで呉れたんだ」

「戊辰戦争の短編集と天草あま くさの海底炭鉱が舞台の長編だ。僕は楽しく読んだけれど、しかし入舟、あれでちゃんと売れるのか? 題材がニッチ過ぎて読者を選ぶような気がするんだが」

「鳴かず飛ばずで気付けば十年目さ。これはデビューから暫く経った西村京太郎にしむら きようたろう先生の話なんだが、昭和七年の浅草を書きたいとったら、そんな物は読まれる訳がないから別の題材にしましょうと編集者にいさめられた。それでむなく次に興味のあったブルートレインを挙げると、まあ昭和七年の浅草よりかはマシでしょうということで渋々了承された。そして出来上がったのが、あの大ベストセラーの傑作『寝台特急ブルートレイン殺人事件』だ。しかし、生憎と私にはそんな題材じゃ売れないから止めろと云って呉れる編集者がいない」

「書きたい物を書かせて貰えているのなら結構じゃないか。それとも何だ、大衆受けを狙った作品なんてこっちから願い下げって訳かい」

 莫迦を云うなと、私は強い口調で云った。どれだけ作品に命を懸けようが、一番偉いのは売れる作品を書いた人間である。分かる人にだけ分かれば良いなどという言葉は、売れない作家のひがみでしかない。

「私は、私の書きたい題材で莫迦売れするために努力しているんだ。こんな我儘わが ままを許して呉れる出版社には心底感謝しているさ」

 時雨朗はこちらを一瞥し、君は変わってないなと微笑んだ。

「その喋り方もあの頃のままだ」

「誉め言葉として受け取っておこう。それよりも手紙の件だ」

「ああそうだった、懐かしくて忘れていたよ」

 何台もの大型トラックと擦れ違う県道を抜けて、海岸線に出た。車は海沿いの路を南に向かう。

 先ずはありがとう、と時雨朗は続けた。

「いきなりの連絡だったのに返事を呉れて、本当に嬉しかった。君からの返信にあった不動産会社にはもう連絡してあって、来週には現地調査に来て貰えることになっている。事前に話をして呉れていたんだね。お蔭で電話の打ち合わせもスムーズだった」

「そりゃ何よりだ。古美術とかの動産鑑定をやっている会社もあるから、必要ならまた云って呉れ。それよりも時雨朗、私が詳しく訊きたいのは後ろに書いてあった方だ。祠を壊せなんて、なかなかどうして穏やかじゃないぜ」

「しかも嵐の夜にね。本当に何が何だかさっぱりなんだ。……さて、何から話そうか。全部話すと長くなりそうだけれど」

「先ずは鱧戸村にいて教えて呉れ。地図で調べてはみたが、よく分からなかった。ここからはどれぐらいなんだ」

「千倉からだと車で三十分程度かな。房総半島の最南端で、小さな村だからよっぽど詳細な地図じゃないと見つからないと思う。村人はだいだい二百世帯程度。これといった産業もなくて、えて云えば漁業ぐらい。今のところはね」

「含みのある云い方だな」

「後で説明するよ。そんな鱧戸村で、かつて名主な ぬし網元あみ もとを務めた名門が魚棚家だ。嘘みたいな話だけど、江戸時代には『魚棚様には及びもないが せめてなりたや殿様に』なんて狂歌すら存在したらしい。明治維新で名主制や網元制度は崩壊したけれど、代わりに新しい御役目が廻って来た。鉱山開発だ」

 鉱山と私は口のなかで呟いた。そう云えば、時雨朗からの手紙には温泉が湧いているとも書いてあった。確か鴨川かも がわには銅山があった筈だが、その類いだろうか。

「銅も少しは採れたらしいけど、主な産出物は硫黄だね。それも、かなり質の良い硫化鉱物が採れたらしい。なにぶん僻地の村だから、江戸時代まではあまり注目もされなかった。それが明治維新を経て、富国強兵の名のもとに本格的な採掘が始まった。その音頭を取ったのが、鉱山の所有者でもある魚棚家だった。鱧戸の硫黄は火薬の原料としても最上級だったようで、日清日露戦争の頃には飛ぶように売れた。硫黄特需で村は潤い、人口も倍増した。ただ、一方で弊害も出始めていた。鉱山から流れ出る廃水の影響で、海じゃ畸形の魚しか獲れなくなったんだ」

「人間ってのはどこも同じ歴史を繰り返すものだな」

「全くだよ。大正、昭和と経て鉱山の採掘量も徐々に減り始めた。村の衰退をうれいた当時の魚棚家当主、八百吉や お きちは、陸軍の科学研究所に勤めていた息子の賀一を介して軍部との接触を図り、鱧戸に兵器工場を誘致した」

 聞き覚えのある名前だった。それが義理の父か問うと、時雨朗は首肯した。

「大正十年生まれで、終戦時には二十四歳だったかな。享年はええっと、七十六の筈だ。それで……どこまで話したっけ」

「鱧戸に兵器工場が出来た」

「ああそうだった。食いはぐれていた漁師やその家族は、新しい産業の導入に諸手もろ てを挙げて喜んだ。戦争末期には、本土決戦に備えた毒ガス工場まで増設された訳だけれど、それがかえって鱧戸に災いを呼び込んだ」

「空襲か」

「惜しい、艦砲射撃かん ぽう しや げきだ」

 時雨朗は助手席越しに千倉の海原を見遣み やった。

「この先の野島崎の じま ざきには、当時陸軍のレーダー基地があった。そこを狙って、昭和二十年の七月だったかな、アメリカ海軍の巡洋艦分隊が来襲した。米軍は鱧戸に兵器工場があることもちゃんと把握していて、行きがけの駄賃とばかりに猛烈な艦砲射撃を加えていった。着いたら分かるけれど、鱧戸は山背に挟まれた狭い村なんだ。工場は壊滅。無論被害はそこに留まらず、殆どの家が吹き飛ばされて村人も大勢死んだ。僕が聞いた限りじゃ、村の人口は十分の一にまで減ったらしい。そんな悲劇を経て迎えた戦後、生き残った鱧戸の住民は打って変わって魚棚家を糾弾した。そもそも魚が獲れなくなったのは鉱山開発が原因であり、あの艦砲射撃も魚棚が兵器工場を誘致したせいだってね。村人たちの怒りは凄まじく、終戦から丁度ひと月経った九月十五日、遂に暴徒と化して魚棚の屋敷に押し掛けた。命の危機を感じた八百吉は妻と共に鉱山へ避難したけれど、坑道内で足を滑らせたのか、二人とも竪穴の底で屍体となって見つかった」

「足を滑らせたのか、ね」

 仕方ないだろうと時雨朗は肩をすくめる。

「真相を知っているのは当時の村人と魚棚賀一だけだ。義父は軍の研究所を辞めて、自分が誘致した工場の研究部長を務めていた。両親を逃がすために、採掘用のダイナマイトで迫り来る村人諸共自爆しようとしたらしいけど、上手くいかずかえって袋叩きの目にった。騒ぎを聞きつけた警官隊の到着がもう少し遅れていたら、きっとなぶころされていただろう」

「ダイナマイトで自爆か。なかなか苛烈な御仁だったようだな」

「はは、それは間違いない。元々気性の激しい人間だったところへ、この一件で更に拍車が掛かった。まあ無理もないさ。義父からすれば、すたれていく鱧戸をおもんぱかって行動を起こしたんだ。村人たちだって初めは喜んでいたのに、敗戦と同時に手のひらを返して、それどころか、直接的にか間接的にかは分からないけれど、自分の父母を死に追いやった。村人に対する義父の憎悪は、それはもう凄かった。僕の知る限り、山にある自宅から絶対に村へ下りることはなかったぐらいだ。一方の村人たちも魚棚を忌避して、村では昭和の終わり頃までその名を口にすることさえ禁忌とされていた」

 そんな状況にも拘わらず鱧戸に残り続けたのかと思ったが、考えてみれば、ダイナマイトを抱えて自爆を図るような人間である。逃げ出すなどという選択肢は、頭をよぎりもしなかったのかも知れない。

「でも、そんな環境じゃ生きていくのだって大変だったんじゃないのか。食糧とかはどうしていたんだ」

「終戦時の一件で、多少魚棚に引け目を感じている者もいたらしい。去年亡くなったんだけど、魚棚家にはおきさんってお手伝いさんが永らく勤めていて、彼女には物を売って呉れた。だから義父も生き永らえることが出来た。ちなみに、その沖さんと義父の間に出来た子が千鶴ち づる、僕の妻になる」

 思わず時雨朗の顔を見た。しかし反応はない。沖なる女性を義母と呼ばないということは、つまりそういうことなのだろう。

「だったら、いま魚棚の屋敷にいるのはお前と奥さんの二人だけなんだな」

「違うよ、僕ひとりだ」

 時雨朗は顎を少し上げ、もう二年も経つのかと呟いた。

「事故に遭ってね。結局助からなかった」

 私は咄嗟の返答に窮した。気拙き まずい沈黙を察したのか、時雨朗は慌てた口吻でごめんと繰り返した。

「変なことを云ったね。だから気兼き が ねなく過ごして呉れたらいいよって云いたかったんだ」

不惑ふ わくも見えて来た独身女の私が、今は男やもめの高校の同級生を訪ねる方がぽど気を使う」

 時雨朗は私を一瞥し、小さく笑声を上げた。

「これは驚いた。君がそんなことを気にする女性だったなんて」

 私は黙って煙草を取り出した。

 

 サイド・ウインドウを開け、長くなった灰を吹き飛ばす。

 堤防越しに見下ろす砂浜には、乾いた草叢くさ むらや痩せて曲がりくねった低木ばかりが生えていた。その向こうの海も、よどんだ潮流がせわしなく岩礁がん しようを噛み、灰褐色の泡を無数に吐き出していた。

「どうも様子が変わって来ただろう」

 私の視線に気が付いたのか、時雨朗が口を開いた。

「廃水で汚れた鱧戸の海は、五十年近く経って漸く元に戻りつつある。ただ、土地に染み込んだ鉱毒はそう簡単には浄化されない。だから未だにあんな風なんだ」

「でも、硫黄鉱山はもうとざされているんじゃないのか」

「それが違うんだな。米軍の艦砲射撃は鉱山にまで届いて、多くの坑道で崩落が発生した。それで戦後は、義祖父母が亡くなった事件もあったことだし、危ないからって立ち入り禁止になった。だから、正確には休山状態でしかない。従って新鉱脈発見の可能性も含めて、再開発の余地は十分にある。その情報がどこかから漏れたんだろう、ここ最近になって、色々な開発業者が鱧戸に出入りするようになった」

「鉱山の権利は、どこか余所よ そに移ったのか」

「いいや、今も変わらず魚棚家が持ち続けている。だから今だと僕だね。業者連中は鉱山の買収や開発の許可を求めて足繁く通って来たけれど、僕が知る限り義父は最後まで誰も相手にはしなかった」

 私は吸い殻をはじきながら、先ほど時雨朗が鱧戸の現状について断言しなかったことを思い出した。鉱山の再開発が進めば、漁業以外にも新たな産業がおこると云いたかったのだろう。では、鱧戸の住民は再開発をどう捉えているのか。そんな私の疑問に対し、時雨朗はハンドルを握ったまま、見て見ぬふりかなと呟いた。

「鉱山の再開発で村がさかえるのは嬉しいけど、それで魚棚と関わるのは厭、みたいな。鱧戸の人間にとっては鉱山そのものが負の遺産みたいなものなんだと思うよ。鉱山を抱く同じ山には魚棚の屋敷もあるから、これまでだって誰も近付こうとはしなかった」

「何と云うか、複雑な環境だな」

「なんでそんな厄介な家に婿入りしたのかって顔だね」

「そんなことは思わない、こともないが」

 時雨朗は空調を調整しながら苦笑した。

「僕は元々、館山たて やまの総合病院に勤めていた。薬剤師だった家内とはそこで知り合ったんだ。付き合う内に魚棚や鱧戸村の厄介な事情も段々と分かってきて、そんな処からは距離を置いた方がいいとは思ったんだけど、やっぱり彼女は家を、殊に沖さんを見棄てることは出来なかった。だから已むを得ず、って云い方は良くないか、僕たちは揃って鱧戸村に帰ることにした」

「賀一おうはお前たちの結婚を許して呉れたのか」

「これが、吃驚びつくりするぐらいあっさりとオーケーが出た。条件は僕の婿入りと同居だけ。だから僕は思い切って病院を辞めて、鱧戸に診療所を開くことにした。高齢の医者が一人しかいない村だったからいいだろうと思ったんだけど、これもなかなか大変でさ。受け容れて貰えるまでには結構かかったよ」

 道路は海岸線から離れ、山の裾に沿って峠道に入った。話がれたねと時雨朗は強くアクセルを踏む。

「とにかく、そういう訳で鱧戸の人間は決して鉱山付近に近寄ろうとはしなかった。だけど余所から来た業者は別だ。義父からけんもほろろに追い返された彼らは、魚棚の敷地に無断で立ち入って夜な夜な測量やら土壌調査やらをやり始めた。そんな業者の一人が宿の一室で首をくくったって訳さ──ほら見えて来たよ、あれが鱧戸村だ」

 白く立ち枯れた木立の名残を抜けると、眼下に集落が現われた。

 小さな村である。楕円形の港湾の直ぐ近くにまで山の裾は迫っており、その合間の平地は、東西に伸びきった三日月のような形をしていた。

 西には白茶けた工場街が、東には人家が集まっていた。瓦葺かわら ぶきの屋根は鈍い陽光を浴びて、魚の鱗のようにぬらぬらと光って見えた。

 車は大きな弧を描きながら峠道を下り、村落に入る。

 隣と寄り添うように建つ家々のひさしに遮られて、往来には殆ど陽が差していない。そんな薄暗い軒下では、頬被ほお かむりをした女たちが黙々と網のような物を編んでいた。

 彼女たちから向けられるくらい眼差しを横顔に感じながら、私は時雨朗に続きを促した。

「時系列に沿って説明しよう。先月の五日、鱧戸に逗留して足繁くウチに通っていた浮嶋うき しまって開発業者が、泊まっていた旅館の一室で首を吊った。他の業者同様、浮嶋も無断で鉱山付近に立ち入っていたみたいで、そんな浮嶋が死んだ翌日、祠の近くから義父の魚棚賀一が転落して死亡した」

「普通に考えれば自殺と事故だ。でもそうじゃないんだろう?」

「義父は事故で間違いない。し誰かに突き落とされたのなら、死の直前で僕にその旨を告げる筈だ。でもそうじゃなかった。『祠を壊せ、嵐の夜に』。義父はそうとだけ云い遺して亡くなった。君に考えて貰いたいのは、この言葉の意味だ」

「浮嶋とやらの方は、自殺するような動機がないんだったか」

「少なくとも僕はそう聞いているし、そもそも翌朝にモーニング・コールを頼んでいた人間がその晩に首を括るっていうのは変だろう? だけど、安易に他殺だとも云い切れない。何せ現場となった客室は、ドアも窓も内側から施錠された完全な密室状態だったんだから」

「おい、それは初耳だぞ。推理小説かよ」

「だから君に相談しているんだ。まさにたしな変異へん い耽溺たん できする入舟清乃の領域だとは思わないか」

「『黒死館』から引用したって駄目だ。私は単なる推理小説家で、法水麟太郎のり みず りん た ろうみたいな名探偵じゃない」

「法水麟太郎が名探偵かは賛否両論あるだろう。それに、あれは高二の夏だったかな、県大会からの帰り道、海軍航空隊のパイロットだった君のお祖父じ いさんが青森の漁村で津波が消えた謎に挑んだ話を聞かせて呉れたじゃないか。その時君はこう云った。『入舟家には代々謎解きの血が流れているんだ』って。真逆忘れたとは云わせないよ」

 懐かしい話に思わず頬が緩む。狭い家々の並びを抜け、車は「浜マーケット」とかかげられた商店街に入った。びたシャッターの前では、鱧戸の住民と思しき老人たちが床几しよう ぎに腰掛けて往来をぼうと眺めていた。誰も彼も置物のように動かないが、その物憂げな顔のなかで、落ち窪んだ双眸だけが、私たちの車を追っていた。魚棚家に対する鱧戸の人間の感情という物をおおよそ理解しながら、私は分かったよと答えた。

「不謹慎だってことは重々承知の上でこう云わせて貰う」

「何だい」

「非常に面白い」

 それはよかったと時雨朗は笑った。

「それにしても、やけに事件に就いて詳しいな。り噂か何かが広まっているのか」

「それもあるけれど、僕は館山警察署からの嘱託で、一応はこの辺りの警察医を務めているんだ。だから現場検証にも立ち会ったし、警察にだって多少は顔が利く。君なら現場が見たいって云うかなと思ったから、浮嶋が泊まった宿の主人にも話は通してあるよ」

「素晴らしい、ワトソン役としては百点だ。それなら早速向かおうじゃないか」

おおせのままに」

 時雨朗がアクセルを踏み、車が加速する。色褪せた種々ののぼりたちが、一斉にひるがえった。

 

 鱧戸唯一の温泉旅館「観潮荘かん ちよう そう」は、鱧戸の西方、打ち上げられて干からびた海草と腫物のような多肉植物が蔓延はびこる海水浴場の端に建っていた。

 温泉旅館と銘打っているものの、無数にひびの走ったコンクリート二階建ての外観には色気も素っ気もない。

 支配人の乃田の だは痩せて顔色の悪い男で、恐らくは白髪染めなのであろうまだらに染まった薄い茶髪も相まって、私はグリム童話の「藁と炭と空豆」に出て来る不幸な藁を思い出した。

 時雨朗から事前に聞かされていた情報では、この乃田という男、魚棚を忌避しない鱧戸では数少ない人間の一人とのことだった。そのせいもあってか、私たちに対する乃田の態度は常に慇懃いん ぎんで、推理小説家による事件の再調査という奇妙な状況にも何ら疑問は抱いていない様子だった。

 乃田の案内で、早速事件現場となった客室へ向かう。

 フロントや食堂にも客の姿は無かった。今の逗留客について訊くと、乃田は憮然とした口吻でゼロだと答えた。

「久々の満室だと思っていたのに、あの一件のせいで誰も彼も出て行ってしまいました。本当にいい迷惑です」

 浮嶋が逗留していたのは二階の端、二〇八号室だった。乃田は腰から提げた鍵束を取り上げ、錠を開けた。

 乃田の横に立つ時雨朗が、あれぇと声を上げた。

「乃田さん、この扉って新しい物ですか」

「取り替えたんですよ。鍵穴に詰まったあのガム、どうやっても取り切れなかったんで仕方ありません」

 初めて触れる情報だった。委細を問うと、屍体発見時、この二〇八号室の扉の鍵穴にはガムが押し込まれていたのだと乃田は答えた。鍵穴を封じるということは、外からの侵入を拒む目的だったのだろうか。

 白く塗られた木製の扉は、確かに隣の二〇七号室と比べて幾許いく ばくか鮮やかに見えた。内側の鍵は、ドアノブにマイナス型のつまみが付いた一般的なサムターン錠だった。

 乃田と時雨朗に付いて室内に足を踏み入れる。先ず踏込ふみ こみと前室があり、右手に蒲団ふ とんなどをしまう押し入れ、左手が客間を仕切るふすまで、奥がトイレとユニット・バスだった。

 時雨朗に促されて客間の鴨居を潜る。広さは八畳。中央には、擦り切れた座布団を挟んで座卓がしつらえられている。その奥に細長い広縁があった。

「浮嶋はあそこで首を吊っていた。使ったのは浴衣の帯だ」

 時雨朗は客間と広縁の間の欄間を指し、屍体発見当時の状況を説明した。

 朝六時のモーニング・コールを頼まれていた乃田は、きっかり一分前まで待って二〇八号室に電話を入れた。しかし、十回以上呼び出しても出ない。乃田からすれば一応務めは果たした訳だが、浮嶋は何かと文句の多い客だったため、このまま放っておいては後で騒がれる事態が容易に想像出来た。

 已むを得ず部屋まで行って扉を叩いたものの、矢張り反応がない。流石に様子が可怪しいと感じサブの鍵を取り出したところで、鍵穴の奥まで粘っこいガムが詰められていることに気が付いた。

 仲居に持って来させた食用油と裁縫針で出来る限りのガムを掻き出し、鍵をじ開けて室内になだれ込む。そこで乃田は、欄間に掛けた帯で首を吊る浮嶋の姿を発見した──。

 これがその時の写真ですと云って、乃田が尻のポケットから茶色い封筒を取り出した。なかには、L判サイズのカラー写真が五枚ばかり入っていた。

 様々な方向から客間を撮った写真だった。高さ二メートル強の欄間からは、床上十センチ程度の位置に肥満体の男がぶら下がっていた。

「驚いたな。事件現場の写真ですか」

「ええ、記録に欲しいって和田山わ だ やまさんにお願いしたら、呉れましたもので」

 私は多少戸惑いながら時雨朗を振り返った。しかし特に驚いた様子はなく、和田山が鱧戸の駐在であることを私に告げるだけだった。

 曲がりなりにも捜査機密である現場写真を、ここの警察機関はあたかも記念品のように扱っている。そしてそれを周囲の人間も不埒ふ らちだとは感じていない。私は出そうとした言葉を呑み込んで、手元の写真に目を落とした。

 小豆あずき色をした浴衣の帯は欄間でふた巻きされ、その先を固結びして出来た輪が浮嶋の首に掛かっていた。

 体格から見るに、体重は百キロ近くあるかも知れない。頭を短く刈り込み、濃い口髭を蓄えた五十絡みの男だった。

 まとった格子紋様の浴衣は前がはだけ、合間から下着が覗いていた。屍体の近くにはほどけた細帯と、踏み台として使ったのか、広縁の椅子の一脚が転がっている。またその真下には、縊死時の名残とおぼしき茶色い汚物が零れ落ちていた。

「時雨朗、死因は首吊りで間違いないのか」

「どういう意味?」

「絞殺した後で屍体をぶら下げた可能性だ。そういう場合は索状痕さく じよう こんで分かるだろう」

「ああ、そういうことね。うん、縊溝いつ こうに違和感はなかった」

「他に気になる箇所は」

「争ったような形跡はなし。ただ、遺体は頸骨けい こつが折れていた。浮嶋の体重は推定九十八キロ。そこに写っている椅子が踏み台代わりだったんだろうけど、だいぶ高さがある。その分、飛び下りた時の衝撃が強かったんだと思う」

 広縁の椅子は高さが四十センチばかり。写り込んだそれと実物を比較して、浮嶋の身長は凡そ百七十センチ程度だと思われた。併せて二メートルを少し超えるため、浮嶋が椅子に乗った時点で天井に殆ど頭が突く状態だった。踏み台としては座卓の方が適しているようにも思えるが、持ち運びの利便性で選んだのだろうか。

「あと、遺体の血液からは結構な濃度のアルコールと睡眠薬が検出された。部屋のゴミ箱には薬包紙が棄ててあったから、ここにあるウイスキーで流し込んだんだと思う」

 時雨朗は腕を伸ばし、手前に写る座卓を指した。その卓上にはサントリー・オールドの壜とグラスが一つ。それにアイス・バケットが並んでいる。

「睡眠薬と酒を併せてんだら、効果もその分強くなるんだよな」

「そうなるね。生きていたら翌日までふらつきは残っただろう」

「屍体の浴衣は発見された時からこうだったのか」

「前が開けていたかってこと? そうだよ。細帯は近くに、ああそうそう、ここに落ちていて糞尿で汚れてたっけ。吊った時の衝撃で外れたのかな」

「それぐらいじゃ解けたりはしないだろ。もだえ苦しむなかで浮嶋が無意識に引っ張ったのなら分かるが、屍体の頸骨は折れていたんだよな? なら即死の筈だ」

 再び浮嶋の屍体に注目した私は、その右手に青い棒のような物が握られていることに気が付いた。影のように傍らに立っている乃田にその箇所を示すと、この部屋の鍵だと返って来た。確かに目をらせば、部屋番号が彫られたアクリルのキイ・ホルダーに鍵の付いた、一般的なルーム・キイに見えなくもない。

「なんで浮嶋は部屋の鍵を握って死んだんでしょう」

「そんなこと私に訊かれても」

「失礼、それはそうでした。質問を変えます。部屋の鍵はこれ以外に何本ありますか」

「このサブの鍵だけです。ただ、これはいつも私が持っていますから悪用は出来ませんよ」

 成る程と応えながら時雨朗に写真を手渡し、私は改めて室内を見廻した。

 年季の入ったテレビに違い棚。床の間には、色褪せた糸瓜へちまの俳画が掛けられている。広縁のテーブルには大振りな陶製の灰皿が置かれていた。

 欄間を見上げる。粗く彫られた松竹梅の下部には、れたような白い跡が残っていた。浮嶋が吊られた時の名残だろうか。

 広縁に入り、窓を確かめる。クレセント錠のそなわった一般的な引き違い窓だ。鍵の部分はすっかり摩耗しており、何かしらの細工がほどこされたのだとしてもその痕跡を見つけることは難しそうだった。

 窓枠自体にも不審な点はなかったが、上部のカーテン・レールが大きく歪んでいた。窓枠の上部にはレース・カーテンを掛けるアルミ製のレールが一条走っており、その右側の一箇所が、室内に向かって大きくの字に曲がっていた。私は乃田を呼びその訳を問うたが、乃田自身も覚えはないようだった。

「手荒に引っ張ってカーテンを開け閉めするお客さんもいますからね。それで曲がったんじゃないでしょうか」

 修繕費についてぶつぶつと呟く乃田に背を向けて、私はカーテンを引っ張って見た。しかしどれだけ強く引いても、ここまでレールが曲がることはなさそうだった。先にカーテンの金具が外れるだろう。

 客間に戻り、時雨朗の手にある写真を覗き込む。座敷の隅には、黒いキャリー・ケースと大型のバック・パックが並んでいた。随分な大荷物だ。

「浮嶋には誰か連れがいたのか」

「いいや、一人だったみたいだ。だからこれだけの大荷物なんだろう」

「怪しい物は」

「どうだろう。詳しいことは後で和田山さんに訊けばいい。ごちゃごちゃとした器具が多かったような気がする」

「そうか。……乃田さん、貴方から見て、浮嶋氏の様子はどうでした」

「どう、と仰ると」

「自ら命を絶つような予兆はありましたか」

 乃田はいいやと答えかけて一度考え込み、結局首を横に振った。

「前の晩は随分と遅くに帰って来られましてね。靴が泥で汚れていましたから、あの時も山に入っておったんでしょう。それで、ああそうだ、あの山の坑口近くには祠があるけれど何なのかと訊かれました。無論私は立ち入ったことなんてありませんから、正直にそうお答えしましたがね」

「そうしたら浮嶋は何と」

「特にそれ以上は。ただ、何があったのかは知りませんけれど、随分と上機嫌でした。あの晩ばかりは毎日のようにアドヴァイスを頂戴しておりましたウチの夕食も、何のご注文もなく召し上がっていただいて、モーニング・コールを頼まれたのです。何でも、朝一番で会社に報告せにゃいかんとかで」

 私は時雨朗と顔を見合わせた。上機嫌と云うのは、時雨朗も初耳のようだった。そして、理由は不明だが、浮嶋が蛇奴様とやらの祠を訪ねたのは間違いなさそうだった。

 私は前室に戻り、押し入れの襖を開けた。薄い煎餅せん べい蒲団が畳まれたその上の天井板には、四角い点検口が認められた。私は乃田に、あそこから天井裏に上がることは可能かを尋ねた。

「出来ますよ。ただ、それも和田山さんが一応調べていました。天井裏は埃が積もったままで、誰かが入ったとは思えんとのことでした」

「でしたら、犯人がずっとこのユニット・バスに身を隠していた可能性は」

「は?」

「浮嶋氏を殺害した後、犯人は乃田さんがこの部屋に入ってくるまでずっと隠れていた。それで、屍体を発見した貴方がたの目を盗んでユニット・バスと部屋から出て行った……そういうことは考えられませんか」

 乃田は険しい顔で暫く考え込んでいたが、矢張り無理だろうという結論に至った。

「なにぶんこれだけ狭い部屋なんです。幾ら何でも気付くと思いますよ」

 私は再び客間に戻った。時雨朗は広縁に立ち、浮嶋が吊り下がっていた欄間を見上げていた。

「どうだった、センセイ」

「見たい物はだいたい見られた」

「じゃあ謎が解けたのか」

「莫迦を云え。手元に集まった事実をもとに、これから推理を組み立てるんだ」

 乃田は憮然とした顔のまま何も云わなかった。彼からすれば、自殺だろうが他殺だろうが、自分の旅館で人が死んだ事実には変わりがないのだろう。

 

 私たちが観潮荘を辞した時分、既に西の空は蜜柑み かん色に染まり始めていた。

「それで、実際のところはどうなんだ」

 街中に戻る路を進みながら、時雨朗が云った。

「何か分かったんじゃないのか。乃田さんがいるから敢えて話さなかったんだろう?」

「それもあるが、迂闊に喋った内容に尾鰭背鰭が付いて独り歩きするのは好ましくない」

「それはそうだ。でも、そう云うからにはやっぱり何か分かったと見える」

「そう焦るな。筋道を辿って考えれば、見えて来ることも幾つかあるってだけだ」

 車は沿岸部から商店街に入る。私は新しい煙草を取り出して咥えた。

「先ず考えるべきは、浮嶋の死が純粋な自死なのか、それとも第三者が関わっているのかという点だ」

「純粋じゃない自死ってなんだい」

「後で説明する。とにかく、純粋な自死の場合、浮嶋は外からの侵入を拒む目的で鍵穴にガムを詰めて首を吊ったことになる。なんでそんなことをしたのかという謎は残るが、結局は人の心の問題だ。死んだ浮嶋本人にしか分からない。ここまではいいな」

 これまでとは異なる北へ延びた車道にハンドルを切りながら、時雨朗はああと頷いた。

「次に、浮嶋の死に第三者が関わっていた場合。これも一応は二つのパターンが考えられる。そんなつもりは無かった浮嶋に首を吊らせたか、若しくはそいつが浮嶋を殺して縊死したように見せ掛けたかだ」

「首を吊らせた! 凄いね、それは考えてもみなかった。『必殺仕事人』でちようがそんな殺し方をしていたっけ」

はな塩八しお はちだな。だが惜しい。あれは『新・必殺からくり人』だ。まあ、正直これは私も難しいと思う。だから本丸は二つ目。浮嶋を殺して、首を吊ったように見せ掛けた」

「それは結構だけど、密室の問題はどうする」

「鍵があるんだから、完全な密室だった訳じゃない。乃田が犯人だとすれば、浮嶋を殺して縊死に見せ掛けた後で部屋から出て、サブの鍵で締め、一応はDNA鑑定の可能性も視野に入れてあらかじめ浮嶋に噛ませておいたガムを鍵穴に詰め込めばお終いだ。問題は、そんなことをしても乃田には何のメリットも無いって点なんだが」

「確かに。自分で自分の首を絞めるようなもんだ。実際に、客だって出て行っちゃっているし」

 乃田曰く、鱧戸の住人は昼夜を問わず温泉に浸かりに来るため、正面玄関の鍵は常に開けっ放しにしているとのことだった。従って、浮嶋に害意のある人間がいたとして、彼ないし彼女は容易に観潮荘へ忍び込むことが出来た訳である。

 ひなびた一本道はなだらかな坂となり、やがて鬱蒼とした山のなかに続いていた。冗談のつもりで、もう魚棚の敷地だったりするのかと訊いたら、時雨朗は当たり前のようにそうだよと答えた。

「やっぱり気になるのは、浮嶋が上機嫌だったってことだね」

「朝一番で会社に報告するってことは、鉱山に関わることなんだろう。心当たりはないのか」

「浮嶋も一回は義父に追い返されていると思うんだけど、また来たのかなあ。真逆売却を決めたなんてことはないと思うんだけれど」

「賀一翁が亡くなったのはその翌日だ。しかも、転落現場となった例の祠には浮嶋も訪ねている。無関係で済ませるには一寸ちよつと早い」

 九十九つづらりの山路をいい加減登った先に、苔生した石造りの門が現われた。掲げられた陶製の表札には魚棚とある。

 路は更に山奥へ続いており、蛇奴様の祠はここから百メートルばかり登った先にあると時雨朗は云った。鉱山だった頃の名残か路は広く、舗装こそされていないものの比較的ならされているように感じられた。端は殆ど崖のように急峻な斜面になっており、杉の巨木が無数に天を突いていた。

「蛇奴ってのは、魚棚家が代々祀って来た家神なんだよな」

 時雨朗はハンドルを切りながら、義父からはそう聞いていると答えた。

「ただ、何となくは分かって貰えるかな、僕にとって魚棚賀一はそう気安く話し掛けられる相手じゃなかった。だから申し訳ないんだけれど、蛇奴様に関して僕が知っている知識はかなり断片的なんだ」

「魚棚の家神だったら、当然奥さんも知っていた筈だろう。何か聞いたことはないのか」

「一度もない。というか、僕が鱧戸に来て今年で九年目だけど、最近になるまで名前はおろか、存在すら知らなかったんだ。去年の十二月頃だったかな、これまで殆ど屋敷に籠りっ放しで週に一度散歩に出るかどうかだった義父が、急に毎日外出するようになった。不思議に思って訳を問うたら、魚棚の家神たる蛇奴様に詣でているんだと返って来た」

「これまでしてこなかったのに?」

「散歩の途中で偶々たま たま見つけたと云っていた。元々義祖父の代までは山できちんと祀っていたんだけれど、戦争の混乱で行方不明になっていたらしい。いま祀っている祠は、同じ時期に義父が作り直した物だ」

 そう云えば、米軍の艦砲射撃はこの山にまで届いていたのだった。御神体含め、前の祠はそれに吹き飛ばされたのだろうか。

「それからはほぼ毎日だったな。七十六にしては健脚な方だったと思うよ。ただ、ここ最近になって義父は夜も出歩くようになった。灯りは手にしていたけれど、それでも危ないから止めた方が良いとは何度も云った。ただ、まあ聞きれて貰える筈もない。いま考えたら、開発業者の奴らが無断で入って来ていることに勘付いて、その見廻りをしていたんだろうな」

 傾斜が少しずつ急になる。時雨朗は強くアクセルを踏んで、あの晩もそうだったと続けた。

「一時間経っても二時間経っても帰って来ない。流石に可怪しいと思って、僕も灯りを手に捜しに出た。そうすると、この先の崖に片方だけの靴が落ちていた。慌てて下を覗き込んだら、出っ張った岩場の上に、血塗れの義父が倒れていた。距離にして二十メートルぐらいだ。咄嗟に灯りを向けて声を掛けたら、義父の手が微かに動いた。救助を呼ばなくちゃいけないことは分かっていたけれど、だからと云ってそのまま放っておくことも出来ない。慎重に斜面を降りて、義父の許に行った。滑落の途中で木とか岩とかにぶつかったんだろう、義父の身体はぼろぼろで、折れた骨が体外に突き出しているような有様だった。正直な話、これはもう手のほどこしようがないと思ったよ。それでもたすけを呼ぶために戻ろうとしたら、義父は、瀕死の重傷人とは思えないような力で僕の腕を掴んだ。それで、『祠を壊せ、嵐の夜に』だ。直ぐに聞き返したけれど、その時にはもう、義父は息をしていなかった」

 車が止まる。朱色の木漏れ陽が揺れる路の奥に、例の祠は佇んでいた。

「近くで見ても構わないか」

「もちろんだとも」

 カメラを提げて外に出る。微かな硫黄の臭いが鼻を突いた。ひぐらしの声を全身に浴びながら、私はそちらに足を進めた。

 祠は斜面側ではなく、急崖きゆう がい側に設えられていた。正面に立つと、生い茂る木々の合間から鱧戸の村落を見渡すことが出来た。

 祠に向き直る。

 正面に格子戸のまった、極めて簡素な木製の祠だった。格子の大きさは五センチメートル四方で、下部には土台もなく、そのまま地面に置かれているため少しだけ左に傾いて見えた。

 二礼二拍一礼ののち、カメラを構えて祠の姿を何枚かフィルムに収める。

 近くの切岸きり ぎしには、鉱山時代の遺物と思しき、軌道の残骸が草に埋もれていた。時雨朗はその上に立ち、ポケットに手を突っ込んで村落を見下ろしていた。落ちるなよと声を掛けると、大丈夫さと返って来た。

「丁度この辺りに、義父の靴が落ちていたんだ。暗闇のなかで線路に足を引っ掛けたんだろうなあ。……で、プロの目から見てどうだい」

「別にプロって訳じゃないが、まあ、よく見るタイプの祠だとは思う」

「じゃあ、祠のなかに何もないのはよくある話なんだな」

「何もない?」

 身をかがめて格子戸のなかを覗いてみたが、暗くてよく分からない。ポケットから小型の懐中電灯を取り出し、手前の紙垂し でに触れないよう気を付けてなかを照らした。七百ルーメンの強力発光タイプだけあって、今度は隅々まで確認することが出来た。

 土埃にまみれた堂内には、確かに時雨朗の云う通り何もなかった。そんな筈はないと三度み たび屋内を照らしたが、矢張り器物の一つも見当たらなかった。

「おい、本当に何もないじゃないか」

「そうなんだよ。じゃあやっぱり変なのか」

「祠ってのは、何かしらの神様を祀るための殿舎なんだぞ。普通は鏡とか剣とか、若しくは信仰に結び付いた何かしらの像が祀られているものだろう」

 祠が空っぽである場合も確かに存在はする。御神体としての巨石や巨木の脇に覆屋おおい やとして空の祠が建てられる場合や、空間そのものを神が降りる場所として扱う場合などがそうだ。しかし、今回はそのいずれにも該当しない。初めから何も無かったのか問うと、時雨朗は分からないと肩を竦めた。

「僕も、義父の葬儀を済ませた後で初めて訪れたんだ。それまでは、絶対に近寄るなってきつく云われていたものだから」

「何で近寄ったら駄目なんだ」

「知らないよ。所詮僕は魚棚の人間じゃないからだとは思うけど、まあいいさ。それで来て見たら、なかには何も無かった。変だなとは思ったけれど、僕はその辺りに詳しくない。だから、そういうものなんだと思っていたんだ。じゃあ誰かに盗まれたのかな」

「いや、それも違うみたいだぞ。ここを見てみろ」

 格子戸には均一に土埃が積もり、また祠の内側では、腹を膨らませた女郎蜘蛛が、戸から天井に掛けて幾重にも巨大な巣を張り巡らせていた。この様子では、少なくともここ数ヶ月は戸も開けられていない筈である。先月の初旬まで毎日賀一翁が詣でていたのだとしたら、黙って見過ごす筈がない。

 私は腕を組み、改めて祠を眺めた。端から祠が空だったとは考え難い。しかし盗まれた可能性も低いとなると、残る答えはただ一つ、御神体そのものが逃げ出したのだ

「なあ時雨朗、蛇奴って名前はへびやつこだよな」

「そうだよ」

「鱧戸が属するのは落地郡で、魚棚の屋敷の住所は蛇ノ口だ。どちらも蛇にまつわる地名だな。だからこの蛇奴サマってのも、当然御神体は蛇の形をしているもんだとばかり思っていた。だけど、若しかしたら本物の蛇だったのかも知れないぜ」

 時雨朗は眉根を寄せ、次の瞬間にはあっと声を漏らした。

「このなかで蛇を飼っていたって云うのか」

「鎮座ましました訳だ。岩国の白蛇みたいに、白化した青大将を家神として祀る話はよくある。賀一翁はその様子を見るため、または供物、要は餌やりも兼ねて、毎日この場所を訪れていたのかも知れない」

 ははあと息を吐きながら、時雨朗は祠のなかを覗き込んだ。

「成る程。このなかが空っぽなのも、餌を呉れる人がいなくなったから外に出たって訳か。変な名前だなあとは思ったんだよ」

「蛇奴の由来について、賀一翁は何か云っていたのか」

「由来じゃないけれど、あれはいつだったかな、義父は僕に、敢えて云うならだどだどさまだって云ったんだ。蛇に奴で蛇奴。滅多に笑わない義父が、あの時だけはにやって嗤っていたからよく覚えている。あれはそういう意味だったんだね」

「蛇奴の正体が蛇だったとして、ただそれでも分からないことは残る。どうしてお前に祠を壊すように命じたのかだ」

「自分が死んだら餌を遣る人がいなくなるから……じゃないか。現にこうして逃げているんだし」

「若しそれが心配だったのなら、続けて餌を遣るように云うだろう。何せ大事な家神なんだ。それに、嵐の夜に限定する意味も分からない」

 私は再び身を屈め、祠のなかを照らして見た。証拠となるような蛇の抜け殻でもないかとライトを動かしたが、強烈な光を浴びた女郎蜘蛛が、怒ったようにその長い手脚を震わせるだけだった。

 

(つづく)