その日はすでに日が落ち、篝火にも限界があるため、最初の「治療」は翌日執り行うと決めた。闘牛場の近く、伯爵家所有の城館に宿泊させてもらう。
翌日の正午過ぎ、俺は闘牛場のアレーナでガブリエトと対峙した。闘牛士の衣装こそ身に着けてはいないものの、ムレータは貸してもらった。闘牛場の見物客は、夫人と昨日の召使いのみ。闘牛士としてはあり得ない状況だが、もっとあり得ない相手が目の前にいるので気にならない。
そう言えば、と気づく。絶対に復帰しないと決めていたのに、今、俺は闘牛士として闘牛場に立っている――違うか。相手は牛の心を持った人間なのだから、今の俺は闘人士だ。
苦笑しながら、ガブリエトの出方を窺う。今回だけだ。こんな闘いは自信を取り戻すことにつながるはずもないが、好敵手を助けるためなら、これくらいの手間を惜しむつもりもない。
四つん這いのガブリエトが、遠くから睨み付けてくる。本来の闘牛であれば、闘牛士に先んじて長槍方が闘い、長槍や銛を打ち込んだ後で闘牛士の出番が回ってきたり、闘牛士が長槍方を兼任したりする形式で進行する。ただし、今回の相手はガブリエトだ。牛相手なら急所を外せばなんともない銛や長槍でも、人間の肉体だったら命取りになりかねない。そもそもこの場はフリだけで終わらせるつもりだった。
しかしそうなると、相手の攻撃性が上がらない。
なぜ闘牛士が剣を差し込む前に槍や銛を必要とするかと言えば、こちらへ突進を繰り返すよう、牛を発奮させたいからだ。無傷のガブリエトでは、俺の望んだ通りに突進してきてくれるものか定かではなかった。
どうしたものやら。少し思案して、思いつく。このときの俺は、風上に立っていた。ある程度風が強くなった瞬間を逃さず、ガブリエト目がけて地面を蹴り上げる。大量の砂粒が舞い、好敵手の顔面にぶつかった。
本来の闘牛では使わない手だ。見栄えも悪いし、観客も喜ばない。そもそも人間より遥かに面の皮が厚い猛牛に対して、そう効果が見込めるものでもない。だが、今相手にしているのは人の身体を持った牛だ。
ガブリエトは左右に激しく顔を振り、それから顔を赤く染めた。案の定、昨夜この闘牛場で出くわしたときと同様の速度で、こちらへ突進してくる。
やっぱり人の肉体だ。牛に比べたら、遅い。俺はムレータを翻し、難なく突進をかわす。俺とガブリエトだけが会得している特別なパセを披露したのは、それでガブリエトの心を開いてくれないものかと期待したからだ。しかし二度、三度と繰り返しても、好敵手の目に理性の兆候は現れなかった。
諦めた俺は、四度目のパセで、首筋に剣を突き立てた。刀身が柄に押し込まれる。可能な限り、優しく突いたつもりだった。
一瞬、ガブリエトの動きが止まる。それから左右にぶれながら数秒間、前へ進んだ後でぱたりと地に伏した。
ガブリエトへ警戒の視線を注ぎつつ、俺は柵と防壁の外へ出る。入れ替わりに夫人の召使いが医薬品を詰めた鞄を持って入ってきた。この召使いには、医療の心得もあると聞いている。
「大した力は込めませんでした」
夫人に説明する。
「考えたんです。中途半端に衝撃を与えるよりも、優しく扱ってやった方が心が戻るんじゃないかって。あいつが自分を闘牛用の牛だって思い込んでいるのなら、パセの後には剣で殺されるはず。ところが、突き立てられたのは手品師の剣だった。自分は、闘牛として扱われていないって気づいてくれるんじゃないかなあとね」
「では、今、昏倒しているのは成功の証しですか?」
夫人の瞳が期待に輝いて見えた。
俺はアレーナを見る。召使いがガブリエトの手首や首筋を触っている。それから、脈は問題ありません、とこちらに言った。
「そうだと信じたいですね。無傷だったはずなのに意識を失ったのは、牛の心が砕けて、人の心が戻ってくる前徴なのかもしれません」
俺は再びアレーナへ戻る。召使いが鞄から薬瓶を取り出し、栓を抜いたそれをガブリエトの鼻先に突きつけている。おそらく気付け薬の類いだろう。俺は目を覚ましたガブリエトが、二足で立ち上がってくれることを期待した。
開眼した好敵手は、ぶるぶると首を左右に振り回し、それからモオオと唸った。
それから六度、手品の剣を突き下ろしたが、ガブリエトの心は戻らないままだった。
毎回、意識は失うものの、それだけだ。目を覚ますと、相変わらず牛として振る舞っている。
好敵手の首筋を眺めて、俺は溜息をついた。刃が引っ込む構造とはいえ、何度も突き立てたせいで腫れ始めている。背中の、紫色の斑点と重なってきてもいる。これ以上繰り返すと、重傷を負わせかねない。
「仔牛なのかもしれません」
夫人が呟いた。
「この状態のガブリエトを発見してから、一年も経過していません。本人が牛に生まれ変わったつもりでいる場合、仔牛の状態から育っていくと考えられます。つまり、牧場で飼育の真似事をした後で闘牛場に連れて行くべきなのでは?」
筋が通っているような、通っていないような理屈だったが、他に対策も思いつかない。ガブリエトを荷車に乗せ、クレスタ伯爵の領地にあるという牧場へ移動した。
闘牛を知らない人間には勘違いされがちな話だが、闘牛場で俺たちと闘う猛牛は、乳牛や肉牛を育てる牧場から連れてくるものではない。スペイン各地に闘牛を育てるための牧場が用意されており、成長段階に応じて牛を繁殖用・闘牛用・食肉用に選別している。選別には、闘牛士が駆り出される場合もある。俺たちが向かった先も、そうした厳しいゆりかごの一つだった。
突然現れた領主婦人に、人間を牛のように育ててほしいと依頼された牧場主はひきつった笑顔を浮かべていたが、牛になったのがガブリエトだと聞くと、意外な情報をもたらしてくれた。
荷車に近づき、眠っているガブリエトを眺めてから、
「この人、見たことがあります。以前、この牧場へ問い合わせにいらっしゃいました」
「いつのことです?」
夫人の声が高くなる。
「日付までははっきり覚えておりませんが、フランス軍が大方出ていった時期だったのは間違いありません」
「どんな質問を? この男は、牧場についても詳しいはずなんだが」
俺が気になったのは、俺と同様、ガブリエトも牧場で育ったと知っていたからだ。
当然、闘牛用の牛やその育成方法についても知識は豊富だったはずなのに、何を知りたかったのだろう。
「ご自分でも、ある程度通じているとおっしゃっていましたが、しばらく牧場を訪れていないから、何か変化はないかとの問い合わせでした。たとえば騎馬闘牛用の牛と徒歩の闘牛用の牛は、別々の育て方をしているのかどうか、とか」
少なくとも俺が生まれ育った牧場では、区別らしい区別はしていなかったと記憶している。近年の闘牛は、騎馬闘牛が徒歩の闘牛の前座として扱われるような形式に推移しつつあるため、分ける必要性がないからだ。
「この牧場でも、区別はしていないとお答えしました。ただし、騎馬闘牛に適した顕著な性質が見られる場合、引き取り主にその旨は説明しております……とお伝えしたところ、どのような性質かと問われたので、馬を怖がらないところか、真っ正面から挑みかかっていくような傾向があれば申し分ない、と」
これは頷ける話だった。騎馬闘牛で馬を怖がって逃げ回るような牛では、一方的な追いかけっこのような図式になり、観客からすると面白くもなんともない。逆に真っ向勝負で突進してきてくれるような猛牛なら、長槍方が馬を巧みに操り、すれ違いながら槍を打ち込むという妙技を披露できるからだ。
「さらに素晴らしい牛ですと、騎馬の正面で突進をかける前に、挑発めいた仕草を見せてくれます。もたげた首を、こう、くい、っと傾けまして」
首を斜めにした牧場主は、そのまま頭をくるくると回した。
「こんな風に、いかにも騎馬闘牛士をこけにするような動作をするんです。まあ、そんな牛は、百頭に一頭もおりませんが」
思い返すと、俺にも希ではあるが、そういう牛と闘った記憶があった。騎馬闘牛士の時代が、少しだけ懐かしい。俺は雑念を振り払う。今は俺ではなく、ガブリエトの話だ。
「後は、牧場で働いている従業員と話をしたいと仰って、彼らの住まいを何軒か訪れておられたようですね。滞在時間は、三時間程度だったでしょうか」
夕刻、クレスタ伯爵家の城館前。草に寝そべり平穏そのものに見えるガブリエトの傍らで、俺は牧場主の証言から発覚した事実をつなぎ合わせていた。ガブリエトを仔牛扱いするという発想は、ひとまず取りやめになっている。まがりなりにも人間であるガブリエトを、仔牛の厩舎に放り込むのはさすがに無理がある、と謝絶されたからだ。今は、別の事柄が気にかかっている。
「俺たちは、一つ勘違いをしていたようですね」
振り返り、城館の前に立っている夫人に言葉を連ねた。
「デイゴがフランス軍とともにこの国を去り、復讐の機会を失ったガブリエトは、自らに失望した結果、牛に心を変えた。そんな風に解釈していましたが、さっきの話を聞く限り、正しくはないようだ」
「少なくともあの牧場主に質問を重ねていた時点においては、そこまで精神の均衡を崩していなかったようですね」
かつて俺の好敵手だった闘牛士は、わざわざ牧場に出かけて闘牛用の牛に関する最新の知見を仕入れ、その後に牛へと変わった。この事実は、重大な意味合いを持つと思われる。
「ガブリエトは追い詰められて牛に変わったわけではない、何かを成し遂げるために、あえて自らを牛に変えたのでは?」
「何か、とは?」
夫人に訊かれたものの、すぐに答えが出ない。俺は空を見上げる。黄昏が残っていて、赤みがかった月だった。空は戦争なんかに汚されはしないはずなのに、三日月に血の輪郭を観てしまう。
ぶうるる、ぶうる、ぶうるる、ガブリエトが唸る。四足歩行の背中が寂しかった。
俺は適当な雑草を見つけ、一本引き抜いて振り回した。牧童になったつもりであてもなく歩く。牛になった闘牛士が後を付いてくる。
ふいに思う。このままでも、問題ないのでは?
夫人の意向を受け、謝礼目当てに奔走してきたものの、人間の心を取り戻すことが本当にガブリエトの幸せにつながるのだろうか。
この状態は、下宿に引きこもっている俺の現状と同じなんじゃないか? 夫人は、俺にもガブリエトにも闘牛士への復帰を求めている様子だが、余計なお世話というものだ。
くじけたままで、生き続ける。それもまた、人生ではないのか。
しかし、百歩譲ってそんな人生が許されるとしても、だ。
積み重ねた理屈を、俺は自ら吹き飛ばす。牛に変わったまま生きる人生は、もはや人生ですらない。
セサルの笑顔を思い出す。俺は二、三回しか会っていなかったが、あの子は幸せそうだった。幼くして父母を亡くした子供が、ほぼ他人と言っても差し支えない相手に引き取られて心安らかに暮らせる確率など、そう高くはないだろう。ガブリエトの功績だ。あいつは愛情深い男だった。愛した女の忘れ形見に対しても、恋人に対するものと遜色のない愛情を注ぎ抱きしめることができる、人間の貴重品だった。
そんなやわらかく優しい男が、闘牛場では殺意を漲らせた猛牛の前に立ちはだかり、剣でその命を吸い上げる。当時、ガブリエトを知る者は、そうした落差にも惹きつけられていた。
やはり、理不尽だ。あれほど気持ちのいい人格が、牛の心に埋もれ消えたままなんて、許されるものか。
どんな事情や意図があったとしても、人は人、牛は牛。ガブリエトにはムレータを翻し、剣を突き立てる方がふさわしい。
俺はガブリエトを連れて夫人の前まで戻ってきた。
「デイゴですが、まだスペインに留まっている可能性はありませんか」
想定外の質問だったのか、返事に少し時間がかかった。
「あり得ない、とは言い切れませんね。旧知の貴族や、戦乱の中で弱みを握った権力者がいたならば、その相手に匿ってもらえたかも。その場合、見つけ出すのは至難の業ですが」
「伯爵家のお力をもってしてもですか」
「貴族を過大評価しすぎていますよ。私は秘密警察の長官ではないのですから、捜索できる範囲は限られています」
「では、対象をマエストランサに関わりが深い貴族や有力者に絞るとしたら?」
「それなら、なんとかできるかもしれませんが……なぜマエストランサなのですか」
「あくまで推測ですので、的中してからご説明します」
その夜から一週間、俺は城館で報告を待っていた。現時点でデイゴを匿っているか、過去に匿っていた貴族や有力者が見つかったなら、事態は大きく動くかもと期待していたが、早朝にもたらされた事実は、予想を超えるものだった。
すべて、終わった後だったとは。
俺と夫人、例の召使いの三人で、馬車を駆り、とある貴族の領地へと向かう。マエストランサに多額の資金を援助しており、自身が所有する牧場の牧夫や牧童の中から優秀な闘牛士を何人も輩出している貴族のお膝元で、デイゴは匿われていたそうだ。
馬車が停まったのは、うっそうとした森林の一角にある墓地だった。ほとんどの墓碑銘が褪色して、綴りさえ読み取れない、寂しげな場所だった。突き当たりに、名の記されていない新しい墓石があり、その後ろに従者を連れた壮年の男が立っていた。挨拶を交わす。来訪に合わせて夫人が連絡を取った、領主の貴族だった。
「そちらの、新しいお墓の中に」
夫人が墓石に言及する。
「デイゴが眠っているのですね?」
領主は重々しく頷いた。
「デイゴは、この領内で面倒を見ていた男です。取り立てて優秀とも、善良とも言えない人間でしたが……妙な愛嬌があり、他国へ去った後も気にかけていました」
「デイゴは、長槍方だったのですね?」
口を挿んだ俺に、領主は気分を害した風もなく、再び頷いた。
「その通り。時流を読み損ねた長槍方だった。ペドロ君、君も長槍方出身の闘牛士なら理解しているだろうが、今の時代、騎馬闘牛しかやらないと意地を張る長槍方は、興行主や闘牛場の所有者に歓迎されない。闘牛士に転身をはかるか、騎馬と徒歩、両方を担当するか、あるいは、闘牛士の前座として槍を放つ引き立て役としての長槍方に甘んじるか……それぞれ選択を強いられる時勢だが、デイゴは長槍方としての自尊心が高く、闘牛士を見くだしていたくらいだったから、どの道も選ばなかったんだ。それでも、卓越した技量の持ち主であったならなんとかなったかもしれないが、はっきり言って、デイゴの才能はそこまでではなく、結局職にあぶれ闘牛場を去った。その後、故郷の街で立身出世を望んだらしいが上手くいかず、国を離れたようだ」
「そして侵略の尖兵として舞い戻ったわけですね。自分を評価しなかった街と、自分の仕事を奪った闘牛士に対して鬱屈した感情を抱えたままで」
「死者の気持ちは窺い知れないが、そんなところだろうね」
舞い戻った祖国で出くわした、若く美麗な闘牛士。挫折した長槍方にとって、あまりにも眩しく、妬ましい存在だったから、大事なものを奪ってやったのか。
「数年間、フランス軍の威光を笠に着たデイゴはやりたい放題だった。しかし軍は撤退、行き場を失って助けを求めてきたもので、密かにこの領地に住まわせていたんだよ。はっきり教えてはくれなかったが、フランスの方でも何かしでかしていたみたいでね、そっちにも戻れなかったらしい」
フランス軍の後ろ盾を失ってなお、自分を恨む人間が少なくないと思われるスペインに残っていたのは、そういうわけなのか。
「本題に入らせていただきます」
夫人が率直な問いを口にした。
「デイゴはガブリエトに殺されたのですね?」
領主は苦い酒を飲み干した後のような顔をした。
「簡単に説明するなら、そういう話になりますね。ただ、殺す、殺されたという表現は、あの状況を説明するにあたって適切じゃないようにも思われます。闘牛場で、牛の角にかかって命を落とした闘牛士に対して、『殺された』とは言いたくないでしょう? それと同じです。デイゴもね、ガブリエト君という牛と、『騎馬闘牛』をした結果、死んだのですよ」
しばらくの間、誰も口をきかなかった。やがて領主が億劫そうに口を開く。
「この墓地から西へ向かうと、古びた闘牛場があります。私の領内には闘牛場が二つあって、古い方は老朽化も激しく、安全面の問題から、現在ではよほどのことがない限り使っていません。デイゴは、一日の大半を古い方の闘牛場で過ごしていました。朝から馬に乗って、匿っていた家から出かけて行くんです。隠れたきりでは息もつまるでしょうし、誰もいない、日当たりのいい場所で気楽に暮らしたかったんでしょう。もちろん、彼を恨む人間は数えきれませんから、護衛を付けてはいました。
ある日、自分の屋敷で書類を整理していた私の所に、護衛の一人が飛び込んできたんです。おかしな人間が、闘牛場に入ってきたと言います。そいつは、人間なのに牛みたいに振る舞っていると」
領主は両手の人差し指で頭上に角を立ててた。
「わけもわからず駆けつけると、デイゴが、馬に乗ってガブリエト君を追い回していました。ちょっと理解に苦しむ状況でしたね。最初はいい年をした大人二人がふざけていると思ったんですが、私もデイゴに対するガブリエト君の憎悪を知っていましたから、仲良く、そんなお遊びに興じるとは思えません。でも、しばらく様子を観ている内にわかったような気分になりました、ガブリエト君の演技がですね、いや、演技ではなかったのでしょうが、本当に牛そのもので……しかも単なる闘牛の牛じゃなく、長槍方なら誰でもそそられるような、理想的な騎馬闘牛の動きをしていたんです。しばらく追いかけられていたと思うと、馬へ向かって突進を敢行する。その突進の仕方も色々で、あるときは、突進前に、首をくっ、と動かして、挑発するように頭を回したりするんですね。私も騎馬闘牛をたしなみますから、わかります。あんな理想的な仕草を見せられたら、相手が人の形をしていると承知の上で、闘りたくなってしまいますよ。
実際、デイゴは本物の槍こそ振り回しませんでしたが、練習用に備え付けてあった、長槍と同じ寸法の棒を操って、ガブリエト君をあちこち打ち据えていました。その表情は、本当に楽しそうでしたよ。あのときデイゴは、本物の牛を観ていたんじゃないかなあ」
俺はガブリエトの背中に残っていた斑点を思い出していた。あれが棒で突かれた痕跡だったとすれば、デイゴは、かなりの激しさで攻め立てていたことになる。
「私の目の前に展開されているのは、理想の騎馬闘牛でした――牛が人間である点を除けば、ですが――あれは、本当に不思議な光景でした。幻想が目の前に現れたような奇妙な場面でした。でも、現実が死を連れてきたんです。何度目だったか、馬がガブリエト君の背後に回ろうとした瞬間、牛だったはずのガブリエト君が、出し抜けに右手を伸ばして、デイゴの棒をつかんだのです。
デイゴは、ぽかんとしていました。私も驚きました。人間がものをつかむのは当たりまえなのに、本当にあり得ないものを見た気分だった。だからデイゴは、棒から手を離すことを忘れていたんでしょうね。つかんだ棒を、ガブリエト君は、馬が回り込もうとするのと同じ方向に振り回しました。つまり、馬の速度の上に、ガブリエト君の膂力が重なる形になって、棒を持ったままのデイゴの体は、鞍から浮きあがりました。そしてそのまま宙を飛び、柵を突き破って防壁にぶつかったんです」
領主は墓石を見下ろした。
「護衛がすぐに駆け寄りましたが、すでに事切れていました。首が折れ曲がっていたんです」
それだけです、と領主は締めくくった。
「気づくと、ガブリエト君の姿はどこにも見当たりませんでした」
俺たちはクレスタ伯爵家の闘牛場に戻っていた。闘牛場の奥には、牛を待機させるための広い部屋があり、ガブリエトは普段、その中に「飼われて」いる。
ガブリエトを眺める夫人の目に、失望が見える。何が起こったのか、明らかになった時点で呪いが解けるかもと期待したのだろう。俺も同感だった。
「ペドロ、あなたは一週間前の時点であらましを把握していたようですが」
胸中を悟られたくないのか、視線が鋭くなった。
「なぜわかったのですか? デイゴが元・長槍方で、ガブリエトはデイゴを殺害するために心を牛に変えたのだと。すでにデイゴが殺されていたと」
「そこまでは買いかぶりですよ。俺が推測できたのは前半部分だけで、もう復讐が完了していたとまでは考えもしませんでした」
「その部分だけでも、私は予想もできませんでした。わざわざあんな殺し方をするために自分の心を殺し、牛に変わるなどと」
「なぜ牛なのか、が最初の疑問でした」
俺は一週間前の己を振り返る。自分が何を感じ、どのように結論を導いたのかを顧みることは、案外新鮮な経験かもしれなかった。
「ガブリエトを診察した医者連中は、あいつが失望の余り自分を動物に貶めた、人としての誇りを失った結果、人ではない、別の生き物を選んだ、と解釈したみたいですが……俺が引っかかったのは、それが牛だったところです。なぜなら俺たち闘牛士にとって、牛は貶めたり侮蔑したりする対象とはほど遠い存在だからです」
「言われてみれば、そうですね」
夫人は目を瞬いた。
当たり前の話だが、闘牛は牛なくして成り立たない。人と闘うために選別と訓練を繰り返し、大変な労力の果てに生み出された闘牛用の牛は、人生でたった一度の晴れ舞台を迎えた後、命を落とす。その牛に対して、俺たち闘牛士はある種の愛着と尊敬の念を抱いている。対峙した猛牛の目に、人間のそれを超えた激情や静謐さ、場合によっては神々しさを感じたことだって、一度や二度ではなかった。
「だから、自分を貶めたかったのなら、牛に変わるのはおかしいと考えていました。そして牧場主の話を訊いた結果、ガブリエトは何かをするためにあえて牛に変わったのだと確信を抱いた。では、その何かとは? そもそもガブリエトは、デイゴを絶対に許さない、最も屈辱的な方法で死に追いやってやる、と息巻いていたそうですね。だったらガブリエトは、デイゴに最も屈辱的な死を与えるために牛に変わった、と解釈するのが自然だ」
「牛に殺されることが屈辱ですか?」
夫人が疑念を挿んでくる。
「毎年のように、どこかの闘牛場で闘牛士が不運な死を迎えています。彼らの死を嘆く向きさえあっても、不名誉と詰る声など聞こえませんが」
「闘牛士にとっては、たしかにそうです。牛より耐久力も速力も劣る人間が、生身の身体と剣、そしてムレータだけで立ち向かうのですから、その死も不名誉とは見なされない。でも、デイゴは長槍方なんですよ」
「なるほど、私としたことが失念しておりました」
闘牛に深く関わる貴族として口惜しいのか、夫人は唇を噛んだ。
「騎馬闘牛で馬にまたがって牛と対峙する場合、牛の強烈な突進や角に晒されるのは馬の方。場合によっては、人間より先に、馬の判断で回避もしてくれる。徒歩の闘牛に比べると、安全性ははるかに高い。騎馬闘牛の死亡事例も皆無ではありませんが、騎馬で牛に敗れ落命したなら、不注意、未熟の誹りは免れ得ませんね」
「さらにいえば、ガブリエトは本物の牛ではない、人間ですからね」
俺は当たり前の事実を口にした。
「牛のふりをした人間に惑わされ、夢中になって馬で追いかけ、棒でつつき回したあげく、隙を突かれて命を落とした。これは、長槍方にとってごまかしようがない失態です。あちらの領主様が、デイゴの死を公表しなかったのもそれが理由でしょうね。ただでさえ売国奴として嫌われているデイゴに対して、さらに不名誉を塗り重ねたくなかったんだ」
しばらく沈黙していた夫人は、ふいにやわらかい表情を見せた。視線の先に、四つん這いで飼料を舐めるガブリエトがいる(さすがに人間用の食物を混ぜてある)。
「闘牛士という人種は、なんとまあ、非効率な復讐をするものかしら」
それから深々と息を吐いた。
「でも、戻りませんね。復讐の武器にするため、自分の心を牛に変えた。人の心を取り戻したのは、デイゴの棒をつかみ、振り回した一瞬だけだったのかしら。今後も治らないのかしら」
「いいや、治して見せますよ」
俺は断言する。俺の現在と、ガブリエトの現在。どちらもこのままでいいはずがないと、ようやく信じられそうになったからだ。
ざっ、ざっ、ざあっ。
円形の闘牛場、その中央に立ち、俺は砂煙を眺めている。砂を弾き、牛がこちらへ駆けてくる。
一八一五年。スペイン北西部の闘牛場。
俺はムレータを翻す。きらびやかな衣装も身に着けている。数年ぶりの牛を相手にするパセは、はじめて徒歩で闘牛場へ立ったときのように戦慄を伴うものだった。萎縮するな、油断するな……自分に言い聞かせながら、五度目のパセと同時に剣を牛へと突き立てる。
猛牛は倒れ、歓声が湧き上がる。
(帰ってきたぞ。この場所に帰ってきた)
両手を挙げ、声援に応えながら、俺は闘牛場の北側を気にかけていた。その先の通路から、ガブリエトが顔を覗かせている。好敵手の心は、まだ戻ってこない。今も、通路の柱に係留されている。
胸いっぱいに息を吸い込み、俺は叫んだ。
「デイゴを知っているか? 闘牛士・ガブリエトの愛息を死に追いやった薄汚い売国奴だ! 勝利を機に、告白する。あの男は、俺が殺した! 戦火に紛れて、頭をかち割り、川に流してやった!」
ガブリエトを引き戻すためにはどうしたらいいか? 俺が選んだのは、あいつの誇りを横取りする方法だった。
伯爵夫人に依頼して、数日前から俺がデイゴを殺したという噂を流してもらっている。デイゴは悪辣な男だったが、社会から孤立していたわけではない。この国に舞い戻ってからは、フランス軍の威光を借りつつも、自分の勢力を作り上げようとしていたはずで、デイゴに恩義を感じていた人間もいただろう。荒事を任せるために集めた連中も少なくなかったと思われる。
そいつらが、この嘘を信じたとき、どう動くか。この闘牛場から、噂は本当だと公言した俺を無事に帰そうとするだろうか? 一人くらいは、俺の心臓を狙ってきてもおかしくない。
ガブリエト、そのとき、お前はよだれを垂らして傍観しているのか? 技を競い合ったこの俺が、お前の誇りを奪ったあげく、死を迎えることを許容するか?
「恐ろしくないのですか」
噂を流して欲しいと頼んだとき、夫人に訊かれた。大丈夫です。闘牛場の中なら、俺は恐怖に浸されませんと答えた。
闘牛士にとって、勇気とは様々な意味合いを持つのだろう。
闘牛場で見せる勇気を、戦場に持ち出すことができる闘牛士もいる。そうではないやつもいる。俺は後者だった、それだけの話だ。おそらくガブリエトも同類なのだろう。闘牛場の中でしか勇気を発揮できない人間が長槍方を殺そうと考えた場合、牛になるしか方法はなかったのだから。
いずれにしても、好き好んで猛牛と顔を突き合わせ、命のやりとりをしたがる人間は少ない。戦場で命を懸けた連中も、日常の中で、必要がない勇気を振り絞りたいわけではないのだろう。靴屋も牛乳屋の女将も、だからこそ俺の蛮勇を見たがってくれるのだ。
観客に愛想を振りまきながら、俺は死の恐怖と戦い続けている。牛との闘いで研ぎ澄まされた全神経が、普段とは違う違和感を覚えている。俺を狙っているのは常連客か、それとも見覚えのない外国人か? ひりひりとした緊張感が身を焦がす。一人、興奮冷めやらぬ様子の男が観客席を駆け下り、柵と防壁の前まで迫ってきた。見慣れた光景だ。だが、その目的は、俺に握手を求めることか?
男の手に、銀色の輝きを見つけた。ふいに冷静な顔立ちに変わった男が、無造作に見える投げ方で、ナイフを放った。
俺は身をよじる。ナイフは脇腹を掠め、アレーナに突き立った。男を睨む。刺客は二投目のナイフを構えた。
ざっ、ざっ、ざあっ。
俺は笑う。砂の上を走る音が聞こえた後、四足歩行の人間が、俺と刺客の間を遮った。
俺は祈った。そいつの足が、二本に減ってくれることを。