ざっ、ざっ、ざあっ。
円形の闘牛場、その中央に立ち、俺は砂煙を眺めている。闘牛場の北側から立ち上る砂は、風に乗って、獣の息づかいも連れてくる。
一八〇七年。スペイン北西部の闘牛場。
砂粒を弾き飛ばすような勢いで前脚を大地に打ち据え、こちらへ近づいてきたのは、黒く敏捷なアンダルシア牡牛だ。背中に数本の銛が突き刺さっており、肩には長槍も生えている。突進を損なわないぎりぎりの精密さで傷を負わされた獣の瞳は、遠目にも敵愾心と獰猛さに満ちあふれている。四つの蹄が小気味のいい調子で大地を叩き、危険な生き物は、さらに加速する。
狙いは当然、正面に立つ闘牛士――この俺だ。左手にはムレータ(闘牛用の支柱が付いた布)、右手に剣。チャケティーリヤ(上着)とタレギーリヤ(ズボン)には流行の刺繍が施され、腰帯も革靴も磨き込まれてぴかぴかだ。観客の視線を一身に浴び、自分が、世界中から選ばれたただ一人の英雄であるかのような高揚感に包まれている。
一方で、危うさも理解していた。一瞬の判断違いが、一手の遅れが死を招く舞台に立っているのだ。厄介なのは、牛の突進をただ避ける見せものではないということ。豪胆さを演じなければいけない。命知らずを愉しんでもらいたい。大事な人生を紙切れみたいに放り投げ、猛牛の角に貫かれる寸前で取り返し、なんでもなかったように笑って見せる。観客を酔わせ、賞金をつり上げてくれるのは、そうした蛮勇なのだ。
左手のムレータは、表を赤、裏を黄色に塗り分けてある。興奮を誘うという赤色を、あえて猛牛に見せる。同時に胸元で剣の束を握り、切っ先を空に向ける。牛を仕留める直前まで、模造剣を使う闘牛士もいるようだが、俺は、最初から真剣を持つことで緊張感を保ちたかった。
砲弾を思わせる勢いで獣が押し寄せる。正面に立ったまま、俺は動かない。観客の幾人かが悲鳴を漏らしたが、俺は動かない。さらに猛牛が近づく。俺は動かない。鼻息が顔にかかり、肉と肉が激突する半瞬前に、俺は身を翻すが最後まで立ち位置は変えず、両足を揃えたまま全身を右へ半転させる。必要最小限の動作で、猛牛の角をかわした。ムレータは、水遊びから帰った子供を拭ってやるような優しさで牛の頭部から背中を撫でさする。
歓声が上がる。可能な限り余分な動作を排除すると、観客席からは突進する猛牛が俺の身体をすり抜けるように見えるらしい。この技を習得しているのは、俺と、好敵手のガブリエトのみ。
肩を竦めておどけて見せた後で、俺はムレータを整え、赤色の面を走り去った猛牛へと向ける。興奮冷めやらない黒い暴力は、再び俺の方へ。またムレータが牡牛を撫でる。三度目に襲い来るまでの数秒間、この程度は余裕だと観客に笑顔を向けながら、内心では気を引き締めていた。慣れは油断を招く。事故が発生するのは初回のパセ(牛にムレータをくぐらせる動作)よりも二度目以降だ。
五度目のパセ。ふいに猛牛の突進が速度を増した。ムレータの繊維が千切れ、赤と黄色が風に舞い散った。偶然の演出を活かすため、次のパセで仕留めることにする。
牛がこちらへ戻ってきた。高まった集中力が、一秒を数十倍に引き延ばす。パセの一瞬、ずっと胸元に構えていた剣で猛牛のうなじを狙う。正確にはうなじの少し後ろ、波立つ筋肉の中に黒毛が渦を巻く部位があり、その下が急所だ。身を回しながら、切っ先を下へ向ける。今回に限り、反転ではなく一回転して、右手の剣を牛の背後へ回す。刺すというより落とすような動作で突き立てる。
大抵の闘牛士には真似できない早業だ。
ムレータを通り過ぎた猛牛は、よたよたと四足を震わせ、どう、と横倒れになった。
早業を目の当たりにして、大歓声が巻き起こる。
俺は四方を見回し手を振る。
太陽が眩しい。金色の刺繍が栄光に輝いている。
きらきらと着飾る闘牛士どもはまるで貴族のようにおごり高ぶっている、と揶揄する向きもあるようだが、知ったことか。うなり声を発して襲い来る死の風をすり抜け、刃を突き立てる冒険を生業にしている俺たち闘牛士は、決着の瞬間、国王の気位さえ見くだしている。
なんて美しいのだろう。生死の境目で輝く生命。鍛え上げた肉体から放つ妙技。喝采を浴びるこの俺――
(こいつは夢なんだな)
陶酔を一歩後ろで眺めている視線に気づいた俺は、次の瞬間、その視点に吸い込まれてしまった。冷めた眼差しも、俺自身だった。
気づけば猛牛も観客も存在しない、空っぽの闘牛場に立ち尽くしている。挫折した闘牛士である俺の栄光が、灰のように流れて消えていく。
夕日の中、戸口を叩く音で目が覚めた。一八一五年八月の午後、俺はむし暑い下宿で惰眠をむさぼっていた。
「ペドロさん、ペドロさん」扉の向こうで女将が騒いでいる。
「ペドロさん、お仕事の依頼です。腕のいい闘牛士を探しているという……」
「その手の話はずっと断っている」
汗に濡れた寝台の上で俺は呻いた。
「頼んであるだろう? 今後は追い返してくれって」
いらいらと髪を掻いたとき、
「でも、今日いらしているのはお知り合いだそうで。クレスタ伯爵の奥方と名乗っておられます老婦人です」
眠気が一気に覚めた。
「夫人本人がいらっしゃっているのか?」
「はい。そうでなかったら会ってくれないだろうって」
俺は寝台から足を下ろし、来客に待っていただくよう女将に伝えてから、最低限の身だしなみを整える。鏡に映る無精髭まみれの三十五歳は、闘牛場の英雄だった頃に比べると明らかに衰えていた。瞳は頼りなく、肌も弛んでいる。
戸口を出ると、女将が通りに停まっている馬車を指さした。
座席部の扉が開き、クレスタ伯爵夫人が姿を見せる。歳は今年で七十ちょうど。小柄だが、不釣り合いに思われるくらい眼光が鋭い。抜け目のない眼差し、とでも評すべきだろうか。この夫人の経営する牧場で俺は生まれ育ち、闘牛士として身を立てた。
ほんの数十年前まで、スペインにおいて闘牛と言えば自らの足で闘牛場に立ち、剣を使うものではなく、馬上の騎士が手槍を振りかざす形式だった。
十七世紀から十八世紀にかけて国内各地で貴族の乗馬訓練を目的にしたマエストランサという団体が設立されており、この機関で育成された乗り手たちが闘牛を好んだからだ。彼らの乗りこなすアンダルシア馬は敏捷で小回りがきいたため、縦横無尽に闘牛場を駆け回る戦いにうってつけだった。
時代が下るにつれて、騎馬闘牛は、手槍より長槍を使った戦い方に変遷を遂げる。
マエストランサが培った乗馬・闘牛の技術は貴族だけではなく、その地の郷士や牛飼いたちにも伝授されていた。彼らは手槍を扱う貴族の補助役として長槍を与えられ、長槍方と呼ばれるようになる。貴族の闘牛士の数は限られており、年月を経た結果、騎馬闘牛の主流はこの長槍方へと変わったのだ。高名な長槍方の人気はすごいもので、ホセ・ダサという長槍方は常にご婦人の追っかけに囲まれていた。またフェルナンド・デル・トロは、我が国最高の画家として名高い宮廷画家、ゴヤの筆に描かれるという栄誉に浴している。
この俺も、牛飼いから身を立てた長槍方の一人だった。しかし、一人前になった頃には長槍方の隆盛は過去のものとなり、闘牛は、徒歩の闘牛士を主流とする形式が確立されつつあった。
とある祝祭で開かれる闘牛に招かれた際、俺は主催者から、馬上で槍を振るった後、鞍を降りて徒歩で戦うという趣向を試してもらいたいと頼まれた。軽い気持ちで応じた俺は、今後は騎馬闘牛が徒歩の闘牛にとって代わられるだろうと理解した。
緊張感がまるで違ったのだ。
騎馬闘牛は、馬上にあるわけだから、猛牛の突撃に対する危険性は馬と人間で分かち合う。より正確に言えば、牛と同じ目線にいる馬の方が、角に貫かれる危険性は高い。人間は、落馬でもしない限り貫かれたり、吹き飛ばされたりする心配はない。
徒歩の闘牛にあっては、すべての危険が自分一人に降り注ぐ。大地に足を置き、はじめて猛牛に相対したとき、本当に恐ろしかった。同時に、たまらなく魅力的だった。「狩り」の要素を多分に含んでいた騎馬闘牛と、一対一の「決闘」とも言える徒歩の闘牛はまるで別ものであるように思われた。
どちらが上等で、どちらが正しいというものではないのだろう。ただ、俺はより危険な闘牛に惹きつけられた。それだけだ。
ムレータをかざし、襲い来る猛牛を紙一重の距離で回避して、刃を突き立てる。自分の命を危険に晒し、次の瞬間、その危険に打ち勝つ。それを成し遂げた俺は、自分が世界一勇敢で偉大な人間であるかのように酔いしれていた。
すべて、まやかしだったが。
馬車の片隅に腰を下ろし、俺は流れ去る窓の風景を眺めている。向かい側の座席にはクレスタ伯爵夫人が腰掛け、隣の召使いからワインの杯を受け取っていた。俺も、すでに一杯頂いていた。ここまでの上物は久しぶりだ。
「もう八年以上も闘牛場から遠ざかっているそうね」
おもむろに夫人が言った。
「どうして引退したの?」
昔からこの人は、ぶしつけな質問をためらいもしない。
「死ぬのが怖くなったからですよ」
俺はぞんざいな説明でやり過ごそうとした。
「皆、そう言うわ。けれども、最後にはまた戻ってきてしまう。これから会ってもらう一頭の牛が、きっかけになってくれたら嬉しいのですけれど」
「おそらく、無理でしょうね」
俺は正直な見解を口にした。たとえ待ち構えているのが世界最強の牡牛だったとしても、復帰するつもりにはならないだろう。
「闘牛士は、闘牛場でこそ輝くものよ」
夫人は諭すように語りかけてくる。
「あなたの勇気が、闘牛場の外で発揮されなかったとしても、それは恥ずべきことでもなんでもない」
「知ってるんじゃないですか」
舌打ちをする。旧知の気安さと甘えが漏れ出している。
「そういう考えもあるでしょうが、俺は耐えられなかったんです。この国を荒らし回ったフランスの兵隊共が、本当に憎らしかった。それなのに、銃を握るとすくみあがっちまって、牛みたいに突撃できなかった」
一八〇八年から数年間、スペインはコルシカ生まれのフランス皇帝の軍隊に蹂躙された。成り上がりものの英雄・ナポレオンは、この国を支配していたブルボン家の王を追い出し、代わりに自分の兄を国王に据えたのだ。
べつに、ブルボン家の王に敬意を抱いていたわけじゃない。それでもよそ者に好き勝手されるのは我慢がならない。素朴な言葉に置き換えると、おそらくそんな感情からスペインの民衆は立ち上がり、義勇兵として武器を取った。やがてナポレオンの対抗勢力であるイギリス軍もこの地を訪れ、フランス軍の支配体制を打ち砕いた。ナポレオンの兄、ホセ一世も去った。
この戦いに、俺は参加しなかった。正確には、できなかった。
戦場で、銃弾に身を晒すことが怖かったからだ。
思いもよらない軟弱さだった。そのときまで、俺は自分がスペインでも有数の勇者だと信じて疑わなかった。さすがに世界で一番勇猛な人間だとまでは思っていなかったが、兵隊としても、それなり以上の働きができると思い込んでいた。この時点で長槍方として三年、マタドールとして八年、闘牛場に立ち、数多の猛牛を地に這わせていたのだから、うぬぼれるのも当然だった。
それなのに、マスケット銃の掃射音を耳にすると足がすくみ身体が震え、戦場へ突進できなかった。
結局、フランス軍がこの地を去るまで、俺は戦火を避けながらシーツを被って震えていただけだった。そういう人間を軽蔑するわけではない。統計を取ったなら、この戦争で戦わなかった人間の方が多いくらいだろう。それでも俺は、俺自身も銃を握らなかった一人だったという事実に耐えられなかった。戦火が収まり、闘牛が再開されても、闘牛場に足を向ける気持ちになれなかった。
「繰り返すけど、気に病むことではない」
夫人はしっかりした声でたたみかける。
「恐怖とは様々な色合いに分かれているものよ。断崖絶壁を駆け下りることができる達人でも、毛虫を怖がるかもしれない。千人を斬り伏せた剣闘士でも、夜、灯りを消して寝られないとしてもおかしくはない。ペドロ、あなたは闘牛場に立つときの勇気だけを考えていたらいい」
俺は答えなかった。同じような慰めを闘牛場の常連客が聞かせてくれたけれど、無意味だった。
靴屋のパウロは、義勇兵としてスペイン各地の激戦地を渡り歩いたが、かすり傷一つ負うことなく生還した。
牛乳屋の女将は、義勇軍の重要拠点が陥落寸前だったとき、砲手を失った砲台へ向かい、弾込めと発射を一人でやってのけた。
あいつらは口々に言う。ペドロ、また闘牛を見せてくれよ、と。
だが、どの面下げて、見せられるというのだろう。
わかっている。この考えは、おそらく独りよがりなものだ。首都マドリードを拠点に、俺の数十倍以上稼いでいる人気の闘牛士などは、国情がきなくさくなってきた時点で国を出て、戦争が下火になってから帰ってきた。そして、しれっとした顔で闘牛を続けている。それに対して、非難の声は聞こえてこない。
反対に、戦争中、義勇兵として存分に戦った闘牛士も知っている。この男はこの男で、戦争終結後は何事もなかったように復帰して、戦歴を誇りもしない。
皆、闘牛は闘牛、戦争は戦争という考えなのだろう。それでも俺は、割り切ることが難しい。闘牛場でマタドールが示す勇気は、あらゆる勇猛さの中でも最高峰でなければいけないと信じているからだ。牛は平気だが、戦争は恐ろしい。そんな勇気が、最高のものであるはずがない。
車内は、しばらく無言だった。道のりから察する限り、馬車は国境付近にあるクレスタ伯爵家の領地へ向かっているようだ。
「どうしてもやりたくないと言うのなら、仕方がありません。それでもペドロ、あなたに牛を見てもらいたいの」
とても特別な牛なのだと夫人は囁いた。
「その子の相手を、あなたに任せたいと思っていました」
そう言われても、闘牛をやるつもりはない。生業として続けるという意味ではなく、一度だけの復帰さえ勘弁してもらいたかった。
「……特別な牛、ですか。まさか牛頭人身のミノタウロスでも見つかったんじゃないでしょうね」
はぐらかすため、俺は軽口を叩いたつもりだった。
ところが夫人は、真面目そのものの顔で言った。
「ある意味では、ミノタウロスより稀少な牛かもしれないわね」
馬車を降りる。辺りはすっかり闇に覆われていた。俺と夫人、その召使いの三人で向かう先は、篝火に囲まれたクレスタ伯爵家の闘牛場だ。
懐かしい。ここはこの地方のマエストランサに活用されている闘牛場で、俺も幾度となく、馬上で槍を振るった。
「少々お待ちください」
召使いが小走りで入口へ飛び込んでいき、すぐに戻ってきた。
「すでに中にいらっしゃいます」
召使いが夫人に伝えた言葉に違和感を持った。牛に、敬語を使うか?
「特別な牛とやらは、どこかの貴族様が連れてきているのですか」
訊くと、夫人は意味ありげに目を細める。
「中に入れば、すぐにわかる」
三人で入口をくぐる。一般的に闘牛が開催される闘牛場は、アレーナと呼ばれる砂が敷かれた円形の領域を柵と防壁が囲む形状で、防壁のさらに外側を階段状の座席が取り巻いている。牛の囲い場や、闘牛士などを待機させておく建物も隣接しているため、闘牛場自体は完全な円ではない。階段席の中途辺りと一階に十数カ所の入口が設けられており、俺たちがくぐったのは一階の入口だった。
正面を進むと、防壁と柵の先にアレーナが見える。特別な牛とやらは見当たらない。位置が悪いのかと、階段を少し登る。ふいに、そいつが目に入った。
視線が合う。次の瞬間、その生き物は低く唸った。
「こいつは、何の冗談ですかね」
俺は笑顔を作ろうとして失敗した。
アレーナで待ち受けていたのは、アンダルシア牛ではない。こちらを警戒してうなり声を上げ、地面を引っ掻いて砂煙を起こす振る舞いは闘牛の牛そのものだったが、牛ではない。れっきとした人間だった。
そいつはガブリエト。闘牛の技を競い合い、磨き合った好敵手だった。
「おい、おい、ガブリエト。久しぶりだなあ」
柵と防壁を乗り越え、俺はアレーナへ駆け下りる。闘牛場を去ってから、同業者とほとんど交流していない。すっぱり縁を切るべきだと固めた決意が、懐かしい顔に溶かされてしまう。酌み交わした酒の香りまで蘇るかのようだ。
ガブリエトと俺は、縄張りにしている闘牛場の範囲がわずかしか重なっていないため、顔を合わせる機会こそ少なかったが、スペイン北西部で興行収入の一、二位を争う闘牛士であったため、常に対抗意識を抱いていた。しかし俺の方が闘牛から遠のいてしまったため、相手の現況を把握していなかった。
こんな有様、想像できるはずもない。
ざっ、ざっ、ざあっ。
一歳年下の好敵手は、四つん這いで顔をこちらに向け、両手両足で砂を掻いている。ほとんど裸に近い格好だった。上半身は剥き出しで、下半身は腰の周囲にだけボロ布が張り付いている。背中のところどころに、かさぶたとあざの中間のような、紫色の斑点が並んでいた。アレーナにいたのだから当然だったが、顔も全身も砂まみれ汗まみれ。
「何やってんだガブリエト。服とか、着ろよ」
近寄っていくと、背中から鋭い声が響いた。
「危ない」
夫人の警告と、ガブリエトの突進はほぼ同時だった。まるで生まれたときから四足歩行をしていたような速度で迫ってくる。咄嗟に身をよじった俺は、現役時代のように、すんでのところで回避に成功した。アレーナの反対側で突進を止め、こちらを振り返ったガブリエトの目は、完全に人間らしさを失っていた。
「その子と一緒にアレーナに立つときは、人間を相手にしていると思わないこと」
夫人が教えてくれる。
「肉体は変えようがありませんから本物の牛には及びませんが、その子の突進にはくれぐれも油断しないでください」
「なんなんです。こいつの身に何が起こったんですか」
柵をよじ登りながら俺は言った。国境に近い街で闘牛士として名を馳せていた好敵手と、最後に顔を合わせたのは八年前だった。小柄だが、流麗なムレータの扱い方と甘い顔立ちで、ご婦人の観客数増加に貢献していると聞いていた。
俺が階段の近くに戻ってくるまで待ってから、夫人は続きを語った。ガブリエトはこちらへ興味を失ったのか、アレーナに横たわっている。
一瞬のやりとりだけで確信できる。これは余興でも冗談でもない。ガブリエトは牛に成り果てていた。
「ガブリエトに、息子がいたのはご存じですか」
「養子ですよね。あいつの恋人だった女の一粒種で、セサルという名前だった」
セサルの話になると、俺はガブリエトのお人よしぶりに苦笑を漏らしてしまう。あいつが惚れた女は、亡くなった亭主との間に生まれた子供を、女手一つで育てていた。女は、ガブリエトが結婚を申し込んでから間もなく、流行り病で命を落とした。残された子供を、ガブリエトは施設へ放り込むでも親戚に押しつけるでもなく、自分の子供のようにかわいがっていた。なかなかできることじゃない。
「ガブリエトの住んでいた街がフランス軍に占領されたとき、その子は殺されてしまったそうです」
「フランスの兵隊にですか」
「おおまかに言えばフランス軍。詳しく説明するなら、フランス軍に協力したスペイン人に殺されました」
夫人は蔑むように嘆息した。
「どんな侵略戦争にも、他国の風土に不慣れな侵略者たちに媚びを売り、様々な便宜を図ることで信用を得ようとするふとどき者はつきものです。ガブリエトが暮らしていた街に、フランス軍と一緒に現れたのは、デイゴという名の中年男でした。私は一度だけ見かけましたが、下卑た顔つきの割に、馬の扱いが巧みな男です。その街の顔役にのし上がろうとしていたらしいのですが、故国で大成できなかったためにフランスへ旅立ち、侵略戦争の折に、地元の案内や通訳、有力者との折衝をするという名目でフランス軍にくっついてきたそうです」
生まれ故郷でくすぶっていた人間が、巨大な後ろ盾を得て舞い戻った。そこで出会ったのは、大勢のご婦人に囲まれた美形の闘牛士。何が起こったのかは容易に想像がついた。
「ガブリエトは目の仇にされたわけだ。そのデイゴって野郎に」
「詳細はわかりません」
夫人は祈るように目を閉じ、すぐに開いた。
「ただ、親しい人間が目の当たりにした状況だけを説明すると、ある日の夕方、夕飯の材料を買い付けに出ていたセサルに、デイゴが何か話しかけ、彼を怒らせたそうです。おそらく亡き両親か、ガブリエトのことを侮辱されたのでしょうか、セサルは子供とは思えない勢いで食って掛かり、デイゴは大人げなく拳銃を抜いた。狙ったのか、脅すつもりが手元を狂わせたのかはわかりませんが、首を撃たれたセサルはあっけなく命を落とし、その死は銃の暴発事故として処理された」
俺は言葉を失う。セサルは屈託のない笑顔を見せる子供だった。
「ガブリエトの嘆きは大変なもので、まだフランス軍の占領下だった時期にも拘わらず、デイゴを絶対に許さない、最も屈辱的な方法で死に追いやってやる、と広言して憚らなかったそうです。義勇軍に志願することはなく、個人的にデイゴを付け狙っていたらしいのですが、その誓いは果たせなかったようで、フランス軍の敗退とともに、デイゴは街から消えました。それからしばらく経って、街の外れであの状態になったガブリエトが見つかりました。親族も、雇用主も扱いに困って、私に救いを求めてきたのです。それ以降、私の領地で預かっています」
一通り事情は説明してもらったものの、不可解さは解消されなかった。
「あれは一体、どういう状態なんですか? ガブリエトは、なんで自分のことを牛だと思い込んでいるんです」
アレーナに視線を戻す。四足で立つガブリエトは、何もない空間に向かって唸っている。
「学派も出身大学も異なる二十人のお医者様に診断してもらいましたが、どの医師も、正確な理由と対処方法は断言できない、という見立てでした。ただ、彼らの言い分を総合すると、ガブリエトは生きながらにして、自分の心を殺してしまったのではないかと」
心を、殺す? 実感しづらい理屈だった。
「息子を失い、復讐を誓ったものの、仇を取り逃がしてしまった。自分は子供一人守れない人間であり、仇を刃で刺し貫く実行力も持ち合わせていなかった。その後悔がガブリエトを追い詰めて、自分なんて人間じゃない方がいい、と心の有様を変えてしまったという解釈です」
なるほど。何か引っかかりも感じるものの、理解できない理屈ではない。
「そうして人の心が死んだ後、代わりに宿ったのが牛の心だったわけです」
「どうして牛なんですか」
「その辺りは、どのお医者様も首を傾げていらっしゃいましたが……人としての誇りを失った結果、人ではない、別の生き物を選んだのかもしれません」
たしかに俺たちにとって、最も身近な生き物と言えば牛だ。空っぽの心に牛が入り込んできたという発想は、頷けないわけではなかった。
「治す方法は?」
絶望的な問いかけと知りつつ、俺は訊いた。こんな状態のガブリエトが、以前のように人の言葉を話し、猛牛に立ち向かうくらいに恢復を遂げられるのかは全くわからないが、夫人が意図を持って俺を呼び出したのなら、復活への糸口は存在するとも考えられる。
ガブリエトの唯一の好敵手であった俺にしか見つけられない糸口が。
「思いついたのです。自ら人の心を殺したガブリエトに、現在、牛の心が宿っているのならば、その牛の心を殺めたらどうなるのか? と。再び人の心が生まれたりしませんか」
これまで以上に、常軌を逸した話だった。
「そこでペドロ、あなたにこの難題の解決をお願いしたいのです。もちろん、謝礼は払います」
夫人の声に少しだけ明るい調子が加わった。嫌な予感がする。
「謝礼は払います。なんとかして、ガブリエトの中にある牛の心を殺してもらえませんか?」
難題どころの騒ぎではなかった。
「その、牛の心を殺す、とはどうするおつもりなので?」
離別と失望の重なった人間が、自分で自分の心を殺すという流れはまあわかる。しかし、牛の心は? 人間の心に関する考え方が、はたして通用するものだろうか。
「牛の心が確実に終わりを迎える瞬間、それはやはり、闘牛でとどめを刺される瞬間ではないでしょうか。闘牛の他にも死に方はありますが、ガブリエトは闘牛士でしたし、牛の死に様と言えば、闘牛の最後に訪れるものと刻み込まれているかもしれません」
「人間相手に、闘牛をやれという仰せですか。とんでもない話だ」
心が牛に染まったところで、ガブリエトの肉体は人間以外の何ものでもない。闘牛に持ち込んだ場合、この生き物を仕留めるのはおそらく、可能だろう。その場合、牛の心は死ぬかもしれないが、人の肉体も死んでしまうではないか。
「私に考えがあります。あれを」
夫人は手を叩いて召使いに指示を与えた。闘牛場を出て行った召使いは、数分で一本の剣を持って戻り、夫人に手渡した。剣は、闘牛士たちが普段、闘牛で牛に使用するものと大差ない形状だ。
ところが夫人がその切っ先を座席につくと、刀身が柄の方へ沈み込み姿を消した。
「手品師が使用する短剣を、闘牛用に似せてあつらえました。これを使えばなんとかなりませんか?」