「お福は、お静の産所に半年前からいるようです。お静の元で女看病人をしているそうです」
正月四日の朝。縁側で文蔵からの報告を聞いた。杉野は寒さで綿入れ半纏の袂に両手を入れ、背中を丸めているが、文蔵は薄い羽織しか着ていないのに背筋を伸ばして立っている。白い息さえ吐いていなければ、おのれが病を得たのかと勘違いしてしまいそうだ。
お静に何も聞けなかったので、文蔵にお静の産所の周囲を聞き込みに廻らせていた。お福がいたことも伝えたので、ついでに調べてきたようだ。
「あの文の送り主は、お福が江戸に戻ってきていることを知っていたんですかねえ」
「さあな。偶々とは思えねえが」
お福のことは、終わったことだ。おれの知ったこっちゃねえ。杉野は心で、おのれに言いきかせ、話を変える。
「怪しい身重の女は居たか?」
「お静の産婆の腕は良いようで、深川のみならず、日本橋や四谷のほうからも身重の女が来るそうです。大川を越えて来る身重の女は、たいてい金持ちの細君や裕福な家の子女ですから、高い薬料を取っていたようです。かといって、貧民には、薬料をとらないこともあり、食う物にも困るような身重の女は、産所に住まわせて面倒を見ていたらしいです。みんなおのれのことに必死で、周囲の様子はてんでわからねえようです」
「やはり、直接お静に聞くしかないか」
「引き続き、聞き込みに回ってみます」
「すまねえな」
立ち去る文蔵を見ながら、杉野も腰をあげる。今日は小石川養生所へ行き、入退所した身重の女の診療記録を見る予定になっていた。
小石川養生所へ着くと、役人詰所で宇田川が診療記録を準備していた。
「退所を許した身重の女は、昨年から五人いた」
診療記録にはすでに紙片が挟んであった。紙片は几帳面に挟まれており、宇田川が調べたに違いなかった。
「見ないのか?」
「宇田川さんが調べたのなら、俺の出る幕はありませんよ」
診療録に手も伸ばさない杉野を見て、宇田川は眉間に皺をよせる。真面目な宇田川は、おのれの目でも確認しろ、と言いたげだ。
直属の上役ではないが、夜鷹殺しから何かと宇田川と仕事をする機会が増えた。宇田川は、ほとんど養生所に詰めているので、今までは顔と名前しか知らなかった。杉野の上役は、楽な仕事をしていると宇田川を揶揄することもあったが、実際に仕事ぶりを見た今では心から尊敬している。
「退所後の行方は、わかっているんですかい」
「貞森先生が、外診している。お滝を除いて、皆、無事に出産し子育てに励んでいるそうだ」
杉野は頷きながら、養生所の奥を見た。
「貞森先生はお出でで?」
「ああ、今日は病人長屋で診察をしている」
杉野は役人詰め所を出ると、一人で病人長屋へ向かった。養生所に何度も出入りして、所内の様子はすっかりわかっている。宇田川も案内はいらないとわかっているので、おのれの仕事に戻っている。
渡り廊下を進み病人長屋に入ると、貞森は女病人長屋にいた。
杉野を見ると貞森はすぐに廊下に出てきた。宇田川がすでに話をつけているはずだった。
「ご苦労様です」
貞森は頭を下げると、
「捨て子が増えていることは知っていましたが、杉野様が詮議されるまで、とは知りませんでした」
外診で市中を回っている貞森も、捨て子騒動は知っていたらしい。
「養生所を退所した身重の女たちは皆、無事に出産したとか」
「はい。皆、赤子を可愛がっております」
微笑む貞森は誇らしげだったが、どこか弱々しかった。
「申し訳ございません。杉野様のお役に立てず」
「いや、赤子たちが親元にいるのなら、それはそれで喜ばしいですぜ」
言いながら、杉野の心中は晴れなかった。
「貞森先生、深川佐賀町の町医者が、先生を訪ねて来ました」
看病中間が貞森を呼びに来る。
「お静が?」
貞森が早足で玄関に向かい、杉野も続く。土間に、お静はいなかった。代わりに今にも倒れそうなお滝を抱えた女が立っていた。
「お福」
声に出してから、しまったと思ったが、お福は杉野を見もしなかった。
「貞森先生。お滝さんをお返しに上がりました」
お福の声は怒りに満ちていて、眼は貞森を睨みつけている。
「これは、これは。よく戻って来ましたね」
貞森はお福の怒りなど歯牙にもかけないで、お滝に駆け寄った。
「先生。あたし、やっぱりこの子を産みます。そのために病を治します」
「そうか。よく決心してくれた。さあ、中へ入りなさい」
貞森は、お福に一瞥もくれないで、お滝を診療場へ連れて行く。貞森とお滝の姿が見えなくなると、お福は外へ飛び出した。杉野も後に続き、表門でお福に追いつく。
「お福、待ってくれ!」
杉野の声にお福は背を向けたまま足を止めた。
「あたしのこと、覚えていたんですか」
お福の声に胸の奥が熱くなるのを感じた。まるで、十年前の若いおのれに戻ったようだ。
「今まで、どうしていた?」
「どうもしませんよ。桔梗屋には居づらいし、名古屋から修行に来ていたお姐さんに情けをかけてもらって上前津に行き、そこで芸者になりました」
「そんな遠くまで」
振り返ったお福は、杉野を呆れた顔で見る。誰のせいだ、とでも思っているのだろう。
「なぜ、江戸に戻ってきた?」
「そりゃあ、上前津に飽きたからですよ。腐っても江戸の生まれです。やっぱり江戸が良いですよ。たとえ、会いたくないお方がいてもね」
虚虚実実だ。杉野は目を伏せた。おのれに会いたくないのは本当だろうが、上前津に飽きたから江戸に来たのなら、なぜ置屋ではなく、お静の元にいる? 聞きたかったが聞けなかった。お福は窶れていた。頬は痩け、目の下には赤黒い隈が浮かぶ。唇は青く、首には細い筋が竹林のように、いくつも伸びている。
「お滝は、なぜ養生所に戻る気になったんだ?」
代わりに、お滝の話題でお福を引き留める。
「子下しが恐ろしくなったそうです」
それは貞森が、お滝に恐怖を植え付けただけで、心から子を産みたいと思わせた訳ではない。杉野は、お福の怒りに納得した。
「お福は、子下しを手伝っているのか?」
口に出して、杉野自身が驚いた。そう聞かれて、素直に答える馬鹿はいない。案の定、お福は顔を背けると「あたしはこれで、失礼します!」と足を踏み出した。
「待て!」
思わず杉野は、お福の袖を掴み、お福が、あ、とよろめいた。杉野の身体は無意識にお福を抱き止め、胸の中にお福を抱える形になった。冷えた着物から首筋が見え、髪を撫でつける鬢付油の香りがした。あまり嗅いだことがない磯の香り。お福の髪はうねる癖があり、まとめるためにはわずかに魚油を混ぜるのだ、と悪戯を見つかった幼子のような苦笑が思い出される。お福を抱える腕に力を入れると、胸を押さえた指先に固い小石のような物が触れ、じゅわり、と何かが滲み出し杉野の掌を濡らした。
「離してください!」
お福が金切り声を上げて、杉野を振り払う。杉野が後ろによろめいた隙に、お福は振り返りもせずに駆けて行った。お福が消えた病人坂の木々を見つめながら、杉野は掌を凝視した。掌は艶めいており、わずかな腐臭がした。これは、お福の乳房から出たものだ。これは乳か? お福は最近、子を産んでいたのか? 誰の子を?
杉野の脳裏に、お静の産所の門前で見かけた奉公人風の若い男がよぎった。まさか、あいつがお福の新しい男か。
ふと我に返り、杉野は頭を振った。ただ同じ場所で見かけただけで、男とお福を結びつけるなんて、下卑た考えだ。
杉野は踵を返すと、養生所の中へ戻る。診療場にはお滝が横たわり、貞森が脈を取っていた。
「貞森先生、お滝にちょいと話を聞かせてもらえますかい」
貞森は困った顔をしたが、無言で腰を上げ、杉野を招いた。先ほどまでお静の産所にいたお滝は、またとない聞き込み先だ。
「お滝、苦しい所を悪いが、少し、お静の産所の話を聞かせてくれ」
お滝は血の気の引いた顔を、杉野に向ける。舟を使ったとしても、身重の身では道中は厳しかっただろう。緩やかに盛り上がった腹は、ぽこぽこと波打っている。母と比べ、腹の子は元気そうだ。
「産所では、子を産んだらすぐ出るのか」
お滝は息が落ち着かず、眼だけを動かした。瞬きで「そうだ」と伝えているのだろう。
「子を育てられない者もいるのではないか?」
また眼を瞬かせる。
「そういう者は子を捨てはしないか」
今度はゆっくりと首を振る。
「静先生は、子が産まれると、差配人さんを呼んで連れ帰らせていました」
息も絶え絶えに、お滝は言った。
差配人に知らせれば、子は人別帳に載る。そう簡単には子捨ては出来なくなる。子捨ての捜査は完全に行き詰った。
「お福に子はいたか?」
思わず、口に出していた。お滝は不思議そうに首を振る。
お福の産んだ子は、産所にはいない。死産か? それとも、どこかに養子に出したのか? いや、お福とおのれは、もう何の関係もないのだ。それなのに、こんなに気になるのはなぜだ。
お滝に礼を言うと、杉野は貞森に目配せして、診療場を後にした。廊下で足を止めていると、貞森もすぐにやって来た。
「診察中にすみませんね。貞森先生にも二、三、伺いたくて」
「構いませんよ。お滝さんは子下しをしないと約束してくれました。あとは私が尽力するだけですから」
言葉とは裏腹に、貞森の眼に力はなかった。お静の言葉が胸につかえているのだろうか。貞森はいつも病人一筋だった。それなのに、身体だけが目当てと言われたのだから、動揺もするだろう。けれど確かに、子下ろしの方法を聞かせるのは、貞森らしくないとも思う。
「子捨ての一件について、先生の意見も聞かせてもらえませんかねえ」
杉野は、貞森の様子は気に掛けないようにして、いつも通り片方の唇を上げた。
「一体、捨て子はどこから来たと思いますか」
「産婆を頼らず、おのれで取り上げた者でしょうか」
貞森は、見た目と同じような生気のない声で言った。
そうか、産婆を頼らずに子を産む者もいるのか。おのれ一人で産めば、秘密裏に捨てることも可能だろう。
「いや、それはねえか」
朱引き外の村ならいざ知らず、市中であれば、懐妊すれば、必ず懐妊届を差配人に出さねばならない。もし本人が隠していても、十月十日の間に必ず誰かは気づいて、差配人に知らせるはずだ。
「わからねえ」
貞森の前ということも忘れ、杉野は鬢を掻きむしった。
「杉野様は、あの女看病人とお知り合いなのですか」
貞森にぼんやりと見つめられ、杉野は舌打ちをした。
「これは失礼しました。余計な詮索を」
「いや、かまいませんよ。お福と言って十年前に別れた馴染みの女なんです」
杉野は苦笑したが、貞森の眼には微かな光が宿っていた。
「子がいたか、お尋ねでしたが」
「いや、先ほどお福と別れる時にお福が転びそうになりましてね。抱き留めたら、乳のようなものが手につきまして」
「乳のようなもの? 乳房は張っていましたか?」
「そうですねえ。石のような硬い部分はありました」
「臭いは?」
「生臭い匂いは、しましたよ」
なるほど、と貞森は呟いて、黙り込んだ。
「また身重の女が来たら、何か伺いに来るかも知れません」
杉野は貞森の返事を待たずに、養生所を後にした。
八丁堀に着く頃にはすっかり日が暮れていた。組屋敷の居間に入ると、佐奈が膳に手を付けずに待っていた。遅くなった詫びを言いながら、杉野も膳の前に座る。
「郁太郎さん、今日は良い干し魚が手に入りましたよ」
遅くなったにも拘わらず、佐奈は今日も上機嫌だ。女中に杉野の飯を山盛りにするように声掛けする。
「早く孫の顔を見せてくださいね」
一礼して飯に箸をつけながら佐奈が言う。食事中に言葉を発するなと、厳しく育てられたが、佐奈は忘れてしまったのだろうか?
「乳母の手配もしなきゃなりませんねえ」
「必要ですか?」
杉野自身にも乳母などいなかった。
「だって、大黒屋さんでは、子供たちは皆さん乳母がついていたようよ。郁太郎さんと由良さんの子だって乳母をつけなきゃ、おかしいじゃないですか」
「祝言はまだ先ですよ。子供なんてさらに先の話じゃないですか」
「あら、良い乳母は早くから見つけなきゃいけないんですよ。良い乳母はいつも取り合いですからね。だけど、最近では良い乳母を紹介する口入屋もあるって、大黒屋さんはおっしゃっていましたけどね」
普段なら、聞き流しただろうが、今は捨て子騒動を追っている最中だ。
「どこの口入屋ですか?」
「室町の万屋と聞きましたよ。でも、手配は私がしますからね」
興味を示した杉野に佐奈は嬉しそうだ。勘違いも甚だしいが、捜査に係ることだから浮かれている佐奈には勘違いしてもらったままのほうが良いだろう。
確かに、乳母は給金も良く、女に人気な仕事だ。しかし、乳母になるためには、産んだ子を何とかしなければならない。だから大抵は、子を死産した女がなる。子がいる者は雇い主が残された家族に養育費を払うが、乳が無ければ子は育たない。大抵は上手く育てられず干し殺しになる。養子に出す手もあるが、乳母働きを望む者に持参金など用意できないだろう。大名ならいざ知らず、持参金まで面倒をみる雇い主はわずかだろう。
「そうか、だから子捨てか」
乳母になるために、子捨てをする輩がいるとしたら?
杉野は飯を掻き込んだ。明日、万屋に行こう。
正月五日。出かける支度をしていると、文蔵がやって来た。
「また、これを預かりました。今度も子供ですがこの間の奴とは違うようです」
文蔵の差し出した文は、三日前と同じ楮紙に、同じ崩し文字で書かれていた。
「明日の宵、二十両を使いに渡せ。他言無用」
「書きぶりを見ると、同じ人物で間違いねえようです。差出人は、お静ですかい?」
「なぜ、そう思う?」
杉野は驚いて、文蔵に顔を向ける。
「いや、旦那の縁談は市中に知れ渡っていますが、十年も前のお福との一件を知っている者はわずかです。旦那の父上も鬼籍に入っているし、調べたところ桔梗屋の女将も呆けちまって昔のことは覚えていなかった。全てを知っているのは、お静くらいです」
文蔵が、捨文の下手人まで探っていたとは知らなかった。おのれを心配してくれたのか、それとも杉野に何かあって、岡っ引きの仕事が無くなるのを恐れたのか。文蔵は前者だろう。
「けれど、お静の産所は、金に困ってねえんじゃ?」
「中条流の子腐薬の材料は、どれも高価なものばかりのようです。お静は貧乏人からは金はとらない。金子はいくらあっても足りないはずです。下手人がお静でも、放っておくんですかい?」
文蔵の眼は、悪い芽は早めに摘め、と言っている。しかし、杉野の腰は重かった。
「ああ。相手にするほど、俺は暇じゃあねえ。それより文蔵。悪いが、この後、付き合ってくれねえか?」
杉野は、佐奈から聞いた話を文蔵に聞かせた。
「おめえがいてくれたら、鬼に金棒だ。海千山千の商売人は、すぐに人を煙に巻くからな」
文蔵は納得いかない表情を消して、承知してくれた。
室町と言えば、通りの両側に軒を連ねる越後屋が有名だが、その端に万屋の間口三間の入り口があった。店先には、奉公口入れと彫られた看板が掲げられている。間口はそこそこだが、奥に深く、会所には手代が二人いて、せわしなく動いていた。
座敷には番頭らしき型染めの着物を着た壮年の男と、女将らしき白粉を叩きすぎた中年の女が、腹の大きな女と膝を詰めていた。中年女は腹の大きな女の襟を開いて中を覗いている。
「南町奉行所の杉野だ」
杉野が声をかけると、番頭が立ち上がり座敷を下りた。
「これは、これは。お役目ご苦労様です。今日は何の御用向きで?」
「わかっているくせに。南町奉行所の杉野と言えば、蔵前小町を嫁に取る男だぞ? 乳母の算段に来たに決まっているだろう」
「これは失礼いたしました」
番頭はいやらしい愛想笑いをする。杉野を手の早い男だと思ったのだろう。思い違いに腹も立つが、ここはぐっと我慢するしかない。
「杉野様は運が良い。ちょうど、ご奉公にもってこいの者が来ております」
愛嬌のある声で、女将が杉野を座敷へ手招きする。杉野は身重の女の傍に座らされた。
近くで見ると、身重の女はまだ少女と呼んでもおかしくない年頃だった。しかし、髪は細く肌艶も悪い。
「この者は近々、出産ですが、乳房がしっかり張っています。奉公に上がってから乳が出ない、なんてこともありません。年も若いですから、しっかり食べさせれば、十分な乳を出すでしょう」
にこやかに話す女将に反吐が出そうになった。
「歳はいくつだ?」
少女に尋ねると、肩を震わせ、か細い声を出す。
「十五です」
なんと。養生所にいたお寅と一つしか違わないではないか。杉野は女将に見えないように拳を握る。掌に爪が食い込む感触がしたが、痛くはなかった。痛々しいのは、少女の薄暗い表情だ。
「腹の子はどうするのだ?」
少女は虚ろな目を番頭に向ける。
「勿論、私どもで養子を仲立ちします」
「持参金は?」
「勿論、私どもが肩代わりをします」
嘘だ。いくら乳母の給金が良いと言っても、持参金分を返さなければならないなら、本末転倒だ。
「それじゃあ、記録を見せてもらおうか」
杉野の口調が変わり、番頭と女将は顔を青ざめさせる。
「主人は今、外出中でして、私が勝手にお見せする訳には」
「かまわねえ。あとで俺から断りを入れておく」
「いや、実は乳母の斡旋は主人がやっていまして、私たちはあまり関わっていなくて」
会所の手代たちも足を止め、不安そうな顔で成り行きを見守っている。その中に、見覚えのある男がいた。お静の産所で見かけた男だ。
杉野は眼をつぶった。子捨て騒動の筋はわかった。後は裏付けを取るだけだ。
「御託は良いから、さっさと出しな」
文蔵が睨みをきかせ、番頭はしぶしぶと帳場の引き出しから、帳面を取り出した。
杉野は受け取り、親指に唾をつけ、表紙をめくった。
「長月十日、本所横網町お春、石原様。長月晦日、深川森下町お澄、亀沢様。神無月朔日、浅草田圃町お志免、金杉様」
乳母の斡旋記録だった。長月から新年まで住まいはまちまちだが、十人の名が書かれている。特筆すべきは、斡旋された日と、捨て子が見つかった日が、かなり近い。ぴたりと合う者もいる。
「養子の仲立ちの記録はどこだ?」
「ちょっとお待ちくださいよ。どこかにはあると思いますが」
番頭はわざとらしく帳場を探すふりをするが、そんなものはないのだろう。
「もういい。これを借りていくぜ」
「困ります!」
抵抗する番頭を蹴り上げ、杉野は文蔵と万屋を後にした。女将の悲鳴に似た声が聞こえたが、身重の女たちの苦しみに比べれば、屁でもないはずだ。
杉野は文蔵と本所へ向かった。横網町の名主にお春の家を聞くと、裏通りの棟割長屋の一角だった。表通りから路地木戸をくぐり裏長屋へ入ると、入り口に井戸と惣後架(共同便所)がある。ちょうど下掃除人がいて、下肥をくみ取っていた。下肥は尿が多く、わずかな糞は消し炭のようで、桔梗門の下馬所で見た、輝く馬糞と大違いだった。ここの住人は、畜生よりも貧しい暮らしをしているのだ。
差配人を訪ね、話を聞くと、お春は産所から戻ってすぐに、乳母奉公が決まり、一家で奉公先の近くに引っ越したそうだ。
他の九人の長屋も回ったが、皆、同じような貧しい棟割長屋の住人で、産所から帰ってすぐに乳母奉公が決まっていた。
「産所はどこだ?」
最後の差配人にも他の差配人と同じ質問をする。杉野の考え通り、やはり同じ場所を言った。
「へえ。深川佐賀町の静先生の産所だと申しておりました」
「あら、これは杉野様」
お静の産所に行くと、診察場に通された。お静は薬研で生薬を砕いていた。微かに苦みを帯びた鼻を衝く匂いが漂っている。お静の傍らの鉢には、御影石のような模様をした、団栗を一回り大きくした茶鼠色の実が山盛りに積まれている。
「それは、檳榔子か」
「よく、ご存じですねえ」
お静は嬉しそうに手を止めた。
「貞森先生の言う通り、これを薄荷と混ぜて水銀に塗すんですよ。この子腐薬なら、ずるずると子が下りてくるから、するんと掻き出せ、母親も多少は楽なんですよ」
お静は眼を細めて鉢を見つめる。
「高価な檳榔子が、随分、沢山あるな。さぞ、金子がかかっただろう」
「少しずつ手に入れた檳榔子が溜まっちまっただけですよ。最近、子下ろしをしていないんでねえ」
お静は、再び手を動かした。
「お福は生憎、使いに出ていますよ」
「今日はあんたに話がある」
「あらいやだ。何のお話でしょう」
ひひひ、とお静は手を止めずに笑う。
「本所横網町のお春や、深川森下町のお澄、浅草田圃町のお志免などは、ここで子を産んだそうだな」
「ああ、覚えていますよ」
「あんたは、その子たちが捨てられたのを知っていたのか」
お静の表情が強張った。にやけていないお静は、ひどく疲れているように見えた。
「室町にある口入れ屋の万屋の手代が出入りしていたな」
「あの鼠、まだ彷徨いていたのかい」
お静が、顔をゆがめて呟いた。
「差配人に引き渡した後のことなんて、知りやしませんよ」
お静は檳榔子をつまみ、顔の前で凝視する。
「ただ、育てられないなら、これを詰めろと言ったのに、みんな聞きやしなかった」
お静は檳榔子の身を薬研に放り込むと、一心不乱に薬研車を動かした。檳榔子はとても硬いようで、お静は肩をいからせている。
「なんと言われようと、あたしは医者です。生まれたからには、その命を軽んじることは許さない。育てられないなら産むべきではないし、ましてや乳のために子を産むなんて許せない。そう、馬鹿どもを叱りましたけど、無駄でしたね」
お静の声は、女たちではなく、おのれの無力さを詰っていた。
「これから、どうするんですかい」
お静の産所を出ると、外で待っていた文蔵が駆け寄ってきた。
「どうもできねえ。女たちは既に、奉公に上がっている」
乳母たちの奉公先は武家だ。町奉行所には手が出せない。上役に目をつぶらされるのは明らかだ。
「露顕しない程度に、万屋に灸を据えて、大人しくさせるのが手一杯だ」
一時しのぎでしかないが、仕方がない。この世から、貧困がなくならない限り、生きるために子を捨てる輩は出るだろう。けれど、その命だけはなんとか繋ぎ止めなくてはならない。
「文蔵、ご苦労だった。今日は仕舞だ」
「旦那はどうされるんで?」
「寄る所がある」
文蔵と別れ、本両替町へ向かおうとすると、橋の向こうから手に包みを抱えたお福がやってきた。
「お福、俺を恨んでいるかい」
橋の真ん中で、すれ違いざま杉野は言った。
「恨んでなんていやしませんよ。ただ」
お福は立ち止まって、目を伏せた。
「あの時、饅頭なんか差し上げなければ良かったとは思います」
川面には弱った鯔が漂っていた。
「そうすれば、俺との縁なんか生まれなかったからなあ」
「違います。あの日、あたしが言った言葉を覚えていますか」
「あたしたちを守ってくれてありがとう、と」
忘れるはずがない。その言葉が、杉野の定廻り同心としての意義を示してくれた。町人達を守ることが、おのれの仕事だ。
「とんだ、思い違いでした。尻の青い小娘にはそう思えましたけど、あなた様は、心は守ってくれなかった」
「心?」
「あたしは、心を守るために、江戸から逃げました。けれど、徐々に蝕まれました。だから、静先生の元に戻りました。今、あたしはやっと、健やかに生きられています」
お福は一礼すると駆け出した。杉野は、その場からしばらく動けなかった。
八丁堀に戻る頃には日が傾き出していた。組屋敷の前まで来ると、幼い少年がうろうろしている。来たな、と思った。
「探しているのは、俺かい? 杉野郁太郎だ」
突然、話しかけられ少年は飛び上がったが、すぐに手を出して来た。
「杉野様から預かり物をするように言われました」
「聞いてる。すまねえな」
杉野は懐から、帰りに買った饅頭の包みを取り出した。久しぶりに阿波屋へ行き、饅頭を八つほど買った。
少年は大事そうに受け取ると、すばしっこく走り去った。饅頭の包みに反応がない所を見ると、何を預かるかは聞いていないようだ。この少年も、文蔵の家を訪ねた少年とおなじく、頼まれただけなのだろう。
杉野は心の中で十、数えると、走り出した。八丁堀を抜けると、すぐに少年の背中が現れた。気づかれないように一定の距離を保って付いて行く。少年は何度か角を曲がり、裏長屋を抜け、掘割沿いの米蔵の前で別の少年に饅頭の包みを手渡す。
受け取った少年は、また何度か角を曲がりながら路地を抜け、永代橋の手前で別の少年に、再び饅頭の包みを渡す。少年たちは東へ東へと向かっている。西日を受けて長く伸びたおのれの影を辿ると、一番星が目に入った。行先はもう見当がついた。
案の定、三人目の少年は、永代橋を渡り深川佐賀町へ入った。佐賀稲荷の境内に入ると、社の隅に包みを置いて立ち去った。杉野は木の陰に身を隠しながら、通りを窺う。
辺りが薄暗くなると、ふらふらと生気のない足取りの男がやって来た。鳥居をくぐりきょろきょろと辺りを見回している。
「貞森先生!」
予想だにしない貞森の登場に、杉野は度肝を抜かれ飛び出した。貞森は饅頭の包みを手にすると、杉野の元へやって来た。
「阿波屋の饅頭とは、奮発しましたね。二十両の代わりにふさわしい」
貞森は疲れた顔をほころばせた。
「捨文のことを知っているんで?」
呆気にとられている杉野に、貞森は頷いた。
「お福さんに伺いました。今し方まで、お会いしていたもので」
「なぜ、貞森先生がお福と会うんですかい? お滝は戻ってきたでしょう」
「お滝のことではありません。お福さんにお会いしたかったのです」
なぜ、急に貞森がお福と会おうとしたのか。微塵も心当たりがなく、杉野は混乱した。
「いきなり、私の用向きを伝えるのも憚られたので、子捨て騒動についてお話ししました。万屋が、乳母の斡旋のために、お静の産所で貧しい身重の女を捜していたのを知っていたかと」
「貞森先生も気づいていたんですかい?」
それなら、早く教えてくれれば良いものを。
「気づいたのは、杉野様と子捨て騒動について話した後です。訳ありで子を捨てたとしても、人別帳に載った子がいなくなれば、すぐに気づかれます。子捨てした女は、元の町内には住んでいないはず。けれど、所替えをしても、町方にいる限り、人別帳に載せられますから結局、子捨ては露見します。けれど、武家で奉公していれば、町方ではわかりません。子を産んだばかりの女の奉公といえば、乳持ち奉公です。調べてみると、万屋が乳母の口入れで繁盛していると解りました。万屋に行くと、お静の産所で見かけた男が手代をしている。これで繋がりました」
杉野と同時に真相に辿りついたとは、貞森の洞察力には驚嘆するしかない。
「お福さんも、万屋のことはご存じで、今夜まとまった金子が手に入るから、もう万屋に乳を売るような身重の女はいなくなる、と申されました。万屋に良いようにさせないのは喜ばしいことですが、まとまった金子とは剣呑な話ですので、更にお伺いすると、なんと杉野様に捨文を渡していると言うではありませんか」
貞森は、夜風に身を縮こませながら、話を続ける。
「老婆心ながら、杉野様のお役目上、二十両は渡さないだろうし、万が一、追いかけてくるやもしれない、と伝えましたら、代わりに様子を見てくるように頼まれました」
貞森は、杉野を誘って近くの大石に腰を掛ける。
「お福さんは、乳持ち奉公のために子捨てをする母親たちを見て、子捨てを無くすためには母親たちを救うしかないと思ったそうです。ですから、乳母になるために子を捨てようとしていた母親たちに金子を渡してやりたかったそうです」
「一番の理由は、俺への恨みでしょう」
橋の上での邂逅が思い出される。
「それは違うでしょう。お福さんには時間がなかったのです。手っ取り早く金子を得るために、杉野様を利用するしかなかっただけです」
「時間がないとは?」
「お福さんは、乳の腫物を患っています」
風は止んだのに、杉野の背筋は凍え、肌が粟立った。それが、貞森がお福を尋ねた用向きなのか。
「確かなんですかい?」
「杉野様がお話しされた通りなら、腫物で間違いありません。乳は子を産まなければ出ませんし、吸わせなくなれば止まります。お福さんは少なくとも子に乳をやっていない。しかも、局所的に岩のようになるとしたら、腫物の可能性が高い。手についた汁も腫物から出たものでしょう」
「でも、貞森先生が診療してくれたんなら、治るんでしょう?」
「いえ、お福さんは私の診療を断られました。腫物から汁まで出ているのなら、かなり悪いと思います」
お福の、くすくす、という可憐な笑い声が、杉野の耳の中で響き渡った。再び、あの声を聞ける日は来ないのか。
杉野は膝の上で拳を握ると、貞森に頭を下げた。
「先生に、お願いがあります」
正月七日。杉野は貞森や河口と、永代橋を渡った。今日は五節句の人日で、七草粥を食べる日だ。商家や武家屋敷の門松は六日の夕方には取り払われて、往来が嫌にさっぱりしている。清々しいような寂しいような、どっちつかずの気持ちがする。
お静の産所に着くと、お静と共にお福も玄関に顔を出した。杉野を避ける顔は更に痩け、貞森の診立ては間違いないだろう。
「今度は何ですか」
お静は突然現れた三人の男たちに、うんざりしていた。
「希望があれば、この産所の全ての身重の女を小石川養生所で引き受ける」
高らかに河口が言い、お静は、顔を真っ赤に染めた。
「何、馬鹿な事を言ってんだい!」
「そもそも、貧民救済は養生所の役目だ。今までご苦労だったな、お静」
貞森は、仁王立ちでお静の前に立ち、一歩も引かない構えを取った。
「肝煎が許すはずないでしょう!」
「許可は得ている」
貞森の怯まない声に、お静は茫然としている。
「子を育てるのは親の役目だ。けれど、育てる力のない親もいる。だから子下しや子捨てをする。親を救済することが子の救済に繋がるはずだ」
杉野が言うと、お福が口を開いた。
「一体、市中に何人の身重の女がいると思っているんだい! 皆々にあまねく子を産めと? 産めない子細がある女も、ごまんと居るんですよ?」
「宿った命は、どんなことがあっても助けねばならない」
貞森の言葉には、お静が反発する。
「身体を助けたいだけの、からくり師のような医者には、誰の救済もできやしないよ!」
「する! 必ず、する!」
「また、博打かい! あんたはいつから、渡世人になったんだい!」
貞森とお静の言い合いの横で、お福の身体が大きく揺れていた。杉野が近づく前に、ゆっくりと框から崩れ落ちる。
「お福!」
叫んだ杉野より先に、貞森がお福のそばに跪き、脈を取る。
「いけない。脈が細い。治療はしていないのか? 病は知っていただろう?」
お静は忌々しそうな顔をする。
「当たり前だよ! 産科なんだから、女の身体のことは十分わかるさ。ここに来た時から、すでに手遅れだったんだよ」
「御免!」
貞森がお福の襟元を広げると、襦袢から赤黒い液体が泡のように浮き出ていた。襦袢の下の右胸には大きな薔薇が透けて見えた。
河口が息を飲む。
「お福さんも養生所に運びましょう」
貞森が河口に声をかけると、お福は身体を起こし、手で這いずった。
「嫌です。ここにいます」
「駄目だ! 誰が何と言おうと、養生所に入所させる」
杉野は叫ぶと、お福の肩を捕まえた。
「ひどい、ひと」
お福は、そう呟くと、そのまま意識を失った。杉野は抱きかかえると、貞森や河口を押しのけ、駆け出した。
杉野は毎日、養生所に通ったが、お福は七日後に、一度も目を覚ますことなく息を引き取った。
「お福と約束したんでね。看病人として働いてもらう代わりに、死んだら供養してやるって」
養生所にお福を引き取りに来たお静は、終始仏頂面だった。養生所の玄関で、杉野はお静とお福が入れられた早桶を見守った。
「これで、子どもと同じ場所で眠れるねえ」
お静は土間に置かれた早桶に話しかける。
お福は、おのれの病を知った時、産んでやれなかった我が子と同じ土地で眠るために江戸に戻ったのだ。
「俺は最期まで、お福に何もしてやれなかった」
「傍にいてやったじゃないか」
お静が、震える杉野の背中を、優しく撫でた。
「お福は嬉しかったはずだよ。あんたが傍にいてくれて」
「そんなはずは、ない」
杉野は駄々をこねる子供のように首を振った。
「そんなはず、あるさ。浮世はままならぬもの。後悔に苛まれても、誰かが傍にいてくれれば、それだけでどんなに救われるか」
ただ、傍にいれば良い。そんな簡単なことで、良かったのだろうか。杉野は、もっとお静に、できればお福に聞きたかったが、気づくと、お静も早桶も消えていた。
「杉野。町名主たちに大層、感謝されたぞ」
南町奉行所に出仕すると、苦々しい顔の上役に呼び止められた。万屋に少々、灸を据えすぎて、万屋は乳母の斡旋から手を引いた。そのお陰で子捨ては暫く止み、町名主は大喜びだが、今度は乳母を求める武家から、万屋への仕置きに苦情が来ているらしい。
表だって杉野を咎められない上役に、ざまあみろ、と心の中で舌を出すが、気持ちは晴れなかった。南町奉行所を後にして、腕を組みながら往来を行く。
「乳泉散をください」
「あっち行け! 汚ねえなあ」
薬種問屋の店先から、背中に赤ん坊を背負った女が、投げ出された。
「大丈夫ですか」
店先で掃いていた少女が声をかける。小石川養生所に勤めていたお寅だった。女はお寅に話しても仕方ない、とばかりに背を向ける。
「乳泉散は差し上げられませんが、これで何かを食べてください。滋養をつければ乳も出るかもしれません」
お寅が袂から銭を出し、女の手に握らせる。女は頭を何度も下げ立ち去った。
立派になったもんだ。当たり前のように悪事を働いていたお寅が、よもや人のために動いているとは。
お寅も親には恵まれなかった。それでも、立派に生きている。生きてさえいれば、どうにかなる。
「郁太郎さん!」
組屋敷に帰ると、青ざめた佐奈が駆け寄って来た。
「由良さんがいらっしゃっていますよ」
「由良殿が?」
由良は供も付けずに一人でやって来たと言う。約束もない突然の訪問とはやぶさかでない。
「突然、申し訳ありません」
奥座敷に入ると、由良は深々と頭を下げた。
相対して、初めて正面から由良の顔を見た。血の気の引いた顔は浄瑠璃人形のように整っており、作り物のようだった。
「どうされました」
なかなか話し出さない由良に、杉野から聞いた。
「腹の中に、子がおります」
そう言うと由良は、申し訳ありません、と泣き崩れた。しゃくり上げる声と共に、髷に刺した珊瑚の簪がしゃらしゃらと揺れる。
当然、祝言前の杉野に心当たりはない。
「父親は、どなたですか」
由良はびくりと肩を震わせると、逡巡して言った。
「お慕いしていた方です」
杉野はふと、目の前にいるのが、十年前のお福だったら、と思った。
「私は、どうしたら良いでしょうか」
「どうしたら、とは?」
「破談にしていただいたほうが良いのか、それとも、子下しをしたほうが」
そう言ってまた、泣き崩れる。
お福は一人で答えを出した。それは、おのれが傍にいなかったからだ。
「あなたはどうしたい?」
「私は……。わかりませぬ」
「それでは、我が家に嫁ぎ、子を産めばいい」
「よろしいのですか」
由良は、驚いた顔を杉野に向けた。怯えた眼は杉野の腹の底を探っている。俄かに信じられないのも無理はない。
「無論。俺に異存は無い。俺が傍に居ても良いのなら、居させてくれ」
由良は頭を畳に付けて、慟哭した。
隙間風が入り、行燈の火が揺れた。高衣桁の花婿衣装が由良を包み込むように、ゆらりと揺れた。憲房黒の花婿衣装を、こんなに穏やかな気持ちで眺められる日が来るとは思わなかった。
杉野は、深川に眠る我が子とお福に微笑んだ。