三
翌日は、朝から会議が続き、監察官室に戻ったのは十一時近い時刻だった。
「白峯さん、少々面倒なことになっています」
スマホを片手に、猪狩が席から立ち上がった。彼にしては珍しく表情が険しい。
「紛失したUSBメモリが伊住署管内の虹ヶ丘交番に届けられたとの連絡を受け、室員を向かわせたのですが、神無南署に先を越されました」
「USBメモリは無事ですか」
USBメモリは重大な証拠だ。保存されているデータが本当に忘年会の写真だけなのか。神無南署の行動は、その疑念を濃くするものだ。
「無事です。ですが、神無南署の人間が強硬に所有権を主張し、もめているようです」
「どこの部署の人間ですか」
「兎埼巡査です」
どうしますか、と猪狩が目で問いかけてきた。私が行きます。そう言いかけて思いとどまった。室長代理という立場。自分が動くことが正しい判断なのか。迷った時間はわずかだった。
「車の手配をお願いできますか」
紛失させた張本人がどういうつもりなのか。直接会って話をしたい。決断させたのはその思いだった。
虹ヶ丘交番のドアを開けると、三人の男女が振り返った。監察官室の警部補と、グレーのパンツスーツを着た二十代後半の女性が向かい合い、その中間に、さながらレフリーのように交番署員が立っている。その顔を見た私は、反応が顔に出ないよう目を逸らした。
「白峯さん。ご足労おかけし、申し訳ございません」
警部補が姿勢を正し、頭を下げた。余程手を焼いていたのか、私の顔を見て安堵の表情を浮かべた。
「監察官室の白峯だ。状況を説明してもらえるかな」
私は女性に声をかけた。彼女が兎埼だろう。兎埼は大きく息を吐き、真っすぐな視線を私に向けてきた。
「神無南署刑事課盗犯係の兎埼巡査です。紛失したUSBメモリが見つかったとの連絡を受け、受領しにまいりました」
声を張り、一息でそう言った。
「ただの落とし物ではない。USBメモリは監察官室で一旦預かる。情報管理課に妙なウィルスが仕込まれていないかチェックしてもらう必要もある」
私の言葉にも兎埼は動じる様子はない。
「こちらにはいつ返却されますか」
「情報管理課が安全性を確認し、監察官室がデータの中身を確認してからだな」
「中身は過去四年分の忘年会の写真です。酔ったおじさんたちしか映っていませんが」
兎埼の口元がわずかにほころんだ。
「全部確認させてもらう」
「信じていただけないのでしょうか」
なおも食い下がってくる。
「兎埼巡査、君は盗犯係だったね。職質をかけた相手が、何も持っていないと所持品を見せることを拒否したら、君はどうする。その言葉を信じて解放するのか」
「いいえ。ですが、わたしが嘘を言う人間に見えますか」
兎埼が不服そうに唇を尖らせた。私は彼女の意図を図りかねた。
「私は君という人間を知らないし、初対面の人間の本性を一目で見抜けるとうぬぼれてもいない。それと、教わらなかったか。警察官は人を疑うことが仕事だと」
「同じ警察官でも疑いの対象になるのですね」
兎埼が片方の唇を吊り上げた。目よりも唇の動きで感情を表現しているようだ。
「残念ながら不正に手を染める警察官もいる」
監察官室が存在する理由だ。
「お話し中のところ申し訳ありません。遺失物は監察官室にお渡ししてよろしいですね」
交番署員が遠慮がちに言った。
「君は」
初対面を装った。彼とは一週間ほど前に会っている。
「虹ヶ丘交番の梅田です。遺失物は自分が受理、処理いたしました」
梅田も私とは初めて会ったかのように答えた。
「届主の連絡先を教えてもらえるか。話を聞きたい」
私の言葉に梅田は「えっ」と声を上げた。視線が兎埼に向く。兎埼の視界に入っているはずだが、彼女の視線は私から動かず、唇がへの字にゆがんだ。
確証があったわけではない。わずかに感じた違和感。梅田の動揺と兎埼の態度を見れば思い過ごしではなかったようだ。今はこれ以上追及するつもりはない。
「まあいい。では、USBメモリは我々が預かる。手続きを頼む」
梅田に告げ、兎埼の方を振り向いた。私が梅田を追及しなかったことに安堵したのか、兎埼の表情が緩んだ。USBメモリ紛失という失態を演じたとは思えない、どこか満足げな表情だ。
「兎埼巡査。午後、本部に出頭してくれ。改めて話を聞きたい」
「承知いたしました。それまでに中身の確認をお願いいたします」
兎埼の目に強い意志が宿った。そこまで念を押す意味は何か。
情報管理課にUSBメモリを渡し、ウィルスチェックを頼んだ。結果はすぐに出た。何も仕込まれてはいない。
監察官室に戻るとUSBメモリをパソコンに挿し、中身を開く。フォルダが四つ。一つずつ中身を確認する。三つ目までは兎埼の言葉通り忘年会の写真だった。
四つ目のフォルダを開く。画像ファイルではない。パワーポイントが五つ保存されていた。それぞれ番号が振られており、最も古い更新日時は一ヶ月前のもので、最新の更新日時は三日前だった。気になるのは更新された時間。いずれも深夜、遅い時間だ。
一番新しいファイルを開いた。内容は、二日前に見たものだった。
神無南署ワークライフバランス推進活動報告。署長会議の場で土屋が報告した資料だ。
資料を一ページずつ確認した。最後の一ページ。土屋の報告にはなかったページだ。削除されたのだろうか。
資料の確認を終え、パソコンからUSBメモリを抜いた。交番で兎埼が見せた満足げな表情。あれは、目的を果たしたからではないか。目的はUSBメモリを監察官室に届けること。そう考えると、USBメモリ紛失自体も怪しくなる。都合よく交番に届けられるとは考えにくい。だが、梅田が協力者だとすれば話は別だ。現に、届主の連絡先を聞くと彼は動揺した。
兎埼の出頭を待つ間、伊住署の事案の報告書に目を通した。残業代不正受給を示す証拠は見つかっていない。添付された勤怠記録と、勤務日報や辺見が手掛けた事故処理報告書を比較すると、不正受給どころか残業申請せず業務を行っている日が多いことに気付いた。
猪狩からは報告を受けていない。
事故処理報告書の作成者欄に、辺見の相勤者の名が記されている。
山崎卓也。自殺した交通課の署員だ。
午後二時に兎埼が出頭したと連絡があった。虹ヶ丘交番で、兎埼と会っている警部補に事情聴取の書記を頼むと、彼は一瞬嫌な顔をした。兎埼に苦手意識を持ったのか。
本部三階小会議室のドアを開けると、兎埼が立ったまま私たちを待っていた。
「この度はわたしの不注意でご迷惑をおかけし、申し訳ございません。また、午前中は、白峯警視に失礼な態度をとり、重ねてお詫び申しあげます」
兎埼が深々と頭を下げた。背筋が真っすぐに伸びた綺麗なお辞儀姿だ。午前中の彼女とは印象が異なる。今の姿が、彼女の素なのかもしれない。
「兎埼巡査。定年退職される先輩にフォトブックを作るつもりだったそうだが、それは誰かの指示なのか」
「いえ、部署の中で自然とそういう話になりました。他には寄せ書きも送るつもりです」
「では、フォトブックづくりは業務の一環という認識だったか」
まずはUSBメモリを持ち出すに至った背景を確認すると、兎埼は考える素振りを見せた。
「業務の一環と言うと何か味気ない感じがします。わたしは刑事になりまだ一年ですが、定年になる先輩は恩師だと思っています」
真摯な答えに聞こえた。
「では、ワークライフバランスの資料作りの方はどうだ。あれは業務ではないのか。だいぶ遅い時間まで頑張っていたようだが」
兎埼の言葉を待ったが、口を閉ざしたままだ。
「君に言われた通りUSBメモリの中身は全チェックした。資料も全てね。君は知らなかったと思うが、私は一昨日署長会議に出席し、君が作った資料を見ている」
資料には神無南署のワークライフバランス推進委員の組織図があり、刑事課の欄に彼女の名前があった。
「皮肉なものだな。ワークライフバランス推進を謳いながら、そのせいで仕事が増える。自宅に持ち帰らなければならないほどね。だが、署長から頼まれた資料作りなら立派な業務だ。堂々と署で資料作りをすればいい。残業も申請して」
少しばかり意地の悪い言い方を選んだ。
「周りは仕事だとは思ってくれませんから」
兎埼がわずかに首を振った。
「ワークライフバランス推進委員といっても名ばかりで、活動の実態があるわけではありません。ただ、残業を減らせという署長の方針を課内に伝えるだけです。ですが、私たちは盗犯刑事です。大事な財産を奪われた被害者がいるのに、定時だから帰りますとは言えません」
「私は刑事畑が長かった。君の気持ちは分かる。同じ道を長く歩んだ人間として、後に続く者が職務に専念できる環境を作ってこられなかったことは申し訳ないと思う」
兎埼の目が見開かれた。
「そのような言葉をいただけるとは思っておりませんでした。資料の件もなかったことにされる可能性も考えておりましたので」
「監察官室は信用されていないようだね」
兎埼は、交番で発した自分の言葉を思い出したのか、視線を机に落とし、「申し訳ありません」と言った。
「君の資料を見たと言ったが、一ページだけ、私が見た資料と異なっていた。君は、あのページを誰かに伝えたかったのではないかな」
資料の最後の一ページ。そこには『山崎卓也巡査の悲劇を繰り返さないために、真の職場改善を望みます』と書かれていた。
「山崎巡査が自殺した当時の伊住署長は、神無南署長の土屋さんだね」
口を開きかけた兎埼を、「答えなくてもいいよ」と制した。
USBメモリ紛失と、残業代不正受給。二つの事案は、山崎の自殺にもう一度目を向けさせるために起こされたものではないのか。
土屋は残業を厳しく制限していた。それは伊住署長時代からで、辺見の勤務実態からもうかがえる。山崎の自殺も、残業を制限されたうえでの長時間勤務が背景にあったのではないだろうか。山崎の自殺後の異動。異動先でも土屋の方針は変わらなかった。そのうえ、あたかも勤務環境改善に取り組んでいるかのように、ワークライフバランス推進委員を立ち上げ、署長会議での報告資料作りを兎埼に命じた。そのための残業も認めずに。
兎埼の立場では、表立って声を上げることはできなかったのだろう。しかし、その結果、選んだ手段を見過ごすわけにはいかない。
「兎埼くん。君も、処分は覚悟しているとは思う。心情的には理解できる部分もあるが、君が選んだ手段は正しいとは言えない」
兎埼はうつむき、小声で謝罪の言葉を口にした。
「君は、所定の手続きを取らずにUSBメモリを持出し、紛失させた。その事実に対しては処分を受けなければならない」
兎埼が顔を上げ、驚いたように、えっ、と言った。
「しかし、わたしは……」
「正すべきところは他にある。それだけだ」
若い芽をつぶしたくない。志半ばで、警察を去る若者をこれ以上見たくはなかった。
兎埼が立ち上がった。目に波が浮かんでいる。
「山崎巡査は警察学校の同期です。警察学校のころから、交通事故を減らし、将来は交通事故被害者の支援に関わりたいと言っていました。その思いが果たせず、無念だったと思います。わたしがお願いできる立場でないことは重々承知しております。ですが……」
兎埼の言葉は続かなかった。私は彼女の顔から目を逸らした。
「私なりに調べてみる。今、君に言えることはそれだけだ」
兎埼が涙声で礼を言った。これ以上、彼女にかける言葉は見つからなかった。
兎埼を見送ると、監察官室に戻り、猪狩に声をかけた。山崎の自殺事案について、調査を担当した彼から話を聞くためだ。
「なぜ、一年前の事案について今頃?」
猪狩が眉間にしわを寄せた。機嫌を損ねたのか。猪狩の調査に不備があったと思っているわけではない。
どこまで猪狩に話すべきか。私は伊住署の残業代不正受給事案についての仮説だけを話した。辺見の勤務実態から浮かび上がった山崎の長時間勤務。それが自殺の一因になったのではないか。だとすれば、もう一度洗い直す必要がある。
「私が調べた限り、そのような話は出ていません。山崎巡査に悩みを抱えていた様子があったことは同僚も証言しています。しかし、何に悩んでいたのかは分かっていません。遺書も残されておりませんでしたから」
終わった事案です。猪狩はそう言うと、私の言葉を待たずに監察官室を出て行った。その背中は私を拒絶しているように見えた。